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序 雨の降る晩のこと
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序 雨の降る晩のこと
花のお江戸、と呼ばれていた大都市江戸に、周囲をどぶで囲まれたちょっと異質な区間があった。そこへは、多くの人が住み込みで働いていたけれど、働いているのは、女ばかりで、しかも何かしらわけのある人たちばかりだった。
普通の女性たちに比べれば、かなり派手な化粧に、大幅に派手な髪型に、大量のかんざしを付けて、いつも内またで歩いて移動する。一人の女性に対し、また何人の女性が付属品としてついてくる。そして、仕事するのはみんなが寝静まった夜になる。確かに大量の金が手に入るけれど、普通の人が神聖な儀式として行う行為を、みんな商売としてやっているのだから、結構な度胸がいる。
ここで花形とされていた、大河原友子もその一人であった。
だけど、彼女にとってこの仕事は確かに有意義に稼げることは稼げるが、どうせ店にいくつか出さなければならないんだから、自分の下にはエビの尻尾しかやっては来ないのを知っているので、本当につまらない仕事でもあった。
女衒の人は、いい儲けになるぜ、なんて言っていたけど、何にもならないじゃないかということも知っている。最高級の階級になれば、今でいうところのビックスターのように、文書や浮世絵に載って有名になれるなんて話もしてくれたけれど、彼女にそんなことを求めてきた人は誰もいない。とにかくこの世界はつまらない。と言っても、彼女には帰る家もないので、一生ここで過ごさなければならない。隣の部屋で、いかにも色っぽく、かっこつけてお客さんを操っている同業者たちの声も聞こえてくるけれど、そういう事で、自分が偉くなったと思い込んでいる同業者と仲良くなろうという気持ちは全く起こらないし、同業者たちの真似もしたくない。その一回の仕事をしたことで、新しいもの、友子たちにとってはおそろしく余分な物を、体の中に宿してしまって大騒ぎ、なんてこともあるし、逆に全身に変な形のぶつぶつができて、瞬く間に死んでいく、なんてこともしょっちゅうある。逆に、友子がそのような事例に全く遭遇しなかったのが不思議なくらい。こういう損な役目を負わされるばかりなので、本当につまらないところへ来てしまったものだと、改めて友子は考えていた。脱退をしたいものだと思ったけれど、それは、誰かお金をたくさん持っている人がいて、その人がお金を払って連れて行ってくれることでしかできないのだと、女衒の人は言っていた。それを専門用語で身請け、別の言葉で結婚というらしいが、そんな言葉は使えない。だって、ここでは普通の日本語をしゃべることさえ認めてくれないのだ。同業者たちはそれをかっこいい言葉と言いふらしていたが、友子には、気持ち悪い発語にしか見えないのだった。
「今日は、お客さんが多いから、頑張んなさいよ。」
ある雨の日の事、部屋の一室で書物を読んでいるとき、女将さんが、そんなことを言った。
「だ、誰が見えるんですか。」
友子は思わず女将さんに聞いてしまった。
「ともちゃん、言葉に気を付けて。あんたはもう新造も呼び出しもとっくに終了したんだからね。」
そう言えばそうだっけ。しかし、やることは皆同じ。なのになぜ、そういう細かい順位が付いて回るんだ。
「あ、そういえば、、、。」
「しっかりしい!また、この店は変な散茶を雇ったもんだと言われるじゃない。もう一人前なんだから、しっかり自覚してよ!」
「はい、すみません。女将さん。」
「違う!書物ばかり読んでいるから、いつまでたっても必要なことが身につかないのかねえ、ともちゃんは。」
どうしても彼女は、ここで使う業界言葉を覚えるのが苦手だった。
「まあ、留めそで出身者だから、覚えが悪いってのもあるんだろうけどさ。やっぱり、禿を経てない子は、散茶まで昇格させても意味がないのかしら。」
女の悪口は強烈だ。確かに、友子は禿を経験していない。禿を経験すると、母が仕事をしているのを目撃することになるから、早くから仕事に対するプライドもわいてくると思われるが、友子はこの店に買ってもらったとき、すでに十五を越していて、禿にはなれなかった。
ちなみに禿を経験しないで10代からここに雇われると、留めそで新造と呼ばれる。禿が10代になると振袖新造と呼ばれるが、振袖が客をとらないのに、留めそでは客をとる。それなのに、振袖のほうが散茶となれる確率は高いのだ。どうもおかしいじゃないか、と、友子は疑問に思ったことがあった。
でも、留めそでであっても、人気ものになれば、散茶まで行けることもある。初めてお座敷に出させてもらったときもそうだったけど、お客さんが、その当時主役だった散茶さんを無視して、自分の方へくっついてきてしまったので、これを女将さんに話したら、女将さんがなるほどと思ってしまったらしい。友子はその時何をしていたかと言えば、散茶さんのお箏に合わせて、五段砧を弾いていた。その時のお客さんが出してくれた感想によると、散茶さんより、付き人の留めそで新造さんほうが、箏も上手だし、歌もうまいし、それにかわいいし、いうことなしだった、という話だった。これを聞いた散茶さんは、すっかり自信をなくしてしまい、結婚という形で店をやめてしまった。はじめのうちは理由なんてわからなかったけど、自分がいるだけで、結構無理が通じる世界でもあるらしいのである。
事実、この初座敷の後、彼女が主君として使えてきた散茶さんたちではなく、彼女自体を求めてやってくるお客さんのほうが圧倒的に多くなってしまい、散茶さんたちは次々にやめて行ったり、ほかの店に移ったりして、店からいなくなってしまった。最後の散茶さんがやめてしまったとき、後継者になれそうな有力な振袖新造さんもいなかったので、友子が散茶に昇格することができたのである。
昇格はしたけれど、それが何になるんだといわれるくらい、女郎としての生活はつまらなった。ただ、男たちを目の前に楽器を弾き、おかしな噂話とか愚痴を延々と聞き続けて、時には汚いところをまさぐられて一夜を過ごせばいい。男からしてみれば、大満足の様だけど、果たして自分には何になるんだろう?損なことばっかりである。
