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第一話 奇妙な嫁がやってきた
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第一話 奇妙な嫁がやってきた
「外、出てみますか。」
「そんなこと。」
ありえない、と言いかけて、友子は止めた。
「やっぱり、無理ですか。」
裕はとても残念そうに、ため息をついた。
「そうですよね。こんな人間の下へきても仕方ないか。」
「身請けしてくれるの、、、?」
恐る恐る聞いてみると、
「はい。」
何という幸運だと思った。信じられないじゃないか。外へ出られるばかりか、気になる人の下へ行けるのだ!
「本当?」
「勿論、こんな人間でよろしければの話ですけどね。」
確かにそうである。身請けするというのは、即ち妻にするという事であるから、そういうことなのである!
「まあ、無理なものは無理か。」
友子が考えていると、裕は、あきらめてしまったようで、顔を友子からそらしてしまった。
「わ、わかった!行く!絶対行く!」
隣の部屋にも聞こえるほどのでかい声で友子は言った。
「あ、あ、ありがとうございます。」
「こっちのセリフよ。じゃあ、やり手のおばちゃんと、女将さんにすぐに言って、、、。」
「本当に気が早いですね。二階回しさんに注意されたらそれこそ、一生出られないでしょ。」
「そうだっけね。すみません。」
ちなみに二階回しとは、勤務中に脱走するものがいないかどうかを監視する役の事である。
「でも、うれしいわあ。これでこの面倒な伊逹兵庫も取れるし、八文字もやめて、普通に歩けるし、こんなに面倒くさい格好をして毎日過ごす必要もないんだあ!」
可能であれば、万歳をしたいくらいだった。重たい伊逹兵庫のせいでそれはできなかった。
「そうですか。よほど嫌だったわけですか。」
「あったりまえよ!こんなところで一生過ごすなんてさ、もう、牢獄にいるのと同じような物じゃないの!やった!うれしい!もう、最高!」
と、いいつつ、彼女は頭についている、鼈甲の櫛と、左右に六本挿されているかんざしなどをすべてとって畳の上に放り投げ、文金高島田の髪もほどいた。そうなると、女郎というよりまだあどけない少女という感じの顔つきになった。そして、重たい着物も、帯もいろんな飾り物もすべて脱ぎ、長じゅばんだけの姿になった。
「なんだ、そのほうがよっぽどかわいいと思います。」
「そうでしょ。このほうがわたしらしくてよほど楽なの。」
「なるほど。」
「こうなると、美人ではないといわれることもあるようだけど、どうなのよ。変な道具に頼らないで、そのままの私を、一回見てから連れてかえって。」
これだけはどうしても確認してもらいたかった。身請けしてもらって、外へ出られても容姿の頼りなさから捨てられてしまった女性の話を友子は文書で知っていた。
「気にしないでいいんじゃないですかね。だって、外の世界では、他人と美しさを競う必要もないんですから。」
こういわれると、ちょっと女性の人権侵害的な発言と思われてしまうかもしれないが、友子はこれを聞いて納得した。まさしくその通りだ。もう男を何人相手にしたとか、そういう事をする必要もないんだ。そう考えると、やっと長年無理やり背負わされてきた大荷物が、ここで全部消えてなくなったような気がした。
「ばんざーい!」
やっとこれでバンザイができた。バンザイができたのは何年ぶりか。こうなると、女性というより、好奇心でいっぱいの単なる子供というほうがいいだろう。わざと大人っぽくふるまうのは、彼女は嫌いだった。これでやっと、ありのままの姿を見せられるんだ!これ以上の喜びはない。
翌日。彼女は女将さんに裕を紹介し、身請けをお願いしたと申し入れた。彼女を担当していた女衒もすでに存在していなかったので身請けの手続きは意外に簡単にすんでしまった。彼女が女郎屋を出ていくと聞いて、彼女を身請けした人物は、よほどの美男子であって、すごい金持ちだろうと新造たちは噂したが、ただの両替屋と聞いて馬鹿笑いしていた。他の女郎たちは、おつけの散茶にはただの両替屋がふさわしいと言って大いに馬鹿にし、中には嫌がらせをしたこともあったが、友子はそういう事は平気だった。と、いうより、慣れていた。
数日後、いよいよ友子が新吉原を出ていく日が来た。彼女にまつわる諸経費の支払いも完了した。基本的に身請けされたものが出ていくときは、彼女に使えてきた新造たちと禿達はもちろんの事、そのほかの女郎たちや女将さんを含めた女郎屋の従業員たちに、派手に見送られて退店するのがお決まりになっているが、友子が出ていくときは誰も見送りには来なかったし、引き出物も何一つ来なかった。理由はただ一つ。「とがった耳の気持ち悪いがりがりの両替商」を誰も見たくないという物である。
その裕も、身請けした女性を連れていくための籠や馬などを用意することはできず、仕方なく一人で細々と西門にやってきた。西門の前に、ごく一般的な着物に黒く長い髪をポニーテール様に束ねた、化粧気も何もない女性が一人立っていて、主人の来るのを待っていた。主人が軽く頭を下げて紐のように細い右手を差し出すと、夫人は幼い子供みたいな笑顔でそれをつかみ、二人そろって新吉原を後にした。後ろでは、女郎たちが今日も男たちの噂話をしながら、本日の業務について話をしている声が聞こえてくるのみだった。いわゆるお見送りの言葉である、「御機嫌様」も聞こえてこなかった。
友子と裕は、数日の旅を経て、日野宿にやってきた。日野は、江戸市内に比べると、まだ水田がたくさん残っているかなりの田舎町であった。田んぼで農作業をしているお百姓さんたちは、二人がやってくると農作業をやめ、開いた口がふさがらないという顔をして二人が歩いていくのを見つめていた。中には持っていた鎌を落として、けがをしそうになったものもいる。
「あんれまあ、とんがり耳のがりがり兄ちゃんが、綺麗な嫁さんを連れて帰ってきた。あんな綺麗な嫁さんで、苦労をさせてぶすになってしまわねばいいが、、、。」
百姓と一緒に作業をしていた庄屋の爺さんが、そう呟くと、
「あたしはあたしだもの。ぶすにはならないわよ。」
友子が返したので、なんという耳聡い女だと皆びっくりしてそれきり黙った。
