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5 音楽夜会
5-9 夜の風
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「ピアノの下、カーテンの陰、人気のないバルコニー……」
二人でバルコニーに出たとき、アナイスはエヴァンをからかって言った。
「その気がないなら、誰かと一緒に行ってはいけない場所の典型ね」
「本当に、全く褒められたことではありませんね」
エヴァンはわざとしかめ面を作ったが、自分で途中から笑いだしてしまった。それにつられてアナイスも笑った。
辺りは静かだった。風が木の葉を揺らす音だけが響いた。
アナイスはバルコニーの手すりに近寄って周囲を見回した。すべての懸案事が晴れてすがすがしい気分だった。アナイスは深呼吸をしてエヴァンを振り返った。
エヴァンはアナイスから少し離れていたが、アナイスと同じように手すりに近寄って言った。
「僕もあなたにお礼を」
「お礼?」
「夏の初めの頃は、僕はすっかりピアノを弾く気をなくしていたんですが、あなたのおかげて、再び弾くことができるようになりました」
「それならよかった……」
「『夏の日を讃える歌』、僕も好きな歌だったんです」
エヴァンはアナイスをじっと見つめ、アナイスも彼を見た。二人は少し距離を縮めていた。彼の穏やかな声が言った。
「とても美しい歌で……でも、夏が美しいのは、いずれ終わりが来るからなんですよね。いつか終わると知っている。でも真っ只中にいる当人たちは美しいことに気づかず、美しさに気づいたときには、それがもう終わっているか、あるいは終りが迫っているか……、あとは名残を惜しむことしかできません」
とても静かな言い方だった。彼の今までの生き方がそう言わせているに違いなかった。どこか悲し気なエヴァンに対して、アナイスはどうしても言い返したくなった。
「果たしてそうでしょうか、私はそうは思いません」
下を向きかけていたエヴァンが顔を上げた。
「たとえわずかな時間でも、美しいひと時を過ごせたのなら心残りはありませんし、それに……終わると分かっていても、それが今日なのか明日なのかは誰にも分からない。あるいは終わりは永遠に来ないかもしれないでしょう」
「あなたは、なかなか面白いことを言いますね」
エヴァンは大きな目をしてアナイスを見つめた。心から感心した様子だったが、その反応をアナイスはわざとらしいと思って肩をすくめた。
「本当にそう思っているの?」
「ええ、あなたの言うことは素敵だと思いますよ」
「……」
真面目に返されてアナイスは黙ってしまった。
エヴァンはアナイスに訊いた。
「あなたは、この夏が終わったらどうするのですか?」
いつのまにか彼はアナイスのすぐ隣にいた。アナイスは横目で彼を見て、それからバルコニーの外に視線をそらすと言った。
「学校に戻ります。私は師範学校を卒業したばかりで……、学校を手伝わないかと誘われているのです」
これまではジュリーと一緒だった。きっとジュリーはもう、学校には戻らない。これからは一人だった。
エヴァンはうなずいて言った。
「それはいいことですね。僕の両親も教育者でしたから」
「そうなの?」
アナイスは驚いてエヴァンを見つめた。
「僕の父がセドリックの家庭教師をしていて、母がピアノの教師でした。二人はそこで出会って……おかしいのは、僕の父は厳格な人だった割には、母が妊娠していることが分かってから、慌てて結婚することになったんです……」
そこでエヴァンは口元を押さえて「ああ、失礼」と言った。
「……それで僕が生まれた後も、僕たちはセドリックのお屋敷に住み込んでいて、僕はセドリックとは兄弟みたいに育ちました。その後僕の両親が相次いで亡くなって、お屋敷にいる理由もなくなって……幸い僕は音楽の才があって、奨学金をもらえたので音楽院に行きました。そこでも色々あって、すっかり人嫌いにもなっていたのですが……」
「でもどんなに人を避けたくとも、音楽には、聴いてくれる相手を必要とするのではないですか……お、とと、失礼」
そこでアナイスは盛大にくしゃみをした。夜の寒さを感じて肩に手をやった。いつもより肩を出したドレスだった。
エヴァンは自分の肩掛けをアナイスに貸してくれた。
「風邪をひかないでください。……こういう場の女性の装いについては、何とも賛同しかねますね」
もう部屋に戻った方がいいでしょうと言うエヴァンに、アナイスは待ってと伝えた。
「あなたはこれから、どうなさるの?」
「……フォーグル国に戻るかもしれません。僕の音楽活動の基盤は、あの国にあるんです。まだ先はわかりませんが」
「そうですか……、あなたがこの国にいらっしゃらないのは、さみしくなります」
「あなたには本当に感謝しています。あなたのおかげで、音楽に対する情熱を取り戻したところです。会えてよかった」
エヴァンはささやくように言った。それに対してアナイスは、
「お元気で」
と、やっとそれだけを言った。
「あなたも……」
二人はじっと見つめ合った。離れがたかった。
エヴァンはアナイスの両手をとって彼女の手に唇を寄せた。二人にはそれが精いっぱいだった。