仕事がないときは、書物ばかり読んでいた。これだけは唯一得をしたことかもしれない。たぶん百姓女のまま一生を過ごしたら、読み書き何て絶対できなかったはずだ。それに、楽器を弾くことができたのも、ここへやってきて獲得した技術である。友子の愛読書は曲亭馬琴の読本。他の同業者が読んでいる、合巻などの絵ばかりの本はまるで面白くない。はっきり言って、文章だけの読本のほうが場面とか風景とか想像できるし、それをやっていれば、外の世界へ出られなくても、外の世界に行ったような気分にしてくれる。廓の中には窓がなく、あっても厳重に格子が貼られてしまっていたから、外の世界なんて見えるものではないので、こういう文献から想像するしかなかった。入り口も、西門一戸しかなかった。
「ともちゃん、聞いているのかい。お客さんが来たら、上品におしとやかにやるんだよ。ただの新造じゃなくて散茶らしく、静かにすること。お客さんの話にげらげら笑ったり、どすんと座布団に腰かけたりなんかしちゃだめよ。わかった?」
「はいわかりました。すみません!」
「だったら早く支度しな!ほかの子と違って時間もかかるんだから!めんどくさいなんて言うもんじゃないよ。これからは、かわいくなることも必要なんだからねえ。」
この支度という物は実に面倒なのだ。着物だって窮屈だし、髪も伊逹兵庫という面倒な髪形をしなければならない。これは、かえって頭が重たくて、お箏が弾きにくいじゃないかと友子はよく思ったことがある。それに、自分で好きな髪形が選べないのだって実に窮屈である。
「わかりました。わかりました。あーあ、もっと気軽にやれないのかなあ、、、。」
「あーあもいけない。ほら、早くしないと、時間に間に合わなくなるよ!書物を片付けて、すぐに着替えてきな!」
女将さんは、あきれた顔をして大きなため息をついた。
「すみません、すみません!」
いつの間にか友子を主君とする、見習いの新造達が面白がって笑っているのが見えた。
とりあえず、新造たちに髪を結ってもらって、着物を着せてもらうのであるが、これらを着用すると、本当に歩くのに苦労する。歩くのだって、八文字と言われるとても歩きにくい歩き方をしないといけない。運動の苦手だった彼女には、その歩き方は苦手だ。一苦労して友子はお相手となる客がやってくる、二階の座敷へ移動した。移動するのも実に面倒くさかった。で、座敷へ入れば入るで、客を連れてくるのは自分ではなく新造たちがやってくれることであるから、恐ろしく退屈。とりあえず、目の前にあるお箏を弾いて時間を潰した。
「姉さん、お客さん。」
新造が一人の客を連れてやってきてくれれば、退屈は終わる。で、仕事が始まればまずお箏を弾くなどしてもてなし、続いて客のくだらない自慢話を聞いて、そして体の一部を触られて、朝が来ればさようならをする、というのがいつものパターンになる。そして、大量の揚代をもらう。つまらない生活だなあ、、、。と考えていると、
「お客さんだよ!」
小さな禿に袖を引っ張られて初めて気が付いた。
「こんばんは。」
いつも通りに挨拶した。ここで禿も新造も部屋から出て行った。振袖新造であれば、「見学」できることもあるが、彼女は禿を産んでいないので、該当する新造はいなかった。
「ど、どうもです。」
馬鹿に緊張しているなあ、、、。
客は、彼女から、かなり離れた下座に座っていた。
「こっちへいらっしゃいな。」
と言ってみたが、
「い、いけないんじゃないですか?」
と彼はそのままでいる。
「そんなことないよ。」
友子も、廓言葉を忘れている。
「だって、本によると、そう書いてあったので、、、。」
「頭の古い人ね。昔だったらそういう事はあったかもしれないけど、今はないわよ。早くいらっしゃいよ。」
思わず笑いたくなってしまう。たぶん、そういう事は、宝暦のころあたりまでだったら通じたと思うけど、そんな面倒なしきたりは、今は撤廃されていることを知らないのか。
「でも品定めがあるんでしょう。あいにく、何も持ってませんよ。芸者も何も連れてこれなかったですよ。」
確かに、そうである。初めて来た客というのは、彼女の前で何十人の芸者を連れてきて、派手に遊ぶものが多い。これで「俺は強いぞ、金持ちだぞ」ということを示すのであるが、今はそんなものはいらないし、彼女自身も散茶なので、揚屋に行く必要もない。
と、いうよりも、早く自分の方へ寄ってくれないものかと苛立つ。どうせ、変なところをまさぐるのであれば、早く済ませてしまって、また書物でも読みたいな、と思う。
友子が客の方を見ると、客はなんだかやたらびくびくした様子で、ひどく怖がっているように見えた。
「怖いの?」
「い、いや、その、、、。」
「怖かったらいいわよ。無理しないで。」
「わかりました。父には品定めに落ちたと言っておきます。」
「だから、今時品定めなんてことはしないんだってば。本当に何も知らないのね。あなた、どこから来たのよ。」
「日野宿の方です。正確には高幡不動の近くですよ。」
なるほど、そんなに田舎の方だったのか。それじゃあ、こっちまで来ることはめったにないよなあ。
「そこまで田舎なら、知らなくても仕方ないわね。日野は田舎だもんね。きっと、存在すら知らなかったのでは?」
「まあ、うちはそれでも父と弟が商売をしていましたので、存在することは知ってましたけどね。ですけど、、、。」
彼は、そこまで言って、また黙ってしまった。
「ああもう、最後まで言って頂戴よ。なんならあたしが当ててみようか?きっと、ここまで派手な女が迎えるとは思わなかった。図星でしょう。」
「はい、まさしく。」
すんなりと彼は友子の推理を認めた。
「そして、女郎屋がこんなすごいところだとも思わなかったでしょ。」
「そうですね。」
「馬鹿に素直な人ね。まあ、初めてじゃ、そういう態度になっても仕方ないか。あなた、名前なんて言うの?」
友子は、やり手のおばさんが出してくれた伝票を見るのを忘れて本人に聞いてしまった。客の中には伝票を見ればわかる、などと言って、名乗らない人もいる。
「ああ、僕ですか。僕の名前は、増田裕です。ころもへんに谷の一文字でひろし。えーと確か、源氏名は、古花さん、でしたっけ。」
「違うわよ。あたしは、大河原友子。」
友子は突発的にそう答えた。誰でも源氏名は持つが、この名前で呼ばれるのがとても苦手なのだ。