しばらく田園地帯が続くと大規模な寺院があって、いわゆる高幡不動だとわかった。その近くに小規模ながら商店街があり、その一角にある小さな建物が「質と両替の増田屋」であった。
「まあ、お入りくださいませ。何もないところですけど。」
裕が正面玄関から友子を中へ招き入れた。と、中では主人の増田誠一が、腕組みをして立っていた。
「お父さん、ただいま帰りました。」
「裕!しっかり留めそで新造を連れて帰ってきただろうな!」
いかにも頑固おやじを想像させる口調で、女性であれば怖がってしまうと思われるような言い方だった。
「違います。あたしは、新造ではなく散茶をしていました。源氏名は古花と呼ばれていましたが、本名は友子です。」
友子は、全く悪びれた様子もなく、軽く頭を下げて自己紹介した。
一方の寿々子は、もう裕は帰ってこないかと思っていたようで、裕の声を聞いて急いで玄関に駆け寄ってきた。
「裕、帰ってきたの!」
「はい。」
「ああ、よかった!お父さん、もう許してあげましょうよ。なんか食べたいものでもある?」
どうやら、母は嫁を連れてくるのではなく、限界を感じて帰ってきたのだと思っているらしい。一緒にいた女性を見て一層驚いていた。
「初めまして!私、増田友子です!」
「そ、そうですか、、、。」
「お母様、どうなさったのですか、私、それほど変な風に見えるかしら。」
寿々子は、彼女の並外れた美貌から、おそらく一般的な娘ではなく、かといって使えない留めそで新造でもなく、もっと階級の高い遊女であるとすぐに確信した。いつも容姿の事でさんざん周りの悪童に馬鹿にされてきた泣き虫の長男が、こんなきれいな女性を連れてくることはまずありえない話だと思った。と、同時にある種の感情、つまり、彼女への同情心というか、文字では表せないけれど、何かの感情が現れた。それは、障碍者という物をもっている親でなければ、絶対に感じることはできない「勘」であった。
「いいえ、友子さん。うちの裕がどうやって連れてきたのかわからないですけど、」
「ええ、歩いてきました。籠も何もなかったから。」
ああ、なるほど。そういう答え方をするのなら、彼女もやはりそうか。と、頭の中で考えながら、寿々子は笑顔を作った。
「どうもありがとう。見ての通り、奇妙な体をした息子ではありますが、どうぞ、支えてやってくださいませ。」
「ええ、お母様。ありがとうございます。気にしないでください。私だって、百姓時代は、なんの使い物にもならんと言われて、女衒に出されるしか選択肢がなかったので。」
「なるほど。どうして何も使い物にならないと言われたんですか。」
「知りません。私はただ、農作業をしていると、頭の中からいろんな考えがわいてくるのです。それを実行しているだけなのに、周りの人は口をそろえて馬鹿と言っていました。なぜみなそういうのか、女衒さんに聞いてみましたが、自身で考えてみろと言われるだけで、答えはありませんでした。」
まるで演説をするようなしゃべり方だった。これを理解してもらうには、やっぱり相当な覚悟がないとだめだと寿々子は思った。
「廓にいたころも、やっぱり馬鹿にされていたけど、楽しかったのは、お箏の演奏と、曲亭馬琴先生の書物を読むことでした。」
さらに友子は演説を続けるつもりらしい。これには、父の誠一も驚いたようであったが、
「そうかそうか。友子さん、幸い日野は田舎だから、みんなのんびりしているし、馬鹿にする人は少ないよ。友子さんに聞いてみるが、廓から解放されて、一番してみたいことはあるかな?」
と、聞いてみると、
「はい!曲亭馬琴先生の署名をもらうことです!子供のころからの憧れでした!」
と返ってきた。馬鹿と呼ばれてきたのに、比較的解読が難しいといわれる曲亭馬琴の読本を愛読していたと聞いて、誠一は驚いた。
「お箏では何が得意なの?」
寿々子が聞くと、
「五段砧が一番好きです。あれに勝る楽曲はないと思います。」
と、いう事は大師範に匹敵する腕を持っていることもわかる。
誠一と寿々子は顔を見合わせて、何か考えるような顔をした。しばらく沈黙が流れたが、二人は、やっと微笑んで、
「よし、二人とも中へ入れ!家族として迎えよう!」
と、誠一が宣言した。一番緊張していたのは裕で、この宣言の直後に大きなため息をついた。
「あんたたち、どうせ道中ろくなもの食べてこなかったでしょう。だからいいもの作っておいた。」
「な、なんですか。お母さん。」
「裕が好きだったそば。」
「どんなそばですか。十割とか、二八とかいろいろあるでしょう。他にも更科とか山芋をつかった田舎そばなんかもあるじゃない。ただのざるそばだけでなく、鴨せいろとか狸とか食べ方もいろいろありますでしょう。月見そば、とろろそば、なめこそば、最近では南蛮そばなんてものもありますよね。そのほか京のほうでは、卓袱そばなんてものもあるそうですよ。まあ、私は、落語の『時そば』で聞いただけで、卓袱そばというものはいただいたことないですけど。」
「友子さんは、そうやって演説をするのが得意なんだなあ。」
誠一が、首をひねりながら、珍しげに言った。
「まあいいじゃないですか。きっとこれのせいで、大変な目に会ったことだってまれではないでしょうから。もしかしたら、こういうところが、女郎屋に行かされた原因なのかもしれませんよ。友子さん、今日は、おめでたい日でもあるんだから、海老天をたくさん買ってきておいたの。そばは宇多川先生が持ってきてくれた。」
寿々子は笑顔のまま、答えを出した。
「宇多川先生ってどこの人なんですか?」
「僕が、趣味的にそば打ちを習いに行っているんです。その先生ですよ。」
裕がちょっと恥ずかしそうに言った。
「そうなのね。私もご挨拶に行かなくちゃね。」
「はい、具体的に日付を決めていきましょう。」
「ご飯にしましょ。伸びちゃうわ。新五郎たちも帰ってくると思うから、、、。」
「はい!よろしくです!」
友子は、簡単に増田家の敷居をまたいでしまったのである。そのまま裕に連れだって、増田家の座敷まで招かれた。この時世、男性が上座で女性が下座に座るのがあたりまえであるが、
なぜかこの家では、男女混ざって着席することを許されていた。
「さあどうぞ。」
友子は寿々子の案内で、指定された座布団に座った。すぐに寿々子が彼女の前に、豪華な天ぷらそばを乗せたお膳を置いた。
「いただきまあす!」
すぐに箸をとって、そばにかぶりついた。そばはけたたましくずるずると音を立てた。
