大切に──蒲生氏郷

国香

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貞操

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 いよいよ有馬湯山へ向かう日になった。三蔵が案内してくれるという。
「妹を連れて行っても宜しゅうござるか?」
 人質の妹も連れて行きたいと忠三郎は言うのだ。
「妻は足を怪我しておりますゆえ、浴場で支える者が要りまする」
 それなら別に、侍女にも務まる役目だ。わざわざ妹でなくてもよいだろう。
 しかし、怪しいと思っても、三蔵は反対しなかった。
「どうぞ。宜しいのではないでしょうか」
 こうして、忠三郎は妹こととら姫も連れて、冬姫と有馬へ出発した。
 湯山は秀吉夫妻の側近・孝蔵主の領地でもある。
 孝蔵主は川副家の娘だが、川副家は蒲生家の家臣であり、とら姫の乳母も、また小倉家に養子に入った忠三郎の叔父・実隆の周囲にも、川副家の者が仕えていた。その関係で、信長の側室・小倉殿やその所生の子達にも、川副家の人間が奉仕している。
 今、湯山に孝蔵主が滞在しているのかどうかは不明だが、忠三郎はとら姫の乳母を同行させていた。
 けっこうな人数で、粛々と行く。
 途中、西宮まで来た時である。思いもかけず、秀吉に会った。
「大坂に帰るところじゃ。島津が何か言ってきているみたいでの。いつまでも留守にもできん。わしは帰るが、おかかはまだ湯山におる故、そなたは姫さまとゆるりと静養なされよ」
 秀吉が帰るというのは意外だった。
 忠三郎は驚きつつも、供を申し出た。
「いやいや、そなたは湯治してくれ」
 秀吉は断ったが、忠三郎は冬姫をとら姫に頼んで、強いて自分は秀吉に同行して大坂へ向かった。
 秀吉はまるで見張られているようで、蒲生家の護衛に居心地悪そうである。少し離れて後ろをついて来る忠三郎に、息が詰まる。
 大坂城に着いて、秀吉を本丸まで送ると、忠三郎は島津の使者との対面に同席することを望んだ。だが、それが叶わないと、すぐに退出してきて、甲賀者を放った上で、供してきた者たちに命じた。
「私はしばらく臥せっていることにせよ。いかなる人とも対面ならん」
 そして、藪下だけを連れ、すぐにこっそりと出掛けていった。
 冬姫の方は無事湯山に着き、新造の薬師堂に北政所を訪ねていた。三蔵も一緒である。
「ようおいで下さいました」
 北政所は上座にいなかった。
 隣には孝蔵主が座っている。昔、岐阜城で小倉殿の侍女として、六角義治の妻からの密書の対応を冬姫と共にした人である。今は秀吉夫妻の上臈だった。
 冬姫に親しげな笑みを向ける孝蔵主。一方、彼女とは相反して、北政所の表情は明るくない。
「於次殿の病気平癒を願って作ったつもりですが……」
 如来像を横目に、無念そうに言葉を詰まらせる。
 冬姫は鎮座する如来像に両手を合わせた。足はもうほとんど治っている。
「怪我にも病にも効く湯ですので、どうぞごゆっくりなさって下さいね」
「おそれいります」
 心の傷にも効能があればよいのにと、北政所と三蔵を見て思った。
 さっそく宿所に入る。
「大事ございませぬか?」
 先に待っていたとら姫が乳母と案じていた。
「そんなに顔色悪いですか、私?」
 輿に乗っていたとはいえ、確かに遠路の移動で疲れた。
「吐き気は?」
「ありません。少しめまいがしますが……」
「湯中りするといけません、今日はお湯は控えた方が──」
「とら姫さまはお先にお入りください」
 冬姫と並ぶと、大概の女人は気の毒なようだが、この人は珍しく色褪せしない。とらという名に相応しく、美しく怜悧な女人であった。有馬の名湯はきっと彼女の肌をみがく。
「私は義姉君様の看病を言いつけられておりますから──」
 わきまえて、遠慮した。傍らの乳母も頷いている。
「せっかくの出で湯ですのに。とら姫さまも、日々人質としてのお勤め、何かと気詰まりでございましょう。たまにはお骨をお休め下さい」
 そのために忠三郎は彼女を連れ出したのだろうと、冬姫は思った。
「ありがとうございます」
 とら姫は微笑んだ。冬姫には何か引っかかった。
 その日はついに湯は使えず、ぐったり寝入ってしまった。

