大切に──蒲生氏郷

国香

文字の大きさ
24 / 47

ローマから来た騎士

しおりを挟む
 家康と和睦した秀吉は、家康へ、何とか上洛してくれるよう頼んだ。だが、家康は不承不承に和睦したので、なかなかそれには応えない。
 秀吉は、四十を過ぎた妹を家康に嫁がせることにした。この妹には夫がいたのだが、無理に離縁させて、家康のもとに送り込んだのである。
 今の家康には正室がいない。人質でもあるので、家康は秀吉の妹を迎えたが、なおも上洛する様子を見せなかった。
 九州へ出陣する前に、家康との関係を盤石なものにしておかなくてはならない。でなければ、秀吉の留守を狙って、必ず家康が動くであろう。
 秀吉は是が非でも家康を呼び寄せようと、今度は自分の母を人質に差し出した。本当に秀吉の母が家康のもとに下向してきたのである。
 さすがに家康も重い腰を上げざるを得なくなった。
 家康は十月二十六日に大坂へ入った。観念して秀吉へ臣従すると、秀吉は満足して家康を連れ、京へ向かった。
 十一月には、家康は秀吉の聚楽第の中にいた。真新しい聚楽第は息をのむばかりの豪華さで、家康でさえ感嘆しきりであった。
 この時、忠三郎も秀吉の供の人数に加えられていた。
 秀吉はあらかじめ朝廷へ根回ししており、五日、除目があった。秀吉はこの時、家康だけでなく、頼みの大名数名も伴って、御所に参じた。忠三郎も参内させられた。
 家康は正三位に。
 忠三郎は従四位下、侍従に任ぜられた。先に飛騨守になっていたので、侍従を兼任するようになったのである。
 それで、忠三郎は松ヶ島侍従と呼ばれるようになったが、一方で、相変わらず蒲生飛騨守とも呼ばれる。
 間もなく家康は帰って行き、秀吉の母も戻ってきた。ようやく秀吉は、九州に向けて出陣できるようになったのである。

 忠三郎が京にいた頃、松ヶ島ではちょっとした騒ぎが起きていた。
 海辺に建つ松ヶ島城。濠としての役目もあったその磯に、一隻の小早舟が現れた。
 すわ、狼藉者かと城側では身構えた。しかも、乗っていた者の中に、明らかに異様な風采の男がいたのだ。
 立ち上がると、周囲の男達の二倍は大きい。しかも、髪の色は赤く、肌は白く赤みがあり、日本人でないことは一目瞭然だった。おまけに、やたら大きな鉄砲を肩から担いでいた。
 舟は、城から出す停止命令を無視して、どんどん近づいてくる。ついには鉄砲の射程圏内にまで至った。
 だが、船上の異人はのんびりした様子で、どうやら大声で歌っているらしい。朗々と聴いたことのない旋律が、城の内にも届く。
「なんだなんだ?歌か?呪文か?」
「ふぁらら?ふぁらとは何だ?」
「溌剌かの?」
 城にいた者達は首を傾げた。だが、相手は武器を持っているし、危険だ。城側でも、弓や鉄砲を手に構え、再び停泊を命じた。
 すると、異人は初めて慌てふためき、歌らしきをやめ、両手を小刻みに振りぬいた。
「違う違う!それがし、友達友達!」
 日本語で喚き散らした。
「友だ?」
 城側の警戒はかえって増すばかり。異人はさらに慌てて、騒ぎ立てた。
「山鹿六右衛門殿知らないですか?それがし、六右衛門殿と友達です!」
 六右衛門と聞いて、城側の反応が変わった。
「六右衛門?確か、岩上殿と羅馬へ渡った者よな?」
「そうだ!」
 そう言い合っている間に、異人は肩から鉄砲を下ろすと、紙をくくりつけて、それをぼんっと投げて寄越した。それは砂の中に、見事、突き刺さった。いくら射程圏とはいえ、素手で物を投げて、届く距離ではない。それなのに、この巨漢はいとも容易く、大きな鉄砲を投げつけたのだ。
 城側では仰天して、さらに警戒を強める。
 投げられた鉄砲は見たことのないもので、くくりつけられた紙は書簡であった。だが──
「あ!」
 その宛名に仰天した。忠三郎宛ての書簡だったからだ。差出人は六右衛門。
