夏の日の歌 (完結済)

井中エルカ

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5 音楽夜会

5-8 手袋

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 セドリックは目線をそらしたままで言った。
「彼女との付き合いには賛成しない」
「そりゃまた、なんで」
 エヴァンの女友達にも、いままで口を出したことのないセドリックだった。
「いい噂を聞かない」
「例えば?」
 エヴァンは面白がって先を促した。
「……散策で君ら二人が一緒に帰って来た時、彼女は泥だらけだった。何をしていた?」
「何も。彼女の帽子を拾って、それから、話をしただけだ」
「馬車の陰で……君は誘われたのではなかったか?」

 エヴァンは一瞬ルイーズと言う名前の女性のことを思い出した。彼女には言い寄られた気がするが、その気のない彼ははっきりと断った。ルイーズとの関係はそれ以上発展しなかった。ちょうどその時アナイスの悲鳴が聞こえて来て、一緒に山荘に戻ることになったのはアナイスとだった。どこかで部分的に話が入れ替わったのかもしれないとエヴァンは思った。
 彼は憶測を省いて事実だけを答えた。
「帰り道が遠いから、一緒に荷車に乗るようにとは誘われた。でも空の下に誓って、話をしただけだったよ」

 セドリックはなおも不審の目を向けていた。
「舞踏会で、彼女は大酒をあおって正体を失い、部屋に戻った」
「給仕にパンチ酒を掛けられたんだ。僕はその場に居合せた。僕が証人だ」
「すでにグラモンと深い仲だと」
「とてもそんな風には見えなかったけど」
「君にピアノを弾くように脅して、強いた」
「僕が自分の意志で弾いたんだよ」
 ついにあきれてエヴァンは言った。
「落ち着いてくれよセドリック、君はどうかしてる。この社交界では、悪意のある噂はよくあることじゃないか、面白がってみんな無責任なことを言うんだ。いつもは聞き流すくせに、一体全体どうしたと言うんだ」

 セドリックは友人の言には耳を貸さず、ピアノの上に置いてあった手袋を素早くつかんで取り上げた。
「これはなんだ?」
「手袋」
 エヴァンは短く答えたが、それがかえってセドリックの感情を逆なでした。
「ジュリーの手袋だよ。なんで君がこんなものを持っているんだ」
「えっ」
 エヴァンは言われるまで気づかなかった。手袋の袖口の部分、二の腕の内側になる部分に、ジュリーをあらわすユリの模様が同じ色の意図で刺繍してあった。よくよく見ないと気づかなかった。セドリックはそれに気づいていた。
 セドリックは気持ちが高ぶって詰め寄った。
「まさか君はジュリーとも通じていたのか、それで、二人で僕のことを笑っていたんだ」
「待ってくれ、誤解だ」
「これが証拠だろう!」
「違う違う、それはアナイスの手袋だ、ジュリーの手袋だとは、僕は知らなかった。アナイスがさっきまでしていて、ピアノを弾くために脱いだんだ、君も見ていただろう」
「それがどうしたというんだ」
 いつも温厚なセドリックが完全に冷静さを失ってしまっていた。
「気のないふりをして君もジュリーに気があったのか、俺の気持ちを知って、馬鹿な男だと、ジュリーは君に何と言ったんだ……」
「じゃあ言うが、僕が好きなのはアナイスなんだ。僕はアナイスに恋をしている」
「えっ……」
 この一言は効果があった。セドリックは打ちのめされたように驚き、一瞬で我に返った。
「なんで、また……」
「そうじゃなきゃ、誰が彼女のためにピアノを弾くもんか」
 エヴァンはすねたように横を向いた。セドリックは完全にいつもの気立てのいい彼に戻っていた。
「すまなかった。でも、なんで言ってくれなかったんだ」
「彼女にだってまだ言ってないのに……なんで君に先にいわなきゃいけないんだ」
「それは悪かった」
二人はお互いの肩を叩いて、それからすぐに離れた。いつもの親しい友人同士だった。

 元の関係に戻った所で、手袋を前にして二人は途方にくれた。
「それにしても」
「うん」
「困ったな」
「この手袋……」
「どうしようか」
 誰が誰に返したところで論争を呼びそうだった。
 エヴァンがジュリーに返すことは、まず除外された。可能性としてあり得ない。
 エヴァンがアナイスに返す? ジュリーの手袋と知っている人が見とがめれば、エヴァンがその手袋を持っていることを変に思って詮索するだろう。
 セドリックがジュリーに? アナイスがしていた手袋をどうやってセドリックが手に入れたのか、ジュリーが不審に思うだろう。
 セドリックがアナイスに? なぜエヴァンが返しに来ないのか、アナイスが疑いを持つだろう。
 かと言ってこのままピアノの上に放置しておくのは、誰かに悪用されるかもしれず、それは最悪の方策に思えた。
 二人は考え込んでしまった。

 そこへちょうどよく、ジュリーとアナイスの二人連れが現れた。
「まあ、あなた方が見つけてくださったの」
ジュリーは言って、アナイスを促した。
「ほら、失くしたのではなかったわよ」
 ジュリーは目でエヴァンに合図をした。エヴァンは手袋を取り上げるとアナイスに渡した。アナイスは何の疑いもなく受け取った。
「見つかってよかったわね。でも、失くしたところで、私はその手袋をあなたに差し上げたつもだったから、全然構わなかったのだけれど」
ジュリーが言った。それですべてが解決だった。事態は救われた。

 ジュリーはセドリックの腕に触れて言った。
「セドリック、お待たせしてごめんなさいね。先ほど言って下さったこと、もしまだあなたのお気持ちに変わりがないようでしたら、お返事を申し上げたいのですけれど」
「変わりようがありません、あなたのためならどれだけでも待つつもりでしたが、……それでも待っているのはつらかったですが」
「ごめんなさいね、アナイスとエヴァンの演奏があまりにも素晴らしかったものだから、お二人にまず挨拶をしてからと思っていましたの……」
ジュリーは無邪気に言った。アナイスは気づいてぎょっとした。確かにジュリーは「セドリックには後でお返事を」と言っていたが、そのお返事というのはものすごく大事な話だったのではないかと思った。待たされていた彼のことを気の毒に思った。ちらりとセドリックの方を見やると、彼は「大丈夫だから」とでも言うように片手をあげてアナイスに応えた。
 セドリックはもう落胆していなかった。ジュリーは彼女なりの誠実さをもって、その順序に従って返答をしていただけだった。彼はもうジュリーの純粋な心に慣れてそれを受け入れる準備ができていた。

「あなたのお申し出をお受けしたいと思うのですけれど……」
ジュリーは頬を赤らめて言った。セドリックはジュリーの両手を取った。
 エヴァンがアナイスの腕を引いた。それから片手の指を口に当てて、静かにという仕草をした。アナイスはうなずいて、エヴァンと二人でその場を離れた。後ろの方でセドリックとジュリーの声がした。
「では私と結婚してくださる?」
「ええ、ええ喜んで……」

 アナイスはエヴァンと手をつないだまま次第に足を速めて走り去った。二人とも笑顔になっていた。

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