木曜日のスイッチ

seitennosei

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木曜日のスイッチ。

絵を描こう。

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いつか細谷咲の絵を描こうと思っているキャンバスの前。
そこに座っている森本先生に向かい自身の作品を差し出すと、彼女はそろそろと手を伸ばし受け取った。
「タイトルは入学式です。」
「入学式…。」
緊張した面持ちで絵を見つめる姿。
それを見て「しまった」と思う。
俺を好きだから理解していと言ってくれている森本先生。
その人に対して俺の作品を見せ付け「何を感じるか」なんて。
今から貴女をテストしますと言っているようなもんだ。
とんでもなく上からでとんでもなく思い上がった行動。
そんなつもりはなかった。
慌てて声を掛ける。
「や、あの、パッと思った事で良いので。正解なんてないですし。人それぞれの感想があって当たり前で、僕は今森本先生がどう感じたかを純粋に知りたいだけで…。ホント正解はないので。」
「正解、ありますよね?」
「いや、ホント…」
「間違いは存在しないけど、ただ一つの正解が本当はあるんですよね?」
思わず押し黙ってしまった。
俺の言っている正解がないなんて言葉は結局は綺麗事でしかない。
俺の理解を目標に設定している森本先生にとっては口にしないと進めない正解が存在しているという事になる。
森本先生がその事実に考え及ばないはずもない。
「細谷さんは…正解したんですよね?」
俺は黙って頷いた。
何かを決意するように森本先生は再度絵を見る。
そして息を飲むと「素敵な絵だと思います。」と恐る恐る口にした。
「それと、桜?が奥に咲いていて…。タイトルも入学式ですし…春の絵なんだなって分かります。」
消え入りそうな声。
森本先生も今自分の発している言葉がそのただ一つの正解でない事は分かっているのだろう。
それでも何かを絞り出そうとしてくれている。
「あの、もっと簡単で良いんです。ご飯を食べた時に上手に食レポしてくれている感じじゃなくて。美味しいとか不味いとかそういうシンプルな感じで…」
「素敵な絵です!それは本当に思います…。正解しなきゃって気持ちとは別で…。」
「はい。ありがとうございます。」
森本先生が目を閉じた。
視界を、思考を。
今ある感覚を一度リセットしているかのように。
そうして何度か深呼吸して自身を落ち着けるとパッと瞼を開いてまた絵と向き合う。
「これを描いている時の山崎先生の気持ちが分からないとって事ですよね…?ふふっ何か国語の授業みたいですね。この時の作者の気持ちは?って…。」
また暫くの沈黙が訪れる。
森本先生は苦しそうだ。
俺なんかの為に頑張らないで欲しいと思うが、彼女にとってこれも必要な儀式なのだとしたら仕方がない。
静かな室内に微かな吐息。
規則的に聞こえていたそれがフッと詰まるように止まったかと思うと彼女はゆっくりと話し出した。
「真ん中に描かれている小学生達は高学年ですね。だからきっと新入生を迎える側の先輩で…、これから訪れる新しい出会いに胸が踊っている絵なのかな?って思いました…。でも正直しっくり来ません。不正解ですよね?」
こちらを窺うように向けられた顔は悲しそうで、居た堪れない気持ちになる。
何度も言ったけれど不正解なんてない。
だけど、そんな綺麗事を森本先生は望んでいない。
俺の心を理解してそれを俺に納得させられる言葉しか今の彼女にとっては正解じゃないと言うのだから。
俺は黙って頷いて森本先生の問い掛けを肯定した。
「そうですよね…。分かってました。ダメ元で足掻いてみただけです。山崎先生の事何にも分かりません私。」
自嘲的に、だけど少しスッキリとした顔で森本先生は笑っている。
「細谷さんはこれを正解したんですね…。」
「はい。でも分かりません。今となっては細谷さんが言ったからそれが正解になったのかもしれないです。」
それだけ初めて見た時の細谷咲の言葉は衝撃だった。
優しく包み込むような包容力があるのに、ズドンと胸を打つ重み。
俺自身意識せずにただ表現したものを言い当てられた。
言葉にしたいのに言葉にならない心の内を絵にして、表現した通りに受け取って貰えないのが当たり前の世界で。
たった一人細谷咲だけが俺でも意識していなかった確信をついてきたんだ。
正解なんて存在していなかったそこに、彼女が正解を産んだ。
「それじゃあ、…私に万に一つの可能性もないじゃないですか。」
本当にその通りだ。
もっと早くはっきりと伝えるべきだった。
「ごめんなさい。」
頭を下げる。
「本当にごめんなさい。森本先生がレストランで仰っていた事。沢山考えて沢山迷いました。細谷さんの代わりって。でもそれは出来ないです。どうしても。」
「どうしても…ですか?」
「はい。どうしても。」
「細谷さんがそれだけ特別って事なんですね。」
「そうです。だけど…それだけでなく。」
これは本来、気持ちに応えられない相手に対して語るべきではないのかもしれない。
それでも森本先生は知りたいと思ってくれる気がして。
俺も森本先生には知って欲しいと思い話し始める。
