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乱声
二拍・欲触愛慢明妃の蓮華(拾壱)
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小右京の姉・悪相御前は備中前司(ぜんじ)の愛妾だった。
備中前司はかの烏丸左大臣の一族であり、上野殿や信時朝臣の異母兄であった。しかし、その母は仙洞の女房・中将の君であり、中将の君は韶徳三位殿の母君の妹なるが故に、前司は三位殿と極めて親しい間柄であった。前司の当腹(とうぶく)の娘を、三位殿が猶子にした程である。で、前司は異母弟達とは接点はなく、烏丸左大臣とも敵であった。
三位殿の北ノ方は、太皇太后宮の姪君・二条殿であった。その腹に青海波の若君もいた。だが、もともと二人の夫婦仲はしっくりいっていなかった。いや、疎遠だった。遂に離縁するに至ったが、そのきっかけは、二条殿の密通と懐妊だった。
相手は三位殿の異母兄・忠兼朝臣。二条殿は三位殿と別れて、忠兼朝臣の子を産んだ。男君だった。
だが、男君は直ぐに忠兼朝臣の北ノ方に引き取られ、しばらく後に夭逝した。
ところが、二条殿が産んだのは、この男君だけではなかった。男君だけ産んだことになっているが、実は女君も産んでいた。つまり、男女の双子だったのだ。
男君は北ノ方に引き取られたが、女君は捨てられた。それを三位殿が拾ってきて、経王御前と名付けたのだ。
三位殿のかつての妻が、三位殿の兄との間に儲けた娘である。兄の子なのだから、姪であるには違いない。また、青海波の君にとっては、異父妹でもある。で、情け深い三位殿としては、捨てるに忍びなかったらしい。とはいえ、三位殿が育てるわけにもいかない。
それで、三位殿はその女君を備中前司と悪相御前に預けたのである。
その命を受けて、当初は悪相御前が経王御前を育てていたのだ。小右京も姉を手伝って、この姫君の世話をしたものだった。
「ところが、ある時、忽然と姫君は消えておしまいになったのです。赤子であらせられたのに、いったいどこへ歩いて行ってしまわれたというのでしょう。きっと、誰かが連れ去ったに違いありません。行方不知となられて、案じておりましたが。そうですか、監殿がお匿いになって、育てておられたのですね」
小右京はいつしか眼に涙を浮かべていた。
監は備中前司とは他人ではない。前司の父の姪。つまり、前司と監はいとこ同士だ。
又、彼女は経王御前の実父の忠兼朝臣に仕えていたが、実はその愛妾であった。その寵愛は大変に深く、常に北ノ方をやきもきさせ、嫉妬の鬼にさせていた程だ。
そこまで忠兼朝臣に愛され、愛した。その人の姫君であるのだから、監が経王御前を大切に育てるのは、頷けることである。
姫君が行方不明になったのは、丁度あの呪詛事件の直後のこと。忠兼朝臣の実娘が生きて行くにはあまりに過酷な時代だった。
預かっていた悪相御前は心を病んで、姫君の養育を放棄してしまっていた。また、備中前司も病死してしまった。これ以上、悪相御前が姫君を預かるなど、どう考えても無理な状況だった。
それを見かねてのことだったのだろうか。監は姫君を盗み出して俗世から隠し、大事に守り育てたらしい。
「そんな、根も葉もないでたらめを!」
覚如はそう言った。
今の今まで、我が子と信じ、慈しみ育ててきたのに、いきなり他人だと言われて、すんなり認められるか。
「証拠はあるのですか、証拠は。ただ監殿が育てていたというだけではないか」
「証拠か」
呟くように言うと、小右京は娘に問うた。
「榎葉(えのは)をご存知ではございませぬか?」
「榎葉って、笛の?」
「おお!!」
娘の返答に小右京は感激した。
「まさしく御事は経王御前です。間違いありませぬ!」
「暫くお待ちを」
不安げな父をしり目に、娘は奥へ下がり、何か竹の籠らしきものを持ってきた。中に布にくるまれた細長い物体がある。娘はこれを小右京の方へ押しやった。