 翌日の宵、辺りがすっかり暗くなった頃、ようやく入浴できたが、気持ち良かった割には、出てきた後がしんどい。
「少し横になられませ」
 頭痛がして、ふわふわする。
「ええ、そうさせて頂きます」
 素直に寝床に横になった。まだ寝るような時刻ではない。しかし、だるさに包まれ、そのままいつしか眠ってしまった。

 それからどれくらい経ったのか。湯山は俄かに騒がしくなった。
「これは!殿下!」
 三蔵が慌てて出て行くと、秀吉の来訪であった。
 湯山の衆はこのような時間にと、皆驚いている。
「おぬしらに料金を払いに来たわい。明日、米俵がどおんと届くであろう」
 秀吉はそう答えて、三蔵に、北政所はどうしているかと尋ねた。
「はっ、おそらく薬師堂においでかと存じます。お呼びして参りましょう」
「よい。薬師堂か。ふむ、まだ後ろ向きと見ゆるの。明日の朝、会うて慰めてやる。今夜はそっとしておいてやれ」
 秀吉はそう言って、宿所の中に入っていった。

 騒ぎに、冬姫は目を覚ました。
 遠くで人の声がしている。冬姫は暗闇の中に寝ていた。
 ゆっくり起き上がる。
 闇に目を凝らすと、襖の隙間から灯りがもれている。隣室には灯りが点いているようだ。
 すると、突然、反対側の襖が開いて、誰か入ってきた。襖は開け放ったまま。そちらの隣室には灯りはなく、真っ暗で何も見えない。
「誰?」
 冬姫は闇に問い掛けた。
 侍女とは思えない。姿見えぬ相手は物言わず、冬姫の側に寄った。
「しっ!」
 相手はそれだけ言って、冬姫を抱き上げようとする。
「何です!」
 冬姫が言うと、その口を強引に塞いだ。声を殺し、
「よいと言うまで声は出さないで!」
と早口に言う。
 冬姫は何故と思ったが、相手のひどく切迫した目に、黙って頷き、従った。
 まだ冬姫の足は治っていないと思ったのだろう、彼女を軽々肩に担ぎ上げると、さっと出て、きちんと襖を閉じて宿を出て行った。

 秀吉が冬姫の所にやって来た。それを迎えたのはとら姫だった。隣に乳母と腰元が侍いている。
「そなたは確か、とら殿か?」
 秀吉は一度しか会わない人間でも、必ず記憶するよう努めている。それに、とら姫の乳母は孝蔵主の身内、見知っていた。
「義姉について参りました」
 とら姫は真っ直ぐ返事した。
「ほう。義姉君はそちらか?」
 暗い襖の向こうを顎で差す。
「もうお休みか?具合がお悪いようだの?」
「義姉は懐妊しておりますれば」
 秀吉は目を剥いた。
「懐妊じゃと!?忠三郎の子をまたしてもっ!」
 秀吉は足を踏み鳴らした。ぎらぎらした目だった。
(手籠めにしてくれる!)
 残酷な心に支配され、襖に手をかけたのだ。
「お待ち下さい!」
 ぴしゃりととら姫は言った。秀吉の手が止まる。
「関白様らしくないお振る舞いと存じます」
 手籠めは下衆だと言外に言うとら姫に、秀吉は振り返った。
「私では駄目でしょうか……?」
 必死にとら姫は言う。乳母がぐっと堪えるように、両手で自身の膝を握った。
「なに、女から言うのか?」
「……はしたなくも……」
「関白の寵が欲しいという女は多い」
 いろんな女が寄ってくる。貴人の寵愛を得られただけで、出世できる。そういう考えの下賤の女に溢れている。お前もそうなのかと見下す秀吉に、そのようなわけがあるかととら姫は心中強く反抗しながらも、歯を食いしばって堪えた。
「高貴なお方のご寵愛を得ることこそ、女の誉にございますれば……」
「高貴?そうか、わしが高貴か!」
 くっと笑った秀吉。秀吉を足蹴にしてきた様々な人物の顔が浮かぶ。彼等の全てが、今は関白となった秀吉にひれ伏している。
「わしが義姉君を手籠めにするなど、もってのほかぞ。どうしてそんな発想になった?あのお方はな、わしを天下様にして下さった神様じゃわい」
 取り繕うような一瞬の笑い。秀吉はとら姫の前に座った。彼女は美しい。
(この娘を用意しておくとは。忠三郎め、案外下衆だな!)
 こんな綺麗な娘に、このようなことを言わせる忠三郎を、ひどい奴だと思った。
「神様を冒涜することはできんじゃろ?」
 秀吉は六指を差し出した。
(冬姫は男女を超えた存在か?いいや、女だ)
 秀吉は心と相反することを言って、蒲生家を試みた。
 とら姫は差し出された手の上に、そっと己の手を置いた。乳母がかすかに頷いた気がする。
「む。よい覚悟じゃ」
 秀吉は彼女の手を握り、徐に立ち上がる。とら姫もそれに従って、立ち上がった。
 隣室への襖が開いて、誰もいない寝床が姿を現した。秀吉はとら姫を誘い、襖の中へ入る。
 とら姫の背後で襖が閉じて、寝床は暗闇に沈んだ。
 この夜、とら姫は関白の寵愛を得た。
 寝床には、とら姫の香とは別の移り香があった。秀吉はその香りの中で、終始異常な興奮を覚えていた。

