夏の日の歌 (完結済)

井中エルカ

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5 音楽夜会

5-7 指一本

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 エヴァンは演奏を続けていた。背筋をぴんと伸ばして座り、鍵盤の上をすべるように指が動いて、華麗な音を奏でていた。
 アナイスはじつと彼の姿を見ていた。彼の演奏をもっと間近で見ていたいと思って、彼とピアノに近づいた。彼がピアノを弾く姿は美しかった。
 アナイスは一つため息をついた。それから申し訳ない気持ちを彼に打ち明けた。
「ごめんなさい」
「なぜ?」
「あなたは、人前でピアノを弾いてはいけなかったのでしょう?」
「僕が弾きたいからそうしただけで、あなたのせいじゃないですよ」
「でも、私、あなたの伴奏で歌ってしまった……」
「いい演奏ができたでしょう? あなたも僕のピアノをよく聞いていてくれたし、あんなにうまくいくのは珍しいんです。僕はとても満足していますが……、ご迷惑でしたか」
 エヴァンはピアノを弾いたままでアナイスを見上げた。アナイスは首を振った。
「あなたが助けてくれなければ、私は歌えませんでした。ありがとうございます」
 最後の方は消え入りそうな声になった。
「あなたも、歌えて、よかった」
エヴァンは微笑んだ。
「それに、僕のことは……、さっき僕の雇い主と会いました。話はついたから問題ありません」
 アナイスはびっくりした。会場にそのような人まで来ていたとは思ってもみなかった。
 エヴァンは一瞬だけアナイスを見ると鍵盤に視線を落とした。
「全くもって、問題ありません。大丈夫」
 エヴァンはもう一回言った。それは自分で自分に言い聞かせているような気がした。なんだか胸がつまって、アナイスの笑顔がゆがんだ。

「どうかしましたか?」
 アナイスは自分の気持ちを気取られまいとした。返す言葉には詰まって、なんとなく当たり障りのないことを言った。
「ピアノ……、あなたみたいに、自由に弾けたら楽しいんでしょうね」
「弾けますよ」
「えっ」
 間髪いれないエヴァンの答えにアナイスは驚いた。
「私、弾いたことがないのだけど、白黒の違いもよくわからないし……」
「指一本でいい」
 エヴァンは手を止めてアナイスをじっと見た。
「同じように、弾いてみて」
 エヴァンは右手の中指だけで鍵をはじいた。
「でも……」
「大丈夫、すぐに覚えるから」 
 アナイスはためらったが、再び促され、彼に見つめられてどうにもならなくなった。
 エヴァンは立ち上がり、代わってアナイスが椅子に座った。アナイスは戸惑いながら手袋を外してピアノの上に置いた。ジュリーに借りた手袋は指先が少し余っていた。手袋が邪魔になると思った。

 アナイスの左側に立って、エヴァンは鍵を押した。
 弾いているのが『夏の日を讃える歌』の主旋律であるのはすぐに分かった。アナイスも目を凝らし、見た通りに続けて鍵盤を叩いた。
 エヴァンが低音部で弾いて、アナイスが高音部で同じ音を続けた。
 自分で歌うのと、楽器で音を出すのとでは、ずいぶんと違った。エヴァンの澄みきった音の後に、たどたどしく弾く自分の音が鳴った。自分では聞くに堪えないと思ったが、エヴァンは終始笑顔だった。楽しそうなエヴァンに対してアナイスは必死だった。

 何小節かを引いたところで、どうしても音が合わなくなった。彼はその音を繰り返し弾いてみせてくれたが、アナイスにはどの鍵なのか分からなくなった。
 エヴァンはアナイスの斜め後ろに立つと、彼女の肩の後ろから彼女の手を支えた。
「それはこの音なんだ」
 エヴァンの手とアナイスの手が一緒に鍵を押した。そのまま確かめるように前後の音を何度か、繰り返し弾いた。
「確かにこの部分は、弾いてみると、音が分かりづらいかもしれない」
 エヴァンは納得したように言ったが、アナイスはそれどころではなかった。息がつまりそうだった。振り返って彼の顔をみることも、彼の手を振り払うこともできなかった。
 アナイスがじっと動けないでいるのを見て、エヴァンは不思議そうに言った。
「アナイス?」
 肩越しに振り返ったアナイスとエヴァンの目が合った。エヴァンの手はまだアナイスの手を支えたままだった。

 その時アナイスはエヴァンの顔を通り越して向こう側に見た。いつのまにか、不機嫌な顔をしたセドリックが現れていた。
「あの……セドリックが……」
 アナイスは自由な方の手で指さした。エヴァンは振り返って、
「やあ」
と一言友人に声をかけ、それからゆっくりとアナイスの手を放した。それに対してセドリックは怒ったように二人に詰め寄って言った。
「エヴァン、話があるんだが、いいかな」
 セドリックはアナイスを無遠慮にじろじろと見た。その視線がアナイスに「邪魔だ」と言っていた。
「私はこれで」
アナイスはいたたまれなくなってその場を立ち去った。エヴァンの視線が名残惜しそうにアナイスを追いかけた。

 セドリックは大股でエヴァンに近づくとピアノに寄りかかった。椅子をはさんで二人は向かいあって立った。
「今の彼女、……ずいぶん親しいようじゃないか。何て名前だっけ?」
「アナイス」
「そう、アナイス」
 セドリックは憎々しげに吐き捨てた。彼がこんなに荒れているのは珍しいとエヴァンは思った。
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