「榎葉です。監の君が、大切にしなさいとおっしゃって私に下さったもの。監の君の形見だと思って、今日まで大事に秘蔵しておりました。中をお改め下さい」
「宜しいのですか……」
小右京、感涙に咽びながら、震える両の手で竹籠を開け、中身を取り出した。そして、布を広げた。
中から姿の好い龍笛が一管現れた。
「あっ……!」
小右京、布ごと笛を両手で捧げ持ち、何度もこれに拝礼する。
覚如、その恭しい態度に、凍りつく。
やがて、小右京は娘と覚如へ言った。
「間違いございませぬ。これは榎葉の御笛にございます。忠兼朝臣が手に入れられて、韶徳三位殿が楽の達人なるが故に、贈られたもの。三位殿は大事になさっていましたが、兄君の姫君・経王御前を拾われ、我が姉・悪相御前にお預けになった時、兄君のお子であるお印にと、この榎葉の御笛を姫君の御身につけられたのです。榎葉をお持ちだということは、間違いなく、御事が忠兼朝臣の姫君だという証拠です」
「なんと!」
娘は叫び、覚如は泡を吹いて悶絶してしまった。
この娘は忠兼朝臣の子。母は大宮中納言殿の娘・二条殿。韶徳三位殿の姪君。
男女の双子として生まれた故に捨てられたのを、叔父の三位殿が拾ってきて、経王御前と名付けた。
二条殿の腹の青海波の若君とは、輪台青海波の兄妹である。
輪台の姫君だ。
さて、こうして輪台尼の素性は明らかになったが、小右京は単純に喜んでばかりもいられなかった。
何しろ、尼公は大きな腹をしている。
零落したとはいえ、忠兼朝臣の姫君であるに違いない貴人が、どこぞの身分卑しき男の子供を産むわけであるから。
小右京、尼公に相手の名を問わずにはいられない。
「六条の大臣(おとど)の家司です。諸大夫の子ですが、母が讃岐とて、かの五条の刀自の身内。身分は低いかもしれませんが、莫大なる財産を持っています。家司としてのお役目を果たさずとも、別に生活には困ってはいません。琴の名手で、その道に励んでいます。院に召されたこともあり、院や大宮の女房を弟子に持ち、高貴な方々との交流も多く、ただの数寄者ではありません。七絃七賢で五琴仙でもあられた、大臣の姫君に師事して、呉楚流の灌頂を授けられし人にて。我が身がたとい貴人の子であったとしても、決して相応しからざる相手ではないと思います」
尼公はきっぱりと答えた。
「……確か、敏平とかいう名でしたか」
「ええ」
「院七十御賀に琴を弾き奉ったとか?」
「その敏平です。その人ならば、幼い我が身に榎葉をつけて下さったという叔父君も、お許し下さるのでは?」
「……」
清花の姫君の正統な後継者だから、三位殿にとっても有り難い存在であるに違いないだろう。だが、やはり身分が卑し過ぎる。
敏平という者。韶徳三位殿の姪君に相応しい男であるわけがない。
小右京はやはりそう思い、山階を後にしたその足で、六条西洞院に赴いた。そして、敏平本人ではなく、その母の讃岐に面会することにした。
讃岐は、昔、風香(ふこう)中納言家に仕えていた女が自分を訪ねて来たというので、いったい何事だろうかと、柄にもなくびくびくした。
讃岐は敏平の不始末をまだ知らない。
対面した小右京から、ことのいきさつを聞き、
「え。息子が尼公を孕ませたですって?」
と、面食らった。
そして、次に、息子への仏罰を恐れて、彼女らしくもなく狼狽した。
で、それ以上のことを言うのが小右京には気の毒に思えたが、やはり尼公の身の上は話しておく必要がある。
「実はその御方は、亡き風香中納言殿の公達・忠兼朝臣の姫君なのです」
「た、忠兼朝臣?」
目が点になる。
「御母は大宮の姪君にて二条御局と……もし、讃岐の君?」
小右京はびっくりして、広げた右掌を讃岐の顔のすぐ前で左右に振った。けれど、讃岐は傀儡(くぐつ)の人形みたいに、目をぱかっと開けたまま、全く動かないのだ。