 途端に大騒ぎになった。
 異人は上陸して城に入り、広間に通された。たまたま城にいた重臣や留守居達が集まり、異人を取り囲んで話を聞く。
「ジョヴァンニ・ロルテスです。それがし、六右衛門殿の友達で、六右衛門殿から蒲生様宛ての手紙、預かってきました。蒲生様に会わせて下さい」
「殿は京におわす、ご不在や」
「ええ?」
 異人が落胆したのを見て、家臣の中でもキリシタンの者たちが、
「話なら、わしが聞こう」
とか、
「お急ぎでなくば、我が屋敷へ滞在されよ。殿が戻られたら、取次いで進ぜよう」
と、興味津々と誘う。
 この時、冬姫は松ヶ島城にいた。
 冬姫は秋風が立つ頃、無事に姫を産んでいた。そして、この秋はここでゆっくり静養していた。産後の経過も順調で、もう通常の生活に戻っている。
 今年、忠三郎が母を引き取ったので、これまでとは違い、姑の側で出産することができた。姑がいてくれることで安心し、やや予定より早かったが、安産であった。
 ロルテスが来た時も、姑は冬姫の居間を訪ねていて、二人で世間話に花を咲かせていたのである。
 異人が来たと、表では大騒ぎになっている。騒ぎを聞きつけた次兵衛は、冬姫にそれを伝えようと、奥御殿にやって来た。冬姫が談笑しているのを見て、次兵衛はちょうどよかったと喜び、母堂・桐の御方に尋ねた。
「表で騒ぎが起きております。山鹿六右衛門の友と申す南蛮人が、六右衛門の書状を携え、殿に拝謁を願い出ているのです。ご母堂様には、六右衛門をたいそう御目にかけておられると伺っております。もしや、その六右衛門の南蛮人の友に、お心当たりなぞございませんでしょうか?」
「六右衛門に南蛮人の友がいるのは確かです。もしや、宝玉のような瞳をしていますか?六右衛門がそんなことを言っていました。名はロルテス様とかいったかしら」
 次兵衛はたいそう驚き、そのロルテスだと答えた。
「なれば、きっとそうね。今来ているというその人が、六右衛門の友人の南蛮人よ。会ってみたいものね。何でも六右衛門が私の世話をすることになったのは、私の身の上を知って、私が気鬱しているに違いないから、私を慰め仕えるようにと、その南蛮人に頼まれたからなのですって。見ず知らずの私を案じてくれた南蛮人。会ってみたい」
 冬姫は頷き、
「会いましょう。殿の代わりに義母上様と二人でその方に会うと、表に伝えて下さい」
と次兵衛に言った。
 ロルテスには広間で会った。周囲にいた家臣達は、末に下がって並んでいる。
「そなたがロルテス様なのね!」
 桐の御方はロルテスを見るなり歓喜の声を上げた。
 ロルテスもとても嬉しそうに、破顔して応じた。
「蒲生様の母上様!お幸せそうですね、よかった!」
 綺麗な瞳をしていると、冬姫はロルテスを見て思った。色々な伴天連や伊留満を見てきたが、どの人の目よりも澄んで、愛情に満ちていると感じた。
 母が一目見て、理由なく癒されたらしいのも頷ける。不思議な力の持ち主である。
「上様の姫様、はじめまして。ロルテスと申します」
 ロルテスは礼儀正しく冬姫に向かって平伏した。
「ロルテス様のお話は時々、山鹿から伺っておりました。お訪ね下さり、ありがとうございます」
 ふと冬姫は身をよじって、傍らの侍女に耳打ちした。侍女はすぐ出て行く。
 冬姫の、体を捻る様、それをゆっくり戻す様に、艶やかさを超えたものがあり、南蛮人でも色香を感じる。以前、安土でちらっと見かけた時は、可憐な可愛らしい印象を持ったものだった。幾年かを経るうちに、夫によって引き出されたのであろう、随分艶やかな女性になった。
「それがしはローマから日本に戻る途中、六右衛門殿はモザンビークに行く途中、インドで再会して、蒲生様への手紙、預かりました。それがしはパーパ(ローマ法王)に会えるよう、猊下に紹介状を書きました」
