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壺の余波
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「姫さま!」
意を決して呼びかけた。
びくっと姫は彼を見上げる。思いのほか距離が近かった。だが、どぎまぎする心は忠三郎はすでに忘れている。
「大事なるお話がございます!」
冬姫を見つめる少年の目は真剣で、そこには憧れの君の許嫁になれた喜びも、甘美の心地も垣間見えない。その双瞳には危機感さえ窺えて、冬姫は羞恥をおき捨てた。真剣な目へ、真剣に、
「何事ですか?」
彼女も居ずまいを正した。
「この御城の中に、六角の密偵がおります!」
忠三郎は声はひそめつつも、鋭い息で、周囲の空気を切り裂く。
冬姫は目をしばたたいた。
阿弥陀像の話でも、許嫁となった喜びでも述懐でもない。だが、忠三郎は天の巡り合わせを悟り、彼女に打ち明けるしかないと信じている。
「先程、奥御殿の御女中がそれがしに手渡して参りました」
忠三郎は萌葱色の文を差し出した。
冬姫は黙って受け取り、促されるまま文面に目を落とす。姫も彼のただならぬ様子に、反発もなく素直に話を聞くつもりのようだ。
一読して、冬姫は首を傾げた。
冬姫はまだ幼い。世間のことには疎いかもしれない。だが、忠三郎は彼女に賭けた。
「六角の間者から受け取ったとか?鶴殿?」
「はっ、左様でございます。鶴とは、それがしの幼名が鶴千代ゆえのこと。我が家は長らく南近江の六角家に仕えておりました。それがしは昨年、六角家が御屋形様に敗れて居城の観音寺城から落ちた時、御屋形様に降伏し、臣従の証としてご当家に参りました。しかし、御屋形様に勿体なくも烏帽子親となって頂き、忠三郎賦秀と」
冬姫は得心して頷いた。
「では、この文の主は、元服する前のあなたしか知らない人ですか?」
「左様でございます、これは井口様──六角家当主・四郎義治の奥方から、それがしに遣わされた密書でございます」
「密書というほどの内容でもないような……」
言いかけて、姫ははたと頬に手を当てた。何か思い至ったらしい。
「母の身が案じられるというけれど、母って、近江の御方のこと?」
やはり。冬姫は幼少ながらも、世間に疎くはない。しっかり教育された、国主の姫だ。忠三郎は強く肯いた。
「井口様・六角義治の内室は一色、いや斎藤左京大夫の御娘でございますれば、左様、母儀は近江の浅井氏ということになります」
斎藤義龍は十三代将軍・足利義輝より一色姓を名乗る許可を得ており、義龍・龍興父子は幕府からは一色氏とされている。だが、この織田家にあっては、一色ではなく、あくまで斎藤と称さなければならない。
一色は、斎藤道三が追い出したもともとの美濃の守護・土岐氏よりも格上であり、幕府の要職を得た六角家と同格の家だ。
六角家の家臣として、さんざん一色殿と呼び慣わしてきた忠三郎だったが、美濃から龍興を追い出した信長の今の岐阜城中のこと、斎藤と言い直した。
「では、母の身が案じられる、兄弟国衆も含めた大事というのは、先日の──」
と、冬姫はこの文が密書たる理由を考察した。
井口様こと六角家内室の父・斎藤義龍の兄弟姉妹、その婿等の美濃国衆の大事について、忠三郎はあまり詳しく知らない。忠三郎が元服して初陣を告げられた七月頃、信長が斎藤義龍の後家と揉めたという話は聞いていたが、主家の奥向きのこと、詳細まではわからないのである。
「でも、この文には近衛殿由来の書とあるけれど?」
冬姫は首を傾げる。幼いながらも、事の真相を知っている冬姫には文の内容は腑に落ちないらしい。
「どういうことでしょうか?」
「七月に一条殿がお越しになったので、急に父が思い出したのでしょう、近江の御方に壺を所望しました。それは先の稲葉山城落城時に紛失したとおっしゃったのだけれど、そんなはずはない、あるはずだと父がまた所望したので──」
ないものはないのにと、義龍の後家の近江の方は、ついには自害すると言い出した。
それを聞いた義龍の姉妹達やその夫、子などの美濃の国衆達は、信長に献上できなければ、自害しなければならない程の品であるのだから、紛失してしまった罪を詫び、切腹しなければならないだろうと、青ざめた。
信長の正室の濃姫は、父を殺した敵とはいえ、兄には違いない義龍のその後家とは、信長のもとに嫁ぐ以前から、義理の姉、妹の仲である。信長が悪いとして、昔からよく知る義姉の近江の方の肩を持った。
濃姫やその兄弟、姉妹とその夫と子達、すなわち美濃の有力者達に自害するなどと言われては、美濃に攻め住んで間もない時分、さすがの信長も和解を望み、壺は存在しないということで決着した。
すっかり和解し、今はわだかまりもない。信長と濃姫の関係も良好であるし、美濃の国衆に信長への叛心もなさそうだ。近江の方も、日々穏やかな暮らしぶりである。
近江の方の娘である井口様こと六角家の内室は、後になってその七月の揉め事を噂に聞いて、今、母は信長のもとで無事に暮らしているのだろうかと心配している、ということだろう。
一見、母を案じる孝行娘の何の問題もない文のように見える。だが、忠三郎はこれを密書だと言い、冬姫も文の内容に疑問を抱いた。
「どうして近衛殿由来の書とあるのでしょう?」
忠三郎は冬姫の眼を食い入るようにじっと見て、
「さあ、実際、近衛殿から賜ったことがあるのでは?聞くならく、斎藤家と近衛家の縁、浅からぬと。確か、近衛家の御仁が斎藤家に入られたとか。その縁でしょうか、斎藤左京大夫の娘御を近衛殿の御前に参らせるという話があった時、それを聞いた六角の先代・承禎入道が、破談にしてやると息巻いて、横槍を入れて邪魔したとか、祖父から聞いております」
「えっ?」
初耳と見えて、冬姫は目を点にした。
忠三郎、いかにも六角承禎らしいと苦笑い。
「そういう人です、六角承禎入道は」
義治の妻に対しても、斎藤家側の里女中らが一色殿、岐陽殿としても、承禎は井口と呼んだ。
「それは、ご苦労なさったのでは、ご夫君は近江の御方を案じて下さっているとのことですけれど──」
文の主の身を案じる冬姫を、忠三郎は優しいと思った。
「さような舅殿ではありますが、ご夫君はご自身で望んで進められた縁談でしたので、ご夫婦睦まじいご様子でしたよ」
「よかった」
冬姫は素直に微笑んだ。
それを見て、思わず笑顔になる忠三郎だが、でもと、そこで改まる。
「先程姫さまは、近衛殿由来ということにご不審なご様子でしたが、それがしも首を傾げているのでございます。井口様がそれがしに見せた品とのことですが、幼かった故、記憶は曖昧ながら、書ではなく壺だったと思うのです」
「壺?先日、父が近江の御方と揉めたのは、壺ですが──」
「井口様のご記憶違いかな?いやおかしいな、その御屋形様ご所望の壺というのは、どのような壺ですか、差し障りなければお教え下さい。近衛家由来の品ですか?」
「いいえ」
冬姫は頭を振った。忠三郎も昔の記憶を手繰り寄せ、思い出そうと努める。
「ですから、一条殿が」
冬姫が改めて七月の客人の話をしようとしたところで、忠三郎の記憶の糸が繋がった。