「讃岐の君!?」
もう一度、小右京は手を振ってみたが、やはり無反応である。これは、目を開けたまま気絶しているのかもしれぬ。小右京も困り果てた。
いつまで経ってもそのままなので、小右京は、
「いきなりびっくりさせてしまって、申し訳ありませんでした。ご子息に女がいることさえ、ご存知でなかったのに。ええ、さぞ驚いたでしょう。少し落ち着かれた頃、また参ります。今日はひとまず帰りますね。事実を受け入れるには、時間が必要でしょうから」
と言い残して帰った。
それから幾日か経った。
小右京が姿を現してからは、敏平は一度も山階を訪れていない。いったいどうしたことか。こんなに来ないことなどなかったのに。
小右京は、敏平が来たらこっぴどく文句を言って、苛め抜いてやろうと手ぐすね引いて待っているのだが。
或いは、覚如が帰ったと噂に聞いて、怖じ気づいたか、十日経っても二十日経っても現れなかった。
更に数日後、小右京が師道朝臣家の若水を訪ねて行くと、師道朝臣は在宅中だった。それで、敏平のことを訊いてみたいと願うと、師道朝臣は対面を許し、事の次第さえ教えてくれた。
「以前おもとに、父の家司が覚如の娘と恋仲だと話したな。何故話したかと言うと、その家司の敏平が女に現を抜かし、琴道を疎かにしていたからだ。兄の右大将殿は、以前から敏平に、山階へ行かぬよう命じていた。が、奴は少しも言いつけを守らなんだ。だから、おもとが覚如と関わりがあるよう故、おもとが何かしらの行動をとることで、敏平を山階から遠ざける事に成功するかもしれないと思った。で、おもとに話したのだが……讃岐には言わずにいた。変に騒がれると、厄介な奴なので……が、おもとは讃岐に文句を言いに行ったらしいな。讃岐は右大将殿に相談したらしい。何としても敏平と尼公を別れさせてくれと騒いだのだろう。それで、右大将殿は敏平を六条の邸の一室に閉じ込めてしまったのだ。その座敷牢は強固で、見張り役が絶えず三人張り付いており、敏平は逃亡できず、虚しく時を過ごしているらしい」
小右京は溜め息をついた。若水は言う。
「叔母上。きっと讃岐の君は右大将の殿に、尼公の身の上まではお伝え申していないのですわ。殿が尼公の御事をご存知ならば、敏平の君を閉じ込めたりなさらないでしょう。讃岐の君は不届きではありますが、吃驚して正しい判断ができないのでしょう」
「予もそう思う。兄君は、尼公が亡き忠兼朝臣の御忘れ形見とはご存知ではないのだろう。予の口からお伝えしておこうか?兄君は尼公のことをお知りになれば、きっと尼公を、当家で責任を持ってお世話すると約束なさるであろう」
それから間もなく。
輪台尼は男子を出産した。
しかし、師道朝臣はどう伝えてくれたのか、なおまだ敏平は解放されていない。
尼の出産から九日目。讃岐が初めて孫の顔を見に、山階にやって来た。
覚如は外出していた。
出産の時から小右京が付ききりで尼公の世話をしていた。この日、讃岐の相手をしたのは小右京だった。
讃岐は流石に五条の刀自の姪。小右京でも見たことのないような、華美な道具一式、金銀、玉、蜀錦など、山ほど祝いとして持参した。
それらに囲まれて、目を白黒させている尼公を残し、讃岐と小右京は連れ立って庭に出た。
「生まれたのは男君。そちらでお引き取り頂けましょうか?それと、尼公を還俗させて頂けませぬか?失礼ですが、御身は財産が有り余っているとか」
小右京がそう言うと、
「そのことですが……」
と、讃岐は実に渋い顔をした。
「お話しするべきか迷ったのですが、子が生まれた以上、あなたにだけは話しておかねばなりますまい」
讃岐はさらに苦々しい顔になり、小右京の耳へ驚くべきことを語り始めた。
その、庭で二人がぼそぼそと話しているのを、こっそり外に出て、物陰から聞いていた尼公は、何としたことか、その晩、生まれたばかりの我が子を打ち捨て、子の父たる愛しい敏平にも逢わぬまま、自害してしまったのであった。子への祝いにと、讃岐が持ってきた守り刀で。
