七絃灌頂血脉──琴の琴ものがたり

国香

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正声

十八拍・白芙蓉(肆)

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 都にも、決して誰のものにもならぬと決意している人がいる。

 清花の姫君。

 彼女も女であることを捨てたい。いや、彼女の中では、捨てた。

 姫君の母君の叔父・右大臣殿が出家隠世したことにより、姫君の父君・棟成公が右大臣になっている。

 姫君の兄君・頼周卿は右大将である。

 姫君に代わって入内した棟子は、なお女御のまま。皇后宮の明子は内裏を退出して、弟のもとに身を寄せていた。棟子が立后してもよさそうなものなのに、何故か成らず。

 だが、中宮嬉子のもとに参っていた大納言局は、棟成公の望み通り、帝の寵愛を得て、しかも懐妊した。

 臨月はまだだが、棟成公にとって、これほど幸運なことはない。

 家女房の腹に生まれた。当腹の清花の姫君の異母妹。棟子女御の一つ年長の異母姉。だが、大納言局は他のどの鍾愛の娘達より、孝行な娘である。

 清花の姫君の母なる人にとっては、心底喜べることでもないかもしれない。だが、彼女とて栄達はしていたのであり、それもこれも継子達のおかげなのである。感謝するべきであろう。

「三位通子を従二位(じゅにい)に叙す」

とのことで、彼女は二位殿と呼ばれるようになっている。

 今では、二位殿は清花の姫君の入内を、すっかり諦めてしまったようである。

 棟成公にも、もうそのつもりはないらしい。だが、最愛の娘であるには違いなく、入内がなくなったからといって、溺愛しなくなったわけではなかった。寧ろ、病弱な娘へのいたわりは並大抵ではなく、発病する以前にも増して、父は娘を大事に守っている。

 いかなる病魔にも触れさせぬよう、娘を邸の奥にしまい込んでいた。

 病みつきながらも、なお琴の美しい響きを求めて、究極まで至ろうと、自己を研ぎ澄まし、日々芸術の世界に没頭しているその一途さが、父にはいじらしく、また痛々しかった。

 姫君は吐血して以来、すっかり食が細くなり、体力も衰えたが、この頃はあまり寝込むこともなくなったように思われる。

 だが、幾分健康を取り戻したとはいえ、もう棟成公は姫君を宮中に入れて、現実社会の風に当たらせようとは思わなかった。

 だが、やはりこれは不承不承ではある。棟成公とて欲が出る。

 なお若く、穢れを知らぬ清らなる姫君が、春風に誘われて楚々と庭に近づき歩くのや、秋風によよと泣く姿を見ると、惜しくてならない。

 月影に七色に輝く長い髪。真珠よりも白い、水晶のような透きとおる肌。神のような気高さ、高貴さ。これ以上はない程整った顔に、芯の強さを思わせる眼。

 時に白芙蓉のように美しく、時に大輪の牡丹のようにあでやかな天姿国色。

 この世の何者にもまさるこの姫君の美しさを目にする度、父は誰の目にも触れさせず、琴を弾くだけの生涯を過ごさせるのは、本当に惜しいと思ってしまう。入内し、女人の最高の栄誉を与えられるに最も相応しいのはこの姫君だと、やはり思う。

 その欲を抑え、我慢して、こうして姫君の今の生活を許しているのだ。これほどの美しさは、神にのみ差し上げるべきなのであって、人の目に触れさせてはならぬ、清い身のまま天帝に献じようと思い込むようにして──。

 棟成公のその物狂いじみた我慢は、だが、姫君にとっては幸いなことであった。

 姫君は未だ人妻にはならず、入内もせず、このままの状態で生涯を全うできそうであった。決して誰のものにもならぬという姫君の強い観念は、とうとう両親の心を動かしたのであった。




