遅れて来た婚約者

井中エルカ

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第4話 夜が明けて

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 彼は言った。
「……それならば、あなたはもう行ってください」
 そして一つ一つ、言葉を区切りながら丁寧に付け加えて言った。
「本当に、私は、疲れているので、夜は一人で休みたいのだと、あなたのご主君には、伝えてください」
「はあ……。……!」
 部屋を出るようにと促され、それでようやく私は奥様のお言いつけが何を意味していたのか分かった。フェリックス様も同じように考えたのだということが分かった。
 はっきりと断られて、ほっとしたやら、情けないやら恥ずかしいやら。とてもじゃないけどお客人の顔を正視できない。
 私は逆上寸前なのに、フェリックス様はずい分と冷静だ。
 
 逃げるように部屋を出て行こうとし、呼び止められた。
「待って、これはジャンヌの猫ですか?」
 フェリックス様の足元にはいつの間にか黒猫がいて、すり寄って頭を擦り付けていた。
「レグリス!」
 私は走り寄り、慌てて猫を抱き上げる。猫はおとなしく私の腕の中におさまった。
「ジャンヌ様の猫です、どうしてこんな所に、すみません、本当に、申し訳ございません……」
「ずっと付いて来ていて、どうしようかと思っていたところです。ではこの後ジャンヌに会ったら伝えてください。愛する人の眠りを守るのが私ではなくて残念だと……。ではおやすみ」
 穏やかな声が言った。そしていつの間にか私の瞼にキスをし、私から離れた。
 ……こんなことで気持ちをくじかれる私ではない、と、私は自分に言い聞かせる。
 それに、お嬢様への伝言とやらは、少し差し引いて伝えるようにしよう。場合によっては伝えなくてもいいかもしれない。
 猫と一緒に部屋を出ながら私はそう思った。


 お嬢様の部屋にレグリスを連れて行くと、猫はすぐにお嬢様にまとわりついた。
「ちょっと待ってて。あっちへいっておいで」
 レグリスはお嬢様に言われた通り、椅子の上に飛び乗って丸くなる。
 ジャンヌ様はちょうど、老女中のアンナに手伝わせながら、リュシアン王子の寝支度をしているところだった。
 王子は廊下で約束した通り、いったん着替えてからお嬢様の所にやって来たようだった。けれど、お嬢様のお祝いの日に城外で遊び歩いて来たことについて、全く悪びれた様子がない。
 お嬢様もお嬢様で、いつでもリュシアン王子を受け入れる。不誠実な恋人の世話を甲斐甲斐しく焼いていて、私にはそのお気持ちが全く理解できない。
 普段からお二人はよく喧嘩もなさる。でも、必ずこうして戻って来るということは、結局は仲がいいということなのかもしれない。今日この後の夜も、お二人で過ごされるのだろう。

 仕上げにいつもの香水を入れた水で手を洗って、それが終わるとお嬢様は私に言った。
「レア、お前はまた猫を探しに行っていたのね?」
「はい」
 でもそれは、目的ではなく、結果としてそうなったのだけど。
 私はなぜかフェリックス様のお世話をしに行ったことを言い出せなかった。彼からの妙な伝言についても。
 リュシアン王子も、私が今までどこへ行っていたか気づいているくせに、何も言わなかったのだ。
「この子のせいで、いつも大変ね」
 お嬢様は椅子の上から猫を抱き上げる。猫はうれしそうに目をつぶる。
「リールに着いたら、鳩を飛ばすからね」
 止まり木に止まっている薄茶色の鳩を示して、お嬢様は言った。
 あの魔法の鳩はお嬢様の使い魔だ。主人に命じられて人の用務をするを、使い魔という。
 使い魔はそれぞれに特有の魔法の力があって、お嬢様の鳩は人の言葉を運ぶ。
「お城の方で動きがあったら、鳩を使って知らせてちょうだい。それが一番早いわ」
「かしこまりました。そういたします」
 私は深々と頭を下げる。
 後のことは老女中のアンナが面倒をみてくれるというので、私はお嬢様のもとを退出した。


 そして、一人で廊下を歩いているところを奥様に見つかった。
 奥様は私を見るなり物凄い剣幕で私の肩をつかんだ。
「お前、何でこんなところにいるの。お客様を一人にしたの?」
「あの、そのお客様のご用が済んだのです。それで夜は一人でお休みになるとおっしゃって……」
 私は口をぱくぱくさせながらフェリックス様が言った通りに答える。嘘は言っていない。
「そう? それにしてはちょっと早すぎるんじゃない? ……でもいいわ、明日もあの男の所に行くようになさい」
 私を突き飛ばすようにして放すと、奥様は足早に去ってしまわれた。宴の片付けや、お嬢様の出発の準備で、忙しいのだと想像がつく。