残された小右京は赤子を抱いて、茫然自失。
朝方帰宅した覚如は仰天し、血溜まりの中の輪台尼に縋って慟哭した。
備中前司はかの烏丸左大臣の一族であり、上野殿や信時朝臣の異母兄であった。しかし、その母は仙洞の女房・中将の君であり、中将の君は韶徳三位殿の母君の妹なるが故に、前司は三位殿と極めて親しい間柄であった。前司の当腹(とうぶく)の娘を、三位殿が猶子にした程である。で、前司は異母弟達とは接点はなく、烏丸左大臣とも敵であった。
三位殿の北ノ方は、太皇太后宮の姪君・二条殿であった。その腹に青海波の若君もいた。だが、もともと二人の夫婦仲はしっくりいっていなかった。いや、疎遠だった。遂に離縁するに至ったが、そのきっかけは、二条殿の密通と懐妊だった。
相手は三位殿の異母兄・忠兼朝臣。二条殿は三位殿と別れて、忠兼朝臣の子を産んだ。男君だった。
だが、男君は直ぐに忠兼朝臣の北ノ方に引き取られ、しばらく後に夭逝した。
ところが、二条殿が産んだのは、この男君だけではなかった。男君だけ産んだことになっているが、実は女君も産んでいた。つまり、男女の双子だったのだ。
男君は北ノ方に引き取られたが、女君は捨てられた。それを三位殿が拾ってきて、経王御前と名付けたのだ。
三位殿のかつての妻が、三位殿の兄との間に儲けた娘である。兄の子なのだから、姪であるには違いない。また、青海波の君にとっては、異父妹でもある。で、情け深い三位殿としては、捨てるに忍びなかったらしい。とはいえ、三位殿が育てるわけにもいかない。
それで、三位殿はその女君を備中前司と悪相御前に預けたのである。
その命を受けて、当初は悪相御前が経王御前を育てていたのだ。小右京も姉を手伝って、この姫君の世話をしたものだった。
「ところが、ある時、忽然と姫君は消えておしまいになったのです。赤子であらせられたのに、いったいどこへ歩いて行ってしまわれたというのでしょう。きっと、誰かが連れ去ったに違いありません。行方不知となられて、案じておりましたが。そうですか、監殿がお匿いになって、育てておられたのですね」
小右京はいつしか眼に涙を浮かべていた。
監は備中前司とは他人ではない。前司の父の姪。つまり、前司と監はいとこ同士だ。
又、彼女は経王御前の実父の忠兼朝臣に仕えていたが、実はその愛妾であった。その寵愛は大変に深く、常に北ノ方をやきもきさせ、嫉妬の鬼にさせていた程だ。
そこまで忠兼朝臣に愛され、愛した。その人の姫君であるのだから、監が経王御前を大切に育てるのは、頷けることである。
姫君が行方不明になったのは、丁度あの呪詛事件の直後のこと。忠兼朝臣の実娘が生きて行くにはあまりに過酷な時代だった。
預かっていた悪相御前は心を病んで、姫君の養育を放棄してしまっていた。また、備中前司も病死してしまった。これ以上、悪相御前が姫君を預かるなど、どう考えても無理な状況だった。
それを見かねてのことだったのだろうか。監は姫君を盗み出して俗世から隠し、大事に守り育てたらしい。
「そんな、根も葉もないでたらめを!」
覚如はそう言った。
今の今まで、我が子と信じ、慈しみ育ててきたのに、いきなり他人だと言われて、すんなり認められるか。
「証拠はあるのですか、証拠は。ただ監殿が育てていたというだけではないか」
「証拠か」
呟くように言うと、小右京は娘に問うた。
「榎葉(えのは)をご存知ではございませぬか?」
「榎葉って、笛の?」
「おお!!」
娘の返答に小右京は感激した。
「まさしく御事は経王御前です。間違いありませぬ!」
「暫くお待ちを」
不安げな父をしり目に、娘は奥へ下がり、何か竹の籠らしきものを持ってきた。中に布にくるまれた細長い物体がある。娘はこれを小右京の方へ押しやった。
「榎葉です。監の君が、大切にしなさいとおっしゃって私に下さったもの。監の君の形見だと思って、今日まで大事に秘蔵しておりました。中をお改め下さい」