「そうです、一条殿所縁と、あの時!井口様がそれは取り澄ましておっしゃって。それで、一色氏とか近衛殿だとか一条殿とか、口惜しいことだと、陰で承禎入道が祖父を前に地団駄踏んでいたんです!それがし、よく覚えていなかったので、ご覧になったことがあるという小倉殿に確認しようかと思いましたが、そうですよ、そう、一条殿の」
「それは駄目です!」
不意に冬姫は声を上げた。
「そのお話、口になさらないで下さい。もう終わったことです、蒸し返したりしないで、父の耳には入れないで下さい」
「いや、この文がそれがしの手に渡されたということは、この御城に六角の間者がいるということですから、御屋形様にお伝えしないわけには参りませぬ」
姫の言葉は忠三郎には思いもよらないことだったらしい、姫の真意を探ろうとてか、その白い顔を覗き込んだ。
「一条殿所縁の壺は、先の戦で紛失したことになって、それで落着したのですよ。それなのに、それが六角家の手にあるなど、それも、近江の御方がご息女に持たせたなどと、それでは先日の騒動で御方が父に嘘をついたことになるではありませんか」
「御屋形様への嘘はけしからぬこと、改めて処罰となれば、それは自業自得でしょう」
「そう簡単にはいきません、近江の御方に美濃衆皆が従ったのです。近江の御方お一人のことならまだしも、美濃衆も連座したとして、今度こそ皆切腹させられます」
「ううむ」
忠三郎は考え込む。
「成る程、確かにそれこそが六角義治の狙いか」
「え?」
冬姫には忠三郎の言葉の意味がわからない。
「六角夫妻は、先日の壺の話を聞いて、これは美濃をかき乱すに格好の材料だと思ったに違いありません。この文を奥方に書かせたのは、義治でしょう」
義治の妻が、母を案じて自主的に書いたものではないだろう。
忠三郎は冬姫の眼を見て訴えた。
「井口様は、ご自分の手元にある壺が、騒動のもととなった壺と知っていた。さりとて、母上の身を危険にさらしたくはないと、敢えて近衛殿の書などと、別なことを書いた。この文がそれがしの元に届けば、それがしが未だ六角と繋がっているのではないかと、御屋形様がお疑いになる。さらに、六角と内通している者がこの御城の中にいて、それがしの元に届けたわけですから、内通者は誰だという話になる。また、文面から、井口様ばかりか義治の意志で、この文が書かれたことが想像できますから、この御城に義治と内通している者がいると暗に語っているのです」
義治の妻が自分の意志で書いたのであれば、彼女が嫁ぐ前から斎藤家に仕えていた者が今でも岐阜に多数いることから、その伝を頼りに文が届いたとて、不思議はない。文を預かった者はけしからぬが、処罰する程のことではないと、信長が見逃し、岐阜の中で騒ぎは起きない可能性もある。
一見特に問題なさそうな文だが、一つ一つの文言には深い意味が含まれており、行間をよく探る必要がありそうだ。
「この文を渡してきた者は、必ずそれがしの六角との内通をにおわせるために、何らかの工作をしてくると思います。六角はこの御城の中で騒動を起こそうとしているのですから。それがしが姫さまの許嫁となれば、なおのこと。それがしが六角と内通しているなどという噂でも出れば、御屋形様の命によって、それがしが調べられましょう。その後でこの文が出てきたら、六角と内通している証拠とされます。隠していたと見なされる前に、それがしの口から御屋形様に申し上げねばなりませぬ」
「では、どう転んでも、この文は父の目に触れることになるのですね。ということは」
と、冬姫はその後のことに思い巡らせた。
「父は近衛殿の書について、近江の御方に問い糺すのではありませんか?御方が文の内容に巧く合わせて答えても、父はあなたにも近衛殿の書とは何かと訊ねるでしょう。あなたが御方の不利益にならないように答えたとしても──」
冬姫は再び文に目を落とした。
「あなたの他にもそれを披露された人がいるのでしょう?その人にも確かめるのではないでしょうか。小倉参州の息女とは何方ですか?父に尋ねられて、その人が自分が見たのは一条殿の壺だったと答えるかもしれません」
忠三郎ははっとした。
「もしや、それがしばかりでなく、小倉殿も内通者とされるのでは!その方がより美濃は混乱する」
「え、その小倉殿ご息女から、真実が露見するということではなく?」
「それもあるのやもしれませぬ。が、文は小倉殿のところにも届いているのかも」
「その小倉殿ご息女というのは、忠三郎様がご存知の方なのですか?岐阜にいる方ですか?」
「あ、ええと」
忠三郎は信長の娘である冬姫に、少し気まずそうにした。躊躇いつつも、意志の強そうな姫の瞳に、答えないわけにはいかず。
「その、小倉家は近隣で、親族でもございます。小倉三河守殿のご息女は、近頃、御屋形様の御前に参られた御方で……」
思い得たようで、姫はああと頷いた。最近、信長の側室になったお鍋の方のことか。
「小倉の御方まで巻き込まれてしまうというのですか?」
「はい、おそらく。六角の内通者、いや、六角は甲賀を領して参りましたから、甲賀者を忍び込ませているのやもしれませぬ。その甲賀者かもしれぬ者は、先程それがしにこの文を渡したばかりです。それがしが六角に通じていると噂を流したら、見つからぬうちに退散するでしょう。素早い行動のはず。まだ立ち去ってはいないでしょうが、一両日中には姿を消すに違いありませぬ。姿を消す前に捕えないと。小倉の御方様にも接触するでしょう。御屋形様ご不在時であれば、露見しても、斎藤家の御方である北ノ方様(濃姫)がうまく揉み消して、騒動にならないかもしれない、ですから、敵は御屋形様ご帰還後に動いているはず。ですので、小倉の御方様への接触は今からすぐか、つい先程のことでしょう。このような文も届けられているやもしれませぬ」
「一刻を争うのですね、これから小倉の御方に接触するのですか?」
「先程の女中は奥御殿に向かいました。すでに工作を終えて、もう城の外に出たかもしれませぬ、あるいはつい先程のことですから、まだその辺にいるかもしれませぬが」
「わかりました。私は奥御殿に行って、小倉の御方の周囲を見てみます」
「えっ?」
冬姫の思いがけない申し出に忠三郎はややたじろいだ。
「一刻を争うのでしょう?すでに城の外かもしれないならば、忠三郎様は外を捜して下さい。私は奥を」
冬姫はそう言い残して、その場を後にした。疲れを覚えていたが、奥御殿へ向かう。
忠三郎は吸い寄せられるように冬姫を凝視していて、目を逸らす瞬間がなかった。冬姫が話す時、ずっと。また、彼が話す時も。だから、見られ過ぎて気疲れしたのだろう。しかし、休んではいられない。
冬姫が部屋を出て行くと、忠三郎の方も館の表へと繰り出した。
冬姫が奥御殿へと続く廊下を行く。その途中で、奇妙丸が姿を見せた。
「あれっ?もう戻るのか?せっかく父上から頂いた菓子を、届けさせるところだったのに」
冬姫は小首を傾げ、
「菓子?先程父上に呼ばれた所?そこへ運ばせて下さるつもりだったのですか?」
「そうだよ。父上から、家族皆で食えと、珍しい南蛮菓子を渡されたのだ。それを配膳するよう台所方に言ってきたところだ。そなたのを含めた二人分は、中奥に運ぶよう言ったのに」
「南蛮の貴重な菓子?皆に分けて下さるって、兄弟の分全て?ご側室たちのも?」
「そう。分けて、それぞれの高杯に盛って……」
冬姫ははっとした。すかさず、
「奥女中の中に甲賀者が紛れ込むなぞ、できると思います?」
奇妙丸は脈絡ない質問に目を丸くしたが、しばし考え、いや、と答えた。
