紫陽花と。

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第一章 白華の氷雨

脱出計画

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約五年間、逃げようと思ったことはなかった。
ひどい扱いを受けようと、私が白華に帰ることは協定が反故になることを意味する。
再び戦が起き、白華の民が傷つくことは避けたかった。
自分自身が翠に身を置き、戦が起こることを阻止できるのなら、それでいい、それが王女としてできる唯一のことだと思った。




ーーー翠に来る前日のことを思い出した。
あの日私は父母と別れの挨拶を交わした。泣きやまない母は父から先に退室させられ、部屋には私と父の二人きりになった。

「今まで大きな争いはなく、この大陸は平和だった。しかし、翠が暗君を玉座に据えてから全て変わってしまったーー。国力をつけ、翠につけいられる隙のないくらい国を建て直す。」

父は私にそう言った。

「大丈夫です、父様。王女として、国のお役に立てて光栄です」


父は大きく頷いたあと、こう続けた。

「辛いことがあっても戻ってはならない。そなたが戻るということは協定が反故になり再び民が戦禍を被ることになるということを忘れるな」

私はその言葉に、父に捨てられた気持ちになった。
私に浴びせられた言葉は、父ではなく、白華の国王としての厳しいものだった。


「はい」

父の言葉に気圧され、振り絞るように返事をした私は父をまっすぐに見つめた。涙こそ出なかったが、心は泣いていた。
大人ぶってはいたものの、まだ精神的にも幼かった私には父の言葉が重い鉛のように胸にのしかかった。


父はそんな私を知ってか知らずか、最後に私を抱きしめ、

「必ず、呼び戻す。それまで待つのだ」と。

ーーーあれは父としての言葉だったと思う。





「待てなかった私をお許しくださいーー、父様」

翠の宮殿を柊彗と共に抜け出し、真っ暗な森の中、馬を走らせながら父に懺悔する。



抜け出すのは簡単だった。
五年も暮らせば宮殿からの抜け道や勝手はわかる。
柊彗も兵士として宮殿にいたからか、夜間見回りの兵の数や配置を詳細に把握していた。


「夜明けまでにに滄国の国境までたどりつかねばーー」

私たちは白華ではなく、滄国へと向かっていた。
時間を稼ぐためだ。白華への道のりは遠く、山道が多い。山の勝手知ったる翠の軍に追われたらおそらく逃げ切れない。これは柊彗の案だった。

滄国は母上の母国ーー、王族がかくまってはくれずとも、滄国から白華へ便りを出せば父と母へ居場所を伝えられる。


今の四国の情勢を見れば、人質の私が逃げたからと言ってすぐに白華に攻め入ることはできないはず。翠王の言い草から考えても、今は争いを避けたいだろう。私が白華へ逃げ帰り、協定を反故にしたことを理由に翠は白華を非難してくるかもしれない。だが翠国で受けた屈辱を白華王に伝えることは阻止したいだろうし、私を捕らえねば逃げたという証もない。むしろ白華の王女を行方不明にしたとして、翠は監督責任を問われるはずだ。

明け方私が逃げたと翠が知れば、血眼になって探し追いかけてくるだろうーーー。





そう考えていると、前を走る柊彗の馬が速度を落とした。

「王女、もうすぐ川があります。滄国との国境につくまでに水が流れるのはここだけです。少し休みましょう」

「わかった」


私たちは川の近くに馬を置き、川の水を汲んだ。
馬にも水を与え、休ませる。

通ってきた道は木々の間で、月の光があまりささず暗かったが、ここはひらけており月の光が水面に反射して明るい。

柊彗は隣で同じように水を汲んでいる。まだ少し腫れが残っていてもなお整っている横顔が、月明かりと水面から反射した光でよく見える。



「ーー王女が十五になる前に、こうして王女を連れて逃げだそうと思ってました」


柊彗はこちらを見ず、そう呟いた。


「…どうして?」


逃げだそうと思っていたとは初耳だった。
柊彗は私が幼い時から護衛兵としてそばにいてくれた、兄のような存在だった。
翠に来てからは自由がなく叶わなかったが、白華にいた頃は毎日剣を教えてくれる師匠だった。

口数は多くないが責任感が強く、私が傷を作ると優しく手当をしてくれたり、飼っていた鳥が亡くなり一人で泣いていた時は何も言わずそばにいてくれる、そんな人だった。

翠国にきて半年程経った頃、年上女中から仕事を全て押し付けられたことを不当に思い言い返したことがあった。それが女中の神経を逆撫でしたのか、皆に押さえつけられ身体を鞭で叩かれそうになった。その時、柊彗が現れ、女中たちから助け出してくれた。

ーーーしかし、その細い割に逞しく、色白で美しい顔立ちをしている柊彗は女中たちから陰ながら人気があり、その場は凌げても私は嫉妬の的となり、さらにひどい嫌がらせをされたのだ。
そんなことが何度か続いた頃、柊彗はたまたまその現場を目撃し、それから私を助けなくなった。
私は、あぁ、これから嫉妬による嫌がらせを受けずに済むという安心した気持ちと、少し残念な気持ちが混在した。
柊彗は表立って助けない代わりに、私が一人押し付けられ仕事をこっそり手伝ったり、私が嫌がらせを受けたあとは必ず現れそばにいてくれるようになった。

私はそれだけで十分だった。



「緑士は王女が十五になった日に、側女にすると。ーーー王女が望まないかぎり、それを許すわけにはいきません」

「だけど、翠王が許さなかったのではーー?」

「ーーー…」
 柊彗は私の問いに少し口をつぐんだあと、恐ろしい言葉を口にした。

「王女が十五になる夜、緑士は王女の部屋に忍び込む計画を立てていたようです。いくら翠王でも、王女が直系の子を身籠れば無視できないと」


それを聞いた瞬間、全身から冷や汗が、じわりと出るのを感じた。

ーーーなんと汚くて卑劣な…緑士はそんな計画を立てていたなんて。

十五となるまでもう一月足らず。逃げなければ恐ろしいことになっていたと思うと怒りに身が震えると同時に寒気がした。


「ーー怖がらせてすみません」
柊彗は強張った私の表情をみて、そう言った。

「なので、王女がご自身の発言と行動に責任を感じる必要はありません。王女が今日、“二人で逃げよう“と言わずとも、私は近いうちに王女を連れて逃げるつもりだったのですから」


もともとそのつもりだったから、こんなにも用意周到だったのかーーと、合点がいった。



「ーーーありがとう」



また涙がでそうになった。
なんの見返りもなく私のそばにいてくれる柊彗が、ありがたくもあったし、失うのが恐ろしくなったーー。



「そろそろ行きましょうか」



柊彗の言葉に私は小さく頷き、微笑み返した。



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