「古いが嫌いだから、名乗りたくないのよ。年寄り臭くて。細見なんか読むとさ、ほかの子は、みんなかわいい名前をもらっているのに、なんであたしだけ、おばあさんみたいな名前なんだろう。だから、お客さんにはともちゃんと呼んでもらってる。」
「そうですか。細見という物を読んだことはないので、他の女郎さんがどういう名前なのか知らないですけど、確かに、名前と顔は一致しませんね。」
「あら、それ、どういう事かしら?あたしが美人ではないという事かしら?」
ここでやっと、友子は女郎らしい言葉を出した。
「ご、ごめんなさい。むしろその逆で困っております。漢字から想像すると、さほど器量はないのではないかと考えていたんですが、、、。まあ、僕の考えでは、源氏名を変更するべきではないかと。確かに古いという漢字は合致しませんね。」
「つまり、美人ではないと思って、あたしを呼び出したのね。」
「はい。ごめんなさい。僕みたいな人間にはもったいなさすぎる方です。もっと端正な顔立ちをした、身分的にも立派な人を相手にするべきですよ。まあ、書物によりますと、品定めがあると書かれていましたので、そこで追い出されて当り前だと思っていたのですが、なんで言葉まで交わしてくれたんだろうなって、正直戸惑っています。」
「へえ、あなたって何をやっている人?」
そう聞いてみると、裕はまた困った顔をした。
「もったいぶらないで、聞いてるんだから答えだして。」
友子は、質問に答えが返ってこないと、非常に嫌な気持ちになってしまう癖がある。
「ああ、すみません、すみません。僕、ただの両替屋ですよ。まあ、正確に言えば弟が店を継ぐのが、ほぼ決定しているから、弟の手伝いをしていると言えばいいのかな。」
「なるほどねえ。日野は宿場町だから、確かに旅の人たちが、細かいお金が必要になるかもしれないもんね。」
「そうなんですよ。大体旅の人たちが、持っている小判何かを、細かい銭とかに直すことが多いかな。」
「そうよね!小判一枚でお釣りが出なかったら意味がないものね!例えば、お財布の中に、小判一枚しかなくて、それでご飯を食べようとお店に入っても、きっと店の人はお釣りを出せなくて、困るでしょうね。」
「まあ、いわゆる銭売りと呼ばれる、つまらない商売です。まあ、大体店に立っているのは弟なので、裏方の手伝い人みたいなもんですけどね。」
隣の部屋で、いわゆる「仕事」が開始されている。別の散茶が、男性相手に色っぽいうめき声を出して、男性もそれに呼応しているのだ。裕は、嫌そうな顔をした。
「やれやれ、やってますね。僕にはとてもできないや。弟は、すごい快楽だと言いますが、全くわからないですね。」
「弟さんってどんな人?」
「まあ、名を増田新五郎という、豪快で僕より優れた人です。」
「ええ!あの人のお兄さん?」
友子はびっくりしてしまった。
「まあ、六年離れていれば容姿も似てないですよね。それに、性格も全然違うから。たぶん兄弟とは思わないのではないかな。」
友子はまだ相手をしたことはないが、その人物から、一度小判をもらったことはあった。たしか、初めてここへやってきたとき、友子を含めた散茶全員に、小判を渡すなど大判ふるまいをした。もらったものは、ルール違反として女将さんが持って行ってしまったが。
「今回は弟に連れてこられたというわけです。これで謎が解けたでしょ。つまらない両替屋の男が、なぜ、女郎屋にのこのこやってきたのか。」
「確かに、そうでもしなきゃ、あなたみたいな人はここへは来ないわね。でも、両替屋って面白そうだわ。だって、いろんな人がお金を持ってきて、常にいろんな人と顔を合わすことができるわけだし。」
友子は正直に感想を述べた。確かに、いつも同じことを繰り返す、女郎屋よりはずっと面白そうな商売である。
「いや、何もありませんよ。ただお金を持ってきて、相応する額に変更して、手渡すだけですから。」
「ええー、絶対にそんなことないでしょう。あたしがやっていることより、絶対面白いわ。でも、あたしだったらそんな商売なんて絶対できないだろうな。だって、家族皆から馬鹿馬鹿と呼ばれ続けて、女衒に引き取ってもらってこっちに来たんだし。」
「あ、友子さんも、地方の方なんですか。」
「ええ。あたしは、駿河のほうなの。日野よりもっと田舎者。それに、友子さんとは言わないでともちゃんって呼んで。」
「あ、はい、わかりました。」
「じゃあ、お願い。できるだけ詳しく、その両替商という物について、詳しく聞かせて。やっててよかったこと、嫌だったこと、全部知りたいの。嘘偽りはなしよ。」
「わかりました。」
裕は、ちょっと戸惑いながらも両替商について説明し始めた。途中、友子は何回も話を中断して質問をし、答えを得られなければ次へコマを進めさせなかったため、語りは何時間もかかってしまった。裕が、もう疲れたと口にすると同時に鶏が鳴いて、あたりが少しずつ明るくなってきた。
「すごいですね、ともちゃんは。こんなにしゃべらせて、まだ聞きたい事があるんですか。」
「当り前じゃない。だって面白いんだもの!ここで一生出れない可能性もあるんだから、外の世界の事をもっともっと聞かせて!」
「だけど、もう制限時間を過ぎてしまいますよ。」
「あ、そうか、、、。」
今度は友子ががっかりした。
「もうそんな時間か。」
がっくりと、肩を落とした。
「そんなに面白かったですか?ただの両替商のつまらない話、、、。」
「勿論よ!でないと質問したりはしないわ。そう考えれば当然でしょ。」
「やっぱり、女性の方は強いですね。」
裕は小さなため息をついた。
「じゃあ、時間なので帰りますけど、親切に泊めてくださってありがとうございました。それでは。」
裕は、立ち上がって、軽く友子に微笑みかけ、座敷を出て行った。その歩き方は、左の足を引きずった、ちょっと不自由な歩き方だった。
せっかく面白いお話をたくさん聞かせてくれて、楽しかったのに。また、つまらない仕事に戻るのか。友子は本当にがっかりした。同時にずっと一緒ならいいのになという気持ちもわいた。隣の部屋の男性も、散茶の甘ったるい声に応答しながら帰っていくようだ。ああいう人のお兄さんなんてとても信じられないくらいだ。たぶん二人で日野まで帰っていくのだろうが、自分の事を、どう評価していくのか、友子はすごく気になった。なぜか、恥ずかしいなと思ってしまった。