「城中に素破を入れて工作する敵はいるかもしれない。無理だと思うが、できないとは言いきれない。だが、奥は絶対無理だ。素性のしっかりした者で、しかるべき人の推挙を受けた者しか、下女であっても当家では奥には入れていない。新参者でも、顔を良く知られている。素破が下女に紛れていたら、知らない顔に、不審がられてすぐに突き出されるに違いない。父上の小姓さえ許可なく入れないのだ、公家や賢僧の使いだって、出入りの商人だって、それが女であっても奥では対面できない」
冬姫は頷き、おそらく、先程忠三郎に文をつかませた奥女中は、本物の奥女中で、甲賀者が女中に化けたのではないだろうと考えた。つまり、六角の内通者が奥女中の中に存在するということだ。
「兄上、配膳の采配は兄上がご自身でなさったら?珍しい貴重な南蛮の菓子を父上から預かったならば、不届き者が介入できないように、確かに配膳しないと。人任せにしない方が──」
「盗み食いか?」
そんな不届き者、いや、恐れ知らずがいるだろうかと思いかけたが、何故か頷ける奇妙丸もいて、配膳の間に戻り、配分の采配をするのだった。女中達は少しの間違いもなく、信長の妻子達の菓子を分けて盛った。
これで、配膳の間に忍び込んで、小倉殿の菓子に細工することは誰にもできないだろう。あとは、小倉殿の手元に運ばれるまでのことだ。冬姫は、隠れ鬼をしているふりをしながら、小倉殿の住まいの辺りの物陰に潜んで様子を窺った。
菓子の膳ではないかもしれない、朝の膳、夕の膳かもしれない、或いは何らかの献上品か、はたまた大胆に訪ねてくるか、小倉殿が部屋から出たような時に接触してくるか。だが、忠三郎が文を渡されたばかりの今である可能性が高い。冬姫はそう子供の勘で思った。
今なのだと。
大人は根拠のない幼稚なことだと笑うだろう。だが、子供の冬姫は今としか考えられなかった。今であるならば、奇妙丸が預かった南蛮菓子だ。配膳の間で細工ができない状況を作っておけば、あとは配膳の間を出てから小倉殿の手に渡るまでの間だろう。
小倉殿のもとへ高杯を運ぶ過程こそ怪しいと睨んだ。高杯を運ぶ者に件の女中が文を渡すか、何か事を起こして隙をつくり、その間に高杯に敷いた紙か菓子の下に文を隠し入れるか、はたまた──。
冬姫が考えをめぐらせていると、高杯を持った女中達が数人通り過ぎて行く。行く先は様々で、茶筅丸の居所の方へ向かう者、於次丸の母の方へ向かう者もある、そして──。冬姫の潜んでいる物陰の前を過ぎかけた所で立ち止まる者がいた。
小倉殿に菓子を届ける者のはずだ。
先の間の端近にいるであろう小倉殿の侍女に、声をかけるであろう、まさにその瞬間のはずだが、女中は立ち止まったまま。冬姫は眼を凝らす。
女中は両手に捧げ持つ高杯を左手のみに持ち直して、右手を己の懐に入れた。冬姫が物陰から飛び出す。
「それ、その萌葱色の墨流しの薄様!」
小声だが張りつめた声、突然背後に出てきた人影に、女中はぎょっと、手にした紙をうまく隠すことができなかった。
「あれと同じ物だわ!それ、小倉の御方様のお膳に隠し入れて、御方様の手に渡すつもり?」
「な、なんのことですか?」
女中はまだ若い。相手が子供であっても、動揺を隠せないでいた。
「それと同じ紙を蒲生忠三郎殿に渡したのは、あなたでしょう?それとも他に仲間がいるの?」
「な、仲間とは……」
主家の姫君に、女中は狼狽える。
「それを見せて」
「それはできません!」
女中はやっと言って、冬姫の手の届かない高さにまで文を振り上げた。
「六角家内室からの文でしょう?」
「違いますっ!そんなわけないではありませんか!」
「では、見られてまずいものではないでしょう」
「いいえ」
女中は強く頭を振った。ようやく自分が見下ろしているのが幼稚な子供と思えるようになって、大人らしく、冷静に言った。
「大人には色々あるのです。敵からの物ではないからといって、見せて良いというわけではなく」
「小倉の御方様に疚しいことでもあるような言い種ね」
不意にそこの障子の陰から声がして、次に衣擦れの音、すぐに一人の若い侍女が廊下に出てきた。女中はいよいよぎくっとして、身動きできなくなる。
侍女は冬姫に頭を下げると、
「小倉の御方様の侍女でございます。何ぞ異変ございましたか?」
と、膝を曲げて、目線を冬姫と同じ高さにした。
「先程、六角の内室からの文というものを見ました。奥女中が蒲生忠三郎殿に握らせてきたそうです。文中には小倉の御方様のことも書いてありました。御方様も忠三郎殿と同じで、もとは六角家に仕えていたそうですね。六角家からの文をこっそり渡す者がこの奥の中にいるということは、この奥の中に、六角の内通者がいるということです。忠三郎殿への文の内容から、その密使は御方様にも接触するだろうと忠三郎殿は言いました。すると、案の定、忠三郎殿宛の文と同じ紙の文をこの人が懐から持ち出した。御方様の御菓子にその文を紛れさせて、渡すつもりか何かだったのでしょう」
冬姫の説明に、女中はみるみる青ざめて行く。
侍女は感心したように姫を見つめ、なるほどと頷いてから、膝を伸ばして女中に相対した。その蒼白な顔を見据えて、冬姫の言葉はでたらめではないと判断したようである。
「その文、小倉の御方様に宛てたものなのですか?でしたら、私に見せて下さい」
「え、あ、その」
「何を躊躇うことがあるのです。私は御方様の侍女。私が中を見ても構わないはずです。御方様と接触できなければ、そなたは私にこれを渡すという方法もあったはず。あるいは御方様に渡した後で、御方様が侍女に見せてご相談なさることは想定しているでしょう。つまり、御方様の侍女が読むことは前提でしょうに。私は蒲生家家臣、川副家の娘です、さあ、それを見せなさい」
「え、蒲生家の……」
女中が口だけかすかに動かして聞き返した。
「そなたが先に渡した相手は蒲生家の若君でしょう?私はその叔父君が小倉家に養子に入られた時から、小倉家にお仕えしています」
そう言うと、侍女は高杯を女中から奪い、人を呼ぶ。すぐにやってきた別の侍女に高杯を手渡し、
「御屋形様から御方様へ賜りました。御前へ差し上げて下さい」
と頼んだ。その人が、小倉殿の居所の奥の間へと消えて行くと、
「あちらへ参りましょうか」
と、冬姫と女中を少し離れた部屋の中へと誘ったのだった。
──
部屋の中心に、三人向かい合って座っている。侍女・川副の娘は文に眼を落とし、女中はおどおどと落ち着きがない。冬姫はじっと黙って座っている。
ややあって侍女が読み終え、面を上げた。
「川副殿。それは六角四郎殿のご内室からの文でしたか?近衛殿の書について、書かれていますか?」
冬姫が問えば、侍女は首肯する。
「ええ」
「他には?母上のこと?」
「はい、夫婦で母上の身を案じている、と。以前母上を悩ませたのは、近衛殿の書のことかと。その書は蒲生家の若君にも披露したことがある、とも。他には特にございません」
忠三郎宛ての文と同様の内容のようだ。
「その近衛殿の書について、川副殿はお心当たりがありますか?」
「さあ、私には。常に御方様のお側におりましたわけでもございませんので。御方様に伺ってみませんと」
「披露されたのは、いつと?」
「いつどこでとは記されておりません。六角家は御方様の当時の主家。御方様は重臣のご息女でしたから、井口様にお会いになったことは、何度かはございます。その折のことでございましょう」