 しばしロルテスはインドでのことや身の上を話した。
 そして、どのようにして松ヶ島まで来たのかということを、簡単に説明した。
「船で堺まで来て、オルガンティーノ師父に会いに行きました。そして、六右衛門殿の手紙を渡すため、船でこちらまで来たのです。蒲生様に会えないのは残念ですが、姫様、母上に会えて良かった。二人ともお幸せなご様子。それがし、安堵しました」
 そこに、先程の侍女が来て、冬姫に耳打ちした。冬姫は頷くと、ロルテスを見やった。
「茶室の支度を整えさせました。どうぞそちらへ。おくつろぎ下さい」
 松ヶ島城はもともと冬姫の兄・信雄が建てたものだ。千宗易(利休)流のものとは違うが、茶室があった。それを忠三郎が好みに設え直していた。
 教会など、イエズス会の施設には、だいたい茶室がある。伴天連達も茶の味には慣れているはずで、ロルテスもイエズス会と深く関わっているようであるから、人目の多いこの場所より、茶室の方が落ち着くだろう。
 冬姫はロルテスを茶室に案内すると、あとは桐の御方と二人きりにした。六右衛門のことで、互いに何か話もあるだろう。
 夜になって、改めて城に泊まるよう告げ、忠三郎が戻るまで滞在させることにした。

 数日後。
 世の中には、生涯で初めて伴天連に会った日に、生涯で初めての説教を聞いて、その場で洗礼を受けてしまう人がいる。
 冬姫はロルテスに会って、そういう人の心理が初めてわかった気がした。ロルテスには不思議な、人を癒やす力がある。桐の御方もすぐに馴染んで、すっかり信用している。冬姫も信頼していた。もしもロルテスが伴天連だったら、冬姫もいきなりキリシタンになってしまったかもしれない。
 ロルテスは伴天連達とは違って、仏教にも寛大であることを知った。神社に対して興味さえ持っている。そこも冬姫には好感が持てる点だった。
 地震で倒壊した櫓の跡地に立っていると、ロルテスが近付いてきた。
 伴天連達の中には、来日するまで地震の概念すらなかった者もいるが、ロルテスはそうではない。だが、昨年の地震は体験していなかった。
 松ヶ島の人々に寄せる彼の心。それがわかるから、冬姫もたった数日でこの異人を信頼するようになったのだ。
 ロルテスは毎日城下に出ては、片付けや補修の手伝いをしており、また、どんな話をしているのか、人々を癒やしていた。
 城に戻れば、蒲生家のキリシタンの家臣達に、グィード・ダレッツォの『ヨハネ讃歌』や、『タントゥム・エルゴ・サクラメントゥム』という讃歌を教えていた。
 日本人の一般のキリシタンに歌わせる宣教師がいたからで、蒲生家の家臣達もミサで歌えるようにというロルテスの好意である。『タントゥム・エルゴ・サクラメントゥム』には、複数の作曲家が曲を作っており、幾つかの旋律が存在した。スペインで良く歌われる旋律があるが、日本にはそれが伝えられていた。
 だが、標準的な旋律は、イタリアで歌われている系統のものであり、スペインのは正統から逸脱した、スペイン独自のものである。オルガンティーノはイタリア系の旋律を日本人キリシタン達に歌わせており、ロルテスもそれを教えてくれていた。
 さて、その日、朝方出かけて、城に戻ってきたロルテスは、櫓の跡地に佇む冬姫に、何故かいきなりこんな質問をした。
「姫様はどうしてキリシタンにならないのですか?」
 冬姫はこの聖なる教えをよく聞き知っている。ある程度理解もしているようだし、夫がキリシタンなのに、キリシタンにならずにいるのは不思議に思えた。
 冬姫は振り返り、正直に答える。
「異教を信じる者は、悪魔に支配されているのだと聞きます。そのような霊魂は神の御国には行けないと。何故、悪魔に支配される哀れな霊魂はデウスに愛されないのか。愚かな人間の罪を許し、無償の愛を下さるデウスは、ご自分に背く者さえ愛して下さるものではないのかと──」
