大切に──蒲生氏郷

国香

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信仰と義

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 藤掛三蔵は冬姫に対し、忠三郎が洗礼を受けたのは去年の閏八月であると言った。しかし、それは実は正確ではない。
 忠三郎は当初からイエズス会に近づき、また、六右衛門をローマに派遣していた。ローマの出方を、イエズス会本部の方針をいち早く知りたかった。彼にとって、最近の戦乱や国替えは、時間の無駄で、やきもきさせられていたのである。
 伊勢に入って最初の半年は身動きできない状態だったが、十一月に信雄が秀吉と和睦し、木造氏が開城して去ると、忠三郎は高山右近を訪ねていた。
 領国経営と教会通いの日々。天正十二年末から翌天正十三年の三月まで続いた。そうした中で、秀吉の根来衆・雑賀衆討伐に参加していたのである。
 彼は秀吉が関白になった時には既にキリシタンであった。賦秀を捨て、氏郷になる前に、すでにレオ(レオン)だったのだ。
 冬姫は三蔵から聞かされるまで、何も知らなかった。
 佐々討伐後、なかなか帰国しなかった忠三郎は、教会で洗礼を受けていたのではない。キリシタンとして教会に通い、そして、オルガンティーノに探りを入れていたのだ。
 忠三郎は信長の娘である妻を、イエズス会の思惑やら何やらに利用されないようにと、冬姫には教会の話をしなかった。
 最近、大坂城周辺は日々発展を続けている。諸侯の邸も次々に作られ、数万単位の人間が日夜土建作業に勤しんでいる。
 さらに、秀吉は京にも巨大な邸・聚楽第を築くのだ。各大名の出費はいかほどになるだろう。
 この分だと、蒲生家にも莫大な出費を迫られそうだ。大坂城に聚楽第に。松ヶ島城の補修などしていられないのではないか。
 このような状況の中で、大坂に来ては、忠三郎はオルガンティーノや高山右近を訪ねてばかりいる。
 キリシタンの妻は、自分もキリシタンになることが多い。しかし、忠三郎は冬姫を伴天連や伊留満に会わせようとせず、教会にも行かせない。
 家臣達には、自らその教えについて話したり、受洗を促したりするのに、冬姫には一度も説教したことがないのだ。
 忠三郎は冬姫にはとても優しい。だが、彼の愛情が、強迫観念さえ伴っての、無理矢理なものにさえ冬姫には思えた。熱心な信仰心ゆえの。
 とら姫が秀吉の寵愛を受けたのが、忠三郎のとんだ情愛からだということを知れば、冬姫も少しは違ったのかもしれない。いや、かえって──
 一方、男というのは、たとえ忠三郎のように細やかな人でも、妻の心の機微には鈍感なもので、何の疑いも抱かずに、益々の愛情を冬姫に注いでいる。
 そして、彼女にキリスト教への入信を勧誘するのは、専ら家臣たちであった。
「これを差し上げます」
とて、『さんたまりやのらだにあす』(聖マリアの連禱)というものが書かれた料紙を手渡してきた者もいた。
 縦書きで、全て平仮名のラテン語である。

──「きりゑゑれいそん
きりしてゑれいそん
きりゑゑれいそん
きりしてあうぢなうす……」──

 等と書いてある。声に出して読んでみるが。
「……さんた、ちりにたす、うぬす……さんた、まりや、おらほろなうひす、さんた、でい、ぜにちりす……」

──「まてるぢびねがらしゑ 同
まてるぷりしま 同
まてるかすちいしま……」──

 こんな具合に続いていて、冬姫が返事に困っていると、その者は、入信しないと地獄に落ちると言う。信仰は大事だとは知っているが、冬姫はそれを理由に受洗する気にはならない。
「殿は受洗せよとは仰せられませんが、生き方で示して下さっていると思うのです。