「忠三郎殿へは、六角夫妻が蒲生家に滞在中に披露したと書いてありました」
冬姫のその言葉に、侍女はちょっと気まずい表情を浮かべたが、すぐに改め、女中に向き直った。
「そなたは何者か?」
「……何者とは。このお城のれっきとした女中で、阿ろくと申します。母は長井家、姉は斎藤家、一色家に、私も一色家にお仕えしたことがございます」
生粋の美濃者であると言う。おそらく美濃が土岐家によって治められていた時代から、母や姉は斎藤一族に仕えていたようだ。彼女自身は義龍の晩年から龍興の時代に仕えていたということか。
「甲賀者ではないの」
呟きにも似た冬姫の問いに、阿ろくと名乗った女中は心外そうに声を上げた。
「滅相もない!甲賀者なぞ知り合いにもおりませぬ!誓って申し上げます!私は六角方の間者ではありませぬ!仲間などもあるはずがございませぬ。里下がりさせて頂いた時に、御文を二通預かっただけでございます。文の主がどなたかも存じませんでした。まさか、六角家に嫁がれた姫様だったとは」
言いきってしまうと、再び力なく項垂れた。
「誰からの文か知らなかったの?」
「さる姫君から、としか……」
そこで、冬姫に代わって侍女が追及を始める。
「いったいいつ、誰から、どういう経緯で手にした?」
侍女の声色は穏やかで、口調もゆったりしているので、一見問い詰めている風ではない。
阿ろくよりは少し歳上だろうか、まだ若いが怜悧な侍女である。それが、冬姫が嫁ぐことになった蒲生家の家臣の娘だというのだ。冬姫は心丈夫になった。心強い味方を得たような心地だ。
「南伊勢での戦が終わり、北畠と和睦が成って、若様がご養子に入られることが伝えられた後のことでございます。若様の御道具のことで御上臈が城下に赴かれるというので、私もお供致しました。ついでに、しばらくそのまま里下がりして良いと。私、ここのところ里下がりさせて頂いていなかったので。一昨日まで里におりました」
阿ろくは文を受け取った経緯を話し始めたが、ここまでの内容に偽りはなさそうである。
「里に帰って数日後、親戚が何人かやってきて、久しぶりに楽しく過ごしました。その時、従姉から御文を二通、預かったのでございます」
「従姉?いかような身の上の?」
「それが……」
言い澱むと、侍女は眼を光らせた。
「六角家の女中か?」
「いえ、はい、いえ。はいと言うべきか、いいえと言うべきか……」
「つまり、もともとはそなた同様、美濃で斎藤家に仕えていた者ということか?左京大夫殿(義龍)の姫君が六角四郎殿に嫁がれた時に、斎藤家から従って、共に六角家に入った」
「はい、左様でございます。ですから従姉は、斎藤家の女中であり、その姫君にお仕えしているのであって、六角家の女中の心ではない筈です。姫様は観音寺城落城時に、夫君に連れ去られましたので、未だ六角家内室というお立場ですが、姫様にお仕えする者達の多くは、御屋形様に降り、美濃へ帰りたいに違いありませぬ。従姉もそう申しておりました」
「それで?その従姉はどうした?」
「姫様を放ってはおけない、六角四郎殿を説得して姫様を美濃にお戻し申すまでは、お側でお支えするとて、甲賀へ戻りました」
そこで侍女は勝ち誇ったような顔になり、鋭く切り返した。
「であるならば、従姉から預かった二通が六角家内室からの文だと察せられた筈。六角家旧臣の小倉の御方様、蒲生忠三郎様宛てとなれば、なおのこと。そなたはいい加減なことを言って、言い逃れようとしているのか?従姉や他の里女中達が、六角家になど心はなく、主である姫を美濃に戻してあげたいと願っているなぞ、でたらめでしょう!」
「なるほど」
青ざめる阿ろくをよそに、二人のやりとりを黙って聞いていた冬姫は、これが女のこの世での生き方、駆け引きかと思った。自分も間もなく、このような生き方を強いられるようになるのだ。
「六角に内通している、六角の密使と会っていると疑われても、そのように答えれば、逆に六角方をこちらに降らせるために説得していると言い逃れできますね。阿ろくは、従姉やその主を調略しているのですか?」
「しているわけがありませぬ」
吐き捨てるような響きが侍女にはある。冬姫にそう言うと、阿ろくを一睨みした。しかし、その後、再び冬姫の方に向きなおった時には、優しげな表情になっている。
「あちら側も、どうやら調略してきている様子はございませんね。もともと斎藤家に仕える者どうし、他にもこのお城には、井口様の女房衆と知人である人は、たくさんおりましょう」
冬姫は頷いた。
「今回はたまたま阿ろくでしたが、今後も別な者で似たようなことはあるということですね。父もそのことは承知の上で雇っている女房衆でしょうから、今回のことは問題ないのでしょう」
忠三郎が過敏に反応しただけなのかもしれない。だが、侍女はゆっくり頭を振った。
「いいえ、小倉の御方様ももともとは人質。忠三郎様も。六角旧臣の人質のお二人に宛ててきたのです。今は何もなくとも、今後は調略してくるでしょう。それも、近いうちに。人質だったお二人がなお六角に従っているように細工して、この岐阜の中をかき乱すでしょう。この者がこのままこのお城に仕えるならば、私は監視致さねばなりませぬ」
「そんな……」
阿ろくは真冬だというのに、額から一筋汗を流した。
「良い。六角の密使が接触してきたら、六角方である振りをして逆に情報を引き出し、それをこちらに逐一報告してもらえば良いことゆえ。そなた次第で、そなたは織田家随一の忠義者にもなれる」
ただしと、そこで侍女は冬姫に懇願するような眼差しを向けた。
「御方様は御屋形様のご家族となられたとはいえ、まだ日も浅く、もとは人質でお立場はとてもお弱い方です。そのような方が、敵と通じていると疑いをかけられますと、岐阜が乱れるのは勿論ですが──」
「わかりました」
冬姫は大きく頷いて見せた。
「嫁いだ女は、夫に従わず、実家のために嫁ぎ先を潰すこともありますが、逆に親兄弟と敵になることもあります。たとえ親であっても、打ち明けずに内密にすることは今後、多々あることでしょうから──」
冬姫と忠三郎の縁組は、まだ披露されてはいない。冬姫本人もつい先程伝えられたばかり、冬姫が忠三郎を婿にするなど、この侍女は予想もしていないだろう。
首を傾げる侍女に、
「その文は川副殿の手で止まってしまって、小倉の御方様は何もご存知ありません。御方様は今回のことには無関係です。川副殿が全て責任を持って下さいますか?」
と、冬姫は問う。当然だというように、侍女は強く首肯した。
「御方様は無関係。そういうことにして頂きたいと、お願い申し上げるつもりでおりました。姫さまの方からそう言って頂けるとは、有り難き極みに存じます。しかし、姫さまにそのような大事を押し付けてしまうのは父上様、母上様の御手前、あまりに申し訳なく。姫さまも何もご存知ないことにして頂き、全て私の一存とさせて頂ければ本望です。忠三郎様のことも、蒲生家家臣の娘としての願いですが、姫さまは無関係、何もご存知ないこと。──そういうことにせよ、阿ろく殿」
阿ろくはそこは神妙に、はいと答えて強く頷いた。
「秘密は守ります。それが嫁いだ女の在り方でしょうから」
冬姫ももう一度そう言って、侍女に頷いてみせた。侍女は再び首を傾げた。
意を決して呼びかけた。