 まだキリスト教のことを、よく理解できていないのだと言った。
「わからないまでにも、受洗してしまえば、自ずとわかるようになるのかもしれないとも思うのですが、あえてそれをしないのは、デウスがわざと私の目を閉じさせているのかもしれないと思うからです。中には、初めてこの御教えを聞いて、即信仰に目覚め、その場で受洗する人もいます。それなのに、何度お話を聞いても理解できないのは、デウスが私が理解できないようにしていらっしゃるからではないかと」
 肯定も否定もせず、ロルテスはやわらかい眼差しを向けたまま、静かに話を聞いている。冬姫は伴天連には言えないことでも、ロルテスの前では自然に口にできるという事実に、内心驚いた。
「夫に、より深い信仰を持たせるためでしょうか。身近に悪い手本がいることで、夫がより熱心にデウスを信じるように──デウスが夫を不十分だと思し召し、私の目を曇らせているのならば、私は望んでもキリシタンにはなれないでしょう。私を伊勢の地に置いておかれるのも、デウスのご意志と存じます」
「伊勢?何故そう思いますか?」
「伊勢は古くから日本人の聖地です。だから、民も、他のどこよりも伊勢信仰が強く──この地でデウスは争いのもとにしかならないでしょう。それでも、夫は正しきものを信じ、キリシタンになりました。けれど、それでこの伊勢の人々はどう思うでしょう。畏れ多くも、主上……帝とて──。私までもがキリシタンになることはできませぬ」
 ロルテスは大きく頷いた。彼は、目の前の女人に為政者を見た。哲婦が城を傾けるというのは、唐土の誤った道徳観だと改めて思った。
「やはり上様の実のお子ですね」
 ロルテスは笑っている。冬姫には意外だった。
「私を悪魔憑きとは思われないのですか?」
「思いません。大丈夫、そんなに気にしなくて、良いですよ」
「夫は未だ、この地の民にデウスを押し付けようとはしていません。デウスは手緩い夫にお怒りではないでしょうか?」
「先程から聞いていますと、姫様は蒲生様の信仰心に疑いを持ってるようですね。何か心配なことでも?」
 忠三郎は伊勢神宮に対して、今のところ敵対する様子はない。民に対して、熱心な布教もしていない。
 その上、昔冬姫が贈った、彫漆の厨子に入った阿弥陀仏を持ち歩いている。
 忠三郎がキリシタンになったと聞いた当初は、彼が阿弥陀を破壊してしまうのではないかと疑った。キリシタンには不要なはずだし、捨てるなら、父の形見なのだから返して欲しいと思った。しかし、忠三郎は未だ大事に持っているらしい。最近は、それでデウスの怒りに触れるのではないかと心配になった。
 阿弥陀は敵である。彼がそれを手放さないことなど、伴天連やキリシタンの家臣たちに相談できるわけがなく、冬姫は心配を誰にも打ち明けられずにいた。
 ロルテスなら。彼にならば、打ち明けても大丈夫だろうか。
「昔──」
 阿弥陀とは伏せて、話してみた。
「私がまだ幼かった頃、父の小姓だか人質だか、よく知らぬ無礼者が寄ってきて、私を好きだと言いました」
 興味津々な話題と見え、ロルテスは目を輝かせて身を乗り出す。
「あまりに無礼で突然で、私は父から貰った宝物を渡しました。腹立たしく、悲しくもあり、くやしくもあったのです。どうしてそのような感情に支配されたのか、わかりませぬ」
「それで、宝物をあげたというのはよくわかりませんね」
 ロルテスはいちいち楽しそうだ。
「私は父が嫁げと命じた人のもとにしか嫁げません。好きと言われた衝撃は、生涯忘れられないでしょう。私は生涯この無礼者を忘れることができなくなるのだと思うと、責任を取って欲しくて……相手も身分はある人、私と同じように、家のため、親の決めた人を妻にしなくてはならない。妻を娶ったら、私への無礼を忘れるかもしれない、だから。手元に私が贈った宝物があったら、嫌でも私を思い出すでしょう。私を生涯忘れないように──宝物を渡しました」
