悪役令嬢ですらないのに婚約破棄?そもそも私、影が薄すぎてモブなんですけど!

ツナ

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「……閣下。一曲だけと言いましたのに、なぜ三曲も連続で踊っているのですか。足が、私のモブとしての限界を迎えています」


「すまない。君を抱いていると、このまま一生、円を描いて回っていたいという衝動に駆られてしまうんだ」


「それはもはや、舞踏会ではなく遠心分離機ですよ。降ろしてください」


私はカイン様の腕から逃れるようにして、会場の端にあるテラスへと避難しました。
夜風が火照った頬に心地よいですが、背後からは未だに会場中の熱っぽい視線が刺さっています。


カイン様は私の隣に立ち、当然のように私の腰を支えていました。
その時です。
バルコニーの入り口に、シグルド王子の取り巻きである若い貴族のグループが姿を現しました。


「……おい、見たかよ。さっきのダンス。あのアズベル家の地味令嬢、随分と閣下に媚を売っていたな」


「ああ。どうせ、あの『気配遮断』とかいう不気味な特技を使って、閣下の弱みでも握ったんだろう? でなければ、閣下があんなモブを相手にするはずがない」


彼らは私がそこにいることに気づいていないのか、あるいは聞こえるように言っているのか、下卑た笑い声を上げました。


「全くだな。殿下を捨てて閣下に乗り換えるとは、身の程知らずも甚だしい。公爵夫人の座が、あんな無個性な女に務まるわけがないだろう。……今夜が終われば、閣下もすぐに飽きて、その辺のレンガと一緒に片付けるに決まっている」


「……ぷっ、ハハハ! レンガ令嬢にはお似合いの末路だな!」


私は溜息をつきました。
レンガ、レンガって。
最近、私のアイデンティティが建材に固定されつつあるのが一番の悩みです。


「……閣下。聞き流しましょう。彼らは、自分の将来が不安で吠えているだけですから」


私は、隣に立つカイン様の袖を引きました。
しかし。


カイン様から、一切の返答がありませんでした。
代わりに、周囲の気温が、物理的に数度下がったような気がしました。


「……閣下?」


私が顔を見上げると、そこには、先ほどまで「デレデレの大型犬」のようだった男性はいませんでした。


そこにいたのは、戦場を血で染め、数多の敵国を震え上がらせてきた「氷の騎士団長」そのものでした。
彼の瞳は光を失い、絶対零度の冷徹さが宿っています。


「……お、おい。なんだ、この寒気は……?」


嘲笑っていた貴族たちが、ガタガタと震え始めました。
カイン様が、ゆっくりと、音もなく彼らの方へ一歩踏み出したからです。


「……今、私のミューモのことを、なんと呼んだ?」


その声は低く、地を這うような重圧を持っていました。
貴族たちは、まるで不可視の巨大な手に喉を掴まれたかのように、顔を青ざめさせ、その場に崩れ落ちました。


「閣下……! い、今の話は、その、ただの冗談で……!」


「冗談? ……私の前で、私の魂よりも大切な女性を侮辱しておいて、それを冗談で済ませようというのか」


カイン様の手が、腰の剣の柄にかかりました。
カチリ、という小さな音が、死刑宣告のように響きます。


「彼女が目立たないのは、周囲が節穴だからだ。彼女が控えめなのは、その美しさで世界を狂わせないための慈悲だ。……それを、弱みを握っただと? ……私が彼女に、一生かけて弱みを握らせてほしいと、膝を折って乞うていることも知らずに」


「ひ、ひいぃぃぃっ! ごめんなさい! 助けてください!」


「謝罪は私にではなく、彼女にするものだ。……だが、その前に。……君たちのその汚い口が、二度と彼女の名を呼べないようにしてやる必要があるな」


カイン様から溢れ出す殺気が、渦を巻いてバルコニーを支配しました。
あまりの圧力に、手すりの石材がピキピキと音を立てて亀裂が入ります。


(……まずいわ。これ、本当に首が飛ぶ五秒前だわ!)


私は慌てて、カイン様の剣を握ろうとする右手を、両手でぎゅっと抑え込みました。


「閣下! ストップ! ストップです! ここで彼らを斬ったら、明日から私の二つ名が『騎士団長に大量虐殺を行わせた傾国の悪女』になってしまいます!」


「……離せ、ミューモ。こいつらは、君の価値を侮辱した。万死に値する」


「死なせなくていいです! 私はレンガと呼ばれても平気です! 建材は強いんですよ! ……お願いです、私のために、手を汚さないでください」


私が必死に彼の瞳を覗き込み、訴えかけました。
すると、カイン様の瞳に、少しずつ、ゆっくりと光が戻ってきました。


「…………君の、ためか?」


「はい。閣下が殺人犯になったら、私のお茶漬けを誰が用意してくれるんですか。……ね?」


「……お茶漬け……」


カイン様は深い溜息をつき、ゆっくりと剣から手を離しました。
殺気が霧散し、周囲の温度が元に戻ります。


「……救われたな、ドブネズミども。……彼女の慈悲に感謝しろ。……今すぐ私の視界から消えろ。二度と、社交界に顔が出せないような制裁は、後ほど騎士団を通して正式に行わせてもらう」


貴族たちは、腰を抜かしたまま、這うようにして逃げ出していきました。


「……ふぅ。怖かったです、閣下。あんな顔、初めて見ましたよ」


私は脱力して、その場に座り込みそうになりました。
すると、カイン様が再び私の腰を引き寄せ、今度は壊れ物を扱うような優しさで、私の額に自分の額を合わせました。


「……すまない。君のことになると、私は自分を制御できなくなる。……君を馬鹿にされることが、私自身が斬られるよりも耐え難いんだ」


「……そんなに、大切にされても困ります。私はただの、影の薄いモブなのに」


「影ではない。……君は、私の暗い人生を照らす、唯一の光なんだ」


カイン様は、切なげに目を細めました。
そのあまりにも真っ直ぐな愛情に、私は何も言い返せなくなってしまいました。


(……ダメね。この人に、一生『モブ』を貫き通すなんて、最初から無理な相談だったのかも……)


夜会の空には、満天の星が輝いていました。
私の静かな生活は、冷酷な騎士団長の「激熱な愛」によって、完全に溶かされてしまったようです。
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