夏の日の歌 (完結済)

井中エルカ

文字の大きさ
19 / 42
3 散策

3-6 帰り道

しおりを挟む
 風と木々のざわめきが、アナイスの横を通り過ぎて行った。
 アナイスはしばらくの間座り込んでいた。ようやく気分が落ち着いて立ち上がった。急に立ったせいか目まいがして、足がふらついた。
「ああ、気をつけて」
「すみません」
 とっさに差し出された手を取って自分を支えると、アナイスははたと気づいた。自分は一人ではなかった。
 つかまった手を放してから、彼に向かって冷たく言った。
「あなた、まだ、いたんですか」
「はい」
 エヴァンは少し困ったような顔をしていた。
「本当は、もっと別のことを言おうと思っていたのですが……」
「別のこと?」
「気性の荒い雄牛がいるので、散歩には気をつけるようにと……」
 それを聞いてアナイスはがっくりと力が抜けた。
「それはそれは……ご親切に、どうも」
「どういたしまして」
 彼は真面目に答えて、
「遅くなる前に、一緒に戻りましょう」と言った。
 本当に、自分はずいぶんと長い間、この場にとどまっていたようだと、アナイスは思った。それにエヴァンも付き合いよく待っていた。
 彼に促されて、そうするのがよいと分かっていても、アナイスは素直に従う気になれなかった。
「でも、雄牛が出たら、一緒にいたところで、どうにもならないでしょう?」
「どうでしょう、多少は役に立つかもしれませんよ。僕を囮に、あなたが先に逃げればいいわけですし」
「まさか、そんな」
「冗談です。そうならないことを願ってます」
 エヴァンは真顔だった。
「ごめんなさい……」
 アナイスは聞こえないくらい小さな声で言った。行き場を失ったいら立ちを、彼に八つ当たりしたような気がした。
 アナイスのつぶやきが聞こえたのか聞こえなかったのか、エヴァンは気にした様子も見せなかった。

 再びエヴァンが促して二人は道に戻った。
 脇道に止まっていた馬車はすでになかった。毬遊びをしていた少女たちを乗せて出発した後だった。

 無言のまま二人は歩いた。
 つかず離れずの距離を保って、アナイスは足元をずっと見ていた。エヴァンは後ろで腕を組んで、鼻歌を歌っているようだった。

 しばらく行くと、道の真ん中で茶色の牛が数頭、足を折って座っていた。幸いなことに、おとなしい牝牛ばかりだった。それでも牛たちが集まって座っていると、迫力があった。
「静かに横を通っていきましょうか。絶対に走らないで」
 エヴァンが言って、アナイスはうなずいた。
 二人が少し近づいたところで、牛たちは一斉に立ち上がった。
 アナイスは息を呑んだが、何も特別なことは起こらなった。
 一頭がゆっくりと道を横断した。柵の合間から牧草地のほうに入ると、残りの牛たちも、長い尻尾を振りながらそれに続いた。道から牛の姿は消えた。
「取りこし苦労でした」
とエヴァンが言った。アナイスは「ええ」と相槌をうった。ほっと胸をなでおろした。
 何事も起こらなかったが、一人ではなくて人と一緒にいるというのが、彼女を安心させた。アナイスは気をよくしてエヴァンに話しかけた。
「先日の、ピアノのことをお聞きしても?」
「ええ、どうぞ」
 アナイスは小部屋の窓際で、エヴァンが弾いていたピアノのことを尋ねた。どうしてあれがピアノだと分かったのか、不思議だった。

「僕も、前に見たことがなければ、気づかなかったと思います」
 彼は以前に同じような家具調のピアノを、別の人の家で見て、実際に弾いたことがあった。工芸品のように外観を見て鑑賞するためのピアノで、今はもう製作されることはなくなった。
 かつて彼が見たのもやはり書き物机風の外観だったが、ほかにも化粧台や長机にしか見えないものもあり、所有者が変わるとピアノであることが忘れられて、ただの美術品か家具として眠っていることもあり得るとのことだった。