「…正直森本先生は魅力的で、僕の気持ちを知った上でそれでもって仰ってくれて…そんな魅力的な申し出、受け入れてしまおうって何度も思いました。それに今までの経験上、僕はきっと一緒に居る内に森本先生に夢中になっていくんです。そうしたら胸に引っ掛かっているモノなんてどんどん薄れていって。だから何となく幸せに想い合える先が想像出来たから…。最初暫くは辛い想いをさせてしまうけれど、受け入れようかって本当に何度も思いました。」
「だったら…」
「僕は森本先生が人としてとても好きです。」
森本先生はグッと口を噤んだ。
そしていじけるような、非難の色を含んだ目で俺を睨む。
それが酷く可愛くて。
森本先生はやっぱり魅力的だと思った。
「すみません、残酷ですよね…。すみません、だけど正直に話します。森本先生に対して大切だと思う気持ちが湧いているのは事実です。…こちらをホッとさせてくれる笑顔が本当に好きで。だからこそ、それを僕の横に居る間に一時でも曇らせるのが嫌なんです。僕の気持ちが落ち着くまでの間、森本先生は何も悪くないのに頑張るんです。僕なんかの為に。その間無理をして笑うんです。それが耐えられないんです。」
「無理なんてありません。例え私に完全に向いていなくても一緒に居られれば心から笑えます。いつかこちらを向いてくれるのなら待つ時間も幸せです。」
そう言いながら、大きな瞳をうるませ俺の腕に縋り付いた。
俺はその手をゆっくり解くと深呼吸をする。
そして「それを僕が信じられません。」と言い切った。
「森本先生が本当に心から笑っていても、僕は…僕の卑屈な歪んだフィルターでそれを心からの笑顔だと見る事が出来ないんです。そうして折角、完全に森本先生に僕の気持ちが向いても。森本先生がそれを心から信じて心底笑ってくれていても。僕はずっと本当に僕の気持ちが伝わっているのかって疑って、森本先生は無理せず笑っているのかって疑って。多分心が通じる事はないんです。一生。」
今まで、曖昧に濁しつつも受け入れない俺をそれでも諦めずに求めてくれた森本先生。
これまでどれだけ残酷な事を言っても気丈に振舞っていた彼女が、今初めて俺の前で絶望の表情を見せている。
だけど俺は追い打ちをかけるように続けた。
「誰かの代わりにするには僕は森本先生を好きになり過ぎました。」
「そんなのっ…」
自動販売機の前で初めて会った時の事を思い出す。
森本先生は体調の悪い俺にいち早く気付き、手を差し伸べてくれた。
誰が相手でもその人の些細な変化にまで気を配り、あの笑顔で癒していく。
そんな人の瞳からハラハラと流れる涙を為す術なく見守る。
唇はフルフルと震え。
それが綺麗で。
だけど笑って欲しくて。
痛々しい表情に罪悪感も感じて。
動揺して心臓が鳴る。
が、触れたいとは思わなかった。
無意識に手を伸ばしてしまった細谷咲の涙とは違う。
やはり代わりなど立てられない程、細谷咲は特別で。
代わりなんて扱いが出来ない程、森本先生も大切なんだ。
「ごめんなさい。」
「本当に酷い…。私初めてです。フラれた相手に対して少しだけ好きじゃなくなって欲しいなんて思ったの。」
冗談めかしの恨み言。
こうやって素直に批難してくれているのが、また森本先生の優しさなのだと感じる。
「こんなのしかなくて…すみません。」
雑な扱いで凹んでいるティッシュ箱を差し出すと、森本先生はコクリと頷き2枚程引っ張り出してそれを頬に当てた。
涙を吸い取っていくティッシュペーパー。
彼女は笑いながら「変な匂い。」と言った。
ずっとこの部屋にあったティッシュ。
慣れている俺は気付かなかったが、きっと油の匂いをふんだんに含んでいるのだろう。
女性にそんな物を使わせてしまった。
慌てる俺に対し森本先生は軽く睨んで言う。
「もう振られたから言いますけど…油絵って臭いですね。」
「ふはっ。」
思わず吹き出す。
彼女の気遣いのもと成り立っていると分かった上での勝手な考えだが、こうやって仲の良い同僚みたいなやり取りが楽しい。
「そうなんですよ。芸術って臭いんです。」
笑って返した。
「表現者って大変ですね。やっぱり私には理解できません。」
涙の痕のある。
それでもいつもの笑顔で森本先生は立ち上がった。
そして手に持っていた絵を差し出してくる。
「山崎先生。ありがとうございました。レストランで言った事守ってくれたんですよね?」
「レストランで…?」
「人として心から追い出さないでって言葉です。」
「ああ…。」
「今日…心の中見せてくれたんですよね?私が理解できなかっただけで…。それでも嬉しかったです。ありがとうございました。」
素直に凄いと思った。
今森本先生の立場で俺に対して礼が言えるなんて。
「いえ、森本先生に言われた事を守って見せたのではないです。僕が森本先生に見て欲しかったんです。ありがとうございました。」

空はすっかり暗くなっていた。
その後最寄り駅まで森本先生を送ったけれど、その道中も彼女は同僚の距離感で楽しく会話をしてくれた。
本当によく出来た人だと思う。
帰りにコンビニでお弁当を買った。
けれど、手を付ける気にならず今キャンバスの前に座っている。
よし。
細谷咲の絵を描こう。
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