七絃灌頂血脉──琴の琴ものがたり

国香

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正声

十八拍・白芙蓉(玖)

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 数日後。

 巻き上げられた御簾から外を見やると、ふわふわと舞うものがある。その白さと、それを運ぶ寒風の冷たさに、清花の姫君は身を震わせた。

「まあ、雪」

と、驚く。

 それを聞いた女房の佐保姫が、

「まあ、嫌です。あれは桜の花びら。雪ではございません」

と、苦笑していた。佐保姫も今ではすっかり大人の女である。

「雪ではなかったの」

「当たり前です。この季節に雪など……まあ、全く降らないとも限りませんが」

「だって、あまりに風が冷たいのですもの。あなたは笑うけれど、本当に雪かと惑いました」

 姫君はそう言って、小袿の上に上着を重ねようとする。

 佐保姫はそれを手伝って、姫君の肩へ上着を着せかけながら、

「春とはいえ、今日はまことに真冬のような風の冷たさですものね。朝起きた時、顔が凍っておりました」

と言い、指先の冷たさを実感している。

 先日、張り切り過ぎたか、菖蒲王丸に楽理を試した日以降、姫君はすっかり寝付いてしまった。

 今日も病床の人。

 今は起き上がり、床に座って、巻き上げられた御簾の外を見ているが、それも短時間に限られそうだ。

「珍しくも、春に香炉峰の雪を見られるかと思いましたが……」

 やれやれといった感じに姫君は言った。

「この頃は寒さが骨身にしみて。嫌ね、すっかり年をとったのだわ。あなたのようなうら若き人にはわからないでしょうけれど」

「何を仰いますか。まだ御齢二十四というお若い御身で、そのような年寄りじみたこと……」

「そう、二十四。二十四だったのね、私は。いつの頃からか、私は自分の晩年を生きているような気がして……六十年も七十年も生きている人のように思っていたわ。そう、まだ二十四なのね」

「……」

 姫君が生まれてから、僅か二十三年の間に、世の中は大きく変わった。数多の人々が消えていった。

 寒風にのって、雪のように白い桜の花びらが、病床のすぐそこまで吹き込んできた。けれど、それは、雪や命のように解けて消えてしまうことはなく、いつまでもそこに留まっている。

 佐保姫はそっとそれを一つ拾い上げた。それは、本当に雪でできているように感じられるほど、冷たかった。

 佐保姫は実に苦しげに姫君の白い手をとって、散花の雪をその掌にのせた。

「解けないわね、やはり」

 掌中の花びらを見て、姫君は苦笑する。

「姫君の御手の上では、まことの雪でも解けることはありますまい」

 佐保姫はそのまま、己のものよりもずっと冷たい姫君の手を握った。

 その翌日は、前日の寒さが嘘のように暖かである。よく晴れて、人は春の香りただよう空気を食べ、そぞろ心に散歩したくなる。

 姫君も廂のすぐ前まで出てきて、そこに席をつくらせ、御簾を掲げたまま庭の桜を眺めていた。

 庭には様々な種類の桜が植えてある。

 先年、上野の貴姫君から貰った桜も、随分大きくなってきている。花の美しさにおいては、庭一番の桜だ。

 日が当たって、散る花びらが光る。本来の色とは違った色を見せる花びら。それが次々にひらひらと散る様子を見ていると、何だかかすんできた。

 霞たちこめているのか、目のかすみなのか。姫君は目を擦ってみた。すると、今度は視界がくっきりした。

「嫌だこと。本当に年寄りみたいに」

 目がかすむなぞ──。

 姫君は失笑した。何だか知らないが、無性におかしくてならない。

 声は立てずに、一人で笑い転げていると、吹き溜まりにできた花びらの山を蹴鞠が突き破って、彼方に飛んで行き、破壊された山の欠片が逆さ雪崩のように舞い上がって、そこら辺の空気を薄く染めた。