「うまい!硬くもなく、柔らかくもなく、ちょうどいい加減です。さすが宇多川先生と呼ばれるだけありますね。初めて食べた私でも、こんなにおいしいんですからね。」
さらにそばがずるずると音を立てて、あっという間に皿からなくなってしまった。
「おかわりあります?」
「はいはい。ありますよ。今もって来ますから。お待ちくださいね。」
皆がぽかんとしている中、寿々子だけが一人にこにこしていた。
「おい、お前、本当に江戸から連れてきたんだろうな。」
誠一がこっそり裕に話しかけるほど、彼女の食べ方は豪快で、とても女郎には見えなかったのである。
「当り前じゃないですか。身請けしてもらった時の書類もあるんです。それに私、もう散茶ではなくなったのですから、本来の食べ方をしていいんじゃありませんか?」
誠一は、彼女に聞こえないように言ったつもりだったのに、すべて聞こえていたのかと、また驚いてしまった。
「あんな窮屈な食べ方は、二度としたくありませんから。」
さらにものすごい勢いで友子はそばを食べていた。
「よく食べますね。もうお代わりですか。数えてみるともう四杯、、、。」
「はいはい。よく食べるのは健康的な証拠ですよ。また持ってきますから、納得するまで食べて頂戴ね。」
態度を変えないのは寿々子だけである。
「少なくとも、食わず女房という言葉は、この家には当てはまらないなあ、裕。」
「そうですね。」
「あれはおとぎ話で、現実世界では存在なんかしませんわ。」
と、言いながら、友子はまだ食べていた。
「ただいま帰りました。」
玄関前から、若い男性の声がした。ここで友子は初めて食事の手を止めた。
「あれ、兄ちゃんが帰ってきた。」
「ほんとだ、、、。」
「あ、弟の新五郎と、妻の梅子さんです。」
裕が急いで説明してやると、
「友子です!どうぞよろしくお願いします!」
いきなりそれまで持っていた茶碗をどしんと置き、ぱっと立ち上がって廊下の方へすっ飛んでいった。
廊下を歩いてきた新五郎と梅子は、いきなり障子が開いて、長い髪をポニーテール様に縛った女性が飛び出してきたから、驚きに驚いて尻もちをつきそうになったほどである。
「初めまして!私、お兄さんに身請けしてもらってこちらに参りました、友子と申します!今日から、お兄さんの妻になることになりました。できることはなんでもやって見せますから、どうぞよろしくお願いします!」
廊下にいた二人は、機関銃のように口を継いで出る声に圧倒されてしまい、何も返答できなかった。
「ほら、新五郎も梅子さんも、中へ入りなさいな。今、そばを持ってきますから。」
「は、はい。」
新五郎は、やっとこれだけ発言して、石のように固まってしまっている梅子を連れて中に入った。友子は二人が入るのを見届けると、障子を閉めて、また自分の膳に戻り、四杯目のそばをずるずると食べ始めた。
「す、すごい。綺麗な人であると思ったが、食べ方はまるで、虎のように見える。」
新五郎が思わずつぶやくと、
「虎なんかじゃありません。人間の女性ですよ。この顔を見れば虎ではないじゃないですか。虎みたいに、体に縞模様があるわけではありませんから。」
友子は、そばを食べながらそう答えるのであった。
「はあ、まさしく奇妙な嫁だ。この家には、奇妙な女性がやってきたぞ。容姿は確かに美しいが、態度も食べ方も、何から何まで全く違う。」
誠一が、驚いているほかの人たちを代表するように言った。梅子はなんだか下品だという顔をしている。
「奇妙なんて、廓の世界のほうがもっと窮屈で、制限ばかりで、私にとっては奇妙なことばかりでした。そとの世界のほうが、ありのままの自分でいることができるわけですから、よっぽど幸せなのではありませんの!」
「確かに、そばを食べている友子さんは、よほど幸せそうです。」
ここでも一番緊張しているのは裕のようである。
「そうですよ。それに、こういう人は、きっと私たちが知らないことを知っているのでしょうから、何か伝えてくれる可能性もありますよ。新五郎も梅子さんも、仲良くしてあげて頂戴ね。」
「は、は、はい、わかりました、、、。」
「じゃあ、皆もご飯にしましょうね。」
寿々子の合図で、他の人たちもそばを食べ始めたが、とても味わって食べる気分ではなかった。
食事が終わると、彼女は裕が用意してくれた、小さな部屋に移動した。と言っても、本来は八畳間で決して狭い部屋ではないのだが、大量に置かれた書物のせいで狭く見えてしまうのである。しかも、巻数はまるでバラバラで、中には第一巻から最終巻までそろっていない書物もある。それに、彼女はこれらの書物を第一巻から最終巻まで規則正しく並べるということは全くできないと言っていいほどできないのであった。例えば彼女が大好きな書物の一つである「好色一代男」は全八巻からなり、彼女はすべて所持しているが、一巻の次に二巻を置くことはどうしてもできないので、一巻の次に四巻が置かれ、その次に二巻が置かれるという順番になっている。
それまでに刊行されている読み物をまとめた「合巻」も多数所持しているが、最初の一巻だけもっているか、途中巻だけを単独でもっていることもあり、全巻所持している合巻は少なかった。そして、大好きな「南総里見八犬伝」は、106冊すべて持っていた。
友子は書物だけではなく、箏の楽譜も多数所持していた。同じ曲でも、少なくとも五冊はそろえていた。梅子が、それらの書物や楽譜のせいで、天上を破るのではないかと心配したほどである。梅子は、この大量の書物を、せめて巻数ごとにしっかり整理したらどうかと友子に進言したが、友子にはできなかった。事実、それをするように部屋へやられても、書物のタイトルを見ればすぐに読みたくなって、ぱかんと開いて何十分も読んでしまうのである。
それを繰り返していると、どこからか不思議な音色が聞こえてきた。箏に似ているが、ちょっと違う不思議な音色。しかも、生まれて初めて聞く、明るい旋律。
すぐに本の整理をやめて、彼女は立ち上がって音のする方に行ってみた。廊下を歩いてある小さな部屋の前に来ると、音はそこからすることがわかった。友子は失礼しますとも何も言わないで勝手に障子を開けてしまった。
中に入ると、裕がある楽器の前に正座して座り、その不思議な旋律を弾いているのであった。
「裕さん。」
裕は、それを弾く手を休め、友子の方を向いた。彼女はそれを許可だと思い込んでしまったのか、ドスンとその隣に正座した。
「なんですか。」
「尋ねるのは私よ。それなんていう楽器?」