「宜しいのですか……」
小右京、感涙に咽びながら、震える両の手で竹籠を開け、中身を取り出した。そして、布を広げた。
中から姿の好い龍笛が一管現れた。
「あっ……!」
小右京、布ごと笛を両手で捧げ持ち、何度もこれに拝礼する。
覚如、その恭しい態度に、凍りつく。
やがて、小右京は娘と覚如へ言った。
「間違いございませぬ。これは榎葉の御笛にございます。忠兼朝臣が手に入れられて、韶徳三位殿が楽の達人なるが故に、贈られたもの。三位殿は大事になさっていましたが、兄君の姫君・経王御前を拾われ、我が姉・悪相御前にお預けになった時、兄君のお子であるお印にと、この榎葉の御笛を姫君の御身につけられたのです。榎葉をお持ちだということは、間違いなく、御事が忠兼朝臣の姫君だという証拠です」
「なんと!」
娘は叫び、覚如は泡を吹いて悶絶してしまった。
この娘は忠兼朝臣の子。母は大宮中納言殿の娘・二条殿。韶徳三位殿の姪君。
男女の双子として生まれた故に捨てられたのを、叔父の三位殿が拾ってきて、経王御前と名付けた。
二条殿の腹の青海波の若君とは、輪台青海波の兄妹である。
輪台の姫君だ。
さて、こうして輪台尼の素性は明らかになったが、小右京は単純に喜んでばかりもいられなかった。
何しろ、尼公は大きな腹をしている。
零落したとはいえ、忠兼朝臣の姫君であるに違いない貴人が、どこぞの身分卑しき男の子供を産むわけであるから。
小右京、尼公に相手の名を問わずにはいられない。
「六条の大臣(おとど)の家司です。諸大夫の子ですが、母が讃岐とて、かの五条の刀自の身内。身分は低いかもしれませんが、莫大なる財産を持っています。家司としてのお役目を果たさずとも、別に生活には困ってはいません。琴の名手で、その道に励んでいます。院に召されたこともあり、院や大宮の女房を弟子に持ち、高貴な方々との交流も多く、ただの数寄者ではありません。七絃七賢で五琴仙でもあられた、大臣の姫君に師事して、呉楚流の灌頂を授けられし人にて。我が身がたとい貴人の子であったとしても、決して相応しからざる相手ではないと思います」
尼公はきっぱりと答えた。
「……確か、敏平とかいう名でしたか」
「ええ」
「院七十御賀に琴を弾き奉ったとか?」
「その敏平です。その人ならば、幼い我が身に榎葉をつけて下さったという叔父君も、お許し下さるのでは?」
「……」
清花の姫君の正統な後継者だから、三位殿にとっても有り難い存在であるに違いないだろう。だが、やはり身分が卑し過ぎる。
敏平という者。韶徳三位殿の姪君に相応しい男であるわけがない。
小右京はやはりそう思い、山階を後にしたその足で、六条西洞院に赴いた。そして、敏平本人ではなく、その母の讃岐に面会することにした。
讃岐は、昔、風香(ふこう)中納言家に仕えていた女が自分を訪ねて来たというので、いったい何事だろうかと、柄にもなくびくびくした。
讃岐は敏平の不始末をまだ知らない。
対面した小右京から、ことのいきさつを聞き、
「え。息子が尼公を孕ませたですって?」
と、面食らった。
そして、次に、息子への仏罰を恐れて、彼女らしくもなく狼狽した。
で、それ以上のことを言うのが小右京には気の毒に思えたが、やはり尼公の身の上は話しておく必要がある。
「実はその御方は、亡き風香中納言殿の公達・忠兼朝臣の姫君なのです」
「た、忠兼朝臣?」
目が点になる。
「御母は大宮の姪君にて二条御局と……もし、讃岐の君?」
小右京はびっくりして、広げた右掌を讃岐の顔のすぐ前で左右に振った。けれど、讃岐は傀儡(くぐつ)の人形みたいに、目をぱかっと開けたまま、全く動かないのだ。
「讃岐の君!?」
もう一度、小右京は手を振ってみたが、やはり無反応である。これは、目を開けたまま気絶しているのかもしれぬ。小右京も困り果てた。