 ロルテスは声を出して笑い、姦淫させようとしたと罵るどころか、冬姫を可愛いいと言った。
「姫様は、ご自分のことを忘れられたくなかったのですね。姫様は真実の恋をなさったようです」
「恋?あれが?」
「そうです。姫様はその人に一目惚れしたんですよ。それがしの故郷や周辺の国々では、最近、こんなことをよく言います。一目惚れこそ真実の恋。一目惚れでないものは、まことの恋でないと」
「……一目惚れ?私は腹が立ったのに?」
「それでいいんです。初対面の時、怒りがわいたり、嫌悪したり、それも一目惚れです。憎悪は愛の裏返し、嫌悪は快感の紙一重」
「でも、一目惚れだけが真実の恋とは……初めて見た時に何か感じたのだけが恋なのですか?」
「長く一緒にいるうちに、いつしか友情が恋に変わったなんてよく聞きますが、それは違うと言いますよ。真実の恋の相手には、初めて会った時から何か感じるもの。何も感じなかった人に、次第に想いが出てきても、破滅してでも貫く恋にはならぬでしょう。長らく友人だった男女が恋人になる場合も、思い返せば、初対面の時には、何らかの強い衝撃を受けていたはずです」
 冬姫は忠三郎に一目惚れしていたのだと指摘されるまで、自分のことなのに気づかなかった。父が自分に与えた男ゆえに大事にした、父が大事にしたいと思っている男ゆえに冬姫も大事にしたのだと。
「それで、その宝物はどうしました?」
「あ、ええ、今でも夫は持っています」
「夫!?」
 ロルテスは目を丸くした後、思いきり幸せそうに笑った。
「ああ!姫様が真実恋した相手は蒲生様だったのですね!」
 冬姫は今さらながらはにかんだ。
「姫様は蒲生さまのことを本当に本当に愛しているから、そんなにも心配なんですね」
「それが……渡した物が、阿弥陀様だからなのです」
「阿弥陀……」
 ロルテスでもさすがに困っただろうと冬姫は思った。
「夫は私から贈られたものであることを気にして、捨てられないのでしょう。でも、キリシタンに許されることでしょうか?夫から返してもらうべきでしょう?」
 ロルテスはしばらく黙った。よく考えた後で柔和に言う。
「阿弥陀は大丈夫。あまり思いつめないで下さい」
「大丈夫って。夫が持っていてもですか?」
「多分。阿弥陀は多分、デウスと関係あります」
 冬姫は目を見開いた。
「関係?聞いたこともありません」
「まだパードレたちにも言ったことはないのですが、遠い昔、日本に我等の聖なる教えが伝わっていたようです。それがし調べました。阿弥陀は我等の聖なる教えと関係あります」
 仏教は敵だ、阿弥陀は大悪魔だと伴天連たちは口を極めて否定するのに、このロルテスは──。
 阿弥陀を信仰するだけで救われるというのは、キリスト教と同じだ。いや、その影響を受けて、阿弥陀信仰が始まったのだ。
 ロルテスはそう言って冬姫を驚かせた。
 唐の時代、その都に景教(キリスト教ネストゥリウス派)の教会・大秦寺があったが、日本からの留学僧は、おそらくそこでキリスト教に触れる機会があったのだろう。弘法大師が学んだかの青龍寺も、大秦寺の近くにあったという。
 また、多数の渡来人の中に、景教徒もいたのであろう。
 アッシリアに敗れた北イスラエルの人々が日本に渡ってきた可能性は、神社を見るとあるように思われるが、仏教については景教の影響ではないかとロルテスは考えている。
 ロルテスのその話にも驚いたが、冬姫には、真の恋は一目惚れからはじまるということこそ衝撃だった。冬姫は初めて会った瞬間から、忠三郎に恋をし、ずっと好きだったのだ。それも、真実の恋。その事実に──。無上に嬉しかった。

 翌日の午後、ロルテスは庭でファララと軽快に口ずさんだり、時にアルカデントの『アヴェ・マリア』を歌いながら、鉄砲を磨いていた。