 闇の夜道で、腹を気にしたわけでもないが、冬姫は声を出していた。
「もう下ろして、自分で歩けます」
「しかし、足が──」
「治りました」
「──あ、もしや苦しかったですか?」
 慌てて抱え直して、今度は横抱きにした。仰向けになって、確かに腹部は楽にはなったが。
「いったい、この盗賊の真似ごとは何なのですか。忠三郎さま!」
 冬姫はいきなり自分を攫ってきた夫に理由を問い糺す。しかし、忠三郎は答えず、不意に、「あっ!」とあらぬ方角を向き、声を上げた。
「あれが薬師堂ですね!あそこに参りましょう!」
 忠三郎は冬姫を横抱きにしたまま、薬師堂に入った。堂の入り口で、ようやく冬姫は下ろしてもらえた。
 堂の中には灯りが幾つか点いていて、けっこう明るい。それで、はじめて忠三郎は冬姫が小袖を着ていることに気づいた。
「や?何故その格好のまま寝ていたのです?もしや、具合が?」
「盗賊に驚いて、すっかり吹き飛びました」
 忠三郎は冬姫のお腹に手を当てて案じる。
「本当に今は大事ないですか?」
「はい」
 冬姫は堂内を見回した。
「私はいつも、どうして近しい人が亡くなった時に懐妊するのでしょう……」
 忠三郎の祖父が亡くなってしばらくして籍姫を、信長が亡くなった時に鶴千代を。そして──。
 忠三郎はそっと冬姫を両手に包み、堂内に目をやった。
「於次さま……」
 於次のために建てたという薬師堂。切なくなる。
「今夜は一緒に、ここで過ごしましょう」
 忠三郎は大坂から急に来た理由は言わずに、ただ一緒に於次を偲びたいと言った。
(何やら在五の芥川の心地だな。だが、戸口の外とはもってのほか、私は決して片時もこの人から離れない)
 実はこの時、ここの奥には、北政所が孝蔵主と共にいた。人の気配に、孝蔵主がそっと様子を見に出て行くと、ちゃんと忠三郎がいて、冬姫に寄り添っている。
 孝蔵主はかすかに頷いて、忠三郎が目配せすると、北政所のもとにそのまま戻った。そして、明け方になるまでその傍らにいて、奥から北政所を出さなかった。
 忠三郎は奥の北政所を思う。
(いったい、秀吉はどうして奥方以外の人間に、それも数えきれない程の数多の人々に、閨房の己を見せたがるのか。浅ましい己を知られて平気なのか、唯一無二の奥方以外に──)
 北政所ほどの人を妻にしていながら──。忠三郎は、両袖の中に包んでいる冬姫を見下ろして、首を振る。彼には全く理解できない。
 閨での忠三郎はいつでも冬姫への恋しい感情、思いの丈をその身にぶつけるだけだが、それでも時折、法悦が勝り、浅ましく野性に還って我を忘れている時がある。快楽を求めて、息づきさえ常とは違って乱れる様など、冬姫以外の人間には決して知られたくない。一個の男になってしまった彼の秘密は、冬姫だけが知っている。だからこそ、冬姫にだけは全てさらけ出すことができる。
(だから、妻は唯一無二の存在なのだ)
 ただ一人の自分の片身の冬姫。
(どうして秀吉はそれを求めてくるのか。比翼の鳥の、その片身は私だ)