最も大事なことは、デウスを御大切に、信仰を持つことだと伺っています。しかし、永遠に生きたいという理由で信仰を持つならば。隣人を大切に思い、生きる方が、そんな信仰よりも大事に思えるので。それで地獄へ落ちるならば、それでも構いません」
「そこまで思われるなら、受洗なさっても宜しいのではございませぬか?すでに御心に信仰をお持ちになっておられまする」
 冬姫は首を横に振った。
「殿は伊勢の地の敵としてやって来て、領主となられました。そして、まだ日も浅い。神宮を破壊するようなことがあれば、必ず暴動が起きましょう。また、伊勢国内だけでなく、全国から非難されましょう」
 伊勢神宮は別格だ。忠三郎でも、破壊どころか保護しなければならない。だが、そのような事情を、忠三郎の神が許すであろうか。
「ここは私がキリシタンにならずに頑張るしかありません。私は悪魔で、殿に神宮の破壊をさせないよう、妨害しているのです」
 そうなれば、神の怒りは冬姫に向けられ、忠三郎には及ばなくなる。
「さような馬鹿げたこと……」
 全能なる神が、冬姫の思考を知らぬはずがないではないか。
 しかし、この冬姫の発言に、家中は思うところあったのであろう。坂源次郎が、
「余計なことだ。出過ぎた真似をするな。無礼だぞ」
と諫めたこともあり、以後、冬姫に受洗を迫る者はいなくなった。
 信仰については、正直、冬姫にもまだわからなかった。父の信長は決して魂の不滅など信じなかった。
 伴天連は、仏教もあらゆる神話も、全て人間の思考が産み出した物であるが、唯一絶対なる神(デウス)のみは実在し、その神の教えを自分達は説いているのだと主張している。
「しかし、父はそのデウスの御教えさえも、人間が考えたものなのだと思っていたに違いありません。実在のデウスが預言者に与えた教えではなく、人間の思考の産物だと」
 冬姫は次兵衛にだけそう言った。
「死を恐れる人間の、永遠に生きたいという願望が、魂の不滅を説くデウスの御教えを産んだ……父なら、きっとそう思うのではないかと」
「そうですなあ。世のほとんどの人間は弱く、死後の世界の存在と魂の不滅を信じるものでしょう。御仏を信じる心もデウスを信じる心も、死への恐れ。死をも恐れぬ豪傑も、死後の世界の存在を信じてそこへ逃げているから、この世で死をも恐れぬ振る舞いができるのやもしれませぬ。魂の不滅を信じない者は、怖じ気づいてなかなか死ねないものでしょう。それでも潔かった上さまのような、心猛きお人は二人とおりますまい。姫さまは御父上の影響を受けて、神なぞお信じになれないのでしょう?」
「いえ……」
 そうでもない。忠三郎の信じるものだからか、どこか信じる部分もあるし、父の影響か、疑う部分もなくもない。
「まあ確かに、そうですわな」
 次兵衛は宗教とはそういうものだとでも言いたげに笑った。次兵衛の心も冬姫と同様なのかもしれない。
「それにしても、殿はどうして信じるようになられたのでしょうな?」
 忠三郎が信仰を持つ理由。それは本当に謎だ。





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 松ヶ島は城も町も復旧作業中である。しかし、どこから手をつけたらよいのかわからない状態だった。
「面倒な!いっそ更地ならよかったのだ」
「全く別の場所に一から新しく作った方がましだ」
 そんなことを口にする者もいるほど。
 そんな状況に、冬姫は毎日自ら手を出したくてならなかったが、懐妊中の彼女は、皆からじっとしていることを強いられ、何とももどかしい。
 忠三郎などはついに投げてしまったのか、今は不在である。
 実は世界の情勢を知ろうと、オルガンティーノを訪ねていたのだ。彼にとっては、己の領内も勿論大事だが、それよりも、日本全体の置かれている状況の方が気掛かりだった。
 忠三郎は受洗する少し前に、ポルトガルに枢機卿出身の聖職者の王が立ったことを知った。今では、ポルトガルがスペインに併合されたことも知っている。