 冬姫はロルテスを見ると、茶に誘った。
「ロルテス様、干し柿が届きました。いかがですか?」
 ロルテスは干し柿が好きだと言っていた。以前、堺の豪商の所で出された干し柿が大変美味しかったと。
 庭には沢山の見慣れぬ武器が積まれていた。ロルテスは干し柿と聞いて目を輝かせながらも、手はせっせと動かしている。
 移動させるのも悪いので、冬姫はその場に干し柿と茶を運ばせた。日本人なら、白湯でも飲むところだが、南蛮人には白湯というものがどうにも受けつけないと聞く。ロルテスは茶は飲むようなので、白湯の代わりに茶を出した。
「ありがとうございます!」
 ロルテスは鉄砲を置くと、縁の下にうずくまって干し柿を食べ始めた。
「そのように──かしこまらなくてよいのに。そこに腰掛けて召し上がって下さい」
 広縁に座らせ、冬姫は邪魔しないよう、侍女達と立ち去ろうと思った。しかし、ロルテスが話し掛けてきた。
「あれをどう思いますか?」
 庭の武器を指差した。
「ロルテス様のお国のものですか?」
「そうです。蒲生様が気に入ってくれたら、献呈します」
「まあ!」
 日本にはない、イタリアの武器である。日本の物より性能に優れているであろうことは、冬姫でもわかる。
「日本は遅れていますのね……ロルテス様のお国では、どれ程の量の火薬を放てる大砲がありますか?地震でも嵐でもないのに、山崩れや洪水を起こし、町を無にしてしまう程の物は、あるのでしょうか?」
 その問いに、ロルテスの脳裏に、かつて自身が体験した光景が蘇った。今は考えないようにしている、オスマンにマルタ島を包囲された時のことである。感情が涌き出す兆しに、頭を振り、単純に自分達の艦隊の様子を語った。
「我々の、ある艦隊、ガレオンにはカノン砲1門。カルバリン砲2門とセーカー砲2門。旋回砲9門ずつ……そう、カノン砲の威力は姫様の仰有るようなことも。大袈裟ではありませんが、地上なれば、かなり大型のカノン砲を配備できますので」
 冬姫はそれほどの物が存在することを、初めから予想していたのか、驚きもせず、ただ感嘆したような表情だった。
「それを、こちらにもお伝え頂ければと思いますが──幼い頃、父が私に話してくれたことが思われて」
 信長が、何を言ったのだろうかと、ロルテスは興味深く感じられた。
「かつて父が私に、人間には獅子のような足も爪も牙も無いけれど、知恵がある、と話したことがありまして──」
 冬姫は昔を懐かしみ、虚空に目を向けた。
 動物は力の強い者だけが勝つが、人間は力の弱い者でも、知恵を働かせて、強い者に勝てる。
「獅子の足の代わりに弓矢を、牙の代わりに槍を、爪の代わりに刀剣を持った。それでも勝てないと、弓を強くしてさらに威力を増し、槍を鋭く研ぎ、時に毒を仕込んで。ついに、知恵に聡いけれど腕力弱き者が、強者に勝つようになって──」
 それでも足りない、もっともっとと開発し続け、ついに人間は摂理を凌駕するものをも生み出した。
「それが火薬だと」
 まだ幼かった冬姫にはよくわからなかったが、傍らにいた濃姫には信長の言わんとしていることが、全てわかっていたようだった。
「なるほど、そうですね」
 ここまでの話は、ごく普通のことと思える。ロルテスは微笑さえ浮かべて相槌する。ただ、元マルタ騎士のロルテスには、摂理という言葉は引っ掛かる。
 それに気付いてか、急に冬姫は現に返って、
「父の言うところの摂理とは、デウスのご意志ということではなくて」
と、所謂自然の摂理という意味だと補足した。
「わかっていますよ」
 ロルテスは穏やかに首肯した。
「その摂理によると」
 つまり、自然の摂理によると、人間は本能的に戦うようにできているのだという。
「戦うのが摂理とか。幼い日にはわかりませんでしたが、今日まで生きてきて、なるほどその通りかもしれないと思います」