びくっと姫は彼を見上げる。思いのほか距離が近かった。だが、どぎまぎする心は忠三郎はすでに忘れている。
「大事なるお話がございます!」
冬姫を見つめる少年の目は真剣で、そこには憧れの君の許嫁になれた喜びも、甘美の心地も垣間見えない。その双瞳には危機感さえ窺えて、冬姫は羞恥をおき捨てた。真剣な目へ、真剣に、
「何事ですか?」
彼女も居ずまいを正した。
「この御城の中に、六角の密偵がおります!」
忠三郎は声はひそめつつも、鋭い息で、周囲の空気を切り裂く。
冬姫は目をしばたたいた。
阿弥陀像の話でも、許嫁となった喜びでも述懐でもない。だが、忠三郎は天の巡り合わせを悟り、彼女に打ち明けるしかないと信じている。
「先程、奥御殿の御女中がそれがしに手渡して参りました」
忠三郎は萌葱色の文を差し出した。
冬姫は黙って受け取り、促されるまま文面に目を落とす。姫も彼のただならぬ様子に、反発もなく素直に話を聞くつもりのようだ。
一読して、冬姫は首を傾げた。
冬姫はまだ幼い。世間のことには疎いかもしれない。だが、忠三郎は彼女に賭けた。
「六角の間者から受け取ったとか?鶴殿?」
「はっ、左様でございます。鶴とは、それがしの幼名が鶴千代ゆえのこと。我が家は長らく南近江の六角家に仕えておりました。それがしは昨年、六角家が御屋形様に敗れて居城の観音寺城から落ちた時、御屋形様に降伏し、臣従の証としてご当家に参りました。しかし、御屋形様に勿体なくも烏帽子親となって頂き、忠三郎賦秀と」
冬姫は得心して頷いた。
「では、この文の主は、元服する前のあなたしか知らない人ですか?」
「左様でございます、これは井口様──六角家当主・四郎義治の奥方から、それがしに遣わされた密書でございます」
「密書というほどの内容でもないような……」
言いかけて、姫ははたと頬に手を当てた。何か思い至ったらしい。
「母の身が案じられるというけれど、母って、近江の御方のこと?」
やはり。冬姫は幼少ながらも、世間に疎くはない。しっかり教育された、国主の姫だ。忠三郎は強く肯いた。
「井口様・六角義治の内室は一色、いや斎藤左京大夫の御娘でございますれば、左様、母儀は近江の浅井氏ということになります」
斎藤義龍は十三代将軍・足利義輝より一色姓を名乗る許可を得ており、義龍・龍興父子は幕府からは一色氏とされている。だが、この織田家にあっては、一色ではなく、あくまで斎藤と称さなければならない。
一色は、斎藤道三が追い出したもともとの美濃の守護・土岐氏よりも格上であり、幕府の要職を得た六角家と同格の家だ。
六角家の家臣として、さんざん一色殿と呼び慣わしてきた忠三郎だったが、美濃から龍興を追い出した信長の今の岐阜城中のこと、斎藤と言い直した。
「では、母の身が案じられる、兄弟国衆も含めた大事というのは、先日の──」
と、冬姫はこの文が密書たる理由を考察した。
井口様こと六角家内室の父・斎藤義龍の兄弟姉妹、その婿等の美濃国衆の大事について、忠三郎はあまり詳しく知らない。忠三郎が元服して初陣を告げられた七月頃、信長が斎藤義龍の後家と揉めたという話は聞いていたが、主家の奥向きのこと、詳細まではわからないのである。
「でも、この文には近衛殿由来の書とあるけれど?」
冬姫は首を傾げる。幼いながらも、事の真相を知っている冬姫には文の内容は腑に落ちないらしい。
「どういうことでしょうか?」
「七月に一条殿がお越しになったので、急に父が思い出したのでしょう、近江の御方に壺を所望しました。それは先の稲葉山城落城時に紛失したとおっしゃったのだけれど、そんなはずはない、あるはずだと父がまた所望したので──」
ないものはないのにと、義龍の後家の近江の方は、ついには自害すると言い出した。
それを聞いた義龍の姉妹達やその夫、子などの美濃の国衆達は、信長に献上できなければ、自害しなければならない程の品であるのだから、紛失してしまった罪を詫び、切腹しなければならないだろうと、青ざめた。
信長の正室の濃姫は、父を殺した敵とはいえ、兄には違いない義龍のその後家とは、信長のもとに嫁ぐ以前から、義理の姉、妹の仲である。信長が悪いとして、昔からよく知る義姉の近江の方の肩を持った。
濃姫やその兄弟、姉妹とその夫と子達、すなわち美濃の有力者達に自害するなどと言われては、美濃に攻め住んで間もない時分、さすがの信長も和解を望み、壺は存在しないということで決着した。
すっかり和解し、今はわだかまりもない。信長と濃姫の関係も良好であるし、美濃の国衆に信長への叛心もなさそうだ。近江の方も、日々穏やかな暮らしぶりである。
近江の方の娘である井口様こと六角家の内室は、後になってその七月の揉め事を噂に聞いて、今、母は信長のもとで無事に暮らしているのだろうかと心配している、ということだろう。
一見、母を案じる孝行娘の何の問題もない文のように見える。だが、忠三郎はこれを密書だと言い、冬姫も文の内容に疑問を抱いた。
「どうして近衛殿由来の書とあるのでしょう?」
忠三郎は冬姫の眼を食い入るようにじっと見て、
「さあ、実際、近衛殿から賜ったことがあるのでは?聞くならく、斎藤家と近衛家の縁、浅からぬと。確か、近衛家の御仁が斎藤家に入られたとか。その縁でしょうか、斎藤左京大夫の娘御を近衛殿の御前に参らせるという話があった時、それを聞いた六角の先代・承禎入道が、破談にしてやると息巻いて、横槍を入れて邪魔したとか、祖父から聞いております」
「えっ?」
初耳と見えて、冬姫は目を点にした。
忠三郎、いかにも六角承禎らしいと苦笑い。
「そういう人です、六角承禎入道は」
義治の妻に対しても、斎藤家側の里女中らが一色殿、岐陽殿としても、承禎は井口と呼んだ。
「それは、ご苦労なさったのでは、ご夫君は近江の御方を案じて下さっているとのことですけれど──」
文の主の身を案じる冬姫を、忠三郎は優しいと思った。
「さような舅殿ではありますが、ご夫君はご自身で望んで進められた縁談でしたので、ご夫婦睦まじいご様子でしたよ」
「よかった」
冬姫は素直に微笑んだ。
それを見て、思わず笑顔になる忠三郎だが、でもと、そこで改まる。
「先程姫さまは、近衛殿由来ということにご不審なご様子でしたが、それがしも首を傾げているのでございます。井口様がそれがしに見せた品とのことですが、幼かった故、記憶は曖昧ながら、書ではなく壺だったと思うのです」
「壺?先日、父が近江の御方と揉めたのは、壺ですが──」
「井口様のご記憶違いかな?いやおかしいな、その御屋形様ご所望の壺というのは、どのような壺ですか、差し障りなければお教え下さい。近衛家由来の品ですか?」
「いいえ」
冬姫は頭を振った。忠三郎も昔の記憶を手繰り寄せ、思い出そうと努める。
「ですから、一条殿が」
冬姫が改めて七月の客人の話をしようとしたところで、忠三郎の記憶の糸が繋がった。
「そうです、一条殿所縁と、あの時!井口様がそれは取り澄ましておっしゃって。それで、一色氏とか近衛殿だとか一条殿とか、口惜しいことだと、陰で承禎入道が祖父を前に地団駄踏んでいたんです!それがし、よく覚えていなかったので、ご覧になったことがあるという小倉殿に確認しようかと思いましたが、そうですよ、そう、一条殿の」
「それは駄目です!」
不意に冬姫は声を上げた。
「そのお話、口になさらないで下さい。もう終わったことです、蒸し返したりしないで、父の耳には入れないで下さい」
