大切に──蒲生氏郷

国香

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紫に匂へる

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 その日のうちに、冬姫は濃姫を訪ねて件の文について相談したかった。だが、その夕は忠三郎を披露するために、織田一族や身内を招いて宴が開かれたので、昼のうちから人の往来慌ただしく、相談できるような暇はなかった。
 宴は信長の妻達、子供達、また岐阜にいる親族達の集まりであり、あたたかな席である。冬姫と忠三郎の席は隣に並べられていた。
 宴もたけなわ、がやがやしていた時に、姫は忠三郎に耳打ちした。
 どうやら本当に阿ろくが文を預かっただけのようだと。この件について、相談する相手は濃姫でなければならないと思っているとも。まだ相談できていないが、明日には必ず話すから、心配ないとも伝えた。
 忠三郎は頷き、全て冬姫に委ねるつもりでいるようだ。ただ一言、
「こちらの調べでも、今のところ城内外に素破の類は見当たりませぬ」
 まだほんの短時間の調査ではあるがと口にしただけだった。あとは宴を楽しみ、冬姫の艶やかな装いに目を喜ばせていた。

 翌日、朝からさっそく冬姫は濃姫を訪ねていた。濃姫は冬姫の祝言が決まって、にわかに寂しさを覚えていたのか、冬姫の顔を見て喜び、手ずから菓子を与える。
「何か頼みごとか?聞きたいことでも?」
「はい。六角四郎殿の奥方のことを伺いたいです」
 そのようなことを訊かれるとは思いもしなかったようで、濃姫は目を丸くして息を飲んだ。だが、やがてゆっくり微笑んだ。
「六角父子は未だ甲賀に潜んでいる。そなたが四郎の妻を知りたいと思うのは当然、いや、そなたは知っておいた方が良いの」
 六角父子が今後、何も仕掛けてこない筈がない。蒲生家に嫁げば、冬姫は南近江に住まうことになるが、騒動等に巻き込まれる可能性は十分あり得る。その時に、冬姫が関わったり、事態の突破口となる可能性が、六角四郎の妻・井口殿にはあると思われた。
 冬姫にも覚悟があるのだと濃姫は思った。
「六角四郎の内室は私の姪ではあるが、実は一度も会うたことがない故、人となりは知らぬ。とはいえ、その母上のことはよく知っているし、今もこの岐阜においで故、噂には度々聞いている」
 近江の方は濃姫が信長に嫁ぐ前から、斎藤家に嫁いでいた。嫁ぐ前の娘時代から、濃姫が良く知っていた兄嫁なのだ。
 その近江の方が、六角義治と行動を共にする娘を案じているとは、最近度々耳にする話。近江の方は濃姫にしばしば相談していたのだ。
「そもそも岐陽太守殿(美濃守土岐頼芸)のおわす六角家に嫁がせることに不安がおありだったそうじゃが、その頃、側室に落とされておいでで、意見できなかったのだそうな」
 濃姫はそう言って、近江の方の立場から話し始めた。
 近江の方は北近江の浅井家の娘で、お市御寮人が嫁いだ長政の叔母(義姉)であるという。斎藤義龍の妻として、濃州太守こと守護・土岐頼芸を追い出した後の美濃で、夫と共に国内の安定に苦心してきた。
 義龍は父・道三を討って、美濃の安定と軍事の強化に努め、それが功を奏していた。しかし、何分成り上がりの親殺しである。朝廷や幕府の覚えめでたいはずがなく、各国の名門守護達からの評判も悪かった。
 義龍は家格の向上にも努める必要があった。幕府での地位が上がり、朝廷から高位高官に任じられれば、名家からの悪口を克服できる。
 それまでの美濃の主であった土岐氏よりも上の地位を目指して、幕府の伊勢家と縁戚を結び、その口利きで土岐氏よりも格上の一色氏を幕府から認められた。また、朝廷からは美濃守であった土岐頼芸よりも上の左京大夫に任ぜられ、近衛家に娘を献じようとした。