 これは、六右衛門によってもたらされた情報ではなかった。忠三郎自身が、国内にいて知り得たことである。
 ポルトガルはジョアン3世の後、僅か3歳で王位に就いた孫のドン・セバスチャンが治めていた。幼少であったので、スペイン王室出身の祖母・カタリーナや、ジョアン3世の弟・ドン・エンリケの補佐を受けていた。
 しかし、青年になると、セバスチャン王はモロッコを手に入れようと、無理な戦をし、戦場で姿を消した。
 その遺体は見つからず、王は生きているとか、復活するなどと信じる者も多いのだという。
「最近特に、ポルトガル人達はそう信じる傾向にあります。信じたいのでしょう」
 オルガンティーノは他人事みたいに言ったものだ。
 セバスチャン王はまだ若く、独身だった。イエズス会の日本巡察師・ヴァリニャーノが東洋に派遣される前、謁見したのはこの王だった。
 王が後継なく亡くなったため、大叔父のエンリケ王が即位した。
 エンリケ王はセバスチャン王の祖父・ジョアン3世の弟で、枢機卿であった。聖職者だったので子はなく、しかも高齢だった。そのため、すぐに亡くなった。
 後継者候補は数名いたが、エンリケ王はそれを指名できないまま亡くなってしまった。それで、後継者争いが生じた。
 セバスチャン王のモロッコにおける敗戦によって、ポルトガルはかなりの財政難になっていた。そこに目をつけたスペイン王のフェリペ2世(母はジョアン3世の妹)は、貴族達に賄賂を渡すなどして後継者に名乗りをあげたが、金では地元の支持を得られず、アントニオ(ジョアン3世の甥)と対立。
 結局戦になった。フェリペ2世がリスボンを陥落させてアントニオを追い、スペイン王でありながら、ポルトガル王をも兼ねることになったのであった。
「そのような経緯で王となったフェリペ王は、ポルトガル人達に歓迎されているのでしょうか?」
 忠三郎は、セバスチャン王不滅を信じる者がいるという先程の話から、フェリペ王はポルトガルの人々に歓迎されていないのではないかと思った。
「歓迎されるわけないです」
 オルガンティーノは笑った。
 向こうでポルトガル人達が練習しているのだろう、先程から『クレド』がこちらにまで聴こえてきている。
 その荘厳な歌声に、神聖な心地になりながらも、忠三郎は気になることを躊躇いがちに訊いた。
「パードレ達の中にも、様々な国の方がいると思いますが、その、パードレ達はどうお思いなのでしょうか?」
「私達は人間です。自分の国には愛着がある。揉めないといいんですがねえ」
 イエズス会の伴天連、伊留満には、スペイン人もポルトガル人もいる。彼らの間に微妙な温度差が生じていることを、オルガンティーノも認めた。ポルトガル人にとっては、自国がスペイン人の支配下にあるのは面白くないものだ。
「では、フェリペ王になって、何かこの布教活動のあり方にも、変化はあるのですか?」
 ポルトガルはセバスチャン王の時代から、枢機卿のエンリケが補佐をしていた。その後、そのエンリケが王となった。イエズス会はそのようなポルトガル王室の保護下にあったのだ。
「変わらないと思います」
 フェリペ王は信心深い。カトリックの修道会は保護するはずだし、カトリックは世界に広がらなくてはならないと思っているはずだ。
「では……」
 さすがにその先は言えなかった。何度言いかけて果たせなかったか。
 ポルトガルに日本征服計画はあったのか、スペインにはそれがあるのか──オルガンティーノが部外者のイタリア人とはいえ、ポルトガル王室と深く関わっているイエズス会の司祭である以上、なかなか聞くには勇気と覚悟が要る。
(ここをどう聞き出すか。どう探るべきか)
 忠三郎は六右衛門がいてくれたらと思う。
(いや、六右衛門が向こうで答えを見つけてくるはずだ!)