 蹴鞠の後をぱたぱたと菖蒲王丸が追い、花に舞い遊ぶ天童のように、その身も軽く、彼方にかけ飛んで行った。

 ふいに懐かしくなった。

 菖蒲王丸は本当に花の天童みたいに愛らしくて、美しいものだ。

 吹く花びらの中を飛ぶ菖蒲王丸を見ていると、

「ああ、早く死んでしまいたい」

という思いがこみ上げてくる。

 本当に年寄りだったらよいのに。まだ二十四だ。まだまだ何十年も生きなければならないのだ。

 あれからまだ六年しか経っていない。だが、その僅かな六年が、六十年にも感じられる。

 もうこれ以上堪えられそうにない。

 あと三十年生きるとして、姫君にはいったいどれほどの年月に感じられるのだろう。千年にも二千年にも感じるのではないか。気の遠くなるような長さだ。

 日一日と、悲しみは増した。辛さは増した。寂しさはもっと。

 六年前よりも、今の方がずっと辛い。

「ああ、あの琴が聴きたいのに……」

 永遠に失われてしまったあの琴の音が、懐かしくて。聴けなかったこの六年。本当にもどかしく、やり場のないこの焦がれた心。

 韶徳三位殿に会いたい。

 もう、この位で勘弁してくれないだろうか、天は。

「泰山府君よ。花の命を延ばして、その分、我が身の命を縮めて下さい。いえ、花の命とともに我が命、奪って!」

 彼方に蹴鞠を捕らえた菖蒲王丸の姿が見えた。花の中に舞う子供の翻す袖の色。

「花とともに散る……」

 急に花霞の中に、菖蒲王丸の姿が隠れてしまった。

「あっ!わ……」

 全てが霞に包まれた。




「姫君、姫君っ!しっかり遊ばしませ!」

 乳母の悲鳴が甲高く騒々しい。うっと頭の激痛に気絶しそうだ。いや、何度も激し過ぎる痛みで気を失っていた。

 急に菖蒲王丸の姿が見えなくなったのも、全てが霞んだのも、気を失ったからだった。

 突然の発病。

 身体は火よりも熱く、地獄の業火に焼かれた方が、余程よいと思えるくらいだ。

 棟成公は仰天した。その猛火の如き姫君の高熱に。

 二位殿もつききりで、もう朝夕娘の病床から離れようとしない。

 だが、不思議なことに、大熱を出した次の日には落ち着いて、何でもなかったように、けろとしているのだ。涼やかに、穏やかに。

 これで治ったのかもしれないと、ほっとしていると、翌日にはまたしても地獄の沙汰。もう骨まで燃え尽きてしまうのではあるまいかという程な苦しみ様。看病する周囲の者にさえ、病人の熱が伝わって、大汗をかく程だ。

 そうかと思うと、翌日にはまた何でもなくなっている。

 そして、ほっと油断するのも束の間、次の日には再び地獄が現世にやって来る。

「いったい、これは何だ?」

 今までの姫君の患い方とは違う。今までは微熱が長く続くばかりで、一日おきに発熱したり治ったりということはなかった。しかも、熱の出方が普通でない。こんな大熱の人を、棟成公でも初めて見た。

「医師の見立てはどうか?」

 二位殿は憂いを隠さずに、

「わらわ病みだとか……」

と言うと、よよと泣き崩れた。

 弱り目にたたり目。

 そう、ここ数年、ずっと病みがちで体力のなかった姫君に、わらわ病みが襲った。

 この病は治る者もいるが、死ぬ者も多い。

 姫君のように衰弱している人の場合、希望は薄かった。

「ああ、せめて菖蒲王丸の元服だけでも見届けたかった。理髪したら、さぞや凛々しくなるでしょうに」

 姫君でも、生きていたいと思うことも、たまにはある。

 姫君の望みを叶えむとて、菖蒲王丸の元服も決まった。今度の正月。菖蒲王丸は元服する。

 だが、姫君は兄君の右大将殿を枕辺に呼んだ。

「菖蒲王丸には、敏の字を付けて下さい。元服後には敏の字のつく名を名乗らせて下さい。そう、敏平(としひら)。敏平がよいです。兄君、何卒宜しく──」

 姫君は、菖蒲王丸の元服を見届けることができないと思っているらしかった。

 右大将殿は滲み出す涙を堪えることもできなかった。目を赤らめ、

「わかりました。必ず敏を付けましょう」

と、声を震わせた。

「申し訳ございません。不孝者で」

 姫君の方が、逆に兄君を慰めていた。

 翌日は修羅の日だった。一晩中苦しみ抜いて……

 東雲頃か。熱は幾分下がってきているのかもしれぬ。多少思考できるようになっているから。

 そよ風が吹いている。そう思った。今日は穏やかに晴れ、やさしい風が花の香を運ぶ日となるだろう。

 花の蕾が完全に開ききる時刻までには、この苦患から抜け出せているに違いない。早く、一刻の安らぎの時が訪れて欲しい。

 今はまだとても辛いが、静かな時が必ず来るのだから、数ある病の中でも、わらわ病みにかかったことはありがたいことだ。

 ふうと一つ息を吐き出してみる。龍の息のような熱風が、口から吹き出た。まだかしらと思う。

 もう一つ息を吐いた時、外からのそよ風がそれに混じって、それがやや冷やされたものとなるのを感じた。と同時に何か、かすかな音が耳元にまで運ばれてきた気がした。

 耳に意識をやってみる。気のせいではない。確かに楽の音。爽やかな楽の音が聴こえる。

 弾いているのは菖蒲王丸に間違いない。

 曲は……はて、何。

 幾ら聴けども知らない。こんな曲はあったか?