 翌日、東雲の頃から秀吉は起きていた。とら姫と身繕いしていると、忠三郎が現れた。
 忠三郎は薬師堂に冬姫を残し、出てきた孝蔵主に彼女を頼み、大力の藪下に堂の警護を命じて、こちらへ来ていたのだ。
(とら、すまない!)
 目で、忠三郎はとら姫に詫びた。
 忠三郎は京で秀吉から湯山へ誘われた時から、おかしいと思っていた。いや、彼は以前から気づいていた。秀吉の感情に。
 秀吉から、冬姫を人質にと求められた時には、もう確信していた。最初に気付いたのは、本能寺の変の直後、秀吉と安土城で再会した時。いや、もっと前。忠三郎と冬姫の祝言の時から、彼は気づいていたのかもしれない、秀吉本人さえまだ自覚のなかった冬姫への気持ちに。
 知っていて、迷惑に思う反面、どこか誇るような、挑発するような気持ちもあったかもしれない。だが、今回は危機感しかなかった。
 だから、大坂では甲賀者に秀吉を探らせ、万が一に備えて孝蔵主と連絡を取りつつ、こっそり湯山に引き返していたのだ。
 そうしているうちに秀吉は出掛けたという。秀吉を見失ってはならないと、甲賀者に追わせれば、湯山へ行くではないか。
(冬さまが危ない!)
 いよいよ当初の予想通りになると危惧して、忠三郎は冬姫を救い、あとはとら姫に任せたのだ。とら姫には、京を出る時、その乳母や孝蔵主と相談の上、因果を含めておいた。とら姫は、以前、人質に差し出された時から、冬姫の身代わりであることを十分理解していたので、改めて覚悟を定めてくれた。
 忠三郎が冬姫を宿から連れ出した直後、やはり秀吉は冬姫のもとにやって来た。そして、とら姫が役目を果たしてくれた。
「忠三郎、これはまた妙な所で会うたの」
 秀吉は座って忠三郎を迎えた。まだどこかはだけて、だらしなく着崩している。
「はっ。これは──?」
 妹に何をしたのかと、とぼけて問うた。
「何をと?」
 秀吉はくすっと笑った。普段は決して見せない、まるで別人のような顔で、ずっと座っている。
「忠三郎、そなた──」
 しばらくして、ふと立ち上がり、忠三郎の至近距離までどかどか歩いてきた。そして、
「芳い香りがするのう」
 くんくん忠三郎を嗅いだ。
「女の香りだの。ははあ、さては移り香か」
 またどかどか歩き、
「この香りだったな」
と呟いて、とら姫の隣に座った。
「そなたは切支丹ゆえ、それや奥方のであろ」
 とら姫の手を取りつつ、笑った。
「……は……」
 秀吉はとら姫の手をしきりに撫で回している。その仕草は、二人の関係性を物語っていた。
 忠三郎はつい伏し目がちになった。
 秀吉は目だけは忠三郎に向けたまま、やれやれと語った。
「大名で切支丹というのは、誠に生き難かろうな。伴天連どもめ、離縁は許さぬとて、再婚の妻と幸せに暮らしている者を、わざわざ引き離し、憎み合って別れた最初の妻と暮らさせるそうじゃな。民ならまだ、嫌々暮らすだけの話じゃが、大名だとそう簡単な話では済まされぬ。妻の実家と敵対しても離縁ならず、別な家と同盟したくとも、後妻もらえず、どうするんじゃ?子がなくても側室は置けず、家は断絶するしかないのう。主君から妾を下げ与えられても、拒否して謀反を疑われ」
 主君から妻女を夜伽に求められても、拒否して、謀反を疑われる。
(なれば、いっそ呉子(呉起)よろしく妻女を殺すしかないか)
 秀吉がにやり、笑っている。
「左様なこともございませぬ。主君から疑われることはないため、キリシタンには生きやすい世と存じます」
 忠三郎は顔を上げ、きっぱり言い切った。
「む?」
「キリシタンはいかなることがあろうとも、己の主君に逆らってはならないと、パードレから教育されております。キリシタンは裏切らぬこと、周知の事実ゆえ、あえて主君も、その忠義のほどを試す必要もございませねば。キリシタンに、二心疑われる心配はありません」
「ほ、左様か。それはまた主君にとって便利な輩よの」