 ローマに行けば、答えは見える。だから、彼を行かせたのだから。
「ところで、蒲生さま」
 オルガンティーノが急に眉を寄せ、悲しげな顔になった。
「妹様が殿下の淫乱の餌食になったとか。あまりにお気の毒なことです」
「それは……」
「殿下は美しいと聞けば、手当たり次第に、女の方を集めていると──蒲生さまの妹さまもその被害に遭われたと聞いて、悲しく思っております。蒲生さまは信長さまの婿、とても大事なお方です。殿下に蔑まれるようなことは許されません」
 オルガンティーノはとら姫の一件を勘違いしている。珍しく早口でまくし立てるので、それは誤解だと言う機を逃してしまった。
「蒲生さまは我等にとって、とても大事なお方。信長さまの後を継承すべきお方なのですから。それを秀吉殿は横から奪ったんです」
「信長公の後を継承?」
「そうでしょう?婿なら、資格があります」
「御本所(信雄)や三法師様がいらっしゃるのに……」
「いえいえ、我々の国ではよくあること」
 西欧では、婿が王位を継いだり、息子が母の実家の王家を継ぐこともある。
 日本でも婿養子というのはある。だが、それはあくまでその家に男子がない場合だ。
「フェリペ王だって、ポルトガル王室に男系の王子がいたのに、ポルトガル王になりましたよ。信雄殿に力がないなら、織田家の王には蒲生さまがなるべきです。次の天下様は蒲生さま」
 フェリペ2世がポルトガル王を兼ねることができたのは、そもそも王位を求めたアントニオが庶子だったからである。神の前で結婚を許された男女のみが正式な夫婦なのであり、その間に生まれた子以外は庶子になる。それは妾腹の子に限ったことではない。
 アントニオの場合は、父が独身であり、正式に結婚した夫婦の間にできた子ではなかったために、庶子なのである。
 オルガンティーノは、信長の息子は全て側室の子だから、後継者に該当する人はいないと思っているのかもしれない。ただ、ここは日本であり、日本には日本の風習があり、また、キリスト教が入ってきてまだ日も浅い。
 伴天連がどう喚こうが、日本の後継者の決め方に変わりはない。それでも、信雄を最初から過小評価しているのは事実である。信雄が美少年を愛玩すると、噂で聞いたせいかもしれないが。
 だから、オルガンティーノは自分達の感覚で、
「蒲生様が天下様。信長様の後継者」
と言ったのだ。
 困る。
 しかし、どうしたわけかこの時の忠三郎には、天下様という言葉がとても甘美に響いた。西欧だったら、当然織田家の後継者だというその言葉に、頭がじいんと痺れる。
(だからこそ、イエズス会総出で毎日デウスに祈りを捧げていたんですよ。あなたを我等に下さるようにと。信長の息子達が次々に消えて行ったのは、デウスの御摂理です)
 オルガンティーノは忠三郎という大魚を網にかけた日の喜びを思い出し、この聖なる教えを日本に根付かせるためには忠三郎が日本の王になるべきなのだと思った。
(レオさま、王者)
 レオはラテン語で獅子。獅子はイスラエル周辺では古くから王者であり、歴代のローマ法王もレオを名乗る人が多い。レオ1世といえば聖君で知られる。
 忠三郎にはそのレオが、洗礼名として与えられている。
「日本には辛酉革命という面白い伝統があると聞きました。前年の庚申から人の心が冷酷になり、辛酉に至ってついに革命が起こると。それを防ぐために辛酉には必ず改元してきたそうですが、永禄四年だけはしなかったとか?信長様の心が残虐になり、今川義元を討つという奇跡を起こしたのが庚申、翌年生まれたのが冬姫さま。信長様が天下を見たのは、庚申に強敵を討って自信をつけた、その翌年、辛酉でしょう。その辛酉の姫さまを得て、信長様の婿となられたのですから、蒲生様が信長様の後を継いで、日本の王様になるということです。デウスのご意志だってそうです。伊勢神宮を蒲生さまの手に渡して下さったことが、何よりデウスが蒲生さまをお選びになったという証拠」
 デウス以外の神──悪魔の社は破壊しなければならない。
 その中でも別格の、天皇にゆかりの伊勢神宮。そして、易姓革命防止のために行われてきた辛酉革命。それを唯一しなかった年に生まれた人の婿だから云々という、オルガンティーノの言わんとしているところの意味。
「伊勢。それについては、かなり難しいと思いますが」