 もともと近衛家から斎藤家に養子に入った人もいるのだが、それでも義龍には五摂家一つとの縁では頼りなく思われた。
 そこで、糟糠の妻の近江の方がありながら、それを側室に下げて、新しく一条家から妻を迎えたのである。そして、嫡男・龍興がいたのに、新しい妻との間に男子を儲けるや、そちらを嗣子とした。
 その上で、土岐頼芸を引き取って敵対していた南近江の六角家との関係改善にも努めた。
 だが、六角承禎入道義賢は名門主義であるから、どこの馬の骨かと義龍を相手にはしてくれなかった。六角家は土岐家と婚姻を繰り返してきたし、頼芸が承禎の姉婿なのも理由だろう。
 一方、承禎の子の四郎義治にはそういう拘りはなく、宿敵の北近江の浅井を、南近江と美濃で挟み撃ちにできれば構わないと、義龍との同盟を重臣達と計画した。承禎に相談すれば、絶対反対されて話がまとまらないからと、承禎には内緒にして進められたのである。
 その頃、何故か義龍の幼い嫡男と、その生母の一条の御方が相継いで亡くなった。そのため、龍興が再び嗣子となり、近江の方も少しは慰められたであろうか。
 一方、六角家では承禎に露見して、美濃と南近江の同盟は成らなかった。しかし、直後に六角家は浅井家との野良田表における合戦に、本陣をつかれて大敗し、浅井家の急速急激な勢力拡大を許してしまった。もはや、浅井を抑えきれないばかりか、六角家そのものが危うくなってきた。
 こうなっては、承禎も義龍を頼るしかない。ようやく同盟が結ばれることとなった。
 しかし、それでは近江の方の立場はどうなる。それまで近江の方の縁を頼りに、義龍は浅井との同盟を大切にしてきたのだ。義龍は名門・六角家と結ぶために、六角の宿敵である浅井との同盟破棄を選んだのである。
 もっとも、先に同盟を危うくしたのは浅井の方だったが。この時期、尾張一国のみを治めていた信長が、東海の覇者・今川義元を桶狭間で討ち取るという奇跡を起こして、日本じゅうを驚愕させていた。
 信長はそれ以前から、美濃の舅・道三を討った義龍とは敵であった。
 だから浅井は、隣の美濃斎藤との同盟を維持するよりも、北近江と尾張から美濃を挟み撃つ方が良いと踏んだ。それほどの信長の勢いであり、機を見るに敏なる浅井長政だったのである。
 新興の、勢い有り余る信長と組み、義龍との長年の縁を切る様子の長政。
 そして、その気配もあって、縁戚の浅井との同盟を破棄し、浅井の宿敵の六角と結ぶ道を選んだ義龍。そのために、娘を四郎義治に嫁がせた。こうして、南近江と美濃から、北近江の浅井を挟み込む構図が成った。
 この頃、何故か義龍は体調がすぐれず、病床に伏していることが多くなった。そして、娘が嫁いでからしばらくして亡くなった。正室の一条の御方の死から一年も経たないうちに。
 跡は龍興がついだ。近江の方は義龍の後家という立場に立った。
 龍興は浅井との関係改善を目論んだが、うまく行かなかった。そして、義龍時代から繰り返された尾張の信長との戦いに敗れ、ついに稲葉山城は落城した。龍興は伊勢へと逃亡。
 信長が美濃の主となり、この稲葉山を岐阜と改め、移り住んだ。今信長の家族が、濃姫が、冬姫が住んでいる岐阜城は道三の城であり、義龍、龍興の城であり、土岐頼芸の住まいもあった所なのである。
 落城時、龍興は逃亡したが、近江の方は残って斎藤家の財宝を守り、乗り込んできた信長に降伏した。そのまま信長の庇護下に入り、今日に至っている。
 今、実家の浅井家と織田家とは同盟関係にあり、少し心穏やかになったようだ。だが、織田と同心せず、結局敗れて落城した娘の嫁ぎ先の六角家のことは、心配である。
「舅の六角承禎入道は斎藤家を毛嫌いしていた故、そこに嫁がせるのは初めから不安しかなかったそうな。それに、承禎のもとには岐陽太守殿が身を寄せておられた故」