 臣下の本心は見えないもの。だから、主君も粗略には扱えないのだ。しかし、キリシタンは心を全てさらけ出しているという。
 どんな難題を突きつけようと、どんな死地に追いやろうと、どんなに虐めようと──。主君に従うというのだから。
(愚かなり、忠三郎)
 秀吉はほくそ笑んだ。
「そなたは努力は惜しまないからの。頼もしいの」
 こき使ってやるぞと言われたわけだが、忠三郎は平伏した。
「ふむ。わしもそこまでしてくれる者の願いは聞き入れたい。いささか強引なやり方だが、そなたは余程わしと縁続きになりたかったと見ゆる。よいだろう、おとらをわしの側室に迎えてやる」
 忠三郎が顔を上げた。その容貌は、どこかとら姫と似ている。
(一石二鳥と思ったか?冬姫を奪われず、妹を側室に上げられる策だと。わしは敢えてその奸策に乗ってやった。されど、そなたは何も得られないであろう。かような愚策、これが上様の婿とはがっかりしたわい)
「おそれいりまする……妹は人質と思って下さって構いませぬ故……」
 忠三郎が再び平伏する。うまくいったか。そう、忠三郎は秀吉の義兄になる。甥ではいけない、兄でなければ。とら姫は妹でなければならなかったのだ。
 秀吉はいつも通りの笑顔になった。
「新しい邸を作って、おとらには、そこに住まいを与える。京の雲居の跡地に、これまで誰も見たことのないような、巨大で豪勢な邸を築くつもりじゃ。その中に、おとらの住まいをやろう。わしの邸の周りには、そなたら諸大名の家を建てさせ、そこに大名の妻子どもを悉く住まわせる。従わぬ奴はわしに逆らう者ゆえ、すぐに討伐に行く。わしへの忠義のほど、しかと判る。どうじゃ、良い考えじゃろう?」
 大名達の妻を、全て秀吉の住まいの周りに人質として置くということである。妻を人質に差し出さない大名は、秀吉に謀反する者と見なされる。また、妻を人質に取ることで、秀吉は大名の裏切りを防ぐこともできるのだ。
 とら姫は、間近で秀吉の顔をまじまじと見つめた。とても柔和な表情で、とんでもないことを言うと思った。
(私が側室として、人質としてお側へ参っても、なお蒲生は人質を出さなければならないの?)
 とら姫に冬姫。人質が二重になる。
(とらは何だったのか……)
 忠三郎も、内心凍り付いていた。
 秀吉が冬姫に夜這いをかけてきたところを、冬姫の身代わりにとら姫を抱かせ、その責任を問い詰め、ちゃっかりとら姫を側室に上げようと思ったのだが。秀吉の義兄になろうとした、欲を出したのがいけなかったか。
(ただ冬さまを救出するだけでよかったのだ。その後、とらをそこに寝かせておく必要など……余計なことをした)
 失策を悔いた。しかし、秀吉は笑顔で言った。
「冬姫さまと於次殿によって、わしと蒲生家は繋がっておった。だが、於次殿が亡くなって、蒲生家との縁も切れてしもうたかと思ったが。おとらによって、また繋がったの、義兄上よ。これからは兄として、わしを助けてくれ」
 秀吉は立ち上がり、部屋を出て行った。そのまま北政所がいる薬師堂へ向かう。
 とら姫と二人きりになった忠三郎は、頭を下げた。
「蒲生家のためです。そのようなことはなさらないで下さい。以前、人質に差し出された時に、こうなる覚悟はしておりました」
 女性として、屈辱的な出来事を、敢えて受け入れた後の顔とは思えないほど、とら姫は凛としていた。
 もともと、とら姫が人質に差し出されたのも、冬姫の身代わり的なところがあり、それが故に、即座に秀吉の手がついてもおかしくなかったのだ。今、ついに身代わりになったわけである。
「これで義兄上は、殿下に最も近しい重臣になれました。ただ、兄上」
 忠三郎が頭を上げた。その目をまじまじと見つめ、とら姫は忠告した。
「キリシタンを理由になさらないで下さい。これから何がありましょうとも。それは殿下の前では言い訳にもなりませぬ」
「……その通りだ」
 秀吉の博学な側室・三条殿とは、とら姫のことである。その怜悧さで秀吉に気に入られ、大事にされることになる。

