流れる水の記憶 (完結済)

井中エルカ

文字の大きさ
24 / 29
第三章 幕引き

3-5 渡り廊下

しおりを挟む
 東宮。董星とうせいは七歳までをここで過ごした。内部に一歩足を踏み入れれば、昔の記憶がよみがえる。室や廊下の位置はすべて覚えている。

 央華おうかに会いたい。董星は思った。
 彼女は今も東宮内にいるはずだ。どうしているだろうか。

 東宮内で王太子と王太子妃の居住部分は分離されている。
 董星が王太子妃の室に行くには、渡り廊下を通り、鍵のかかった扉を超えなければならない。
 もちろん、董星には公然と妃の室に通う資格がある。しかし、董星は人に知られず彼女と会いたかった。


 央華の立場は宙に浮いたままになっていた。
 王太子の妃となるために招聘されたのが、肝心の王太子が位を降り、愛妾とともに山中に幽閉されるという事の顛末。そうなる前にも壮宇そううは愛妾の元に留まり、央華の所へ通わなかったことが明らか。

 壮宇の後に続いて董星が王太子に立太子されたが、彼女はそのまま新たな王太子の妃になることも、拒否することもできた。
 今ならば白紙に戻すことができる。王太子とその妃という関係は公にも実際にも成立していない。央華は、元来た場所へ、帰ることができる。

 実際の所、央華はどう思っているのだろうか? 董星としては、彼女を引き留めたい気持ちはある。
 しかし、もし王太子の立場の自分が央華を訪れれば、否応なく王太子とその妃になってしまう。実際の所はともかく、二人の間にはそういう関係が成立したか、少なくとも関係を承知したのだと、周囲に認知されてしまう。
 そうなる前に彼女と会って話がしたい。彼女の気持ちを確認したいと、董星は思ったのだ。

 池に張り出した露台で、ぼんやりと月を見上げながら董星は考える。
 何かいい方法はないだろうか。この池は王太子妃の部屋の前まで続いている。例えば今ここで露台から池におりて、彼女の部屋の前まで泳いでいくとか……?


 そんなことを真剣に思っていると、向こうから蓉杏ようきょうの歩いてくるのが見えた。
 彼女には薬術の心得があり、東宮に来る前も、高人こうじんが負った傷の手当てでたびたび彼を訪ねてくれている。この日も手当てを終え、これから王太子妃の居住側に戻るところだった。

「蓉杏」
「これはこれは、董星殿下。東宮にお着きでございましたか」
 声をかけられて蓉杏は丁重に礼をとる姿勢を見せた。
 紫煙殿しえんでんにいた時、彼女とは姉弟のような気のおけない関係だった。それとはまったく違う、距離をとるような扱いに董星は戸惑った。

「前と同じでいい……高人の具合はどうなんだ?」
「もう心配はいらないかと。私の手当ても今日が最後です」
「それはよかった」

 ほっとして董星は蓉杏を見る。当然だが、蓉杏は女人の衣を着ている。彼女は女性にしては上背がある。一方の董星は、男性にしては細い身体つきをしている。
 董星はあることを思いついた。

「蓉杏、折り入って頼みがあるんだが……」
「はて、なんでございましょう?」

 思い詰めた様子の董星を見て、蓉杏は面白そうに首をかしげた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

王太子妃専属侍女の結婚事情

蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。 未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。 相手は王太子の側近セドリック。 ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。 そんな二人の行く末は......。 ☆恋愛色は薄めです。 ☆完結、予約投稿済み。 新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。 ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。 そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。 よろしくお願いいたします。

仕事で疲れて会えないと、恋人に距離を置かれましたが、彼の上司に溺愛されているので幸せです!

ぽんちゃん
恋愛
 ――仕事で疲れて会えない。  十年付き合ってきた恋人を支えてきたけど、いつも後回しにされる日々。  記念日すら仕事を優先する彼に、十分だけでいいから会いたいとお願いすると、『距離を置こう』と言われてしまう。  そして、思い出の高級レストランで、予約した席に座る恋人が、他の女性と食事をしているところを目撃してしまい――!?

働かないつもりでしたのに、気づけば全部うまくいっていました ――自由に生きる貴族夫人と溺愛旦那様』

鷹 綾
恋愛
前世では、仕事に追われるだけの人生を送り、恋も自由も知らないまま終わった私。 だからこそ転生後に誓った―― 「今度こそ、働かずに優雅に生きる!」 と。 気づけば貴族夫人、しかも結婚相手は冷静沈着な名門貴族リチャード様。 「君は何もしなくていい。自由に過ごしてくれ」 ――理想的すぎる条件に、これは勝ち確人生だと思ったのに。 なぜか気づけば、 ・屋敷の管理を改善して使用人の待遇が激変 ・夫の仕事を手伝ったら経理改革が大成功 ・興味本位で教えた簿記と珠算が商業界に革命を起こす ・商人ギルドの顧問にまで祭り上げられる始末 「あれ? 私、働かない予定でしたよね???」 自分から出世街道を爆走するつもりはなかったはずなのに、 “やりたいことをやっていただけ”で、世界のほうが勝手に変わっていく。 一方、そんな彼女を静かに見守り続けていた夫・リチャードは、 実は昔から彼女を想い続けていた溺愛系旦那様で――。 「君が選ぶなら、私はずっとそばにいる」 働かないつもりだった貴族夫人が、 自由・仕事・愛情のすべてを“自分で選ぶ”人生に辿り着く物語。 これは、 何もしないはずだったのに、幸せだけは全部手に入れてしまった女性の物語。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

離婚寸前で人生をやり直したら、冷徹だったはずの夫が私を溺愛し始めています

腐ったバナナ
恋愛
侯爵夫人セシルは、冷徹な夫アークライトとの愛のない契約結婚に疲れ果て、離婚を決意した矢先に孤独な死を迎えた。 「もしやり直せるなら、二度と愛のない人生は選ばない」 そう願って目覚めると、そこは結婚直前の18歳の自分だった! 今世こそ平穏な人生を歩もうとするセシルだったが、なぜか夫の「感情の色」が見えるようになった。 冷徹だと思っていた夫の無表情の下に、深い孤独と不器用で一途な愛が隠されていたことを知る。 彼の愛をすべて誤解していたと気づいたセシルは、今度こそ彼の愛を掴むと決意。積極的に寄り添い、感情をぶつけると――

愛を騙るな

篠月珪霞
恋愛
「王妃よ、そなた一体何が不満だというのだ」 「………」 「贅を尽くした食事、ドレス、宝石、アクセサリー、部屋の調度も最高品質のもの。王妃という地位も用意した。およそ世の女性が望むものすべてを手に入れているというのに、何が不満だというのだ!」 王妃は表情を変えない。何を言っても宥めてもすかしても脅しても変わらない王妃に、苛立った王は声を荒げる。 「何とか言わぬか! 不敬だぞ!」 「……でしたら、牢に入れるなり、処罰するなりお好きに」 「い、いや、それはできぬ」 「何故? 陛下の望むままなさればよろしい」 「余は、そなたを愛しているのだ。愛するものにそのような仕打ち、到底考えられぬ」 途端、王妃の嘲る笑い声が響く。 「畜生にも劣る陛下が、愛を騙るなどおこがましいですわね」

完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました

らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。 そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。 しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような… 完結決定済み

処理中です...