「それは、それがしも同意見です」
 しかし、ロルテスは冬姫の心の内を、神の摂理でさえあると、この姫は思っているだろうと推察した。
「ですが、父は知恵に聡い非力な者は、さらに、戦わずして勝つ方法まで考え出したと言うのです。つまり、兵法です。兵法はついに、相手と話し合って解決する道を、つまり不戦を生み出しました」
 人間は戦うという本能を、摂理をついに捨てるまでになった。
「火薬は摂理を凌駕するもの。一方、その対極にある不戦も摂理を凌駕するもの。両極端の摂理をどちらも凌駕し得たと。天下布武をお聞きになったことは?」
「それがしも日本は長いです。よく耳にしました」
「武とは、戈を止めること、偃武修文とは夫も常に口にしております」
「ほう」
 初めて、ロルテスの表情が動いた。
「武器を片付けて使わない、そして火薬の重要性を理解する人に夫を育てよなどとも、父は幼い私に言いました。けれど、夫は、父よりも先に鉄砲の重要性に気付いた家に生まれました。日野筒を産み出す夫には、逆に私が教えてもらうべきで、それ故に夫は父に選ばれたのだと思うのです」
 ロルテスはまだ見ぬ蒲生忠三郎という人間の器量を思った。
「夫はそのカノン砲のことを聞けば、それを手にしたい、或いは作りたいと思うはずです。教えて頂ければと存じます」
 摂理を凌駕する武器の重要性を知る人なればこそ、その対極の不戦もなせる。それ程の武器を抑止力として備えること、それがスペインから日本を守る道でもあろう。
 武器は用いず、キリスト教の愛、偃武修文をもって静謐の世を実現しようとしている、それが冬姫の夫であるという。
「それがしは、すでに騎士ではありません。戦は戦を呼び、永遠に無くならないことを知ってしまったからです。日本に同じ道は歩んで欲しくありませんね」
 冬姫は再び、ロルテスが持ってきた庭の武器に視線をやった。
「日本ではあのような物を沢山持っている人が勝ちます。沢山あれば、すぐに勝ちます。そして、間もなく天下一統され、あれらは袋に包み納められるでしょう。許し合い、慈しみ合う世を夫は作ります。そのためにも──」
 スペインの思惑は気になるところだ。
 ロルテスは忠三郎に会ったら話そうと思うことが山程あった。しかし、この信長の娘であるならば──。冬姫にも話すべきだと思った。
(姫に能力があるのだから、夫婦力を合わせた方がいい)
「九州にはあのような武器が集められています。日本に来る前、ルソンに寄ったのですが、そこで驚くべき話を聞きました。一昨年、コエリョ師父が、ルソンの兵を九州に送って欲しいと言ってきたというのです」
 ロルテスの急なその発言に、冬姫が身を研ぎ澄ました。
 一昨年といえば、小牧の戦があった年。秀吉と家康が真っ正面から戦っていた頃、コエリョはルソンからスペイン兵の九州への派兵を企んでいたというのだ。
「まさかそのようなこと!」
「それがしも驚きました。ルソン側は一蹴したようで、出兵はなされませんでしたが」
 大友宗麟らの欧州への使節を武者でなく、あえて子供にしたのは、日本とスペインの衝突を避けるためだったが、ヴァリニャーノのその計画を台無しにする行為だ。
 謁見の席上、仮に不穏な話になっても、子供相手にフェリペ王でも怒るまい。寧ろ日本の可愛い子供に目を細め、日本に好意を抱く筈。そう考えたのだ。
「それと。こちらへ来る前、オルガンティーノ師父に会って聞いたのですが、コエリョ師父は関白殿下に、九州に出兵し、日本を統一したら、明を攻めてほしいと願い出たとか」
「ルソン兵の派遣依頼は日本を討つためですか?でも、それでは殿下に九州出兵を依頼するのは?」