 濃姫や義龍の父・道三は、長年土岐頼芸を支えた。道三のおかげで、頼芸は土岐家の家督争いを制した。
 だが、道三は最後に裏切り、頼芸を追放した。そして、道三自身が美濃の主となった。
 追放された頼芸は妻の実家の六角家に身を寄せた。妻の弟の承禎は、頼芸を美濃守護に返り咲かせると約束した。だが、息子の四郎義治が勝手に義龍の娘を自分の妻に決めてしまったのだ。承禎は激怒して一度は破談にしたが、結局この結婚は成った。
 頼芸を追放して美濃を乗っ取った道三の孫娘など、頼芸の手前、迎えられないと、承禎も言わざるを得なかったであろう。また、名家の承禎は成り上がりの斎藤家を嫌っていた。
 そのような舅では、井口殿は不幸になるに決まっている。しかも、その舅のもとには頼芸がいる。
 だが、井口殿が嫁いでみれば、承禎は冷たかったが、頼芸は意外にも優しかったのだそうで、
「近江の方へそのように消息を書いて寄越したそうな。まさか……」
と、濃姫は頼芸が井口殿を憎き道三の孫ではなく、自分の孫かもしれないと思っていたのではあるまいかと訝しんだ。
 実は義龍には、頼芸の子ではないかという噂があった。濃姫は信じていなかったが。
「ともかく、それが幸いしてか、承禎入道も態度を軟化させたのだとか」
 自分を追放した道三の孫に優しい頼芸を目の当たりにしたら、承禎が冷酷である理由がない。
 その頼芸は、なお美濃守護に返り咲くことを夢見ていたようだった。義龍の時代は到底無理だったが、龍興は若く未熟で、安藤守就、竹中半兵衛両名に城を乗っ取られる程、斎藤家の力は急速に衰えていた。龍興の美濃ならば、頼芸の夢も叶うかもしれない。
 だが、間もなく龍興は尾張から侵攻してきた信長に敗れ、信長が岐阜を奪って美濃の主となってしまった。
 頼芸はそれで諦めたようで、近江を出て弟達のいる関東に行ったのだという。六角家が信長に討たれて居城の観音寺城から落ち延びて行った時、頼芸はすでに近江にはいなかった。
「では、それほどひどい扱いではなかったのですか?」
 井口殿の扱いは。頼芸のおかげで。その頼芸がいなくなってしまった後、井口殿は心細かっただろうか。
 冬姫は忠三郎に聞かされていた程、井口殿は苦悩してはいなかったのかもしれないと思った。
「だからこそ、今も夫君と共にあって、六角家のために──」
と、そこで冬姫は件の萌葱の文を袂から取り出し、濃姫に差し出した。
 怪訝な表情を浮かべ、濃姫はその文を一瞥した。
「忠三郎様がこの城に六角の間者か内通者がいるかもしれないとおっしゃるのです。このような文を掴まされた以上、父上に申し上げ、事を明らかにしなければならない、と。忠三郎様は人質故、ご自分の潔白を証明せずにはいられないお気持ちなのでしょう。それに、父上への忠義心がそう決意させたのだと思います。ですが、私は……。これはお預かりして参りました。父上に知られてはならないと思ったからです、どうぞご覧下さい」
 冬姫に促され、なお不審げに文を手に取る濃姫。宛名の女文字を見て、首をさらに傾げさせた。
「これはいったい何なのじゃ?」
「井口殿が忠三郎様に書いた文です。父上には申し上げられません。されど、忠三郎様の忠義、ご懸念も無視できません。私もこの城のためには本来、父上にお伝えすべきと存じます。ですが、七月の騒動を蒸し返すばかりか、近江の御方のお話が嘘とされ、斎藤家の一族美濃衆も巻き込まれて、今度こそ皆切腹に追い込まれましょう。先ずは母上におすがりし、父上のお耳に入れるべきか、どうするべきか、母上のご助言に従うのが良いと思いまして」
 七月の騒動と聞いて、濃姫の表情が一変した。急いた様に文を開くや、読み始める。その間、冬姫は黙って待っていた、濃姫の次の言葉を。