「いや、この文がそれがしの手に渡されたということは、この御城に六角の間者がいるということですから、御屋形様にお伝えしないわけには参りませぬ」
姫の言葉は忠三郎には思いもよらないことだったらしい、姫の真意を探ろうとてか、その白い顔を覗き込んだ。
「一条殿所縁の壺は、先の戦で紛失したことになって、それで落着したのですよ。それなのに、それが六角家の手にあるなど、それも、近江の御方がご息女に持たせたなどと、それでは先日の騒動で御方が父に嘘をついたことになるではありませんか」
「御屋形様への嘘はけしからぬこと、改めて処罰となれば、それは自業自得でしょう」
「そう簡単にはいきません、近江の御方に美濃衆皆が従ったのです。近江の御方お一人のことならまだしも、美濃衆も連座したとして、今度こそ皆切腹させられます」
「ううむ」
忠三郎は考え込む。
「成る程、確かにそれこそが六角義治の狙いか」
「え?」
冬姫には忠三郎の言葉の意味がわからない。
「六角夫妻は、先日の壺の話を聞いて、これは美濃をかき乱すに格好の材料だと思ったに違いありません。この文を奥方に書かせたのは、義治でしょう」
義治の妻が、母を案じて自主的に書いたものではないだろう。
忠三郎は冬姫の眼を見て訴えた。
「井口様は、ご自分の手元にある壺が、騒動のもととなった壺と知っていた。さりとて、母上の身を危険にさらしたくはないと、敢えて近衛殿の書などと、別なことを書いた。この文がそれがしの元に届けば、それがしが未だ六角と繋がっているのではないかと、御屋形様がお疑いになる。さらに、六角と内通している者がこの御城の中にいて、それがしの元に届けたわけですから、内通者は誰だという話になる。また、文面から、井口様ばかりか義治の意志で、この文が書かれたことが想像できますから、この御城に義治と内通している者がいると暗に語っているのです」
義治の妻が自分の意志で書いたのであれば、彼女が嫁ぐ前から斎藤家に仕えていた者が今でも岐阜に多数いることから、その伝を頼りに文が届いたとて、不思議はない。文を預かった者はけしからぬが、処罰する程のことではないと、信長が見逃し、岐阜の中で騒ぎは起きない可能性もある。
一見特に問題なさそうな文だが、一つ一つの文言には深い意味が含まれており、行間をよく探る必要がありそうだ。
「この文を渡してきた者は、必ずそれがしの六角との内通をにおわせるために、何らかの工作をしてくると思います。六角はこの御城の中で騒動を起こそうとしているのですから。それがしが姫さまの許嫁となれば、なおのこと。それがしが六角と内通しているなどという噂でも出れば、御屋形様の命によって、それがしが調べられましょう。その後でこの文が出てきたら、六角と内通している証拠とされます。隠していたと見なされる前に、それがしの口から御屋形様に申し上げねばなりませぬ」
「では、どう転んでも、この文は父の目に触れることになるのですね。ということは」
と、冬姫はその後のことに思い巡らせた。
「父は近衛殿の書について、近江の御方に問い糺すのではありませんか?御方が文の内容に巧く合わせて答えても、父はあなたにも近衛殿の書とは何かと訊ねるでしょう。あなたが御方の不利益にならないように答えたとしても──」
冬姫は再び文に目を落とした。
「あなたの他にもそれを披露された人がいるのでしょう?その人にも確かめるのではないでしょうか。小倉参州の息女とは何方ですか?父に尋ねられて、その人が自分が見たのは一条殿の壺だったと答えるかもしれません」
忠三郎ははっとした。
「もしや、それがしばかりでなく、小倉殿も内通者とされるのでは!その方がより美濃は混乱する」
「え、その小倉殿ご息女から、真実が露見するということではなく?」
「それもあるのやもしれませぬ。が、文は小倉殿のところにも届いているのかも」
「その小倉殿ご息女というのは、忠三郎様がご存知の方なのですか?岐阜にいる方ですか?」
「あ、ええと」
忠三郎は信長の娘である冬姫に、少し気まずそうにした。躊躇いつつも、意志の強そうな姫の瞳に、答えないわけにはいかず。
「その、小倉家は近隣で、親族でもございます。小倉三河守殿のご息女は、近頃、御屋形様の御前に参られた御方で……」
思い得たようで、姫はああと頷いた。最近、信長の側室になったお鍋の方のことか。
「小倉の御方まで巻き込まれてしまうというのですか?」
「はい、おそらく。六角の内通者、いや、六角は甲賀を領して参りましたから、甲賀者を忍び込ませているのやもしれませぬ。その甲賀者かもしれぬ者は、先程それがしにこの文を渡したばかりです。それがしが六角に通じていると噂を流したら、見つからぬうちに退散するでしょう。素早い行動のはず。まだ立ち去ってはいないでしょうが、一両日中には姿を消すに違いありませぬ。姿を消す前に捕えないと。小倉の御方様にも接触するでしょう。御屋形様ご不在時であれば、露見しても、斎藤家の御方である北ノ方様(濃姫)がうまく揉み消して、騒動にならないかもしれない、ですから、敵は御屋形様ご帰還後に動いているはず。ですので、小倉の御方様への接触は今からすぐか、つい先程のことでしょう。このような文も届けられているやもしれませぬ」
「一刻を争うのですね、これから小倉の御方に接触するのですか?」
「先程の女中は奥御殿に向かいました。すでに工作を終えて、もう城の外に出たかもしれませぬ、あるいはつい先程のことですから、まだその辺にいるかもしれませぬが」
「わかりました。私は奥御殿に行って、小倉の御方の周囲を見てみます」
「えっ?」
冬姫の思いがけない申し出に忠三郎はややたじろいだ。
「一刻を争うのでしょう?すでに城の外かもしれないならば、忠三郎様は外を捜して下さい。私は奥を」
冬姫はそう言い残して、その場を後にした。疲れを覚えていたが、奥御殿へ向かう。
忠三郎は吸い寄せられるように冬姫を凝視していて、目を逸らす瞬間がなかった。冬姫が話す時、ずっと。また、彼が話す時も。だから、見られ過ぎて気疲れしたのだろう。しかし、休んではいられない。
冬姫が部屋を出て行くと、忠三郎の方も館の表へと繰り出した。
冬姫が奥御殿へと続く廊下を行く。その途中で、奇妙丸が姿を見せた。
「あれっ?もう戻るのか?せっかく父上から頂いた菓子を、届けさせるところだったのに」
冬姫は小首を傾げ、
「菓子?先程父上に呼ばれた所?そこへ運ばせて下さるつもりだったのですか?」
「そうだよ。父上から、家族皆で食えと、珍しい南蛮菓子を渡されたのだ。それを配膳するよう台所方に言ってきたところだ。そなたのを含めた二人分は、中奥に運ぶよう言ったのに」
「南蛮の貴重な菓子?皆に分けて下さるって、兄弟の分全て?ご側室たちのも?」
「そう。分けて、それぞれの高杯に盛って……」
冬姫ははっとした。すかさず、
「奥女中の中に甲賀者が紛れ込むなぞ、できると思います?」
奇妙丸は脈絡ない質問に目を丸くしたが、しばし考え、いや、と答えた。
「城中に素破を入れて工作する敵はいるかもしれない。無理だと思うが、できないとは言いきれない。だが、奥は絶対無理だ。素性のしっかりした者で、しかるべき人の推挙を受けた者しか、下女であっても当家では奥には入れていない。新参者でも、顔を良く知られている。素破が下女に紛れていたら、知らない顔に、不審がられてすぐに突き出されるに違いない。父上の小姓さえ許可なく入れないのだ、公家や賢僧の使いだって、出入りの商人だって、それが女であっても奥では対面できない」