 知らない曲。だが、何て耳に心地良いのか。今日の昼に吹くであろうそよ風のように、きれいな静音。

 何の曲かなんて、どうでもいい。ただ目を閉じて聴く。頭に澄み渡ってゆく。熱がそよ風に冷やされるように、頭の隅々にまで清涼な音が吹き抜ける。聴いているだけで、どんどん熱が下がっていくような気がした。

 次第に次第に楽(らく)になっていっている。

「乳母(まま)」

 意外なほど、しっかりした声が出た。

 才外記は枕辺につききりでいる。

「姫君。少し涼やかになられましたか?」

「ええ……何だか癒されますね。菖蒲王丸を呼んで下さい」

「かしこまりました。あの子、一晩中弾いていたのですよ。少しでも姫君を楽にして差し上げられないだろうかと申しまして。お熱がある時に琴の音など、かえって姫君には煩く、頭痛がひどくなられるのではないかと案じましたが。よかったですわ」

「……救われています」

 才外記はすぐに張台から這い出して、簀子の隅まで行き、菖蒲王丸を連れてきた。

 几帳を二枚隔てた所まで召し、姫君は問う。

「今のは何?」

「はい。自分で思いつくままに弾きました。私の頭の中で作られた曲ですので、こんな曲は世に存在しません」

「そうでしょうね。もう一度、同じものが弾けます?」

「……あ、いえ……」

 菖蒲王丸の困惑が、こちらにまで手に取るように伝わってくる。思わず笑みが零れる。

「今の曲、涼やかで爽やかで、聴いているうちに体がとても楽になりました。有難う。同じような雰囲気の曲でよいから、もう一度弾いてくれませんか」

「既存の曲ですか、それとも即興?」

「どちらでもよいです」

「かしこまりました」

 すぐに几帳の向こうから、琴韻が響いてきた。

 また彼の頭の中から生み出される曲らしい。清流のせせらぎのような曲だ。

 亡き韶徳三位殿のような──と思う。

 以前、秋の嵯峨にて琴問いをしたことがあった。あの時の三位殿の曲。あれが忘れられない。

 今の菖蒲王丸のは、少し似ている。

 昼になると、思った通り、夜中の苦しみが嘘のようにけろっとしてしまった。

 起き上がって、姫君は鳳勢を弾いてみた。

 が、一拍弾いてすぐやめた。堪え難い。激しく眉をしかめ、頭を振る。

 下手になった。音色が汚い。技術も落ちた。きらりと光る才能すらも、減ったようだ。

 こんな筈ない。

「嫌!こんなの!」

 無闇に弾き始めた。厳しい練習。

 一刻ほど経ったか。

 無我夢中で集中していたので、さすがに疲れた。ふと我に返る。

 何をやっているのだろうと思った。

 いったい自分は何をやっている。何をやってきた。何のために琴をやってきたのか。幼い時から、ひたすら琴を弾き続けていた目的は、何?

 自分の生涯を振り返ってみる。

 記憶さえ定かでない頃から、琴の特訓を受けていた。いつもいつも琴だけ弾いていた。

 才能がある、それも飛び抜けた素晴らしいものがあると、誰もが言った。皆、姫君の演奏に驚き、感動した。

 素晴らしいものを持って生まれてきたから、それをさらに研くために、ひたすら励んできた。

 だが、何のためだ。自己満足のためか。自分のためだけに琴を弾いてきたのではないか。誰かのために弾いたことがあったか。

 姫君は先程、幼い菖蒲王丸の琴に救われた。そして、姫君は何故、幼い頃から韶徳三位殿の琴に憧れていたのか。

 聴くと気分がよくなるから、感動するからではないか。心が満たされるから、三位殿の琴が聴いていたかったのだ。

 人間は、何のために音楽を聴くのか。生きる上で、音楽などなくても何の問題もない。けれど、人は音楽を聴くことを喜ぶ。聴いて感動し、魂を浄化させる。この世は辛いことばかり。心を洗わねば、生きてゆけぬ。だから、音楽がある。

 楽人、管絃者は音楽を奏でることができる特別な才能を持った者だ。多くの人に感動を与える力を持っている。

 音楽家の存在意義は、音楽を多くの人に聴かせることにあるのではないか?

 だが、姫君の人生で、人々のために弾いたことがあったか。感動させたことがあったか。人々の前で演奏せず、内々で練習だけしていたのでは、管絃者とはいわぬ。

 他人のために役に立つことは、何一つしていない。与えられた才能で、多くの人の心を救い、癒やし、豊かにしてあげていない。

 何のために生まれてきたのだ。これでは生まれてきた意味がない。楽才を持って生まれてきた意味がない。

「私は、いったい何をやっているの?」

 多くの人に自分の音楽を聴かせたい。そして、疲れた人の心を癒やし、病人の精神を救い、苦痛を和らげたい。

 やらなくては。それが自分が生まれてきた理由。使命。

 このまま死ぬなんて。何もしないまま死ねない。

「私は、生きたい!」
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