「婚約破棄、万歳!本日をもって『完璧な淑女』は廃業いたしますわ!」

ツナ

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「……懐かしいわね、ミーナ。この、廊下の隅々まで『窮屈』が張り付いている感じ。空気が薄くて、窒息しそうですわ」


王宮の長い回廊を歩きながら、私は扇で口元を隠して呟きました。


今日の私は、あえて「完璧な淑女」としての装いを選びました。


背筋は定規を当てたように真っ直ぐ、歩幅は正確に三十二センチ。ドレスの裾は一ミリも揺らしません。


かつて私を縛り付けた「呪い」のような所作を、あえて完璧に演じて見せる。それが、今の私にできる最高級の嫌がらせだからです。


「お嬢様、顔が怖いです。……あ、後ろのオズワルド様も、別の意味で怖いです」


私の三歩後ろを歩くオズワルド様は、漆黒の礼装に身を包み、周囲の近衛兵を視線だけで射殺しそうな威圧感を放っていました。


「……カナタ、やはり気が変わった。このまま貴女を連れて帰り、あの王太子を地下牢に放り込みたい」


「ダメですよ、閣下。今日は、見世物小屋を楽しみに行くんですから」


私たちは、リュカオン殿下が指定した「王妃教育専用ルーム」の扉を開けました。


そこには、髪を振り乱して山のような書類と格闘しているリリア様と、優雅に紅茶を啜るリュカオン殿下の姿がありました。


「……あら、リリア様。ご機嫌麗しゅう。お勉強、捗っておりますの?」


私の声が部屋に響いた瞬間、リリア様がビクッと肩を揺らし、インクで汚れた顔を上げました。


「カ、カナタ様……! 遅かったではありませんか! 見てください、この分量! こんなの、人間が覚えられるはずがありませんわ!」


「……。……カナタ、ようやく来たか。リリアが、三代前の国王の愛称が覚えられないと泣いていてね。君なら、何か効率的な暗記法を知っているだろう?」


リュカオン殿下が、さも当然のように椅子から立ち上がらずに言いました。


私は、オズワルド様が腰の剣に手をかけようとしたのを視線で制し、優雅に微笑みました。


「効率、ですか? ……ありませんわよ、そんなもの」


「はぁ!?」


「暗記とは、ただひたすらに叩き込むものです。私は三歳の頃から、この部屋の壁にある全ての肖像画の名前と生没年、そして彼らが愛用していた馬の名前まで全て暗唱できるよう教育されましたわ」


私は壁の一角を指差し、スラスラと言葉を紡ぎました。


「あちらは第十四代の側妃、マルガレーテ様。趣味は狩猟。嫌いな食べ物はセロリ。彼女が当時の晩餐会で、うっかり右側のフォークを先に使ってしまったせいで、隣国との関係が三ヶ月冷え込んだ……というエピソードまで含めて、一字一句間違えず、ですわ」


「……」


リリア様が、口を半開きにして固まりました。


「リリア様、そんな顔をしていてはダメですよ。妃たるもの、不測の事態でも表情を崩してはなりません。……さあ、背中に定規を入れましょうか。私が使っていた、トゲ付きの特製品を貸して差し上げますわ」


「ト、トゲ……!? そんなの拷問じゃない!」


「あら、淑女の背筋は、痛みによって作られるものですのよ? それから、お食事の練習もしましょう。殿下、あちらにあるマカロンを一ついただけますかしら?」


私は殿下が差し出した高級なマカロンを、指先で摘み上げました。


そして、かつての「完璧な所作」で口元へ運び……。


「…………」


三ミリだけ齧り、音を立てずに飲み込みました。


「……はい、終わりです。リリア様、今、私がマカロンを『食べた』ように見えましたか?」


「えっ……? あ、あまりに一瞬で……」


「そうです。お妃様は、人前で『咀嚼』してはならないのです。喉仏を動かすのも厳禁。味を感じる暇なんてありませんわ。ただ、胃に落とし込む作業です。……どうですか? 楽しいでしょう?」


私が冷ややかに笑うと、リリア様はガタガタと震え始めました。


「……む、無理。……そんなの、絶対に無理ですわ! 私、美味しいものを、お腹いっぱい食べたいって言ったのに……!」


「あら、お腹いっぱい? 妃の胃袋は、常にコルセットで圧迫されて、リンゴ半分程度の容量しか許されませんわよ。……あぁ、そういえば」


私は、わざとらしくオズワルド様の方を振り返りました。


「閣下。……例の、あれ。いただけませんか? 私、なんだか『お腹が空いて』しまいましたわ」


「………承知した。これだろう?」


オズワルド様が、懐から小さな紙包みを取り出しました。


中に入っていたのは、今朝、近所の屋台で買ってきた、脂ぎった「揚げドーナツ」です。


私はそれを素手で掴み、殿下とリリア様の前で、思い切り大きく口を開けてかぶりつきました。


「……っ! はふっ、もぐもぐ……ふぅ、美味しい! やっぱり、脂と砂糖の暴力は最高ですわね!」


「な……!? 貴様、カナタ! なんて汚らわしい真似を! 王宮の中で、そんな下卑た食べ物を素手で食らうなど……!」


リュカオン殿下が、顔を真っ赤にして立ち上がりました。


私は、指についた砂糖をペロリと舐めて、最高の笑顔を向けました。


「ええ、汚らわしいでしょう? でも殿下、今の私は、この砂糖一粒、油一滴に、あなたの『真実の愛』よりも深い幸せを感じておりますの」


「な……んだと……?」


「リリア様。頑張ってくださいね。あなたがこれから歩むのは、味のない、呼吸もできない、完璧な『人形』への道ですわ。……私は一足お先に、この揚げドーナツと一緒に、自由の世界へ帰らせていただきます」


私は食べかけのドーナツを誇らしげに掲げ、オズワルド様にエスコートを促しました。


「……行こう、カナタ。ここには、私たちの食べるべきものは何一つない」


「ええ、オズワルド様。……あ、お二人に最後のアドバイスですわ」


私は扉を閉める直前、絶望に暮れるリリア様と、呆然とする殿下に向かって言い放ちました。


「……教科書を丸暗記しても、幸せにはなれませんわよ。……だって、その教科書には『美味しい唐揚げの作り方』なんて、一行も書いてありませんもの! おーほほほほ!」


高笑いと共に扉を閉めた瞬間、中から「嫌ぁぁぁぁぁっ!」というリリア様の悲鳴が聞こえてきました。


「………最高に爽快だったな、師匠」


廊下に出たオズワルド様が、わずかに、本当にわずかに、満足げな笑みを浮かべました。


「ええ。……さて、閣下。嫌がらせでお腹が減りましたわ。帰りに、昨日の『炭火焼きの内臓料理』、リベンジしに行きませんか?」


「……もちろんだ。全種類、制覇しよう」


私たちは、かつての牢獄に背を向け、脂と煙の香りが漂う「私たちの戦場」へと、足取り軽く駆け出したのでした。
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