「パードレ達は日本をポルトガルの手に渡すために来ているのだと、以前から噂されていたでしょう?実はそれは事実なのです。それを阻止するため、それがしは一度ローマに戻り、また日本に来ました。蒲生様を訪ねたのは、蒲生様もそれを阻止しようと、六右衛門をローマに送ったと聞いたからです。日本は我等が尊敬するべき国。討たせてはなりません」
 オルガンティーノは、日本の領主は米のみで生計を立てている清貧の人であると、イエズス会本部へ報告していると冬姫は聞いている。よく言えば清貧だが、悪く言えば、他に何の産業もない価値低き地ということである。
「どうして日本が欲しいのでしょう?日本にそれ程の価値がありますか?南蛮から来る品よりも、日本の物は皆劣っています。明のように硝石が出るわけでもなければ、明の磁器や絹のように、南蛮よりも優れたものが作られるわけでもありません」
 伴天連からの報告を受けたポルトガルやスペインが、遠征の犠牲を払ってまで、魅力のない日本を手に入れたいと思うだろうか。
 ポルトガルとスペインは一つになったと聞いた。
「ルソンから出兵は断られたのですよね?何故ですか?」
「さあ、パードレがポルトガル人だから馬鹿にしたのでしょう」
 ルソンはもとからスペイン領(ヌエバ・エスパーニャ副王領)だった。フェリペ王の名を戴いたフィリピン総督府なるものが置かれている。
「ルソンが動かないのは、それが国王の意志だからでしょう?パードレは国王に反した行動を取っているのでは?」
 伴天連は上の者には絶対服従するもの。王には必ず従う。フェリペ2世が外国人だとか、コエリョがポルトガル人だとか、そういうことには左右されないものだ。
 ならば、これはどうしたことだろう。
「──いずれにせよ、パードレや王の狙いは日本か明ということでしょうか?」
 ロルテスは長崎の要塞化について話した。冬姫は驚きつつも、やがて頷いた。
「やはり、狙いは日本か明。どちらにせよ長崎は前線基地でしょうね」
「迫害されるキリシタンを守護する砦ですよ」
 冬姫は首を横に振った。
 秀吉と家康が天下の覇権を争っていた最中、コエリョがスペイン兵を九州に派遣させようと画策していた。
 もし、あの小牧の戦の時、ルソンの兵が九州に上陸していたら、日本はどうなっただろう。日本が二分されていたのだ。その混乱に乗じて、ルソンの兵に秀吉も家康も討たれてしまったかもしれない。
 今頃は、日本はスペイン領になっていたかもしれない。
 あるいは、ルソンの兵は九州のキリシタン大名を奉じて、秀吉、家康と三つ巴の戦いを繰り広げたかもしれない。そして、キリシタン大名を天下の座に据え、傀儡化し、日本をスペインの属国に──。
「ルソンが出兵しなかったということは、やはりフェリペ王は日本に明を攻撃させるよう、パードレに指示を出したということでしょう。そして、長崎は作られた当初はヴィジタドールの願われた通りだったとしても、今はパードレ達によって違った役割を持たせられてしまっている──」
 もう迫害されたキリシタンを守る家ではない。きっとそうだ。冬姫はまだきちんと考えがまとまったわけではないが、漠然とそう思った。
 日本に、武器を抑止力とする未来は訪れないのではないか。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

改造空母機動艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
 兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。  そして、昭和一六年一二月。  日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。  「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

処理中です...