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3 散策
3-7 対話
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荷台で、がたごととひどく揺さぶられながら二人は話をつづけた。
「あなたはピアノをお弾きになるのを、隠していらっしゃるのですか?」
アナイスは聞いた。彼も自分の心に踏み込んでくるような質問をしてきたのだ。遠慮する必要はなかった。
「積極的に隠しているつもりはないのですが、弾かない事情を説明するのが面倒だから、黙ってることにしているんです」
エヴァンは案外すんなりと答えた。
「僕は伴奏者なんですが、契約があって、雇い主の許可なしには勝手に演奏できない身分なんです。それに今は休暇中で弾きたい気分でもない。まあ、そんな、つまらない理由です」
エヴァンは言って肩をすくめた。彼の態度が、どこかはぐらかしているようにも思えた。
アナイスはさらに聞いた。
「弾くのは伴奏だけ、ですか?」
「はい。歌か、他の楽器に合わせて弾きます。歌の伴奏をすることが多いですね」
「今度の音楽夜会では……」
「ピアノ伴奏なら、モーラン先生が連れて来たピアニストがいるでしょう」
「そうですか。それは、残念ですね」
彼が演奏しないと分かって、何となく儀礼的にアナイスは言った。
するとエヴァンもアナイスに言い返した。
「あなたは音楽夜会で歌ったり演奏したりなさるのですか?」
「私は歌も演奏もしませんが……」
「それは大変に残念ですね」
「……」
やりにくい人だと思った。
気を取り直してアナイスは言った。
「でも、ジュリーが『夏の日を讃える歌』を歌うので、私の大好きな歌なので、とても楽しみにしています」
「ああ、あの歌はいい歌ですよね」
今度はエヴァンも同意した。
「技巧的には難しくないのに、美しい歌詞と旋律があって、誰がどう歌ってもそれなりに聞こえます」
「……それは、褒めているのかしら」
エヴァンの品評にアナイスは眉をひそめたが、エヴァンはにっこりと微笑んでみせた。
「もちろん。伴奏していても楽しい歌ですよ」
「楽しい?」
「確かに伴奏は、ただの作業で、売りだし中の演奏家の足かけ仕事みたいに言われています。僕も最初はそうでした。が、独りの時とはまた違った表現を追求することができますし、別の技術が要求される点でも面白いと思います。僕は気に入っています」
「はあ……」
アナイスがエヴァンの顔を見て先を促したので、彼は続けた。
歌唱の伴奏にまず必要なこととして、エヴァンは歌詞の理解をあげた。内容を理解し曲を表現することと、歌唱それ自体を助ける意味合いがあった。
「歌い手は歌詞の切れ目で息継ぎをするので、どうしてもそこで曲が遅れます。歌詞の意味に合わせて緩急をつけてみたりと、一定の速度で歌う人はまずいません。……それに、途中で歌詞を間違えたり、飛ばしたりというのは、まあまあ起こるんです」
「それは大変……」
「本番で歌詞をすっ飛ばされたときには、飛ばしたまま最後まで歌うつもりなのか、元の歌詞に戻って続けるのか、こっちも合わせるのに必死です。歌手本人が気づいているのかいないのか、一体どうするつもりなのか知りたいのに、たいていの場合、歌手はピアノに対して背を向けているので顔は見えないし、最悪の場合は歌声が聞こえないこともあるし、……顔が見えなくていいことは、伴奏者の動揺が歌手には分からないことだけですね」
アナイスは大笑いした。
「あら、笑ってしまってごめんなさい」
「どうぞ。演奏の最中には、本当に、笑い話みたいなことばかり起きます」
エヴァンも笑った。この話題では、彼は愉快で饒舌な人物だった。
「音の狂ったピアノを弾くのも伴奏の技術?」
「それは伴奏か独奏かじゃなくて、ピアノとかオルガンとか、自分の楽器を持ち運べない場合に起こる共通の問題です。音がずれているとか、音色の感じ方とか弾くときの力の入れ方とか、一台一台が違うので、毎回試行錯誤します。でも、毎度状況が違うのは、誰も同じことでしょう……」
だからこそ、毎回共演者とは異なる対話と反応が生まれ、表現が広がる。
伴奏者の楽器自体に問題がなくても、共演者の音域に合わせて、本来の楽譜で指示された音よりも高くしたり低くしたりして移調するのは伴奏者の基本的な技術だった。音をずらせばピアノで演奏する白鍵黒鍵の位置も変わるので、鍵盤を叩く指遣いもあらためて確認する。
移調するのも、音程に耳を合わせるのも、変更された音のために指を動かすのも、彼は困難を感じずにできた。今までそうやって、たくさんの演奏をこなし、確かにしてきた技術だった。
「一曲伴奏するまでに、そんなにいろいろ考えてるなんて、知らなかったわ」
「……誰かに知ってもらいたい気持もあれば、苦労を知られてくやしいと思うこともあり、我ながら馬鹿馬鹿しいと思います」
エヴァンは素直に胸の内を明かした。
「でもですね」
「はい?」
「そんな裏の事情は忘れて、ただ歌と曲の響きを聞いて何かを感じ取ってもらえる方が、うれしいですね」
「きっとそうします」
今度はアナイスも素直に彼に従った。エヴァンは穏やかな微笑をアナイスに向けた。