エヴァンは全身の気力をふりしぼってアナイスに背を向けた。
彼の後ろ姿を見ながらアナイスは突然に思い知った。それは去り行く夏が教えた、あまりにも美しい日々の思い出だった。
二人でバルコニーに出たとき、アナイスはエヴァンをからかって言った。
「その気がないなら、誰かと一緒に行ってはいけない場所の典型ね」
「本当に、全く褒められたことではありませんね」
エヴァンはわざとしかめ面を作ったが、自分で途中から笑いだしてしまった。それにつられてアナイスも笑った。
辺りは静かだった。風が木の葉を揺らす音だけが響いた。
アナイスはバルコニーの手すりに近寄って周囲を見回した。すべての懸案事が晴れてすがすがしい気分だった。アナイスは深呼吸をしてエヴァンを振り返った。
エヴァンはアナイスから少し離れていたが、アナイスと同じように手すりに近寄って言った。
「僕もあなたにお礼を」
「お礼?」
「夏の初めの頃は、僕はすっかりピアノを弾く気をなくしていたんですが、あなたのおかげて、再び弾くことができるようになりました」
「それならよかった……」
「『夏の日を讃える歌』、僕も好きな歌だったんです」
エヴァンはアナイスをじっと見つめ、アナイスも彼を見た。二人は少し距離を縮めていた。彼の穏やかな声が言った。
「とても美しい歌で……でも、夏が美しいのは、いずれ終わりが来るからなんですよね。いつか終わると知っている。でも真っ只中にいる当人たちは美しいことに気づかず、美しさに気づいたときには、それがもう終わっているか、あるいは終りが迫っているか……、あとは名残を惜しむことしかできません」
とても静かな言い方だった。彼の今までの生き方がそう言わせているに違いなかった。どこか悲し気なエヴァンに対して、アナイスはどうしても言い返したくなった。
「果たしてそうでしょうか、私はそうは思いません」
下を向きかけていたエヴァンが顔を上げた。
「たとえわずかな時間でも、美しいひと時を過ごせたのなら心残りはありませんし、それに……終わると分かっていても、それが今日なのか明日なのかは誰にも分からない。あるいは終わりは永遠に来ないかもしれないでしょう」
「あなたは、なかなか面白いことを言いますね」
エヴァンは大きな目をしてアナイスを見つめた。心から感心した様子だったが、その反応をアナイスはわざとらしいと思って肩をすくめた。
「本当にそう思っているの?」
「ええ、あなたの言うことは素敵だと思いますよ」
「……」
真面目に返されてアナイスは黙ってしまった。
エヴァンはアナイスに訊いた。
「あなたは、この夏が終わったらどうするのですか?」
いつのまにか彼はアナイスのすぐ隣にいた。アナイスは横目で彼を見て、それからバルコニーの外に視線をそらすと言った。
「学校に戻ります。私は師範学校を卒業したばかりで……、学校を手伝わないかと誘われているのです」
これまではジュリーと一緒だった。きっとジュリーはもう、学校には戻らない。これからは一人だった。
エヴァンはうなずいて言った。
「それはいいことですね。僕の両親も教育者でしたから」
「そうなの?」
アナイスは驚いてエヴァンを見つめた。
「僕の父がセドリックの家庭教師をしていて、母がピアノの教師でした。二人はそこで出会って……おかしいのは、僕の父は厳格な人だった割には、母が妊娠していることが分かってから、慌てて結婚することになったんです……」
そこでエヴァンは口元を押さえて「ああ、失礼」と言った。
「……それで僕が生まれた後も、僕たちはセドリックのお屋敷に住み込んでいて、僕はセドリックとは兄弟みたいに育ちました。その後僕の両親が相次いで亡くなって、お屋敷にいる理由もなくなって……幸い僕は音楽の才があって、奨学金をもらえたので音楽院に行きました。そこでも色々あって、すっかり人嫌いにもなっていたのですが……」
「でもどんなに人を避けたくとも、音楽には、聴いてくれる相手を必要とするのではないですか……お、とと、失礼」
そこでアナイスは盛大にくしゃみをした。夜の寒さを感じて肩に手をやった。いつもより肩を出したドレスだった。
エヴァンは自分の肩掛けをアナイスに貸してくれた。
「風邪をひかないでください。……こういう場の女性の装いについては、何とも賛同しかねますね」
もう部屋に戻った方がいいでしょうと言うエヴァンに、アナイスは待ってと伝えた。
「あなたはこれから、どうなさるの?」
「……フォーグル国に戻るかもしれません。僕の音楽活動の基盤は、あの国にあるんです。まだ先はわかりませんが」
「そうですか……、あなたがこの国にいらっしゃらないのは、さみしくなります」
「あなたには本当に感謝しています。あなたのおかげで、音楽に対する情熱を取り戻したところです。会えてよかった」
エヴァンはささやくように言った。それに対してアナイスは、
「お元気で」
と、やっとそれだけを言った。
「あなたも……」
二人はじっと見つめ合った。離れがたかった。
エヴァンはアナイスの両手をとって彼女の手に唇を寄せた。二人にはそれが精いっぱいだった。
エヴァンは全身の気力をふりしぼってアナイスに背を向けた。
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