冬姫は頷き、おそらく、先程忠三郎に文をつかませた奥女中は、本物の奥女中で、甲賀者が女中に化けたのではないだろうと考えた。つまり、六角の内通者が奥女中の中に存在するということだ。
「兄上、配膳の采配は兄上がご自身でなさったら?珍しい貴重な南蛮の菓子を父上から預かったならば、不届き者が介入できないように、確かに配膳しないと。人任せにしない方が──」
「盗み食いか?」
そんな不届き者、いや、恐れ知らずがいるだろうかと思いかけたが、何故か頷ける奇妙丸もいて、配膳の間に戻り、配分の采配をするのだった。女中達は少しの間違いもなく、信長の妻子達の菓子を分けて盛った。
これで、配膳の間に忍び込んで、小倉殿の菓子に細工することは誰にもできないだろう。あとは、小倉殿の手元に運ばれるまでのことだ。冬姫は、隠れ鬼をしているふりをしながら、小倉殿の住まいの辺りの物陰に潜んで様子を窺った。
菓子の膳ではないかもしれない、朝の膳、夕の膳かもしれない、或いは何らかの献上品か、はたまた大胆に訪ねてくるか、小倉殿が部屋から出たような時に接触してくるか。だが、忠三郎が文を渡されたばかりの今である可能性が高い。冬姫はそう子供の勘で思った。
今なのだと。
大人は根拠のない幼稚なことだと笑うだろう。だが、子供の冬姫は今としか考えられなかった。今であるならば、奇妙丸が預かった南蛮菓子だ。配膳の間で細工ができない状況を作っておけば、あとは配膳の間を出てから小倉殿の手に渡るまでの間だろう。
小倉殿のもとへ高杯を運ぶ過程こそ怪しいと睨んだ。高杯を運ぶ者に件の女中が文を渡すか、何か事を起こして隙をつくり、その間に高杯に敷いた紙か菓子の下に文を隠し入れるか、はたまた──。
冬姫が考えをめぐらせていると、高杯を持った女中達が数人通り過ぎて行く。行く先は様々で、茶筅丸の居所の方へ向かう者、於次丸の母の方へ向かう者もある、そして──。冬姫の潜んでいる物陰の前を過ぎかけた所で立ち止まる者がいた。
小倉殿に菓子を届ける者のはずだ。
先の間の端近にいるであろう小倉殿の侍女に、声をかけるであろう、まさにその瞬間のはずだが、女中は立ち止まったまま。冬姫は眼を凝らす。
女中は両手に捧げ持つ高杯を左手のみに持ち直して、右手を己の懐に入れた。冬姫が物陰から飛び出す。
「それ、その萌葱色の墨流しの薄様!」
小声だが張りつめた声、突然背後に出てきた人影に、女中はぎょっと、手にした紙をうまく隠すことができなかった。
「あれと同じ物だわ!それ、小倉の御方様のお膳に隠し入れて、御方様の手に渡すつもり?」
「な、なんのことですか?」
女中はまだ若い。相手が子供であっても、動揺を隠せないでいた。
「それと同じ紙を蒲生忠三郎殿に渡したのは、あなたでしょう?それとも他に仲間がいるの?」
「な、仲間とは……」
主家の姫君に、女中は狼狽える。
「それを見せて」
「それはできません!」
女中はやっと言って、冬姫の手の届かない高さにまで文を振り上げた。
「六角家内室からの文でしょう?」
「違いますっ!そんなわけないではありませんか!」
「では、見られてまずいものではないでしょう」
「いいえ」
女中は強く頭を振った。ようやく自分が見下ろしているのが幼稚な子供と思えるようになって、大人らしく、冷静に言った。
「大人には色々あるのです。敵からの物ではないからといって、見せて良いというわけではなく」
「小倉の御方様に疚しいことでもあるような言い種ね」
不意にそこの障子の陰から声がして、次に衣擦れの音、すぐに一人の若い侍女が廊下に出てきた。女中はいよいよぎくっとして、身動きできなくなる。
侍女は冬姫に頭を下げると、
「小倉の御方様の侍女でございます。何ぞ異変ございましたか?」
と、膝を曲げて、目線を冬姫と同じ高さにした。
「先程、六角の内室からの文というものを見ました。奥女中が蒲生忠三郎殿に握らせてきたそうです。文中には小倉の御方様のことも書いてありました。御方様も忠三郎殿と同じで、もとは六角家に仕えていたそうですね。六角家からの文をこっそり渡す者がこの奥の中にいるということは、この奥の中に、六角の内通者がいるということです。忠三郎殿への文の内容から、その密使は御方様にも接触するだろうと忠三郎殿は言いました。すると、案の定、忠三郎殿宛の文と同じ紙の文をこの人が懐から持ち出した。御方様の御菓子にその文を紛れさせて、渡すつもりか何かだったのでしょう」
冬姫の説明に、女中はみるみる青ざめて行く。
侍女は感心したように姫を見つめ、なるほどと頷いてから、膝を伸ばして女中に相対した。その蒼白な顔を見据えて、冬姫の言葉はでたらめではないと判断したようである。
「その文、小倉の御方様に宛てたものなのですか?でしたら、私に見せて下さい」
「え、あ、その」
「何を躊躇うことがあるのです。私は御方様の侍女。私が中を見ても構わないはずです。御方様と接触できなければ、そなたは私にこれを渡すという方法もあったはず。あるいは御方様に渡した後で、御方様が侍女に見せてご相談なさることは想定しているでしょう。つまり、御方様の侍女が読むことは前提でしょうに。私は蒲生家家臣、川副家の娘です、さあ、それを見せなさい」
「え、蒲生家の……」
女中が口だけかすかに動かして聞き返した。
「そなたが先に渡した相手は蒲生家の若君でしょう?私はその叔父君が小倉家に養子に入られた時から、小倉家にお仕えしています」
そう言うと、侍女は高杯を女中から奪い、人を呼ぶ。すぐにやってきた別の侍女に高杯を手渡し、
「御屋形様から御方様へ賜りました。御前へ差し上げて下さい」
と頼んだ。その人が、小倉殿の居所の奥の間へと消えて行くと、
「あちらへ参りましょうか」
と、冬姫と女中を少し離れた部屋の中へと誘ったのだった。
──
部屋の中心に、三人向かい合って座っている。侍女・川副の娘は文に眼を落とし、女中はおどおどと落ち着きがない。冬姫はじっと黙って座っている。
ややあって侍女が読み終え、面を上げた。
「川副殿。それは六角四郎殿のご内室からの文でしたか?近衛殿の書について、書かれていますか?」
冬姫が問えば、侍女は首肯する。
「ええ」
「他には?母上のこと?」
「はい、夫婦で母上の身を案じている、と。以前母上を悩ませたのは、近衛殿の書のことかと。その書は蒲生家の若君にも披露したことがある、とも。他には特にございません」
忠三郎宛ての文と同様の内容のようだ。
「その近衛殿の書について、川副殿はお心当たりがありますか?」
「さあ、私には。常に御方様のお側におりましたわけでもございませんので。御方様に伺ってみませんと」
「披露されたのは、いつと?」
「いつどこでとは記されておりません。六角家は御方様の当時の主家。御方様は重臣のご息女でしたから、井口様にお会いになったことは、何度かはございます。その折のことでございましょう」
「忠三郎殿へは、六角夫妻が蒲生家に滞在中に披露したと書いてありました」
冬姫のその言葉に、侍女はちょっと気まずい表情を浮かべたが、すぐに改め、女中に向き直った。
「そなたは何者か?」