 しかし、読み終えても濃姫は冬姫の顔を眺めやったまま、逡巡している。何から言ってよいのか、何と言うべきか。
 それで、冬姫の方が先に口を開いた。
「近衛殿の書とありますが、忠三郎様が披露されたのは壺だったそうで、書など見せられたことはなかったと、ご不審なご様子でした。それで思い至ったのです、七月に一条殿が岐阜にお越しになって、父上が急に近江の御方に一条殿所縁の壺を寄越せと仰有って、そこからの騒ぎだったなと」
「これは、いつ、忠三郎殿の手に?」
「昨日です。父上から忠三郎様に嫁ぐよう命じられた直後、忠三郎様がこっそり私に注意して下さったのです。この城に六角の手の者がいる、と。父上に申し上げるとおっしゃるので、私がお願いして、口止め致しました」
「そのままにはしておけぬし、私に伝えるのが最善と考えたのよな。良い判断じゃ」
 濃姫は感心したように笑顔になった。
「この城には、長井家に仕えていた老女もいます。斎藤家、一色家に仕えた女中は多いです。六角家に入った里女中達とは親戚や親しい友人も少なくありません。そうして、六角家にいる里女中から、この城の女中の手に渡り、忠三郎様に手渡された文でした。誰から誰の手を経て忠三郎様にまで至ったか、全て明らかになっており、六角家と内通している者の仕業ではないと存じます。小倉の御方様のお手元には文は行っていないようです」
「既に色々調べたようじゃな」
 子供の調査などたかが知れているが、それでも濃姫は冬姫の言動を評価した。
「忠三郎様はご幼少の頃のことで、ご記憶は曖昧だとはいうのですが、井口殿から披露されたのは壺で、それも一条殿所縁と聞かされたと。実に取り澄ましていた井口殿に、一条殿とか近衛殿とか悔しいと、承禎入道が憤っていたのだとかで。どういうことなのでしょう?」
 濃姫は気まずい様子になった。
「父上には申し上げてはならぬ」
「もとより、そのつもりです」
「それはそうよな」
 濃姫は苦笑して同意する。
「井口殿の持つ壺と父上が所望された壺は同じものですか?」
 濃姫は意を決したように、目を瞑りつつ、一つ大きく頷いた。冬姫は目を見張った。
「近衛殿由来の書というのも嘘ではあるまい。確かに持っているのであろう。近衛殿は親戚故、頂いたのに違いない。この文には偽りは書かれていない」
 井口殿の手元には確かに近衛殿由来の書はあるのだろう。
「じゃが、同時に一条殿所縁の壺があるのも事実」
「その壺は、近江の御方が持っていたのでは?父上がこの城を攻められた時、紛失したのでは?」
「そういうことになってはいるが、そなたの想像通り、それは偽りなのじゃ」
「では、落城時に紛失してしまったのではなく、六角家の手にあるということですか」
 濃姫はそうだと答えた。
 どうしてそのようなことになったのだろう。冬姫は不思議である。
「父上が所望された時、私は全て義姉の近江の方から聞かされておる。私も最初は六角家の手にあるというのが不思議での、義姉上に尋ねたのじゃ。すると、何ともやるせないお答えが返ってきて」
 濃姫によれば、近江の方はとにかく年端もいかない娘を六角家に嫁がせることが心配だったのだという。承禎入道にどれほど虐め抜かれるか、どれほど嘲られ、虐げられるか。
「一色家は土岐家より格上、六角家と同格と主張しても、所詮は成り上がりと鼻で笑われるだけだろう。それでも、できる限りのことはし尽くそうと、見栄を張られたわけじゃ」
 当時、斎藤義龍には一条の御方という新しい正室がいた。彼女が持って嫁いできた宝物がある。
 井口殿が嫁ぐ数ヶ月前に一条の御方は亡くなっており、それらの宝物は義龍の管理下にあった。だが、その頃、義龍は病床にあって、寝たり起きたりという日々。管理の目は行き届いていなかった。
 近江の方はこっそりその宝物の中から壺を持ち出して、嫁ぐ娘に持たせ、箔をつけてやったのだ。いや、それだけではあるまい。