まあ、それはきっと、一夜の夢に過ぎないこともすぐにわかった。しばらく日がたったが、増田裕という客から、契約を申しこむとか、そういうことは一度もなかったから。
一方、新吉原からかなり離れたところに、日野という町があった。そこの中心部に高幡不動、正式には金剛寺と呼ばれている寺院があって、その近くに「質と両替の増田屋」があった。周辺に住んでいる人たちからは、「頑固おやじの両替屋」と言われていた。
「馬鹿もの!」
でかい声で店主の増田誠一が怒鳴っていた。
「ご、ごめんなさい、お父さん。」
裕は、父である誠一と、母である寿々子の前に座って小さくなっている。
「本当に、どうしてそんなに気の弱い男になってしまったのかしら。せっかく女の人がたくさんいるところに行ったと思ったら、お金だけはらって、帰ってくるだけなんて。それに、あれだけお金をあげたのに、すべて悪質な散茶にとられてしまうとは、、、。」
「すみませんお母さん。八割くらい、新五郎にあげてしまったので。」
「人が良すぎるというか、ただの馬鹿としか言いようがないなあ。いいか、裕、お前ももう30をとっくに越しているんだから、一度や二度くらい女と付き合ってみようという気にはならんのか。」
「なりません。だって、こんな体の人間を相手にしてくれる人はいませんよ。」
「なりませんって、、、。もうちょっと店の事情を考えて頂戴。いい、お父さんの次に、店は誰がやるの。店の後継ぎは、女の人の力を借りないとできないのよ。」
「関係ないですよ。だって、新五郎は、梅子さんと一緒になってますし、義美さんだって来てくれるし、僕よりずっとそういう可能性のある人はいるんじゃありませんか。」
「お前、もっと周りをよく見ろ。新五郎も三年前に結婚したが、未だに子作りはできていない。義美も、最近は実家に帰っていることが多いだろ、可能性がある人物はお前しかないのだ!」
「だから無理ですよ。僕、結婚なんてまずないだろうし、子供を持つのも健康ではないのでできないですよ。だって、これまでに縁談を組んだこともあったけど、十回とも断られているじゃないですか。」
確かにそれは事実である。これまでに近隣の商店の娘と見合いをしているが、いずれも失敗している。それは、裕が奇妙な体であることと、あまりに自信がないことからであることは間違いない。
「無理ではないようにするために、新吉原に行けと言ったのだ!さっきも言ったが、男がいつまでも独り者でいるというのは、本当に恥ずかしいことなんだぞ。わしらもな、世間様から、いつまでも子供扱いしてとか、何年からかわれたら、気が済むんだ!」
「ごめんなさい、お父さん。」
「謝って済む問題ではない!もう一度十両くれてやるから、今度は一人で新吉原に行って、使えない留めそで新造でも身請けしてこい。いや、それを完遂するまで帰ってくるな。もし、一人で帰ってきたら、間違いなく勘当だ、勘当!」
「お父さん、それは言いすぎじゃありませんか。いくらなんでも勘当は、」
寿々子は、なだめるように言ったが、誠一の決断は変わらないらしい。
「いや、こんな負け犬みたいな男を育てたつもりはない!おい、金庫から十両持ってきて、裕にやれ。いいか、絶対に留めそで新造を一人連れてくるのだ!それがなければ、二度とこの家の人間とはみなさないからな!」
最大級の雷が落ちた。やっぱり、頑固おやじはいつの時代も怖いものである。
「はい。」
そう、返答するしかなかった。
一方、新吉原では、いつも通り友子が「働いて」いた。入れ替わり立ち代わり、彼女を求めていろんな階級の男たちがやってきたけれど、やっぱりつまらない作業を繰り返すだけで、相変わらず暇なときは書物ばかり読む生活を送っていた。
時々、あの不思議な男を思い出すときがある。日野という田舎町で両替屋をやっているんだっけ。そういえば、あの人、夜仕事をしているときは暗くてよく見えなかったけど、足がびっこであり、耳はとがっていた。思い出せば、結構綺麗な人だったなあ、、、。そんなことを考えながらぼんやりしていると、
「ともちゃん、お客さんだよ!なんでも、本指名だよ。早く座敷に行きな!」
やり手のおばさんが、そういっているので、友子は新造たちに手伝ってもらいながら、急いで着替え、座敷へ移動した。
ふすまを開けると、
「こんばんは。」
そこに座っていたのは、間違いなく増田裕だった。友子は急いで座敷に入り、急いでふすまを閉めた。
「来てくれてありがとう!」
ご挨拶をするよりも、言葉が先に出てしまった。
「今度はもう少し近くに来てね!」
と、彼の手を引っ張って座敷の中心部に座らせ、自分もその隣に座った。
「しきたりも何もどうでもいいの。こないだの面白い話の続きを聞かせてよ!」
彼女の途方もない退屈を、解消してくれる唯一の手段だ。
「いや、面白い生活はしていませんよ。」
「どうしてよ。あなたが、そうして聞かせてくれるのが、あたしにとっては一番楽しいんだから。」
こればっかりは本当だ。狭い女郎屋で暮らしていると、もう何十日も外の空気を吸っていない。裕は、少し困ってしまったようだ。
「そうですけど、なんでそんなに両替屋の話を聞きたがるんですか。両替屋なんてつまらない商売は、縁もゆかりもないでしょうに。」
「今日はおかしいわね。」
と、友子は言った。
「この前はあれだけ楽しそうにしゃべってくれたじゃない。なんで今日はそんなにつらそうなのよ。何か悪いことでもあったの?悪いことであってもあたしは聞くわよ。だって、毎日同じものを見て、毎日同じことしかしない生活なんて、苦痛で仕方ないんだから!それを解消してくれるのは、誰かとしゃべるしかないでしょ。」
「そうですか。」
裕がそんなことを言う。
「外、出てみたいですか。」
「勿論。こんな窮屈で退屈な場所、早く出たいわ。ほかの子は、もう少ししたら故郷へ帰るっていう子もいるけどさ、あたしはすでに、故郷では厄介者だから、帰れないし、どうせお針かやり手になるしかないでしょうしね。」
確かにそうなることは確実と言われている。友子も、もうすぐ女郎としての契約は終了するときが近づいていた。
「そうですか。外へ出たら、何をしたいですか?」
「そうね、まず、あたしが一番尊敬する馬琴先生の署名がほしい。」
「なるほどね。」