「……何者とは。このお城のれっきとした女中で、阿ろくと申します。母は長井家、姉は斎藤家、一色家に、私も一色家にお仕えしたことがございます」
生粋の美濃者であると言う。おそらく美濃が土岐家によって治められていた時代から、母や姉は斎藤一族に仕えていたようだ。彼女自身は義龍の晩年から龍興の時代に仕えていたということか。
「甲賀者ではないの」
呟きにも似た冬姫の問いに、阿ろくと名乗った女中は心外そうに声を上げた。
「滅相もない!甲賀者なぞ知り合いにもおりませぬ!誓って申し上げます!私は六角方の間者ではありませぬ!仲間などもあるはずがございませぬ。里下がりさせて頂いた時に、御文を二通預かっただけでございます。文の主がどなたかも存じませんでした。まさか、六角家に嫁がれた姫様だったとは」
言いきってしまうと、再び力なく項垂れた。
「誰からの文か知らなかったの?」
「さる姫君から、としか……」
そこで、冬姫に代わって侍女が追及を始める。
「いったいいつ、誰から、どういう経緯で手にした?」
侍女の声色は穏やかで、口調もゆったりしているので、一見問い詰めている風ではない。
阿ろくよりは少し歳上だろうか、まだ若いが怜悧な侍女である。それが、冬姫が嫁ぐことになった蒲生家の家臣の娘だというのだ。冬姫は心丈夫になった。心強い味方を得たような心地だ。
「南伊勢での戦が終わり、北畠と和睦が成って、若様がご養子に入られることが伝えられた後のことでございます。若様の御道具のことで御上臈が城下に赴かれるというので、私もお供致しました。ついでに、しばらくそのまま里下がりして良いと。私、ここのところ里下がりさせて頂いていなかったので。一昨日まで里におりました」
阿ろくは文を受け取った経緯を話し始めたが、ここまでの内容に偽りはなさそうである。
「里に帰って数日後、親戚が何人かやってきて、久しぶりに楽しく過ごしました。その時、従姉から御文を二通、預かったのでございます」
「従姉?いかような身の上の?」
「それが……」
言い澱むと、侍女は眼を光らせた。
「六角家の女中か?」
「いえ、はい、いえ。はいと言うべきか、いいえと言うべきか……」
「つまり、もともとはそなた同様、美濃で斎藤家に仕えていた者ということか?左京大夫殿(義龍)の姫君が六角四郎殿に嫁がれた時に、斎藤家から従って、共に六角家に入った」
「はい、左様でございます。ですから従姉は、斎藤家の女中であり、その姫君にお仕えしているのであって、六角家の女中の心ではない筈です。姫様は観音寺城落城時に、夫君に連れ去られましたので、未だ六角家内室というお立場ですが、姫様にお仕えする者達の多くは、御屋形様に降り、美濃へ帰りたいに違いありませぬ。従姉もそう申しておりました」
「それで?その従姉はどうした?」
「姫様を放ってはおけない、六角四郎殿を説得して姫様を美濃にお戻し申すまでは、お側でお支えするとて、甲賀へ戻りました」
そこで侍女は勝ち誇ったような顔になり、鋭く切り返した。
「であるならば、従姉から預かった二通が六角家内室からの文だと察せられた筈。六角家旧臣の小倉の御方様、蒲生忠三郎様宛てとなれば、なおのこと。そなたはいい加減なことを言って、言い逃れようとしているのか?従姉や他の里女中達が、六角家になど心はなく、主である姫を美濃に戻してあげたいと願っているなぞ、でたらめでしょう!」
「なるほど」
青ざめる阿ろくをよそに、二人のやりとりを黙って聞いていた冬姫は、これが女のこの世での生き方、駆け引きかと思った。自分も間もなく、このような生き方を強いられるようになるのだ。
「六角に内通している、六角の密使と会っていると疑われても、そのように答えれば、逆に六角方をこちらに降らせるために説得していると言い逃れできますね。阿ろくは、従姉やその主を調略しているのですか?」
「しているわけがありませぬ」
吐き捨てるような響きが侍女にはある。冬姫にそう言うと、阿ろくを一睨みした。しかし、その後、再び冬姫の方に向きなおった時には、優しげな表情になっている。
「あちら側も、どうやら調略してきている様子はございませんね。もともと斎藤家に仕える者どうし、他にもこのお城には、井口様の女房衆と知人である人は、たくさんおりましょう」
冬姫は頷いた。
「今回はたまたま阿ろくでしたが、今後も別な者で似たようなことはあるということですね。父もそのことは承知の上で雇っている女房衆でしょうから、今回のことは問題ないのでしょう」
忠三郎が過敏に反応しただけなのかもしれない。だが、侍女はゆっくり頭を振った。
「いいえ、小倉の御方様ももともとは人質。忠三郎様も。六角旧臣の人質のお二人に宛ててきたのです。今は何もなくとも、今後は調略してくるでしょう。それも、近いうちに。人質だったお二人がなお六角に従っているように細工して、この岐阜の中をかき乱すでしょう。この者がこのままこのお城に仕えるならば、私は監視致さねばなりませぬ」
「そんな……」
阿ろくは真冬だというのに、額から一筋汗を流した。
「良い。六角の密使が接触してきたら、六角方である振りをして逆に情報を引き出し、それをこちらに逐一報告してもらえば良いことゆえ。そなた次第で、そなたは織田家随一の忠義者にもなれる」
ただしと、そこで侍女は冬姫に懇願するような眼差しを向けた。
「御方様は御屋形様のご家族となられたとはいえ、まだ日も浅く、もとは人質でお立場はとてもお弱い方です。そのような方が、敵と通じていると疑いをかけられますと、岐阜が乱れるのは勿論ですが──」
「わかりました」
冬姫は大きく頷いて見せた。
「嫁いだ女は、夫に従わず、実家のために嫁ぎ先を潰すこともありますが、逆に親兄弟と敵になることもあります。たとえ親であっても、打ち明けずに内密にすることは今後、多々あることでしょうから──」
冬姫と忠三郎の縁組は、まだ披露されてはいない。冬姫本人もつい先程伝えられたばかり、冬姫が忠三郎を婿にするなど、この侍女は予想もしていないだろう。
首を傾げる侍女に、
「その文は川副殿の手で止まってしまって、小倉の御方様は何もご存知ありません。御方様は今回のことには無関係です。川副殿が全て責任を持って下さいますか?」
と、冬姫は問う。当然だというように、侍女は強く首肯した。
「御方様は無関係。そういうことにして頂きたいと、お願い申し上げるつもりでおりました。姫さまの方からそう言って頂けるとは、有り難き極みに存じます。しかし、姫さまにそのような大事を押し付けてしまうのは父上様、母上様の御手前、あまりに申し訳なく。姫さまも何もご存知ないことにして頂き、全て私の一存とさせて頂ければ本望です。忠三郎様のことも、蒲生家家臣の娘としての願いですが、姫さまは無関係、何もご存知ないこと。──そういうことにせよ、阿ろく殿」
阿ろくはそこは神妙に、はいと答えて強く頷いた。
「秘密は守ります。それが嫁いだ女の在り方でしょうから」
冬姫ももう一度そう言って、侍女に頷いてみせた。侍女は再び首を傾げた。
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赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
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