「婚約破棄、万歳!本日をもって『完璧な淑女』は廃業いたしますわ!」

どんぶり

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「……本当に行くのですか、お父様。その、ボロ布を纏った姿で」


深夜。公爵邸の裏門に、怪しげな影が三つありました。


一人は私、カナタ。そして、使い古された麻のシャツを着て、どこからどう見ても『引退した頑固な船乗り』にしか見えないお父様。


最後に、フードを深く被り、不気味なほどの威圧感を放ちつつも足元は動きやすさ重視の革靴という、オズワルド様です。


「何を言うか、カナタ。これは潜入工作だ。公爵家の主が下町で油まみれのドーナツを貪っているなど、万が一にもバレてはならんのだぞ」


お父様が、ボロボロの帽子を深く被り直しながら、真剣な顔で言いました。


「……お父様、ノリノリですね。オズワルド様も、その格好で『氷の騎士』とか呼ばれるのは、無理があると思いますわよ」


「……問題ない。今の私は、ただの飢えた一兵卒だ。師匠、案内を頼む。私の胃袋が、昨日の続きを求めて叫んでいるんだ」


オズワルド様の声が、深夜の静寂に低く響きました。どうしてこの人は、ジャンクフードの話をする時だけ、こんなに格好良い声を出せるのでしょうか。


「わかりましたわ。では、今夜の目的地は……下町最深部、『魔女の揚げ釜』です!」


「『魔女の揚げ釜』……。なんという、心躍る響きだ……」


お父様が、ごくりと唾を飲み込みました。


私たちは、寝静まった街を影のように移動しました。


到着したのは、細い路地の突き当たりにある、一軒の小さな屋台。


そこでは、太ったおばさんが巨大な鍋で、正体不明の生地を次々と揚げていました。


「おばさん! 『特製・悪魔の耳』を三つ! 蜜は倍がけで!」


「あいよ! お嬢ちゃん、今日は用心棒二人も連れてきたのかい? 景気がいいねぇ!」


差し出されたのは、人間の耳のような形をした揚げ菓子。


表面からは油がじゅわじゅわと染み出し、その上からドロリとした黒蜜と、大量の粉砂糖が振りかけられています。


「……っ! これだ。これだよ、カナタ! この、健康という言葉を辞書から抹殺したような外見!」


お父様が、震える手で揚げ菓子を受け取りました。


そして、公爵としてのマナーも、社交界の権威も全て投げ捨てて、豪快にガブリと食らいつきました。


「…………あふっ、はふっ……熱い! だが、この甘さ、そして暴力的な油の背徳感! ……あぁ、生き返るようだ!」


お父様の目から、一筋の涙がこぼれました。そんなに感動することかしら。


「……。………………」


隣では、オズワルド様が無言で、しかし恐ろしいスピードで揚げ菓子を口に運んでいました。


彼の口の周りは、瞬く間に粉砂糖で真っ白になっています。


「……オズワルド様、落ち着いてください。逃げませんから」


「……師匠。これは、いけない。この『蜜』の粘り気が、舌に絡みついて離れない。……私の国では、砂糖は薬のように大切に扱われるが、ここでは……ここでは、砂糖は凶器だ。それも、最高の殺傷能力を持つ凶器だ」


「大げさですわね。でも、気に入っていただけたようで何よりです」


私は自分の分の『悪魔の耳』を頬張りながら、満足げに二人を眺めました。


王太子の隣で、毒見役がチェックした冷めた料理を、ミリ単位の所作で食べていた頃が嘘のようです。


「……なあ、オズワルド殿」


お父様が、指についた蜜を舐めながら、オズワルド様に話しかけました。


「なんでしょうか、フォルセティ公爵」


「……貴殿は、私の娘をどう思っている? こんな、品位の欠片もない遊びに付き合わせてしまって」


私は、食べる手を止めました。お父様、いきなり何を言い出すんですか。


オズワルド様は、粉砂糖まみれの顔をゆっくりと上げ、夜空を見上げました。


「……カナタ嬢は、私に『光』を教えてくれた人です」


「光?」


「ええ。形式という闇に閉ざされていた私の食生活に、揚げ油という名の眩い光を差し込んでくれた。……彼女がいなければ、私は一生、味のしないスープで満足するだけの木偶の坊で終わっていたでしょう」


オズワルド様の言葉は、どこまでも真剣でした。……内容はただの食いしん坊の告白ですけど。


「……ほう。そこまで彼女を買ってくれているのか」


「私は、彼女を尊敬しています。この『自由』を勝ち取るために、彼女がどれほどのものを投げ打ったのか。……私には、彼女の笑顔が、どんな宝石よりも輝いて見える」


(……ちょっと。オズワルド様。そんな真面目な顔で、口の周り白くして、何てこと言うんですか)


私の心臓が、少しだけ変なリズムを刻みました。


これは、きっと、揚げ物の油が胸焼けを起こしているせいに違いありません。


「……。……そうか。ならば、今後もカナタの『指導』を受けてくれるのだな?」


「もちろんです。……次は、あの『炭火で焼いた内臓料理』を攻略したいと思っています」


「おお! あれか! あれは酒が進むぞ! カナタ、明日はそれだな!」


「……。……お二人とも、話が勝手に進んでますわよ」


私は、呆れ果ててため息をつきました。


氷の公爵と、厳格な父公爵。


この国の未来を担う重鎮二人が、深夜に屋台の端っこで、揚げ菓子の蜜を分け合っている。


この光景を、あのリュカオン殿下が見たら、きっと腰を抜かして失神することでしょう。


「……ま、いいわ。お父様、オズワルド様。もう一個、おかわりします?」


「「……頼む!!」」


二人の声が見事に重なりました。


私は、追加の揚げ菓子を注文するために、再びおばさんに声をかけました。


夜風は少し冷たかったけれど、揚げたての菓子の熱さと、二人の妙な熱気のせいで、私の心はいつになくポカポカと温かかったのでした。
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