裕は、少し考えて、こう切り出した。
「じゃあ、出てみますか?」
一瞬ぽかんとした。
花のお江戸、と呼ばれていた大都市江戸に、周囲をどぶで囲まれたちょっと異質な区間があった。そこへは、多くの人が住み込みで働いていたけれど、働いているのは、女ばかりで、しかも何かしらわけのある人たちばかりだった。
普通の女性たちに比べれば、かなり派手な化粧に、大幅に派手な髪型に、大量のかんざしを付けて、いつも内またで歩いて移動する。一人の女性に対し、また何人の女性が付属品としてついてくる。そして、仕事するのはみんなが寝静まった夜になる。確かに大量の金が手に入るけれど、普通の人が神聖な儀式として行う行為を、みんな商売としてやっているのだから、結構な度胸がいる。
ここで花形とされていた、大河原友子もその一人であった。
だけど、彼女にとってこの仕事は確かに有意義に稼げることは稼げるが、どうせ店にいくつか出さなければならないんだから、自分の下にはエビの尻尾しかやっては来ないのを知っているので、本当につまらない仕事でもあった。
女衒の人は、いい儲けになるぜ、なんて言っていたけど、何にもならないじゃないかということも知っている。最高級の階級になれば、今でいうところのビックスターのように、文書や浮世絵に載って有名になれるなんて話もしてくれたけれど、彼女にそんなことを求めてきた人は誰もいない。とにかくこの世界はつまらない。と言っても、彼女には帰る家もないので、一生ここで過ごさなければならない。隣の部屋で、いかにも色っぽく、かっこつけてお客さんを操っている同業者たちの声も聞こえてくるけれど、そういう事で、自分が偉くなったと思い込んでいる同業者と仲良くなろうという気持ちは全く起こらないし、同業者たちの真似もしたくない。その一回の仕事をしたことで、新しいもの、友子たちにとってはおそろしく余分な物を、体の中に宿してしまって大騒ぎ、なんてこともあるし、逆に全身に変な形のぶつぶつができて、瞬く間に死んでいく、なんてこともしょっちゅうある。逆に、友子がそのような事例に全く遭遇しなかったのが不思議なくらい。こういう損な役目を負わされるばかりなので、本当につまらないところへ来てしまったものだと、改めて友子は考えていた。脱退をしたいものだと思ったけれど、それは、誰かお金をたくさん持っている人がいて、その人がお金を払って連れて行ってくれることでしかできないのだと、女衒の人は言っていた。それを専門用語で身請け、別の言葉で結婚というらしいが、そんな言葉は使えない。だって、ここでは普通の日本語をしゃべることさえ認めてくれないのだ。同業者たちはそれをかっこいい言葉と言いふらしていたが、友子には、気持ち悪い発語にしか見えないのだった。
「今日は、お客さんが多いから、頑張んなさいよ。」
ある雨の日の事、部屋の一室で書物を読んでいるとき、女将さんが、そんなことを言った。
「だ、誰が見えるんですか。」
友子は思わず女将さんに聞いてしまった。
「ともちゃん、言葉に気を付けて。あんたはもう新造も呼び出しもとっくに終了したんだからね。」
そう言えばそうだっけ。しかし、やることは皆同じ。なのになぜ、そういう細かい順位が付いて回るんだ。
「あ、そういえば、、、。」
「しっかりしい!また、この店は変な散茶を雇ったもんだと言われるじゃない。もう一人前なんだから、しっかり自覚してよ!」
「はい、すみません。女将さん。」
「違う!書物ばかり読んでいるから、いつまでたっても必要なことが身につかないのかねえ、ともちゃんは。」
どうしても彼女は、ここで使う業界言葉を覚えるのが苦手だった。
「まあ、留めそで出身者だから、覚えが悪いってのもあるんだろうけどさ。やっぱり、禿を経てない子は、散茶まで昇格させても意味がないのかしら。」
女の悪口は強烈だ。確かに、友子は禿を経験していない。禿を経験すると、母が仕事をしているのを目撃することになるから、早くから仕事に対するプライドもわいてくると思われるが、友子はこの店に買ってもらったとき、すでに十五を越していて、禿にはなれなかった。
ちなみに禿を経験しないで10代からここに雇われると、留めそで新造と呼ばれる。禿が10代になると振袖新造と呼ばれるが、振袖が客をとらないのに、留めそでは客をとる。それなのに、振袖のほうが散茶となれる確率は高いのだ。どうもおかしいじゃないか、と、友子は疑問に思ったことがあった。
でも、留めそでであっても、人気ものになれば、散茶まで行けることもある。初めてお座敷に出させてもらったときもそうだったけど、お客さんが、その当時主役だった散茶さんを無視して、自分の方へくっついてきてしまったので、これを女将さんに話したら、女将さんがなるほどと思ってしまったらしい。友子はその時何をしていたかと言えば、散茶さんのお箏に合わせて、五段砧を弾いていた。その時のお客さんが出してくれた感想によると、散茶さんより、付き人の留めそで新造さんほうが、箏も上手だし、歌もうまいし、それにかわいいし、いうことなしだった、という話だった。これを聞いた散茶さんは、すっかり自信をなくしてしまい、結婚という形で店をやめてしまった。はじめのうちは理由なんてわからなかったけど、自分がいるだけで、結構無理が通じる世界でもあるらしいのである。
事実、この初座敷の後、彼女が主君として使えてきた散茶さんたちではなく、彼女自体を求めてやってくるお客さんのほうが圧倒的に多くなってしまい、散茶さんたちは次々にやめて行ったり、ほかの店に移ったりして、店からいなくなってしまった。最後の散茶さんがやめてしまったとき、後継者になれそうな有力な振袖新造さんもいなかったので、友子が散茶に昇格することができたのである。
昇格はしたけれど、それが何になるんだといわれるくらい、女郎としての生活はつまらなった。ただ、男たちを目の前に楽器を弾き、おかしな噂話とか愚痴を延々と聞き続けて、時には汚いところをまさぐられて一夜を過ごせばいい。男からしてみれば、大満足の様だけど、果たして自分には何になるんだろう?損なことばっかりである。