 朝になると、薬師堂では北政所が孝蔵主を従えて、奥から出てきていた。そして、北政所と冬姫がその堂の中で談笑しているところへ、秀吉はやって来た。冬姫の後ろには、蒲生家の家人が控えている。
「あら、殿下!」
 北政所も冬姫も、秀吉がいることに驚いた。だが、北政所の傍らの孝蔵主だけは顔色一つ変えない。
「おう、おかか、ちとすまぬことなのだがよ」
 北政所の脇に座ると、秀吉は悪びれもせず言った。
「時間があったで、湯山の衆に支払いついでに迎えに来てやったのだがよ。それがのう、新しく側室を置くことになってしもうてなあ」
 北政所も冬姫も一瞬きょとんとした。だが、すぐに北政所は声を立てて笑い出した。
「あれまあ、今度はどこのだれ?ほんにお前様というお人は」
 全く動じない彼女の姿。照れたように頭を掻き掻き、詫びる秀吉。冬姫はこの夫婦の間に流れる空気に圧倒された。
「於次殿がいなくなって寂しくなっていましたから、これでまた賑やかになりましょう」
 仕様のないと笑う北政所の余裕と大きさに、冬姫は自分だったらこうしていられるだろうかと思っていると、秀吉が、
「冬姫さま、まことに申し訳ありませぬ。姫さまを姉上とお呼びする次第になりました。その、とら殿をですな──」
「ええっ?」
 冬姫は思わず頓狂な声を出した。
「お前様!蒲生家の姫に?」
「いやあ、あんまり可愛いいんで……」
 冬姫の様子から、彼女は忠三郎の姦計を知らされていないのだと知り、秀吉はわざと事実とは別のことを言った。
(おかか、すまんな……忠三郎め、自分が切支丹だから妻を差し出せぬとふざけおって。妹に姦淫させておると、気づかぬのか?)
「すまん!」
 秀吉は北政所の前で合掌して頭を下げた。が、当の北政所はそれを無視して冬姫に頭を下げている。
「姫さま、申し訳ございませぬ!」
「いいえ!こちらこそ申し訳ございません……」
 冬姫は昨夜、忠三郎が寝床に押し入ってきたことを思い出していた。
 堂の内には香が焚かれ、噎せ返んばかりに充満している。秀吉は昨夜の褥の香りをと、やや身を乗り出したが、冬姫の香りは届かなかった。
 懐妊しているという冬姫だが、この堂内に溢れる香りにも、気分を悪くすることもないのか、今朝はやつれも見えず、艶やかである。
(忠三郎め、この先どういじめてくれよう?あいつは才気溢れておるし、命を削ってでもやり遂げるから、ちょっとやそっとのことでは、めげるまい。そうだ、忠三郎よ!おぬしは能力がある、志も高い。だから、いかなる努力も惜しまない。努力して、必ずやりきってしまう。だがよ、そんなおぬしは秀次以下だと気付いておるか?秀次は精一杯努力しても、結果に表れず、いつもわしに叱られる。忠三郎はやり遂げるために、それや難儀な思いをしておるだろう、だがよ、それは苦労とは言わんのよ)
 秀吉は己のこれまでの屈辱的な生き方を、一瞬振り返った。
(──忠三郎、おぬしは上様に選ばれたのだろう?帝舜なのだろう?それならば、苦労しろ。帝舜のように。でなければ、帝舜の座には、上様のおられた場所には座れぬぞ。異形と見られし才子よ。このままでは、冬姫は虞姫になってしまうぞ)
 異形の王者として、その座は譲れないと思った。
(苦労知らずのおぬしに、天下は譲れぬ)
 努力しても、いつも実を結ばず、絶えず悩み、落ち込む甥の秀次に譲る方が良い。絶望を何度も味わっている秀次の方が、まだ安心だ。
「冬姫さま、このまま大坂におられませ。壊れた松ヶ島なんぞでは、いるところもありますまい。大坂でゆるりとされ、新しき京の邸で出産されよ」
 秀吉は冬姫に優しく笑いかけた。昔、婿殿が重瞳だったら女王様になれるかもしれないと言った時のような顔で。

 直後。
 天正十四年(1586)一月。
 秀吉は京に聚楽第を築くことを、天下に宣言する。
 関白に、天下人に相応しい、その権力と富の象徴である。そこはかつての宮中大内裏の跡地であった。
 蒲生家はその聚楽第の本丸から最も近い郭内に邸を与えられ、隣に築かれた前田邸とは、裏庭で繋がっている造り。
 聚楽第のその区域に邸を与えられた大名は、秀次など、秀吉の身内くらいなものである。
 かつての雲居(宮中)の跡地とはと、冬姫は亡き父ならばどう思うだろうかと思った。そこに自分が住むことなど想像もつかなかった。
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