「須磨琴ですよ。」
興味深そうに彼女はその楽器を見つめた。四尺くらいの一枚板に、一本だけの絃を貼っただけの簡素なものである。
「こんな粗末な楽器にそんなきれいな名前が?」
「ええ。その昔、在原行平という人が須磨に左遷されたときに発明したそうで。」
「なるほど、そういう意味か!いま弾いていたその曲はなんていうのよ。」
「ああ、これですか。僕が幼いころ、父の都合で数年だけでしたけど、長崎の出島で働いていたことがあったんです。その時に西洋の方々がよくやってた曲で。書いた人の名はとても長くて覚えられませんでしたけど、題名と内容を楽譜に書いておきました。あまりに綺麗だったので、忘れられなかったんですよね。」
そう言って、裕は楽器の前に置かれている書籍を友子に見せてくれた。表紙に書かれているタイトルは意外に短く「かのん」の三文字だけだった。
「でも、西洋の楽器はすごいですね。箏よりずっと大きくて、弦も何十本とあって、直に指ではじくのではなく、キーと呼ばれるところを押せば、音が鳴るようにできてるんですね。それに、左手で絃を押すとか、勘所を押さえる必要がなく、左手と右手で複数の旋律を奏でることもできるんです。確か何とかコードという。つまり一人で本手と替手を弾くことが可能になるんですね。それに、このかのんという音楽は、ただの八つの音を順に並べたものを繰り返すだけなのに、ちゃんと旋律が成立するようにできている。あ、失礼、難しいですかね。」
「それを聞いてみたいわね。ただの八つの音。」
「まあ、こういう事です。」
裕は、右手の人差し指にはめた爪のようなもので、須磨琴の絃をはじいた。
いわゆる、通奏低音というものである。
「これに先ほどの旋律がはまるわけ?」
確かに信じられないほど地味な物だった。
「はい、そうなんです。この八つの音を28回繰り返している間に、旋律が乗ります。聞いたときは、目の玉を石でぶたれたくらい衝撃的でした。まあ、そんなものを勘定しても、きっと理解なんかされないだろうなと父には言われました。」
「いいえ、すごく面白いわ。何よりも曲がきれいだから、感動する。」
友子は正直に感想を言った。
「そうですか。ありがとうございます。これに関しては、誰にもほめていただいたことはありません。父からは、西洋音楽を弾いているのを、役人にばれたらいけないと言われますし、比較的寛大であった母もそれだけはやめておけと言います。でも、何か忘れられない旋律で、思い出してはこうして弾いているんですけど、日本の楽器では、悲しいことに、一人で基本の音と、旋律を並べることができないので、、、。」
「じゃあ、二人でやってみる?」
友子はそういってみた。
「私、箏持ってくるわ。今の音であれば、たぶん楽調子であれば。」
「でも、楽譜など。」
「いらないわ。覚えたから。」
「そうですけど、楽譜は必要なのでは、」
言い終わるより早く、友子は猪突猛進で部屋から出て行ってしまっていた。
すぐに彼女は箏をもって戻ってきた。すでに、指には爪を付けて、箏には柱がはまっていた。断りもなく彼の隣に箏を置き、その前に座って手早く楽調子を作り、
「たぶんこれでいいでしょう。」
と、弦をはじいて通奏低音を出した。
「よく再現できますね。さすがに五段砧を弾くとなると違うのかな。」
「そんなことは関係ない。じゃあ、これを28回繰り返すから、そこの書物にある曲を弾いて頂戴。」
友子は弦をはじいて通奏低音を弾いた。裕もそれに乗ってメロディを弾き始めた。それはなんとも言えない美しい曲で、絶対に日本社会ではありえないという響きもあり、そして、誕生を祝うようなメロディでもあり、逆に愛しい人を送るときにも使えそうな非常に重たいメロディでもあった。
その音は、障子を隔てて隣の部屋に漏れてきた。隣の部屋では誠一と寿々子が、お茶を飲みながら何か話していた。
「あの二人は似合いの夫婦になりますよ。」
寿々子が、苦笑いを浮かべてそういうと、
「そうだな。全く、裕がいつまでも意気地なしなので、それを何とか直そうと、ああいう事を言ってしまったんだが、もう、裕を変えることはできないだろうなとあきらめていた。でも、彼女であれば、それを何か変えてくれるかもしれないぞ。」
誠一も寿々子に同意したようである。
「まあね、あの子のような子を変えてくれるのは、ああいう女性じゃないと、ダメかもしれませんよ。だって、どんなに私たちが変わってやろうと思っても、裕のような体にはなれないじゃありませんか。きっと、ああいう体であるからこそ、苦しんだことは何度もあったでしょうし。」
「そうだな。裕は外見がほかのものと違っているが、友子さんは内面がほかのものと違っている。」
誠一は、もっともらしいことを言った。
「そうですそうです。違っているところを持っている人は、やっぱり、どこか違っているところを持っている人を探さないと、立ち直れません。それは、数多くの書物にも書いてあるし、芝居何かでも言われているじゃないですか。だから、私たちではだめなんですよ。まあ、裕が、どうやって彼女を身請けして、こっちへ連れてきたのかは知らないですけど、偶然起きたことと言いますものは、重大な道を作ってくれるきっかけになることもありますしね。これで、あの子が、もう少し、世の中に対して前向きになってくれるといいですね。」
「それはきっと、友子さんにも言えるんだろうな。きっと彼女も、自分では気が付いていないかもしれないが、ずいぶん周りから冷たいセリフを言われてきたのではないかな。それで、あんなに大量の書物を読んでいたのかもしれないし。まあいいさ、これから、二人とも、互いに刺激しあう存在ができたわけだから、少しずつ前向きになってくれることだろう。わしらは、それをしっかり支えて、見守ってやろうな。」
「そうですね。そして私たちも、変わっていくのかもしれないですしね。」
なおも、須磨琴と箏の音色は、障子を隔てて聞こえてくるのであった。
「外、出てみますか。」
「そんなこと。」
ありえない、と言いかけて、友子は止めた。
「やっぱり、無理ですか。」
裕はとても残念そうに、ため息をついた。
「そうですよね。こんな人間の下へきても仕方ないか。」
「身請けしてくれるの、、、?」
恐る恐る聞いてみると、
「はい。」
何という幸運だと思った。信じられないじゃないか。外へ出られるばかりか、気になる人の下へ行けるのだ!