「心の中に、般若を飼われておられたのじゃ」
 長年、正室として夫を支えてきたのに、夫は成り上がりを気にして、新しい妻を迎え。夫は実家と手を切り、実家の敵と同盟し。その同盟のために娘を嫁がせられ──。
「露見すれば、お命はなかったかもしれない。それでも」
 夫に、夫を奪った人に、復讐せずにはいられなかったのだろう。
 信長に所望されて、命を捨てる覚悟をした近江の方だったが、それ以前に、夫によって殺される覚悟をすでに持っていたのだ。命をかけた夫への復讐。
 冬姫は急に恐ろしくなった。大人の女の怨念を。
「父上が所望なされた時、私は近江の方から全てお話を伺って、それであの壺は散逸したことにしたのじゃ。真実を曲げて、真実とした。今更、壺は六角家に存在するということが明らかになっても、皆困るだけじゃ」
「はい、六角家さえ明らかにしない限り、露見することはないでしょう」
 冬姫は今の話は他言しないし、この萌葱色の文のことも、忠三郎には口止めし、壺の真実も秘密にさせると、言外に約束した。
「父上としても、お困りになる。美濃に移られたばかり。美濃衆の心を掴むのにご尽力されているのだから」
 だからこそ、七月の時には近江の方の話を信じることにして、事態は解決したのだ。
 冬姫はそこではっとした。
「父上も本当は──?」
 真実を知っているのではないか。
 濃姫はそれには何も答えず、
「もうこの話は終いじゃ。今後は口にせぬように。六角の間者などの心配も不要じゃ。忠三郎殿には心安くいるように」
と、文を冬姫に返したのだった。
 冬姫は阿ろくを忠三郎のもとへと遣わし、万事問題ないと伝えて文も返還した。そして、阿ろくは里女中として、冬姫と共に蒲生家に行くことになった。





*****************************
「姫、この父はどうしても、忠三郎を息子に欲しい。忠三郎をしっかりつかまえておいてくれよ」
 祝言の前日はあっという間に訪れた。
 その日、信長は冬姫の部屋を訪ねると、色々と細かい指図はせず、ただそれだけ言ったのだが、冬姫はどう理解したのだろう。
「父上はご自分のお志を、忠三郎様に継がせたいとお考えなのですか?」
「そうだ」
 信長が頷く。冬姫は自分の判断は間違っていなかったと思った。忠三郎を守ったのは正しかったのだと──。
 信長が忠三郎に冬姫を与えるのは、色々理由がある。蒲生家云々もあるが、忠三郎という童を気に入ったからというのが何より大きい。そして、単純に、娘の父として、忠三郎ならば娘を大事にしてくれそうだという算段もある。
 側室などは持ちそうにない。何しろ、女でさえ一人の夫に仕えるのに、男ばかりが一人の妻に満足できず、幾人もの側室を置くのは情けないと思っている変わり者だ。同じ人間である女が堪えられることを、男には堪えられないなど、忠三郎には許せないに違いない。
 世の中には、生涯不犯で過ごせる人間もいるのだから、ただ一人の妻しか持たぬことくらい、何てことはない。そう考えていそうだ。
 武家が側室を置くのは、単なる男の多情と我が儘ばかりが理由ではないが、忠三郎は、正室に子が生まれなければ、養子をもらえばすむという考え方らしい。
 そもそも蒲生家にさほどな執着、拘りが感じられない。幕紋を変えることも厭わないし、特に抵抗なく改姓もしそうだ。それらを寄越せと言われれば、いくらでも授けそうだし、他家に行けと言われたら、躊躇いなく行きそうだ。そもそも、蒲生家が断絶したとしても構わないくらいなのではあるまいか。
 だから、妻が子を産まなければ、実子に恵まれるまで幾人でも側妾を持つなどということは、ないだろう。
 そんな忠三郎だからこそ、信長は娘を託したい。
 冬姫はただひたすら忠三郎に愛されればよいのだ。信長は多くを語らなかった。