「勿論。早急なのはよくありません。ゆっくり行って下さい。でないと、逆に迫害されて危険です。それに、蒲生様が手ずからなさらなくとも、デウスが地震を起こし給い、既に打撃が与えられています」
「先にパードレを派遣して頂き、城下に教えを広め、民の改宗を進めるべきでしょう。異教徒を迫害するやり方は駄目だ。パードレを派遣して頂けないでしょうか」
 忠三郎、甘美が過ぎて、ことの重大さにあまり気付いていない。
 彼がイエズス会に近付いた本来の目的を失念しかけるほどに、甘美で。そして、それほどまでに神の教えは尊く、いつの間にか引きずり込まれ、どっぷり浸かっていた。
 いや、家中の統合のため、家臣達に戦場で死ぬことを躊躇させないため、スペインの日本への姿勢を探るためであることは、忘れてはいない。だが、つい──。

 すぐに、忠三郎は松ヶ島に帰ってきた。その時、冬姫は忠三郎の帰りを待ちながら、地球儀を回していた。
 以前、安土からもらってきた地球儀。いつも忠三郎が見に来て、ほとんど彼が使っていた。そのうち貸し出したままになって、いつしか本当に忠三郎の所有物みたいになっている。
 そういえば、忠三郎はまだあの阿弥陀像を返してくれていない。
 どうしてまだ持っているのだろうと、懐妊中の帯を自分でぎゅうと締める。有馬の湯治から帰ってきても、忠三郎への気持ちに変わりはないのに、何故か時々、心が鬱ぐ。
 また地球儀を回す。指はちょうどバチカンの辺りに置いてあった。
 ふと、嫁いだばかりの頃、忠三郎が、信長は世界を見ていると言っていたことを思い出した。よくわからなかったが、こうしてその形見の地球儀を見ていると、忠三郎の言う通りなのかもしれない。
 忠三郎の最近の興味も、世界のようで。
「もろこしも夢に見しかば近かりき思はぬなかぞはるけかりける……」
 思わず口にした。
 その時、天下という媚薬に中てられ、すっかり甘美に浸ったままの忠三郎が来た。
 改めて、信長の婿ということがいかに大事なことかと実感する。
(この冬姫さまだけが私を織田信長の婿という存在にしてくれる)
「ローマは夢の中でさえ遠い。それより遠い人の心というものなぞありますまい」
 忠三郎は冬姫の傍らに座り、地球儀のバチカン辺りにある冬姫の手を取った。そして、くるりと日本まで回した。
 いかにローマが遠いか。一目瞭然だ。
 忠三郎には、冬姫の心に寄りそっているという自信がある。
 神は天地創造の初めから、人を男と女に造った。信頼し、支え合う存在として。だから、人は妻と一体になる。二人は別々ではなく一つだと、イエスもそう説いているとも。
 万物は陰陽が一つになって生じる。両儀一対、陰と陽で一つだから、切り離せない。──という、古くからある陰陽の思想にも相同じ。
 忠三郎は特にこの時、おかしな高揚感に包まれていたから、冬姫の寂しさには気づきもしなかった。ただ、この高揚感が、いつになく彼を饒舌にし、それが冬姫の心にはよい方に作用したのは、その神の御摂理とやらかもしれない。
「まだまだ六右衛門は帰って来られませんし。もうローマには着けたのかなあ?まだかなあ?」
「……ああ、使節のことですか……ローマにしか行かないのですか?」
 冬姫はスペインに寄らないのかと疑問に思った。
「王に謁見する必要はありましょうな」
 冬姫も、ポルトガル国王の座を、フェリペ2世が兼ねるようになったことを知っている。
「だが、ローマが先でしょう。六右衛門が帰ってきたら、次に出す使節は王に謁見できるようにしたい」
 その答えを聞いて、忠三郎が単純に信仰心のためだけに、ローマへ使者を遣ったのではないことが察せられた。
「そうだ、フェリペ国王といえば、パードレから聞いたのだが──」
 ポルトガル国王になったいきさつなど、普段は口にしない教会で聞いてきたことを喋った。
「王統には男子がいたのに?」
「日本とは違いますよね」
「民が先々代の王の復活を信じているということは、その王位を争った方は亡くなってしまったのでしょうか」
「いや、逃げて虎視眈々と機会を伺っていると聞きましたよ」
 先代王・エンリケの甥のアントニオは、フェリペ2世と王位を争って敗れた後、フランスに逃げたという。オランダ(ネーデルランド)など、スペインと微妙な関係にある勢力を集め、海戦に及んだと聞く。