「ぜひ。僕もそうしてもらえるように弾きます」
『弾きます』。確かに彼はそう言った。
「あなたはピアノをお弾きになるのを、隠していらっしゃるのですか?」
アナイスは聞いた。彼も自分の心に踏み込んでくるような質問をしてきたのだ。遠慮する必要はなかった。
「積極的に隠しているつもりはないのですが、弾かない事情を説明するのが面倒だから、黙ってることにしているんです」
エヴァンは案外すんなりと答えた。
「僕は伴奏者なんですが、契約があって、雇い主の許可なしには勝手に演奏できない身分なんです。それに今は休暇中で弾きたい気分でもない。まあ、そんな、つまらない理由です」
エヴァンは言って肩をすくめた。彼の態度が、どこかはぐらかしているようにも思えた。
アナイスはさらに聞いた。
「弾くのは伴奏だけ、ですか?」
「はい。歌か、他の楽器に合わせて弾きます。歌の伴奏をすることが多いですね」
「今度の音楽夜会では……」
「ピアノ伴奏なら、モーラン先生が連れて来たピアニストがいるでしょう」
「そうですか。それは、残念ですね」
彼が演奏しないと分かって、何となく儀礼的にアナイスは言った。
するとエヴァンもアナイスに言い返した。
「あなたは音楽夜会で歌ったり演奏したりなさるのですか?」
「私は歌も演奏もしませんが……」
「それは大変に残念ですね」
「……」
やりにくい人だと思った。
気を取り直してアナイスは言った。
「でも、ジュリーが『夏の日を讃える歌』を歌うので、私の大好きな歌なので、とても楽しみにしています」
「ああ、あの歌はいい歌ですよね」
今度はエヴァンも同意した。
「技巧的には難しくないのに、美しい歌詞と旋律があって、誰がどう歌ってもそれなりに聞こえます」
「……それは、褒めているのかしら」
エヴァンの品評にアナイスは眉をひそめたが、エヴァンはにっこりと微笑んでみせた。
「もちろん。伴奏していても楽しい歌ですよ」
「楽しい?」
「確かに伴奏は、ただの作業で、売りだし中の演奏家の足かけ仕事みたいに言われています。僕も最初はそうでした。が、独りの時とはまた違った表現を追求することができますし、別の技術が要求される点でも面白いと思います。僕は気に入っています」
「はあ……」
アナイスがエヴァンの顔を見て先を促したので、彼は続けた。
歌唱の伴奏にまず必要なこととして、エヴァンは歌詞の理解をあげた。内容を理解し曲を表現することと、歌唱それ自体を助ける意味合いがあった。
「歌い手は歌詞の切れ目で息継ぎをするので、どうしてもそこで曲が遅れます。歌詞の意味に合わせて緩急をつけてみたりと、一定の速度で歌う人はまずいません。……それに、途中で歌詞を間違えたり、飛ばしたりというのは、まあまあ起こるんです」
「それは大変……」
「本番で歌詞をすっ飛ばされたときには、飛ばしたまま最後まで歌うつもりなのか、元の歌詞に戻って続けるのか、こっちも合わせるのに必死です。歌手本人が気づいているのかいないのか、一体どうするつもりなのか知りたいのに、たいていの場合、歌手はピアノに対して背を向けているので顔は見えないし、最悪の場合は歌声が聞こえないこともあるし、……顔が見えなくていいことは、伴奏者の動揺が歌手には分からないことだけですね」
アナイスは大笑いした。
「あら、笑ってしまってごめんなさい」
「どうぞ。演奏の最中には、本当に、笑い話みたいなことばかり起きます」
エヴァンも笑った。この話題では、彼は愉快で饒舌な人物だった。
「音の狂ったピアノを弾くのも伴奏の技術?」
「それは伴奏か独奏かじゃなくて、ピアノとかオルガンとか、自分の楽器を持ち運べない場合に起こる共通の問題です。音がずれているとか、音色の感じ方とか弾くときの力の入れ方とか、一台一台が違うので、毎回試行錯誤します。でも、毎度状況が違うのは、誰も同じことでしょう……」
だからこそ、毎回共演者とは異なる対話と反応が生まれ、表現が広がる。
伴奏者の楽器自体に問題がなくても、共演者の音域に合わせて、本来の楽譜で指示された音よりも高くしたり低くしたりして移調するのは伴奏者の基本的な技術だった。音をずらせばピアノで演奏する白鍵黒鍵の位置も変わるので、鍵盤を叩く指遣いもあらためて確認する。
移調するのも、音程に耳を合わせるのも、変更された音のために指を動かすのも、彼は困難を感じずにできた。今までそうやって、たくさんの演奏をこなし、確かにしてきた技術だった。
「一曲伴奏するまでに、そんなにいろいろ考えてるなんて、知らなかったわ」
「……誰かに知ってもらいたい気持もあれば、苦労を知られてくやしいと思うこともあり、我ながら馬鹿馬鹿しいと思います」
エヴァンは素直に胸の内を明かした。
「でもですね」
「はい?」
「そんな裏の事情は忘れて、ただ歌と曲の響きを聞いて何かを感じ取ってもらえる方が、うれしいですね」
「きっとそうします」
今度はアナイスも素直に彼に従った。エヴァンは穏やかな微笑をアナイスに向けた。
「ぜひ。僕もそうしてもらえるように弾きます」
『弾きます』。確かに彼はそう言った。
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