 そうしている間に、濃姫もやって来た。
 濃姫は例の螺鈿の箱を両手に捧げ持っていた。冬姫の前に置き、蓋を開けると、信長の隣に座った。そして、そこから中の紫草染めの麻布を眺めやった。
「これは以前言うた通り、近江の麻布、蒲生野の紫草染めじゃ。日野に嫁ぐそなたに伴われ、この布も故郷に行きたいと思うているであろうな」
 ため息をつきながら、濃姫は、けれどと。
「これはそなたが使っていたそなたの物ゆえ、そなたが持っているべきであろう。されど、手放し難くてのう。祝言が決まってから、しきりにそなたの赤子の頃のことが思い出されて。今後は離れて暮らすことになるゆえ、すまぬが、これはそなたの代わりにこのままここに置いておいても良いか?そなたと思うて傍に置いておきたい。父上も同じくお思いじゃ」
 傍らで信長は表情を動かさないが、かすかに頷いていた。
 冬姫は昨年それを見せられるまで、その存在すら知らずにいた布である。もとより執着などない。何でもないような顔で、はいと返事した。
「ありがとう。いずれ渡す」
 いずれとはいつだろうかと、今回以外に適した時などありはするまいにと、濃姫は苦笑した。
 明日は祝言。信長と濃姫は万感の思いで冬姫を見つめていた。

 翌日。いよいよ祝言となった。
 祝言は岐阜城内で盛大に行われた。信長の手元で我が子の祝言を挙げさせるのは初めてである。先に徳川家に嫁いだ五徳姫、神戸家の養子となった三七丸、また、嫁いでいった養女達は皆、婚家で式を挙げた。
 信長は姫を嫁がせたいというより、結婚式がしたいのではないか。出席した木下藤吉郎秀吉が首を傾げたほどの豪華な宴だった。それに、嫁に出すのに実家で祝言とは。忠三郎が人質だからとはいえ、まるで婿とり婚である。
 宴には織田一門は勿論、家臣達も招かれ、蒲生家からも賢秀や重臣が出席している。
 信長は終始上機嫌で、普段は飲まない酒を珍しく口にしていた。
 夜も更けると、皆酔い乱れ、陽気に舞い遊ぶ者や寝てしまう者もいた。信長は一切咎めず、気狂い水で人の変わった家臣達の様子を、にやりと観察している。
 口忠実な稲葉一鉄などは、花婿の父の隣に座り込み、忠三郎の岐阜での一年余の生活を語って聞かせていた。
「いや誠に立派なご子息です。それがし、あのような子は見たことがありません。将来が楽しみです」
 自分の長すぎる武辺話を一心に聞いていたとか、鋭い質問をされて窮したとか、しまいには昼間会っても追い回されて質問攻めにされて降参したと、随分長いこと喋っている。対照的に、賢秀ははにかみながら、ずっとそのよく回る舌に耳を傾けていた。
 肝心の花嫁花婿は、まだ子供だというのに、酔いつぶれた大人達を前にじっと座っていた。冬姫は緊張した様子で、まるで我慢競べのように、何も言わずに座り続けている。横目にちらと見て、忠三郎はそんな彼女を案じたが、忠三郎は忠三郎でけっこう大変なのだ。
 酒を注ぎにやって来る者があとを絶たない。大概織田家の家臣達だが、祝いを述べては忠三郎の杯に酒を満たしていく。
 若い身で、ろくに酒など口にしたこともないのに。失態は絶対できない。
 だが、前田利家や柴田勝家などは何度もやって来ては、気遣いもなく注いで、喋って行く。ようやく二人が去ってほっとしたのも束の間、今度は藤吉郎がいざり寄ってきた。
 藤吉郎も今では立派な家臣だ。信長から京方面の守りを任され、頼りにされている。
 しかし、藤吉郎の百姓の根は抜けていないのか、花嫁を前に額を床にこすりつけ、慇懃に過ぎるひれ伏し方をした。だが、丁寧な祝いの言葉の後に上げた面相は、いつも通りの人懐こい笑顔である。
「いやあ、お屋形様の直感は見事に大当たりでございました、忠殿」
 藤吉郎は忠三郎を馴れ馴れしく忠殿と呼び、冬姫と彼とを交互に見やる。