「ただし、フェリペ王はポルトガルの国王も兼ねているだけで、ポルトガル貴族も大事にし、民達の生活は何一つ変わらないようです。ポルトガルが完全にイスパニア(スペイン)に取り込まれてしまったなら、皆反発するでしょうが、ポルトガルはもとのポルトガルのまま。アントニオという方が、ポルトガル人達にどこまで支持されるか」
 ポルトガル人はフェリペ王の治世を受け入れているだろう。
「ただ、異国人に支配されているということが、ポルトガル人には癪に障るといったところでしょうか」
「では、一悶着ということもなさそうですね」
「いや、待って。確かに、ちと気になりますね」
 アントニオの出方によっては、スペインとポルトガルの間に何か起きるかもしれない。とすれば、あるかもしれない日本征服計画にも変化が生じようか。
 ふと、冬姫の目に、最近にはない生き生きとした輝きがあることに、忠三郎は気づいた。信長に似て、異国の物や、珍奇な物に興味を覚えるのだろう。
 安土にいた時は、信長に連れられ、嬉々としてオルガンティーノを訪ねていたのだ。
「デウスの御教えを聞きたいですか?」
 冬姫は頷いた。忠三郎が何をもって、わざわざキリシタンになるまでに至ったのか。どの教えに感化されてのことなのか、知りたい。
「では、時々私がお話ししましょう」





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 この時期、家康と秀吉の和睦に奔走する者がいた。信雄である。
 家康からしたら、勝手に秀吉と和睦した信雄の手など、借りたくはない。
 ただ、呉越同舟という。信雄も家康も近くにあって、共に地震の被害に遭った。家康も少なからず打撃を受けたのだ。今は和睦に応じた方が得策だと思った。
 以後、これは良い方向に進んで行く。
 そして、秀吉には一刻も早く家康と和睦しなければと思う理由があった。
 信長が抱えていた対外対策。これまで、信長の下で国内の制圧にのみ専念してきた秀吉だったが、これからは外国にも目を向けなければならない。
 秀吉は、かつて信長が言っていたことについて、改めて考えていた。
 ポルトガルは日本を征服するために、伴天連を送り込んだのではないかと秀吉が訴えた時、信長は笑って言ったのだ。
「その噂はよく耳にする。それについて、俺に意見する者もいる。だが、考えてもみろ。現在までに日本を攻撃することができたのは、朝鮮だけだ。蒙古が当時の高麗を占拠して、つまり今の朝鮮から攻めてきたのだったが。新羅やら刀伊やらの海賊もまあ、蒙古とは比べものにはならぬが度々襲来してきたな。それとて朝鮮から来たのだ。つまり、日本を攻めることができるのは、朝鮮の国土からくらいなもの。ポルトガル人には無理だろう。かくも遠隔の地へ、どうやって仕掛けてくるというのだ?奴らの技術は恐ろしく優れているが、それでもしょっちゅう沈没している。ポルトガルから日本に遠征するには、かなりの軍船が必要だろう。日本の武士は強いぞ、武器も揃っておる。生半可な軍勢では我等を破れぬ。だが、それだけの軍船を揃えて、日本に到達する前に波に呑まれておっては、損失が大き過ぎる。危険を冒して、利少なき事に手を出す馬鹿はおるまい。奴らはもっと近くて弱い所を狙うはず」
 だが、彼等は世界中を攻撃して、すでに多数の土地を得ている。モルッカ(インドネシア)の島々やルソン(フィリピン、ただしスペイン領)などは彼等のものだ。
 東南アジアにまで進出してきているのに、日本に攻撃できないはずがない。
「モルッカを拠点に軍船を造り、軍勢を整えれば、奴らの技をもってすれば、日本に攻められましょう」
「そうだな、奴らが日本を攻めるとすれば、まずお前の言った辺りに集結させ、そこで十分準備してからだろう。だが、さような動きも気配も見られぬ」
「先手必勝、彼奴等の準備が進む前に、我らは朝鮮に砦を築いて備えるべきではございますまいか?彼奴等に朝鮮を取られたら、いつ日本に攻められるかわかりませぬ」
 この話をした頃、まだポルトガルはエンリケ1世の治世だっただろうか。
 信長も亡くなる前に、ポルトガルがスペインに併合されたことを知ったはずだ。だが、その頃、秀吉は毛利攻めで、信長の傍にはいなかった。
 信長がその時期何を思っていたのか、秀吉は想像しかできない。
(上様、わしはどうすりゃいいんじゃ?)