仕事がないときは、書物ばかり読んでいた。これだけは唯一得をしたことかもしれない。たぶん百姓女のまま一生を過ごしたら、読み書き何て絶対できなかったはずだ。それに、楽器を弾くことができたのも、ここへやってきて獲得した技術である。友子の愛読書は曲亭馬琴の読本。他の同業者が読んでいる、合巻などの絵ばかりの本はまるで面白くない。はっきり言って、文章だけの読本のほうが場面とか風景とか想像できるし、それをやっていれば、外の世界へ出られなくても、外の世界に行ったような気分にしてくれる。廓の中には窓がなく、あっても厳重に格子が貼られてしまっていたから、外の世界なんて見えるものではないので、こういう文献から想像するしかなかった。入り口も、西門一戸しかなかった。
「ともちゃん、聞いているのかい。お客さんが来たら、上品におしとやかにやるんだよ。ただの新造じゃなくて散茶らしく、静かにすること。お客さんの話にげらげら笑ったり、どすんと座布団に腰かけたりなんかしちゃだめよ。わかった?」
「はいわかりました。すみません!」
「だったら早く支度しな!ほかの子と違って時間もかかるんだから!めんどくさいなんて言うもんじゃないよ。これからは、かわいくなることも必要なんだからねえ。」
この支度という物は実に面倒なのだ。着物だって窮屈だし、髪も伊逹兵庫という面倒な髪形をしなければならない。これは、かえって頭が重たくて、お箏が弾きにくいじゃないかと友子はよく思ったことがある。それに、自分で好きな髪形が選べないのだって実に窮屈である。
「わかりました。わかりました。あーあ、もっと気軽にやれないのかなあ、、、。」
「あーあもいけない。ほら、早くしないと、時間に間に合わなくなるよ!書物を片付けて、すぐに着替えてきな!」
女将さんは、あきれた顔をして大きなため息をついた。
「すみません、すみません!」
いつの間にか友子を主君とする、見習いの新造達が面白がって笑っているのが見えた。
とりあえず、新造たちに髪を結ってもらって、着物を着せてもらうのであるが、これらを着用すると、本当に歩くのに苦労する。歩くのだって、八文字と言われるとても歩きにくい歩き方をしないといけない。運動の苦手だった彼女には、その歩き方は苦手だ。一苦労して友子はお相手となる客がやってくる、二階の座敷へ移動した。移動するのも実に面倒くさかった。で、座敷へ入れば入るで、客を連れてくるのは自分ではなく新造たちがやってくれることであるから、恐ろしく退屈。とりあえず、目の前にあるお箏を弾いて時間を潰した。
「姉さん、お客さん。」
新造が一人の客を連れてやってきてくれれば、退屈は終わる。で、仕事が始まればまずお箏を弾くなどしてもてなし、続いて客のくだらない自慢話を聞いて、そして体の一部を触られて、朝が来ればさようならをする、というのがいつものパターンになる。そして、大量の揚代をもらう。つまらない生活だなあ、、、。と考えていると、
「お客さんだよ!」
小さな禿に袖を引っ張られて初めて気が付いた。
「こんばんは。」
いつも通りに挨拶した。ここで禿も新造も部屋から出て行った。振袖新造であれば、「見学」できることもあるが、彼女は禿を産んでいないので、該当する新造はいなかった。
「ど、どうもです。」
馬鹿に緊張しているなあ、、、。
客は、彼女から、かなり離れた下座に座っていた。
「こっちへいらっしゃいな。」
と言ってみたが、
「い、いけないんじゃないですか?」
と彼はそのままでいる。
「そんなことないよ。」
友子も、廓言葉を忘れている。
「だって、本によると、そう書いてあったので、、、。」
「頭の古い人ね。昔だったらそういう事はあったかもしれないけど、今はないわよ。早くいらっしゃいよ。」
思わず笑いたくなってしまう。たぶん、そういう事は、宝暦のころあたりまでだったら通じたと思うけど、そんな面倒なしきたりは、今は撤廃されていることを知らないのか。
「でも品定めがあるんでしょう。あいにく、何も持ってませんよ。芸者も何も連れてこれなかったですよ。」
確かに、そうである。初めて来た客というのは、彼女の前で何十人の芸者を連れてきて、派手に遊ぶものが多い。これで「俺は強いぞ、金持ちだぞ」ということを示すのであるが、今はそんなものはいらないし、彼女自身も散茶なので、揚屋に行く必要もない。
と、いうよりも、早く自分の方へ寄ってくれないものかと苛立つ。どうせ、変なところをまさぐるのであれば、早く済ませてしまって、また書物でも読みたいな、と思う。
友子が客の方を見ると、客はなんだかやたらびくびくした様子で、ひどく怖がっているように見えた。
「怖いの?」
「い、いや、その、、、。」
「怖かったらいいわよ。無理しないで。」
「わかりました。父には品定めに落ちたと言っておきます。」
「だから、今時品定めなんてことはしないんだってば。本当に何も知らないのね。あなた、どこから来たのよ。」
「日野宿の方です。正確には高幡不動の近くですよ。」
なるほど、そんなに田舎の方だったのか。それじゃあ、こっちまで来ることはめったにないよなあ。
「そこまで田舎なら、知らなくても仕方ないわね。日野は田舎だもんね。きっと、存在すら知らなかったのでは?」
「まあ、うちはそれでも父と弟が商売をしていましたので、存在することは知ってましたけどね。ですけど、、、。」
彼は、そこまで言って、また黙ってしまった。
「ああもう、最後まで言って頂戴よ。なんならあたしが当ててみようか?きっと、ここまで派手な女が迎えるとは思わなかった。図星でしょう。」
「はい、まさしく。」
すんなりと彼は友子の推理を認めた。
「そして、女郎屋がこんなすごいところだとも思わなかったでしょ。」
「そうですね。」
「馬鹿に素直な人ね。まあ、初めてじゃ、そういう態度になっても仕方ないか。あなた、名前なんて言うの?」
友子は、やり手のおばさんが出してくれた伝票を見るのを忘れて本人に聞いてしまった。客の中には伝票を見ればわかる、などと言って、名乗らない人もいる。
「ああ、僕ですか。僕の名前は、増田裕です。ころもへんに谷の一文字でひろし。えーと確か、源氏名は、古花さん、でしたっけ。」
「違うわよ。あたしは、大河原友子。」
友子は突発的にそう答えた。誰でも源氏名は持つが、この名前で呼ばれるのがとても苦手なのだ。
「古いが嫌いだから、名乗りたくないのよ。年寄り臭くて。細見なんか読むとさ、ほかの子は、みんなかわいい名前をもらっているのに、なんであたしだけ、おばあさんみたいな名前なんだろう。だから、お客さんにはともちゃんと呼んでもらってる。」