「本当?」
「勿論、こんな人間でよろしければの話ですけどね。」
確かにそうである。身請けするというのは、即ち妻にするという事であるから、そういうことなのである!
「まあ、無理なものは無理か。」
友子が考えていると、裕は、あきらめてしまったようで、顔を友子からそらしてしまった。
「わ、わかった!行く!絶対行く!」
隣の部屋にも聞こえるほどのでかい声で友子は言った。
「あ、あ、ありがとうございます。」
「こっちのセリフよ。じゃあ、やり手のおばちゃんと、女将さんにすぐに言って、、、。」
「本当に気が早いですね。二階回しさんに注意されたらそれこそ、一生出られないでしょ。」
「そうだっけね。すみません。」
ちなみに二階回しとは、勤務中に脱走するものがいないかどうかを監視する役の事である。
「でも、うれしいわあ。これでこの面倒な伊逹兵庫も取れるし、八文字もやめて、普通に歩けるし、こんなに面倒くさい格好をして毎日過ごす必要もないんだあ!」
可能であれば、万歳をしたいくらいだった。重たい伊逹兵庫のせいでそれはできなかった。
「そうですか。よほど嫌だったわけですか。」
「あったりまえよ!こんなところで一生過ごすなんてさ、もう、牢獄にいるのと同じような物じゃないの!やった!うれしい!もう、最高!」
と、いいつつ、彼女は頭についている、鼈甲の櫛と、左右に六本挿されているかんざしなどをすべてとって畳の上に放り投げ、文金高島田の髪もほどいた。そうなると、女郎というよりまだあどけない少女という感じの顔つきになった。そして、重たい着物も、帯もいろんな飾り物もすべて脱ぎ、長じゅばんだけの姿になった。
「なんだ、そのほうがよっぽどかわいいと思います。」
「そうでしょ。このほうがわたしらしくてよほど楽なの。」
「なるほど。」
「こうなると、美人ではないといわれることもあるようだけど、どうなのよ。変な道具に頼らないで、そのままの私を、一回見てから連れてかえって。」
これだけはどうしても確認してもらいたかった。身請けしてもらって、外へ出られても容姿の頼りなさから捨てられてしまった女性の話を友子は文書で知っていた。
「気にしないでいいんじゃないですかね。だって、外の世界では、他人と美しさを競う必要もないんですから。」
こういわれると、ちょっと女性の人権侵害的な発言と思われてしまうかもしれないが、友子はこれを聞いて納得した。まさしくその通りだ。もう男を何人相手にしたとか、そういう事をする必要もないんだ。そう考えると、やっと長年無理やり背負わされてきた大荷物が、ここで全部消えてなくなったような気がした。
「ばんざーい!」
やっとこれでバンザイができた。バンザイができたのは何年ぶりか。こうなると、女性というより、好奇心でいっぱいの単なる子供というほうがいいだろう。わざと大人っぽくふるまうのは、彼女は嫌いだった。これでやっと、ありのままの姿を見せられるんだ!これ以上の喜びはない。
翌日。彼女は女将さんに裕を紹介し、身請けをお願いしたと申し入れた。彼女を担当していた女衒もすでに存在していなかったので身請けの手続きは意外に簡単にすんでしまった。彼女が女郎屋を出ていくと聞いて、彼女を身請けした人物は、よほどの美男子であって、すごい金持ちだろうと新造たちは噂したが、ただの両替屋と聞いて馬鹿笑いしていた。他の女郎たちは、おつけの散茶にはただの両替屋がふさわしいと言って大いに馬鹿にし、中には嫌がらせをしたこともあったが、友子はそういう事は平気だった。と、いうより、慣れていた。
数日後、いよいよ友子が新吉原を出ていく日が来た。彼女にまつわる諸経費の支払いも完了した。基本的に身請けされたものが出ていくときは、彼女に使えてきた新造たちと禿達はもちろんの事、そのほかの女郎たちや女将さんを含めた女郎屋の従業員たちに、派手に見送られて退店するのがお決まりになっているが、友子が出ていくときは誰も見送りには来なかったし、引き出物も何一つ来なかった。理由はただ一つ。「とがった耳の気持ち悪いがりがりの両替商」を誰も見たくないという物である。
その裕も、身請けした女性を連れていくための籠や馬などを用意することはできず、仕方なく一人で細々と西門にやってきた。西門の前に、ごく一般的な着物に黒く長い髪をポニーテール様に束ねた、化粧気も何もない女性が一人立っていて、主人の来るのを待っていた。主人が軽く頭を下げて紐のように細い右手を差し出すと、夫人は幼い子供みたいな笑顔でそれをつかみ、二人そろって新吉原を後にした。後ろでは、女郎たちが今日も男たちの噂話をしながら、本日の業務について話をしている声が聞こえてくるのみだった。いわゆるお見送りの言葉である、「御機嫌様」も聞こえてこなかった。
友子と裕は、数日の旅を経て、日野宿にやってきた。日野は、江戸市内に比べると、まだ水田がたくさん残っているかなりの田舎町であった。田んぼで農作業をしているお百姓さんたちは、二人がやってくると農作業をやめ、開いた口がふさがらないという顔をして二人が歩いていくのを見つめていた。中には持っていた鎌を落として、けがをしそうになったものもいる。
「あんれまあ、とんがり耳のがりがり兄ちゃんが、綺麗な嫁さんを連れて帰ってきた。あんな綺麗な嫁さんで、苦労をさせてぶすになってしまわねばいいが、、、。」
百姓と一緒に作業をしていた庄屋の爺さんが、そう呟くと、
「あたしはあたしだもの。ぶすにはならないわよ。」
友子が返したので、なんという耳聡い女だと皆びっくりしてそれきり黙った。
しばらく田園地帯が続くと大規模な寺院があって、いわゆる高幡不動だとわかった。その近くに小規模ながら商店街があり、その一角にある小さな建物が「質と両替の増田屋」であった。
「まあ、お入りくださいませ。何もないところですけど。」
裕が正面玄関から友子を中へ招き入れた。と、中では主人の増田誠一が、腕組みをして立っていた。
「お父さん、ただいま帰りました。」
「裕!しっかり留めそで新造を連れて帰ってきただろうな!」
いかにも頑固おやじを想像させる口調で、女性であれば怖がってしまうと思われるような言い方だった。