いつまで経ってもそのままなので、小右京は、
「いきなりびっくりさせてしまって、申し訳ありませんでした。ご子息に女がいることさえ、ご存知でなかったのに。ええ、さぞ驚いたでしょう。少し落ち着かれた頃、また参ります。今日はひとまず帰りますね。事実を受け入れるには、時間が必要でしょうから」
と言い残して帰った。
それから幾日か経った。
小右京が姿を現してからは、敏平は一度も山階を訪れていない。いったいどうしたことか。こんなに来ないことなどなかったのに。
小右京は、敏平が来たらこっぴどく文句を言って、苛め抜いてやろうと手ぐすね引いて待っているのだが。
或いは、覚如が帰ったと噂に聞いて、怖じ気づいたか、十日経っても二十日経っても現れなかった。
更に数日後、小右京が師道朝臣家の若水を訪ねて行くと、師道朝臣は在宅中だった。それで、敏平のことを訊いてみたいと願うと、師道朝臣は対面を許し、事の次第さえ教えてくれた。
「以前おもとに、父の家司が覚如の娘と恋仲だと話したな。何故話したかと言うと、その家司の敏平が女に現を抜かし、琴道を疎かにしていたからだ。兄の右大将殿は、以前から敏平に、山階へ行かぬよう命じていた。が、奴は少しも言いつけを守らなんだ。だから、おもとが覚如と関わりがあるよう故、おもとが何かしらの行動をとることで、敏平を山階から遠ざける事に成功するかもしれないと思った。で、おもとに話したのだが……讃岐には言わずにいた。変に騒がれると、厄介な奴なので……が、おもとは讃岐に文句を言いに行ったらしいな。讃岐は右大将殿に相談したらしい。何としても敏平と尼公を別れさせてくれと騒いだのだろう。それで、右大将殿は敏平を六条の邸の一室に閉じ込めてしまったのだ。その座敷牢は強固で、見張り役が絶えず三人張り付いており、敏平は逃亡できず、虚しく時を過ごしているらしい」
小右京は溜め息をついた。若水は言う。
「叔母上。きっと讃岐の君は右大将の殿に、尼公の身の上まではお伝え申していないのですわ。殿が尼公の御事をご存知ならば、敏平の君を閉じ込めたりなさらないでしょう。讃岐の君は不届きではありますが、吃驚して正しい判断ができないのでしょう」
「予もそう思う。兄君は、尼公が亡き忠兼朝臣の御忘れ形見とはご存知ではないのだろう。予の口からお伝えしておこうか?兄君は尼公のことをお知りになれば、きっと尼公を、当家で責任を持ってお世話すると約束なさるであろう」
それから間もなく。
輪台尼は男子を出産した。
しかし、師道朝臣はどう伝えてくれたのか、なおまだ敏平は解放されていない。
尼の出産から九日目。讃岐が初めて孫の顔を見に、山階にやって来た。
覚如は外出していた。
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讃岐は流石に五条の刀自の姪。小右京でも見たことのないような、華美な道具一式、金銀、玉、蜀錦など、山ほど祝いとして持参した。
それらに囲まれて、目を白黒させている尼公を残し、讃岐と小右京は連れ立って庭に出た。
「生まれたのは男君。そちらでお引き取り頂けましょうか?それと、尼公を還俗させて頂けませぬか?失礼ですが、御身は財産が有り余っているとか」
小右京がそう言うと、
「そのことですが……」
と、讃岐は実に渋い顔をした。
「お話しするべきか迷ったのですが、子が生まれた以上、あなたにだけは話しておかねばなりますまい」
讃岐はさらに苦々しい顔になり、小右京の耳へ驚くべきことを語り始めた。
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そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
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