「そうですか。細見という物を読んだことはないので、他の女郎さんがどういう名前なのか知らないですけど、確かに、名前と顔は一致しませんね。」
「あら、それ、どういう事かしら?あたしが美人ではないという事かしら?」
ここでやっと、友子は女郎らしい言葉を出した。
「ご、ごめんなさい。むしろその逆で困っております。漢字から想像すると、さほど器量はないのではないかと考えていたんですが、、、。まあ、僕の考えでは、源氏名を変更するべきではないかと。確かに古いという漢字は合致しませんね。」
「つまり、美人ではないと思って、あたしを呼び出したのね。」
「はい。ごめんなさい。僕みたいな人間にはもったいなさすぎる方です。もっと端正な顔立ちをした、身分的にも立派な人を相手にするべきですよ。まあ、書物によりますと、品定めがあると書かれていましたので、そこで追い出されて当り前だと思っていたのですが、なんで言葉まで交わしてくれたんだろうなって、正直戸惑っています。」
「へえ、あなたって何をやっている人?」
そう聞いてみると、裕はまた困った顔をした。
「もったいぶらないで、聞いてるんだから答えだして。」
友子は、質問に答えが返ってこないと、非常に嫌な気持ちになってしまう癖がある。
「ああ、すみません、すみません。僕、ただの両替屋ですよ。まあ、正確に言えば弟が店を継ぐのが、ほぼ決定しているから、弟の手伝いをしていると言えばいいのかな。」
「なるほどねえ。日野は宿場町だから、確かに旅の人たちが、細かいお金が必要になるかもしれないもんね。」
「そうなんですよ。大体旅の人たちが、持っている小判何かを、細かい銭とかに直すことが多いかな。」
「そうよね!小判一枚でお釣りが出なかったら意味がないものね!例えば、お財布の中に、小判一枚しかなくて、それでご飯を食べようとお店に入っても、きっと店の人はお釣りを出せなくて、困るでしょうね。」
「まあ、いわゆる銭売りと呼ばれる、つまらない商売です。まあ、大体店に立っているのは弟なので、裏方の手伝い人みたいなもんですけどね。」
隣の部屋で、いわゆる「仕事」が開始されている。別の散茶が、男性相手に色っぽいうめき声を出して、男性もそれに呼応しているのだ。裕は、嫌そうな顔をした。
「やれやれ、やってますね。僕にはとてもできないや。弟は、すごい快楽だと言いますが、全くわからないですね。」
「弟さんってどんな人?」
「まあ、名を増田新五郎という、豪快で僕より優れた人です。」
「ええ!あの人のお兄さん?」
友子はびっくりしてしまった。
「まあ、六年離れていれば容姿も似てないですよね。それに、性格も全然違うから。たぶん兄弟とは思わないのではないかな。」
友子はまだ相手をしたことはないが、その人物から、一度小判をもらったことはあった。たしか、初めてここへやってきたとき、友子を含めた散茶全員に、小判を渡すなど大判ふるまいをした。もらったものは、ルール違反として女将さんが持って行ってしまったが。
「今回は弟に連れてこられたというわけです。これで謎が解けたでしょ。つまらない両替屋の男が、なぜ、女郎屋にのこのこやってきたのか。」
「確かに、そうでもしなきゃ、あなたみたいな人はここへは来ないわね。でも、両替屋って面白そうだわ。だって、いろんな人がお金を持ってきて、常にいろんな人と顔を合わすことができるわけだし。」
友子は正直に感想を述べた。確かに、いつも同じことを繰り返す、女郎屋よりはずっと面白そうな商売である。
「いや、何もありませんよ。ただお金を持ってきて、相応する額に変更して、手渡すだけですから。」
「ええー、絶対にそんなことないでしょう。あたしがやっていることより、絶対面白いわ。でも、あたしだったらそんな商売なんて絶対できないだろうな。だって、家族皆から馬鹿馬鹿と呼ばれ続けて、女衒に引き取ってもらってこっちに来たんだし。」
「あ、友子さんも、地方の方なんですか。」
「ええ。あたしは、駿河のほうなの。日野よりもっと田舎者。それに、友子さんとは言わないでともちゃんって呼んで。」
「あ、はい、わかりました。」
「じゃあ、お願い。できるだけ詳しく、その両替商という物について、詳しく聞かせて。やっててよかったこと、嫌だったこと、全部知りたいの。嘘偽りはなしよ。」
「わかりました。」
裕は、ちょっと戸惑いながらも両替商について説明し始めた。途中、友子は何回も話を中断して質問をし、答えを得られなければ次へコマを進めさせなかったため、語りは何時間もかかってしまった。裕が、もう疲れたと口にすると同時に鶏が鳴いて、あたりが少しずつ明るくなってきた。
「すごいですね、ともちゃんは。こんなにしゃべらせて、まだ聞きたい事があるんですか。」
「当り前じゃない。だって面白いんだもの!ここで一生出れない可能性もあるんだから、外の世界の事をもっともっと聞かせて!」
「だけど、もう制限時間を過ぎてしまいますよ。」
「あ、そうか、、、。」
今度は友子ががっかりした。
「もうそんな時間か。」
がっくりと、肩を落とした。
「そんなに面白かったですか?ただの両替商のつまらない話、、、。」
「勿論よ!でないと質問したりはしないわ。そう考えれば当然でしょ。」
「やっぱり、女性の方は強いですね。」
裕は小さなため息をついた。
「じゃあ、時間なので帰りますけど、親切に泊めてくださってありがとうございました。それでは。」
裕は、立ち上がって、軽く友子に微笑みかけ、座敷を出て行った。その歩き方は、左の足を引きずった、ちょっと不自由な歩き方だった。
せっかく面白いお話をたくさん聞かせてくれて、楽しかったのに。また、つまらない仕事に戻るのか。友子は本当にがっかりした。同時にずっと一緒ならいいのになという気持ちもわいた。隣の部屋の男性も、散茶の甘ったるい声に応答しながら帰っていくようだ。ああいう人のお兄さんなんてとても信じられないくらいだ。たぶん二人で日野まで帰っていくのだろうが、自分の事を、どう評価していくのか、友子はすごく気になった。なぜか、恥ずかしいなと思ってしまった。
まあ、それはきっと、一夜の夢に過ぎないこともすぐにわかった。しばらく日がたったが、増田裕という客から、契約を申しこむとか、そういうことは一度もなかったから。