 夏。

 上野介信時の邸に来客があった。信時が出迎えたのは言うまでもないが、普段は邸の奥にいる貴姫君さえ出てきて、信時と並んで客を迎えた。

 向こうから歩いてくる客を見る貴姫君の眼は、感涙できらきら輝いている。

 狩衣に烏帽子姿の客は、腕に幼子と香菓(福来蜜柑)の花の一枝を抱えていた。

 身を花の強い芳香に包ませた客は、信時の前まで来ると、慇懃に礼をした。信時も礼を返す。しかし、貴姫君はただただ感動した顔のままで、立ち尽くしていた。

 客は頭を上げると、自分をじっと見つめる貴姫君を見た。とびきりの笑顔で。

 腕の中の子は、ぽやとしつつも信時の方に手を伸ばした。

「兄上」

「如意王」

 貴姫君と信時は、ほぼ同時にそう言った。

「貴姫君、久しぶりじゃ」

 経実となった希姫君も、幸福そうな笑顔になる。

「法化党、お味方致す」

 法化党は大乘党とは組まない。宿敵・烏丸左大臣の一門と和睦する。

 新経実はそう決めた。

 その和睦のため、経実は来た。

 だが、まだ希姫君の喪中である。世間には、死んだのは希姫君ということにしている。

 喪中の身で、時有に謁見するわけにもいかない。それに、あまり表に出ると、秘密も露見しかねない。

 妹婿であり、唯一秘密を知る信時なれば、会うにも憚りない。

 寝殿に案内されると、経実は如意王を膝に抱きながら、改めて信時へ挨拶した。

「初めてお目にかかります。経実です。若君をお返しに参りました」

 その場には信時と貴姫君、経実と如意王しかいなかった。

「姉君」

と、信時は呼びかけた。

「はじめまして。信時にございまする。この度のご決断、心より御礼申し上げます。これまでの数々の非礼、また大事な妹君を、勝手に妻と致しましたこと、何卒お許し下さいませ」

「いえ」

と答えて、経実は妹を見た。

 なんと幸せそうな顔をしていることか。恋する女の顔だ。

 婚礼の折、乳母の松枝に持たせて寄越した文が思い出された。

「忠義とは心であって、行動にあらず。妹の上野介殿への忠義、心に偽りなきものであること、ただの行動のみにあらぬこと。妹の顔を見てよくわかり申した。妹をお慈しみ下されたこと、感謝申し上げる」

 経実は頭を下げた。

「姉君。姉君、また亡き兄君の我等への御怨み、まことに凄まじく思いましたが……」

 信時が言う。

 経実は笑って。

「正直に申し上げよう。確かに我等、貴殿らと戦っていかねばならぬ。しかし、妹が貴殿に恋した感情はどうにもならぬ。人は感情の生き物。頭で判断できず、感情で動いてしまうことがある。我等の怨みも、つまりはどうにもならぬ感情ではある。私は特に、頭で生きてはおらぬからな。感情に従う。私は肉親の情には勝てない」

 肉親の情の前には、もはや烏丸左大臣とてどうでもよい。

 新経実と旧経実の違いである。

 そして、大乘教理という男が嫌だ。この男と手を携えるのだけは、断じて嫌だ。

 希姫君を女とは見てくれなかった。ただの腹、教理の子を孕むに適した女としか……

 教理への憎悪。

 これは、希姫君にもどうすることもできなかった。

 あんな男と手を組むよりも。我が子を手放してまで、和議を求めてきた妹に協力したい。

 あの男より、父の代からの敵・烏丸左大臣の方がまだよい。

 新経実は、だから、こうしてここにやってきたのだ。

 反対する家臣達には、

「和議して、如意王を主に立て、盛り立てて……いつしか中深くまで浸透し、皆を操り、時が来たら滅ぼしてやるのよ。戦をするなら外からより内からだ。内紛ほど効果ある戦はない」