「忠殿が初めて御前にご挨拶に参られた折、お屋形様は忠殿の目をご覧になって、驚かれたそうです。その瞬間、婿にと閃かれたとか。何でも忠殿の目が重瞳に見えたと。重瞳といえば虞舜でしょう。なるほどお屋形様は帝堯にござれば、堯が舜に娘を与えて婿とし、やがて禅譲して帝位を継がせたことをとっさに思い出されたのだとか。その後、忠殿をお側に置いて様子をご覧になるに、いよいよまことに婿にしたいと思われるようになったと。初対面での直感は正しかったのです」
 忠三郎は初めて聞く話なので驚いた。傍らで聞いていた冬姫も驚いたが、途中で得心したように頷いた。
 以前、藤吉郎が冬姫に重瞳をどう思うかと尋ねたことがあった。姫の婿が重瞳だったら嬉しいですかと訊かれて、何故そんなことを訊くのかと首を捻ったものだが。理由はこれだったのか。
「忠殿、わしからの一献もお受け下されましょうや?」
「戴きまする」
 忠三郎が応じると、藤吉郎は瓶子を手にする。そっと杯に注ぐその六指が、冬姫の目の隅に映った。
 忠三郎が杯をすっと口に運び込む。それを横目に、藤吉郎は冬姫に言った。
「姫様は覚えておられましょうや?昔、まだお市御寮人様も嫁がれずにおられた頃、姫様が異形は王者の証であると仰せられましたことを」
 その言葉の間に飲み干した忠三郎が、目を上げて藤吉郎を見た。
「わしの指をお褒め下さいました。わしはそのことを、一日たりとも忘れたことはござりませぬ」
 忠三郎が妙な顔をする。冬姫に視線を移せば、姫にはそんな記憶はないのか、やや首を傾げ気味にしていた。
「だから、お婿様が異形だったら嬉しいかとお尋ねになったのですか?」
 花嫁姿の冬姫が、口をかすかに動かして、小さな声でおっとり訊いた。まだ少女の彼女だが、化粧のためか今夜は大人びて、色香が閃く時もある。
 藤吉郎は無遠慮にじっと姫を見つめて。
「わしは、姫様のお言葉を支えに、今日まで励んで参りました」
と、ここまで言うと、忠三郎の表情を気配から察したか、急に顔じゅうしわしわにして笑った。
「おかげで、ここまで出世できました。これも姫様のお言葉のおかげですわい。おかかにも、姫様に感謝するよう言うておりますので。まことに有難うございます」
 本当に人のよさそうな笑顔である。しかし、忠三郎の耳は、藤吉郎の本当に微かな呟きを聞き逃さなかった。
──姫様は重瞳を嫌っておられた。虞姫の四面楚歌の死を嘆かれて──
 藤吉郎がほくそ笑んでいるように見えてならなかった。

 『平家物語』にいう。高倉天皇は大変親孝行であったと。父はかの日本一の大天狗と呼ばれた程の後白河法皇であったが、それでも、その父院が政変によって鳥羽殿に幽閉された時には、高倉天皇は譲位して出家してしまおうかと悩み惑ったという。
「百行の中には、孝行をもつて先とす。明王は孝をもつて天下を治むといへり。されば唐堯は老い衰へたる母をたつとび、虞舜はかたくななる父をうやまふとみえたり。彼賢王聖主の先規を追はせましましけむ、叡慮の程こそ目出たけれ。」

 虞舜もまた、極悪の父であっても、孝行を尽くした。
 舜の父、継母、義弟は何度も舜を殺そうとしたが、舜はそれでも父に仕えて尽くした。帝堯は娥皇女英を与え、舜は勤勉に働き、その実りで父母を支えた。帝堯、ついに舜に禅譲して、舜は王位を継いだ。
 王となった帝舜、その聖君の証ともいえる重瞳のために、名を重華という。有虞氏。
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かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

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