 その後も、秀吉は朝鮮に前線基地を持つべきではないかと、時折口にすることはあるのだが、意見を求めた相手からも正解と確信できるような解答を得られていない。
 秀吉が改めて対外政策について考えるのも、秀吉には大坂城で、日本準管区長ガスパル・コエリョを引見する予定があったからだ。
(イスパニアは、コエリョはポルトガルとは別な考えか?同じか?伴天連は誰に従って動いてるんじゃ?)

 その日、コエリョを大坂城に迎えた秀吉は、コエリョに対して、かつて信長がしたように歓待することにした。
 諸将の前で、伴天連たちを寵愛しているように見せ、次いで奥の間に入れてもてなし、信長がしたように、重臣にも側近にも許していない最奥まで見せて歩く。
 そうすることで、しばらくイエズス会の様子を見ようと思った。
 コエリョは伴天連を四人連れていた。フロイス、オルガンティーノに、ダミアン・マリン、グレゴリオ・デ・セスペデスである。日本語に通じるフロイスは通訳であった。
 フロイスは、エンリケ1世の在世中に出された命令により、日本布教史を執筆していた。『日本史』というもので、フランシスコ・ザビエルによる日本布教の創始から記されている。すでに信長が安土に君臨していた頃辺りまで書き終わっていた。
 秀吉はコエリョと四人の伴天連だけを部屋に呼んで、親しく会談しようとした。ただ、彼等へ疑いを持っている秀吉は、彼等の事情に詳しいであろう高山右近だけを同席させ、何か問題があれば、後で見解を聞こうと思った。
 問題は起こった。
 コエリョが何事か言ったのを、フロイスが日本語に通訳したのは──
「我々の使命は、世界中の霊魂を救うことです。まだ全ての日本人を救えていませんが、殿下のご配慮により、布教を随分進めることができています。問題は九州、そして明です。九州は悪魔に蹂躙され、戦乱で荒廃しています。明は未だ悪魔によって深く閉ざされたまま。かの地の人々の魂を救うため、殿下のお力を貸して頂きたいのです」
 秀吉は途中から身を研ぎすまして聞いた。
(明を攻めろだ?)
 だが、決して荒唐無稽とは思わなかった。
「未だ国内の平定が終わっていない。九州も奥州も平定しなくてはならぬ。全国一統が成らぬうちに、かようなことができようか」
「さしあたって。すぐにも九州に出陣して下さい」
 フロイスがそう訳した。
「ふむ。で。日本全国を統一したなら、明か……明は大国、わしが負かせられるような相手ではない」
 秀吉には意外に思われた。ポルトガルは、いやスペインというべきか、その得体の知れない大国は、日本を蹂躙するつもりだと思っていたが、この要求は何だろう。
「もちろん、軍船などの製造にはポルトガルもご協力致します。ご用意も致します」
 秀吉はここでまた信長の言葉を思い出した。
 日本は海に囲まれた島。異国からの攻撃は元(蒙古)からしか受けたことがない。その元も、日本を攻めるのは困難と見て、攻め取った高麗、つまり朝鮮半島から攻めてきた。
(ポルトガルだかなんだか知らんが、言うこと聞かなきゃ、日本を力で攻めるぞと言うのか?)