 アナイスは馬車でセドリックが言っていたことを思い出した。
「セドリックは、ラグランジュ伯爵夫人が山荘の修繕時、骨とう品を一か所に集めたと言っていました。あのピアノも、ただの机と思われたのでしょうか」
「その可能性はありますね。長い間、弾かれていないようでした」
 アナイスと顔を見合わせて、エヴァンはうなずいた。

「あ、そうだ」
 唐突にアナイスは言った。視線の先に運搬用の荷車が止まっていた。髭を生やした老人が一人、車を引く馬に草をやっていた。アナイスはその老人に見覚えがあった。
「この先はあれに乗せてもらえるか、頼んでみましょう」
「えっ」
 驚くエヴァンをおいて、アナイスは走り出した。柵のこちらと向こう側とで話す姿が見えて、やがてアナイスがエヴァンに向かって手を振った。
「乗せてくれるって」
 老人は山荘の庭師だった。

「昔よく乗ったわ」
 アナイスはスカートをたくし上げると荷台の上に上がり、縁に寄り掛かかって腰を下ろした。荷台にはすでに干し草がうず高く積まれていた。
「あまり寄りかかりすぎると崩れてきて、大変なことになるのよ」
 そう言うとアナイスは手招きした。エヴァンは一瞬だけ逡巡した。しかしすぐに同じように荷台に上がって座った。
「お願いします」
 アナイスの声を合図に、馬に引かれて荷車がゆっくりと動き始めた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

異世界で王城生活~陛下の隣で~

恋愛
女子大生の友梨香はキャンピングカーで一人旅の途中にトラックと衝突して、谷底へ転落し死亡した。けれど、気が付けば異世界に車ごと飛ばされ王城に落ちていた。神様の計らいでキャンピングカーの内部は電気も食料も永久に賄えるられる事になった。  グランティア王国の人達は異世界人の友梨香を客人として迎え入れてくれて。なぜか保護者となった国陛下シリウスはやたらと構ってくる。一度死んだ命だもん、これからは楽しく生きさせて頂きます! ※キャンピングカー、魔石効果などなどご都合主義です。 ※のんびり更新。他サイトにも投稿しております。

「25歳OL、異世界で年上公爵の甘々保護対象に!? 〜女神ルミエール様の悪戯〜」

透子(とおるこ)
恋愛
25歳OL・佐神ミレイは、仕事も恋も完璧にこなす美人女子。しかし本当は、年上の男性に甘やかされたい願望を密かに抱いていた。 そんな彼女の前に現れたのは、気まぐれな女神ルミエール。理由も告げず、ミレイを異世界アルデリア王国の公爵家へ転移させる。そこには恐ろしく気難しいと評判の45歳独身公爵・アレクセイが待っていた。 最初は恐怖を覚えるミレイだったが、公爵の手厚い保護に触れ、次第に心を許す。やがて彼女は甘く溺愛される日々に――。 仕事も恋も頑張るOLが、異世界で年上公爵にゴロニャン♡ 甘くて胸キュンなラブストーリー、開幕! ---

次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢

さら
恋愛
 名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。  しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。  王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。  戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。  一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

子供にしかモテない私が異世界転移したら、子連れイケメンに囲まれて逆ハーレム始まりました

もちもちのごはん
恋愛
地味で恋愛経験ゼロの29歳OL・春野こはるは、なぜか子供にだけ異常に懐かれる特異体質。ある日突然異世界に転移した彼女は、育児に手を焼くイケメンシングルファザーたちと出会う。泣き虫姫や暴れん坊、野生児たちに「おねえしゃん大好き!!」とモテモテなこはるに、彼らのパパたちも次第に惹かれはじめて……!? 逆ハーレム? ざまぁ? そんなの知らない!私はただ、子供たちと平和に暮らしたいだけなのに――!

灰かぶりの姉

吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。 「今日からあなたのお父さんと妹だよ」 そう言われたあの日から…。 * * * 『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。 国枝 那月×野口 航平の過去編です。

雪の日に

藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。 親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。 大学卒業を控えた冬。 私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ―― ※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。

処理中です...