一方、新吉原からかなり離れたところに、日野という町があった。そこの中心部に高幡不動、正式には金剛寺と呼ばれている寺院があって、その近くに「質と両替の増田屋」があった。周辺に住んでいる人たちからは、「頑固おやじの両替屋」と言われていた。
「馬鹿もの!」
でかい声で店主の増田誠一が怒鳴っていた。
「ご、ごめんなさい、お父さん。」
裕は、父である誠一と、母である寿々子の前に座って小さくなっている。
「本当に、どうしてそんなに気の弱い男になってしまったのかしら。せっかく女の人がたくさんいるところに行ったと思ったら、お金だけはらって、帰ってくるだけなんて。それに、あれだけお金をあげたのに、すべて悪質な散茶にとられてしまうとは、、、。」
「すみませんお母さん。八割くらい、新五郎にあげてしまったので。」
「人が良すぎるというか、ただの馬鹿としか言いようがないなあ。いいか、裕、お前ももう30をとっくに越しているんだから、一度や二度くらい女と付き合ってみようという気にはならんのか。」
「なりません。だって、こんな体の人間を相手にしてくれる人はいませんよ。」
「なりませんって、、、。もうちょっと店の事情を考えて頂戴。いい、お父さんの次に、店は誰がやるの。店の後継ぎは、女の人の力を借りないとできないのよ。」
「関係ないですよ。だって、新五郎は、梅子さんと一緒になってますし、義美さんだって来てくれるし、僕よりずっとそういう可能性のある人はいるんじゃありませんか。」
「お前、もっと周りをよく見ろ。新五郎も三年前に結婚したが、未だに子作りはできていない。義美も、最近は実家に帰っていることが多いだろ、可能性がある人物はお前しかないのだ!」
「だから無理ですよ。僕、結婚なんてまずないだろうし、子供を持つのも健康ではないのでできないですよ。だって、これまでに縁談を組んだこともあったけど、十回とも断られているじゃないですか。」
確かにそれは事実である。これまでに近隣の商店の娘と見合いをしているが、いずれも失敗している。それは、裕が奇妙な体であることと、あまりに自信がないことからであることは間違いない。
「無理ではないようにするために、新吉原に行けと言ったのだ!さっきも言ったが、男がいつまでも独り者でいるというのは、本当に恥ずかしいことなんだぞ。わしらもな、世間様から、いつまでも子供扱いしてとか、何年からかわれたら、気が済むんだ!」
「ごめんなさい、お父さん。」
「謝って済む問題ではない!もう一度十両くれてやるから、今度は一人で新吉原に行って、使えない留めそで新造でも身請けしてこい。いや、それを完遂するまで帰ってくるな。もし、一人で帰ってきたら、間違いなく勘当だ、勘当!」
「お父さん、それは言いすぎじゃありませんか。いくらなんでも勘当は、」
寿々子は、なだめるように言ったが、誠一の決断は変わらないらしい。
「いや、こんな負け犬みたいな男を育てたつもりはない!おい、金庫から十両持ってきて、裕にやれ。いいか、絶対に留めそで新造を一人連れてくるのだ!それがなければ、二度とこの家の人間とはみなさないからな!」
最大級の雷が落ちた。やっぱり、頑固おやじはいつの時代も怖いものである。
「はい。」
そう、返答するしかなかった。
一方、新吉原では、いつも通り友子が「働いて」いた。入れ替わり立ち代わり、彼女を求めていろんな階級の男たちがやってきたけれど、やっぱりつまらない作業を繰り返すだけで、相変わらず暇なときは書物ばかり読む生活を送っていた。
時々、あの不思議な男を思い出すときがある。日野という田舎町で両替屋をやっているんだっけ。そういえば、あの人、夜仕事をしているときは暗くてよく見えなかったけど、足がびっこであり、耳はとがっていた。思い出せば、結構綺麗な人だったなあ、、、。そんなことを考えながらぼんやりしていると、
「ともちゃん、お客さんだよ!なんでも、本指名だよ。早く座敷に行きな!」
やり手のおばさんが、そういっているので、友子は新造たちに手伝ってもらいながら、急いで着替え、座敷へ移動した。
ふすまを開けると、
「こんばんは。」
そこに座っていたのは、間違いなく増田裕だった。友子は急いで座敷に入り、急いでふすまを閉めた。
「来てくれてありがとう!」
ご挨拶をするよりも、言葉が先に出てしまった。
「今度はもう少し近くに来てね!」
と、彼の手を引っ張って座敷の中心部に座らせ、自分もその隣に座った。
「しきたりも何もどうでもいいの。こないだの面白い話の続きを聞かせてよ!」
彼女の途方もない退屈を、解消してくれる唯一の手段だ。
「いや、面白い生活はしていませんよ。」
「どうしてよ。あなたが、そうして聞かせてくれるのが、あたしにとっては一番楽しいんだから。」
こればっかりは本当だ。狭い女郎屋で暮らしていると、もう何十日も外の空気を吸っていない。裕は、少し困ってしまったようだ。
「そうですけど、なんでそんなに両替屋の話を聞きたがるんですか。両替屋なんてつまらない商売は、縁もゆかりもないでしょうに。」
「今日はおかしいわね。」
と、友子は言った。
「この前はあれだけ楽しそうにしゃべってくれたじゃない。なんで今日はそんなにつらそうなのよ。何か悪いことでもあったの?悪いことであってもあたしは聞くわよ。だって、毎日同じものを見て、毎日同じことしかしない生活なんて、苦痛で仕方ないんだから!それを解消してくれるのは、誰かとしゃべるしかないでしょ。」
「そうですか。」
裕がそんなことを言う。
「外、出てみたいですか。」
「勿論。こんな窮屈で退屈な場所、早く出たいわ。ほかの子は、もう少ししたら故郷へ帰るっていう子もいるけどさ、あたしはすでに、故郷では厄介者だから、帰れないし、どうせお針かやり手になるしかないでしょうしね。」
確かにそうなることは確実と言われている。友子も、もうすぐ女郎としての契約は終了するときが近づいていた。
「そうですか。外へ出たら、何をしたいですか?」
「そうね、まず、あたしが一番尊敬する馬琴先生の署名がほしい。」
「なるほどね。」
裕は、少し考えて、こう切り出した。
「じゃあ、出てみますか?」
一瞬ぽかんとした。
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