「違います。あたしは、新造ではなく散茶をしていました。源氏名は古花と呼ばれていましたが、本名は友子です。」
友子は、全く悪びれた様子もなく、軽く頭を下げて自己紹介した。
一方の寿々子は、もう裕は帰ってこないかと思っていたようで、裕の声を聞いて急いで玄関に駆け寄ってきた。
「裕、帰ってきたの!」
「はい。」
「ああ、よかった!お父さん、もう許してあげましょうよ。なんか食べたいものでもある?」
どうやら、母は嫁を連れてくるのではなく、限界を感じて帰ってきたのだと思っているらしい。一緒にいた女性を見て一層驚いていた。
「初めまして!私、増田友子です!」
「そ、そうですか、、、。」
「お母様、どうなさったのですか、私、それほど変な風に見えるかしら。」
寿々子は、彼女の並外れた美貌から、おそらく一般的な娘ではなく、かといって使えない留めそで新造でもなく、もっと階級の高い遊女であるとすぐに確信した。いつも容姿の事でさんざん周りの悪童に馬鹿にされてきた泣き虫の長男が、こんなきれいな女性を連れてくることはまずありえない話だと思った。と、同時にある種の感情、つまり、彼女への同情心というか、文字では表せないけれど、何かの感情が現れた。それは、障碍者という物をもっている親でなければ、絶対に感じることはできない「勘」であった。
「いいえ、友子さん。うちの裕がどうやって連れてきたのかわからないですけど、」
「ええ、歩いてきました。籠も何もなかったから。」
ああ、なるほど。そういう答え方をするのなら、彼女もやはりそうか。と、頭の中で考えながら、寿々子は笑顔を作った。
「どうもありがとう。見ての通り、奇妙な体をした息子ではありますが、どうぞ、支えてやってくださいませ。」
「ええ、お母様。ありがとうございます。気にしないでください。私だって、百姓時代は、なんの使い物にもならんと言われて、女衒に出されるしか選択肢がなかったので。」
「なるほど。どうして何も使い物にならないと言われたんですか。」
「知りません。私はただ、農作業をしていると、頭の中からいろんな考えがわいてくるのです。それを実行しているだけなのに、周りの人は口をそろえて馬鹿と言っていました。なぜみなそういうのか、女衒さんに聞いてみましたが、自身で考えてみろと言われるだけで、答えはありませんでした。」
まるで演説をするようなしゃべり方だった。これを理解してもらうには、やっぱり相当な覚悟がないとだめだと寿々子は思った。
「廓にいたころも、やっぱり馬鹿にされていたけど、楽しかったのは、お箏の演奏と、曲亭馬琴先生の書物を読むことでした。」
さらに友子は演説を続けるつもりらしい。これには、父の誠一も驚いたようであったが、
「そうかそうか。友子さん、幸い日野は田舎だから、みんなのんびりしているし、馬鹿にする人は少ないよ。友子さんに聞いてみるが、廓から解放されて、一番してみたいことはあるかな?」
と、聞いてみると、
「はい!曲亭馬琴先生の署名をもらうことです!子供のころからの憧れでした!」
と返ってきた。馬鹿と呼ばれてきたのに、比較的解読が難しいといわれる曲亭馬琴の読本を愛読していたと聞いて、誠一は驚いた。
「お箏では何が得意なの?」
寿々子が聞くと、
「五段砧が一番好きです。あれに勝る楽曲はないと思います。」
と、いう事は大師範に匹敵する腕を持っていることもわかる。
誠一と寿々子は顔を見合わせて、何か考えるような顔をした。しばらく沈黙が流れたが、二人は、やっと微笑んで、
「よし、二人とも中へ入れ!家族として迎えよう!」
と、誠一が宣言した。一番緊張していたのは裕で、この宣言の直後に大きなため息をついた。
「あんたたち、どうせ道中ろくなもの食べてこなかったでしょう。だからいいもの作っておいた。」
「な、なんですか。お母さん。」
「裕が好きだったそば。」
「どんなそばですか。十割とか、二八とかいろいろあるでしょう。他にも更科とか山芋をつかった田舎そばなんかもあるじゃない。ただのざるそばだけでなく、鴨せいろとか狸とか食べ方もいろいろありますでしょう。月見そば、とろろそば、なめこそば、最近では南蛮そばなんてものもありますよね。そのほか京のほうでは、卓袱そばなんてものもあるそうですよ。まあ、私は、落語の『時そば』で聞いただけで、卓袱そばというものはいただいたことないですけど。」
「友子さんは、そうやって演説をするのが得意なんだなあ。」
誠一が、首をひねりながら、珍しげに言った。
「まあいいじゃないですか。きっとこれのせいで、大変な目に会ったことだってまれではないでしょうから。もしかしたら、こういうところが、女郎屋に行かされた原因なのかもしれませんよ。友子さん、今日は、おめでたい日でもあるんだから、海老天をたくさん買ってきておいたの。そばは宇多川先生が持ってきてくれた。」
寿々子は笑顔のまま、答えを出した。
「宇多川先生ってどこの人なんですか?」
「僕が、趣味的にそば打ちを習いに行っているんです。その先生ですよ。」
裕がちょっと恥ずかしそうに言った。
「そうなのね。私もご挨拶に行かなくちゃね。」
「はい、具体的に日付を決めていきましょう。」
「ご飯にしましょ。伸びちゃうわ。新五郎たちも帰ってくると思うから、、、。」
「はい!よろしくです!」
友子は、簡単に増田家の敷居をまたいでしまったのである。そのまま裕に連れだって、増田家の座敷まで招かれた。この時世、男性が上座で女性が下座に座るのがあたりまえであるが、
なぜかこの家では、男女混ざって着席することを許されていた。
「さあどうぞ。」
友子は寿々子の案内で、指定された座布団に座った。すぐに寿々子が彼女の前に、豪華な天ぷらそばを乗せたお膳を置いた。
「いただきまあす!」
すぐに箸をとって、そばにかぶりついた。そばはけたたましくずるずると音を立てた。
「うまい!硬くもなく、柔らかくもなく、ちょうどいい加減です。さすが宇多川先生と呼ばれるだけありますね。初めて食べた私でも、こんなにおいしいんですからね。」
さらにそばがずるずると音を立てて、あっという間に皿からなくなってしまった。