 私は大きく深呼吸する。
 ふう。何とか今日は乗り切った。

 
  ◇◇◇
 
 翌朝。日が昇って間もなく。
 私は馬車の一行が出ていくのを見送って城内に戻る。するとフェリックス様が向こう側から歩いてやって来た。
 思いがけなく、朝早くから出会ってしまった。
「おはよう。早起きですね」
「おはようございます。……お一人でしたか?」
 従者の姿が見えないので聞いたのだけど、彼は別のことを考えたよう。
「ええ、一人でしたよ」
 昨夜のことを尋ねたつもりではなかった。でも、この言葉は嘘でない、と私は思った。
 今度は彼が私に聞いてきた。
「僕は少し朝の散歩を。あなたは誰かの見送りですか?」
「……」
 ジャンヌ様の出発を見送っていたのだと、明かしてもよいものだろうか。
「答えてくれないのは、僕が昨日あなたを、部屋から追い出したことへの仕返し?」
「そんなことはございません」
 即座に否定した私を、フェリックス様は面白そうに笑った。
 フェリックス様が私に一歩近づく。私は思わず、距離を縮められた分だけ後ずさりする。そんな私を見て、フェリックス様は言う。
「昨日も思ったのですが、あなたは……奥様の期待する『ご用』には、あまり向いていませんね」
「では代わりの女中を頼みましょうか」
「いいえ」
 フェリックス様は私の提案をきっぱりと断った。
「それは結構。願い下げです。あまりお役目熱心な者に来られても、僕も困りますから」
「はあ……」
「僕はジャンヌに結婚を申し込んでいる身です。他の男も女も必要ありません。あなたのことも、無理にどうするつもりもありませんから、安心して女中仕事に専念してください」
「……さようでございますか」
 ありがたいお申し出にはお礼をいうべきなのか。私は気の抜けた返事をするのが精一杯だった。
 
 フェリックス様が私の頭の向こう側に何かを見ている。
 気になって後ろを振り返ると、奥様が私たちの方に近づいてくるところだった。
 不意にフェリックス様が私の耳に口を寄せた。そして何かを小声で囁く。
「え?」
 何を言っているのか聞き取れない。もしかしたら私の知らない言葉かもしれない。
 と、不意に耳元を風が吹き抜ける。それは嵐のようで轟音を伴い、私は思わず両耳をおさえ、頭を抱え込む。
 耳元の風はすぐに過ぎ去り、後には何も残らない。私は不思議に思ってフェリックス様の顔を見上げる。

 この一連の動作は、遠くにいる奥様の目には、私たちがふざけ合っているのだと映ったらしい。
「朝からおやめなさい。お城の女中として、節度を保ってもらいたいものね」
 あきれ顔だけど、どこか満足そうな響きがある。
「おはようございます、奥様……」
 フェリックス様は奥様の手を取って丁重に挨拶をする。天候や体調を尋ね、あたりさわりのない会話をする。
 しかし話題がお嬢様のことに及び、旅に出たと聞くと不満を申し立てた。
 奥様はフェリックス様をなだめて適当なことを言った。
「ジャンヌにとっては前々から予定していた旅でございます。南の方に霊験あらたかな泉がありまして、男の方はお連れできないものですから、どうかお許しください」
「それが本当ならば、リュシアン王子の行先とは、きっと違うのでしょうね」
 明らかに、リュシアン王子を恋敵として意識した発言。
「もし同じだとしたら、大変な偶然でございましょう……」
 奥様はフェリックス様の嫌みに気づかないふりをして笑う。そして私を手招きする。
「この娘はレアという女中です。フェリックス様の道案内をさせましょう。城下町にお出ましになるのはいかが?」
 フェリックス様はただ遊びに来ているわけではないし。それにヴァロン候ご一家の正式な客人だ。女中だけが相手になるなんて、とても許容できる待遇ではない。
 フェリックス様は私の方をじろりと見た。
「彼女は昨晩も来てくれた人ですね」
「ええ、そうです。ご用は何でもお言いつけを……口が堅いので、面倒にならないことは保証します」
 奥様の言うことは、どこか矛盾している。
 確かに私は、噂話を広めるような面倒は起こさない。でも口数の少ない陰気な女中が楽しいはずもない。さぞかし退屈なことだろうに。ところが。
「レアというのですか? 彼女といると退屈しませんね」
 思っていたのとは真逆のことを言われ、私は思わず前につんのめる。
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