と言って。

 つまり、行動のみの義、装いの従順に徹して、いつか時有を、一門を内から崩して滅ぼすということだ。

 経実の壮大な策略に、皆も従ったのだった。

 だが、正直、経実自身にもわからなかった。それを実行するかどうか。

 妹のこの幸福そうな顔を見てしまうと。

 経実は香菓の花の枝を貴姫君に渡した。

「おもとにこの常陸の橘の香を、再び嗅がせることができてよかった」

 未来のことはわからないが、今の目の前の幸せは大切にしたいものだと思う。

 経実は数日滞在したが、三人で都の山桜を見るという夢はもはや叶わなくなってしまった。本物の経実の死だけが悔やまれる。

 貴姫君はそのことだけが悲しかったが、経実となった姉と再会できて、我が子も戻ってきて、これまでの苦痛と苦悩が全て報われた気がした。

 そして、彼女は今、二人目の子を身ごもっていた。この子は初めて、人並みに実家に帰って、そこで産める子だ。

 それにしても。

 法化党は後継者がいない。今の経実が妻帯するわけにもいかないし、妻帯したところで、子ができるわけでもない。

 如意王をこのまま養子に。信時も貴姫君もそう考えていた。

 同盟のためには、互いに人質が必要だろう。

 如意王は経実に懐いている。如意王がよいのかもしれない。

 そして、藤若と如意王とが跡目争いを興さぬためにも──。片方は他家に養子に出した方が……

 経実は、しかし思った。

 如意王を主とし、時有を隠居させなければ、法化党の面々は納得するまい。

「若君はまだ幼い。両親から引き剥がすのは不憫だ。養子にするしないは、もう少し先に考えては如何か。若君が元服するまでは、両親の所に置いてあげて下され」

 経実は如意王をこのまま連れて行くことを辞退した。

 未来のことはわからない。先延ばしておいて、未来の状況に応じて行動しよう。

 やがて、単身帰ってきた経実を迎えた雲門入道は、

「これで内紛の準備は整いました。さすがは殿」

と喜び、水軍の長行は、

「せっかくの人質を!あの時有がいつ裏切り、同盟を破るかわからぬのに!」

と怒った。

 時有に三亥御前を殺されているから、彼がそう思うのももっともだ。

「いや。如意王君が殿の養子になったら、将来法化党は烏丸左大臣めの身内に支配されることになる。信時の申し出は好意的に見えて、その実、法化党を乗っ取ろうという奸計なのだ」

 雲門はそう言ったが、長行はなお不満な様子だった。

 未来は前途多難。経実は家臣達を見てそう思った。

 それから間もなくのことである。

 大乘党が白河の関を出て、下野に攻め込んできた。

 攻撃してきたのは法化領だった。かつては故・四辻内大臣の荘園だった所。今、寂意入道が治めている所である。

 この戦に法化は敗れた。寂意は討ち死にした。

 その下の兵達は無惨だった。討ち死にした者はまだいい。怪我人は手当てされず、苦しみ抜いた末に死に、降伏した者は全員殺された。敗走した者はどこまでも追われて、散々に切り刻まれて必ず討たれた。

 やはり、教理は盗賊だったのだ。

 兵卒達はそのほとんどが、平時はこの地を耕していた。戦の時だけ刀を手にする。今回のことで、この地の農民は減ってしまった。

 そして、ここの女は売られ、老人は殺された。

 子供は大乘党に入れられ、盗賊として育てられる。

 僅かに残った働き手は、夜昼なく田畑を耕させられ、ろくに食べさせてもらえず、続々死んでいった。

「なんということ!」

 法化党の面々は、その話を聞いて言葉を失った。

 領地を失ったことよりも、こちらの方が余程辛い。

「民を守るのが我の務め。何があっても戦に負けてはならぬのだ。この度のことは、全て私のせいだ」

 経実は自分を責めた。

 感情のままに動いた。教理を憎んで。ただ、教理が嫌だという感情だけで。

 その結果がこれだ。

 人間は感情の生き物。しかし、感情のままに行動してはならなかったのだ、君主という立場の者は。

 希姫君への執着の凄まじさから、教理もしたことだった。自分のものとならねば、どこまでも残忍に攻撃すると。教理もまた感情からしたことだ。

 希姫君への激しい情念からしたことなら、その希姫君が哀願せねばなるまい。

 経実は教理に文を送った。

「もと寂意入道領は、今では御身のものとなりました。ここの民は、陸奥や越後の民と同じ大乘の民です。ご自分の民をどうか慈しんで下され」

 そう言ってやった。

 しかし、教理は憎しげに顔を歪めるばかりだった。

「希姫君よ。こなたさえ手に入れられるなら、こんなことはしない。二度とされたくなくば、儂の所へ来い。こんなに恋しいのに、こんなに苦しいのに!何故こなたはつれない!何故こなたは儂を拒絶するのかっ!?」
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