「おかわりあります?」
「はいはい。ありますよ。今もって来ますから。お待ちくださいね。」
皆がぽかんとしている中、寿々子だけが一人にこにこしていた。
「おい、お前、本当に江戸から連れてきたんだろうな。」
誠一がこっそり裕に話しかけるほど、彼女の食べ方は豪快で、とても女郎には見えなかったのである。
「当り前じゃないですか。身請けしてもらった時の書類もあるんです。それに私、もう散茶ではなくなったのですから、本来の食べ方をしていいんじゃありませんか?」
誠一は、彼女に聞こえないように言ったつもりだったのに、すべて聞こえていたのかと、また驚いてしまった。
「あんな窮屈な食べ方は、二度としたくありませんから。」
さらにものすごい勢いで友子はそばを食べていた。
「よく食べますね。もうお代わりですか。数えてみるともう四杯、、、。」
「はいはい。よく食べるのは健康的な証拠ですよ。また持ってきますから、納得するまで食べて頂戴ね。」
態度を変えないのは寿々子だけである。
「少なくとも、食わず女房という言葉は、この家には当てはまらないなあ、裕。」
「そうですね。」
「あれはおとぎ話で、現実世界では存在なんかしませんわ。」
と、言いながら、友子はまだ食べていた。
「ただいま帰りました。」
玄関前から、若い男性の声がした。ここで友子は初めて食事の手を止めた。
「あれ、兄ちゃんが帰ってきた。」
「ほんとだ、、、。」
「あ、弟の新五郎と、妻の梅子さんです。」
裕が急いで説明してやると、
「友子です!どうぞよろしくお願いします!」
いきなりそれまで持っていた茶碗をどしんと置き、ぱっと立ち上がって廊下の方へすっ飛んでいった。
廊下を歩いてきた新五郎と梅子は、いきなり障子が開いて、長い髪をポニーテール様に縛った女性が飛び出してきたから、驚きに驚いて尻もちをつきそうになったほどである。
「初めまして!私、お兄さんに身請けしてもらってこちらに参りました、友子と申します!今日から、お兄さんの妻になることになりました。できることはなんでもやって見せますから、どうぞよろしくお願いします!」
廊下にいた二人は、機関銃のように口を継いで出る声に圧倒されてしまい、何も返答できなかった。
「ほら、新五郎も梅子さんも、中へ入りなさいな。今、そばを持ってきますから。」
「は、はい。」
新五郎は、やっとこれだけ発言して、石のように固まってしまっている梅子を連れて中に入った。友子は二人が入るのを見届けると、障子を閉めて、また自分の膳に戻り、四杯目のそばをずるずると食べ始めた。
「す、すごい。綺麗な人であると思ったが、食べ方はまるで、虎のように見える。」
新五郎が思わずつぶやくと、
「虎なんかじゃありません。人間の女性ですよ。この顔を見れば虎ではないじゃないですか。虎みたいに、体に縞模様があるわけではありませんから。」
友子は、そばを食べながらそう答えるのであった。
「はあ、まさしく奇妙な嫁だ。この家には、奇妙な女性がやってきたぞ。容姿は確かに美しいが、態度も食べ方も、何から何まで全く違う。」
誠一が、驚いているほかの人たちを代表するように言った。梅子はなんだか下品だという顔をしている。
「奇妙なんて、廓の世界のほうがもっと窮屈で、制限ばかりで、私にとっては奇妙なことばかりでした。そとの世界のほうが、ありのままの自分でいることができるわけですから、よっぽど幸せなのではありませんの!」
「確かに、そばを食べている友子さんは、よほど幸せそうです。」
ここでも一番緊張しているのは裕のようである。
「そうですよ。それに、こういう人は、きっと私たちが知らないことを知っているのでしょうから、何か伝えてくれる可能性もありますよ。新五郎も梅子さんも、仲良くしてあげて頂戴ね。」
「は、は、はい、わかりました、、、。」
「じゃあ、皆もご飯にしましょうね。」
寿々子の合図で、他の人たちもそばを食べ始めたが、とても味わって食べる気分ではなかった。
食事が終わると、彼女は裕が用意してくれた、小さな部屋に移動した。と言っても、本来は八畳間で決して狭い部屋ではないのだが、大量に置かれた書物のせいで狭く見えてしまうのである。しかも、巻数はまるでバラバラで、中には第一巻から最終巻までそろっていない書物もある。それに、彼女はこれらの書物を第一巻から最終巻まで規則正しく並べるということは全くできないと言っていいほどできないのであった。例えば彼女が大好きな書物の一つである「好色一代男」は全八巻からなり、彼女はすべて所持しているが、一巻の次に二巻を置くことはどうしてもできないので、一巻の次に四巻が置かれ、その次に二巻が置かれるという順番になっている。
それまでに刊行されている読み物をまとめた「合巻」も多数所持しているが、最初の一巻だけもっているか、途中巻だけを単独でもっていることもあり、全巻所持している合巻は少なかった。そして、大好きな「南総里見八犬伝」は、106冊すべて持っていた。
友子は書物だけではなく、箏の楽譜も多数所持していた。同じ曲でも、少なくとも五冊はそろえていた。梅子が、それらの書物や楽譜のせいで、天上を破るのではないかと心配したほどである。梅子は、この大量の書物を、せめて巻数ごとにしっかり整理したらどうかと友子に進言したが、友子にはできなかった。事実、それをするように部屋へやられても、書物のタイトルを見ればすぐに読みたくなって、ぱかんと開いて何十分も読んでしまうのである。
それを繰り返していると、どこからか不思議な音色が聞こえてきた。箏に似ているが、ちょっと違う不思議な音色。しかも、生まれて初めて聞く、明るい旋律。
すぐに本の整理をやめて、彼女は立ち上がって音のする方に行ってみた。廊下を歩いてある小さな部屋の前に来ると、音はそこからすることがわかった。友子は失礼しますとも何も言わないで勝手に障子を開けてしまった。
中に入ると、裕がある楽器の前に正座して座り、その不思議な旋律を弾いているのであった。
「裕さん。」
裕は、それを弾く手を休め、友子の方を向いた。彼女はそれを許可だと思い込んでしまったのか、ドスンとその隣に正座した。