 現実問題として、彼等がそれを容易にできるほど、日本の近海は生やさしくない。とはいえ、可能性がないわけではない。
「わかった。そうしよう。その時は、船を頼むな」
 そう返事をしておいて、あとは丁重にもてなしておいた。
 コエリョらを送り出した後、しばらく秀吉は考える。
(南蛮人どもは明を狙っているのか。難儀ゆえ、わしにやれと言うのか。もし、奴らが明を手に入れ──明のついでに朝鮮をも奴らが占拠してしもうたら、南蛮人ども、いよいよ極めて安全に日本を攻撃できてしまうよの?いや、明より朝鮮の方が落とし易い。明は無理でも朝鮮は手にできるかもしれぬ。──奴らが朝鮮から攻めてくる!奴らに騙され、協力させられた果ては、日本は南蛮人どもに蹂躙されるということか!奴らに朝鮮を占拠させるわけにはいかぬ)
 朝鮮の軍事力を調べる必要がある。秀吉の伴天連への疑惑はますます深まった。

 高山右近はオルガンティーノに、コエリョの発言の意味について質問していた。オルガンティーノの答えは。
「九州の敵を討てるのは、もはや殿下くらいしかいません」
 敵とは非キリシタンの領主たちのことである。彼等は強かった。一方、キリシタン領主達は弱かった。
 キリシタン領主達が、領内の民を悉くキリシタンに改宗させても、非キリシタン領主に敗れ、その地を追われてしまうと、残った民は迫害されるか仏教徒にさせられる。伴天連のそれまでの布教の努力が水泡に帰してしまう。
 そうならないように、キリシタン領主に武器を与えて援助してきたのだが、結局うまくいかなかった。
「だから、これはもう殿下のお力をお借りするしかないのです。殿下は我々に愛情を示して下さっています。殿下なら、きっと敵を討って下さるだろうと」
 それが、九州への出陣依頼の理由だという。また、明にキリスト教を伝えたいというのはイエズス会の希望、夢である。秀吉の愛情、何より軍事力を信頼して、あのように頼んだのだ。
 オルガンティーノから説明された右近は、後で秀吉にそのまま話した。
 秀吉は右近の説明には釈然としなかったが、それでも、大坂に来た豊後の大友宗麟から九州の情勢を聞くと、九州には近々出兵すべきだろうと思った。
 宗麟はキリシタンである。秀吉は、九州のキリシタンなら、右近とはまた別なことを言うのではないかと、コエリョについて聞いてみた。
「余り好かれてはいませんな、多分……」
 宗麟は曖昧に言った。
「それは前任者のカブラルではないのか?」
「かの人もですが」
「コエリョはポルトガル人か?」
「そうです」
「何故明を討てと言う?奴はポルトガル人だろ?イスパニアのために版図を拡張させるのか?」
「王はもっと思慮深いと思いますが。日本に明を討たせて、それを日本がイスパニアに手渡すなどと、左様な楽観はしていないと思います。日本が明を討ったなら、それは自領だと日本が主張することくらい、王にも分かっておりましょう。共に明を攻め、明を手に入れたら山分けしようと提案するならわかりますが──まったくパードレの考えることは、いつもよくわからん」
 コエリョもカブラルも、いつもわからんと言った。ヴァリニャーノもわからんことがあるとも。
「ああ、備慈多道留か」
「はい。未だにそれがしの名代として、羅馬に連れて行かれた子供達のことが釈然としないのです」
 宗麟が大村純忠と有馬鎮貴と共に、スペイン(ポルトガル)国王とローマ法王への使節として、四人の少年を遣わした。これは有名な話である。
「わからんて、自分で出した使いじゃろ?」
 秀吉は、目の前の老人は耄碌でもしたかと思った。
「あれは、ヴィジタドールが日本を発つ直前に、俄かに思いついたものらしいです。それがしは遠くにおりましたから、相談している時間はなかったようで。ただ子供を羅馬に遣ると聞かされました。で、何のためにと尋ねると、ラモンという者が、向こうの人々に日本人を見せるためだとか申しまして。ようわかりませんでしょう?」
「確かに。見せ物とは妙な話じゃの」
「しかも、それがしの名代だという子供が、これまた知らん子で。何でも、安土のセミナリオにいた子を派遣しようとしたらしいのですが、出発間近だったので、安土から呼び寄せる時間がなく、その辺におった子を代わりに選んだのだそうです。ただ、確かにそれがしの縁者ではあるようですよ」
「益々変じゃ」
 ヴァリニャーノはいったい何のために、少年達をフェリペ2世に会わせ、ローマに派遣したのか。
 宗麟の話は秀吉に、より不信感を抱かせることとなった。

 秀吉にどう思われているか知らないカブラルは、オルガンティーノとの話にほくそ笑んでいた。伊勢神宮の地の領主がキリシタンとなり、しかも日本の天下様に相応しい血筋で、キリスト教にすっかり心酔しているというので。日本の宗教をキリスト教のみに一変できる可能性が出てきた。
(日本の王の社が消えれば、日本全国を我等の御教え一色にでき、王も──。その時、我等の王が立つこと叶う)
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