「なんですか。」
「尋ねるのは私よ。それなんていう楽器?」
「須磨琴ですよ。」
興味深そうに彼女はその楽器を見つめた。四尺くらいの一枚板に、一本だけの絃を貼っただけの簡素なものである。
「こんな粗末な楽器にそんなきれいな名前が?」
「ええ。その昔、在原行平という人が須磨に左遷されたときに発明したそうで。」
「なるほど、そういう意味か!いま弾いていたその曲はなんていうのよ。」
「ああ、これですか。僕が幼いころ、父の都合で数年だけでしたけど、長崎の出島で働いていたことがあったんです。その時に西洋の方々がよくやってた曲で。書いた人の名はとても長くて覚えられませんでしたけど、題名と内容を楽譜に書いておきました。あまりに綺麗だったので、忘れられなかったんですよね。」
そう言って、裕は楽器の前に置かれている書籍を友子に見せてくれた。表紙に書かれているタイトルは意外に短く「かのん」の三文字だけだった。
「でも、西洋の楽器はすごいですね。箏よりずっと大きくて、弦も何十本とあって、直に指ではじくのではなく、キーと呼ばれるところを押せば、音が鳴るようにできてるんですね。それに、左手で絃を押すとか、勘所を押さえる必要がなく、左手と右手で複数の旋律を奏でることもできるんです。確か何とかコードという。つまり一人で本手と替手を弾くことが可能になるんですね。それに、このかのんという音楽は、ただの八つの音を順に並べたものを繰り返すだけなのに、ちゃんと旋律が成立するようにできている。あ、失礼、難しいですかね。」
「それを聞いてみたいわね。ただの八つの音。」
「まあ、こういう事です。」
裕は、右手の人差し指にはめた爪のようなもので、須磨琴の絃をはじいた。
いわゆる、通奏低音というものである。
「これに先ほどの旋律がはまるわけ?」
確かに信じられないほど地味な物だった。
「はい、そうなんです。この八つの音を28回繰り返している間に、旋律が乗ります。聞いたときは、目の玉を石でぶたれたくらい衝撃的でした。まあ、そんなものを勘定しても、きっと理解なんかされないだろうなと父には言われました。」
「いいえ、すごく面白いわ。何よりも曲がきれいだから、感動する。」
友子は正直に感想を言った。
「そうですか。ありがとうございます。これに関しては、誰にもほめていただいたことはありません。父からは、西洋音楽を弾いているのを、役人にばれたらいけないと言われますし、比較的寛大であった母もそれだけはやめておけと言います。でも、何か忘れられない旋律で、思い出してはこうして弾いているんですけど、日本の楽器では、悲しいことに、一人で基本の音と、旋律を並べることができないので、、、。」
「じゃあ、二人でやってみる?」
友子はそういってみた。
「私、箏持ってくるわ。今の音であれば、たぶん楽調子であれば。」
「でも、楽譜など。」
「いらないわ。覚えたから。」
「そうですけど、楽譜は必要なのでは、」
言い終わるより早く、友子は猪突猛進で部屋から出て行ってしまっていた。
すぐに彼女は箏をもって戻ってきた。すでに、指には爪を付けて、箏には柱がはまっていた。断りもなく彼の隣に箏を置き、その前に座って手早く楽調子を作り、
「たぶんこれでいいでしょう。」
と、弦をはじいて通奏低音を出した。
「よく再現できますね。さすがに五段砧を弾くとなると違うのかな。」
「そんなことは関係ない。じゃあ、これを28回繰り返すから、そこの書物にある曲を弾いて頂戴。」
友子は弦をはじいて通奏低音を弾いた。裕もそれに乗ってメロディを弾き始めた。それはなんとも言えない美しい曲で、絶対に日本社会ではありえないという響きもあり、そして、誕生を祝うようなメロディでもあり、逆に愛しい人を送るときにも使えそうな非常に重たいメロディでもあった。
その音は、障子を隔てて隣の部屋に漏れてきた。隣の部屋では誠一と寿々子が、お茶を飲みながら何か話していた。
「あの二人は似合いの夫婦になりますよ。」
寿々子が、苦笑いを浮かべてそういうと、
「そうだな。全く、裕がいつまでも意気地なしなので、それを何とか直そうと、ああいう事を言ってしまったんだが、もう、裕を変えることはできないだろうなとあきらめていた。でも、彼女であれば、それを何か変えてくれるかもしれないぞ。」
誠一も寿々子に同意したようである。
「まあね、あの子のような子を変えてくれるのは、ああいう女性じゃないと、ダメかもしれませんよ。だって、どんなに私たちが変わってやろうと思っても、裕のような体にはなれないじゃありませんか。きっと、ああいう体であるからこそ、苦しんだことは何度もあったでしょうし。」
「そうだな。裕は外見がほかのものと違っているが、友子さんは内面がほかのものと違っている。」
誠一は、もっともらしいことを言った。
「そうですそうです。違っているところを持っている人は、やっぱり、どこか違っているところを持っている人を探さないと、立ち直れません。それは、数多くの書物にも書いてあるし、芝居何かでも言われているじゃないですか。だから、私たちではだめなんですよ。まあ、裕が、どうやって彼女を身請けして、こっちへ連れてきたのかは知らないですけど、偶然起きたことと言いますものは、重大な道を作ってくれるきっかけになることもありますしね。これで、あの子が、もう少し、世の中に対して前向きになってくれるといいですね。」
「それはきっと、友子さんにも言えるんだろうな。きっと彼女も、自分では気が付いていないかもしれないが、ずいぶん周りから冷たいセリフを言われてきたのではないかな。それで、あんなに大量の書物を読んでいたのかもしれないし。まあいいさ、これから、二人とも、互いに刺激しあう存在ができたわけだから、少しずつ前向きになってくれることだろう。わしらは、それをしっかり支えて、見守ってやろうな。」
「そうですね。そして私たちも、変わっていくのかもしれないですしね。」
なおも、須磨琴と箏の音色は、障子を隔てて聞こえてくるのであった。
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