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乱声
七拍・因果(壱)
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時憲の反乱が終結した頃、関東にも動きがあった。
親時の奸計により、意外な方向に事は転じて、牧邸を制圧することになった能時。彼は成り行きで、上野殿の牧邸に鎮座することになった。
一応、関東の留守居の者達は、それに従う形となったのだが、能時は若輩であり、能力がない。又、彼の背後には信濃の軍団がついている。このまま能時が上野殿の後継となれば、信濃の勢力が強くなり、彼等に牛耳られることにもなるだろうとの懸念もあった。
上野、下野などの各地の有力者達は、能時には従えないという気持ちがあった。同輩の信濃軍団だけが権力を持つのは、心情的にも受け入れ難い。やはり、彼等を束ねる上野殿の後継は貴種でなければ纏まらないだろう。その母は、京の身分ある人でなければならなかった。
時高も親時も母は違うが、どちらも京の貴人。一方、能時の母は彼等武士達の同輩の娘。
実質的軍事力を持っているのは能時かもしれないが、皆からの圧倒的尊敬を得られる身分ではなかった。
故に今回、力で牧邸を制圧したが、皆の心までは得られていないのである。能時では、関東は一つに纏まらない。今は一つになっているが、必ずいつか分裂して、群雄割拠の時代がやって来るだろう。
そして、その兆しは既に見えていた。
能時が信濃の者を側に置き、重用し始めたのである。信濃勢や能時の生母・千代野、鶴菊御前らの発言力が強くなってきている。
また、千代野は奥向きまでをも支配しようとし始めた。
先ず、上野殿の北ノ方と堀川殿を追い出しにかかった。それどころか、襲って殺してしまった。
堀川殿とその腹の姫君は殺されたが、北ノ方はどうにか逃れて、下野まで落ち延びた。
これで邪魔者はいなくなり、千代野の天下となったが、このようなことをしていては、人心は離れる一方だ。
こうした人々の心の動きを感知して、法化党の時実は、今こそ能時を討つべき時だと考えた。彼は下野に駐留していたが、ある時、十二安が一人の女を捕らえてきた。
女は陣の近くをふらついていて、十二安が怪しんで見ていると、いきなりつかみかかってきたと言う。そして、ひどく高慢な態度で色々喚き散らして暴れた。
十二安をそれと知ると、時実に会わせろと言ってきかぬのだという。余りに喧しいので、持て余して連れて来たのだということだったが、
「お会いになんて、なりませんよね?」
と、十二安の一人の隆安は、時実の顔を窺った。
「なんだ、それは?」
時実は思わず笑ってしまった。
「そんなに困っているなら、連れてくればよいだろうに。どうせ暇だし、会ってやる」
「あ、有難うございます!」
隆安は心底感謝して、戻って行った。
あの十二人の手を焼かせるというのだから、よほどな女なのだろう。
やがて女は連れられて来たが、時実はその薄ら汚れた女の顔を見て、歓喜した。
「小菅の君ではないか!何と、ご無事だったか!」
女は時実を前にすると、急に態度を改めて、
「ああ、よかった。法化の若君。もう駄目かと思ったけれど……天の助けです。どうか、お助けを!」
と、時実にすがりつく。
「勿論、お助けする。よくぞご無事で。それより、北ノ方、義伯母君は?」
この女は小菅。上野殿の北ノ方の侍女だった。
「……この先、北へ二里程の山中に。今もいらっしゃるかと」
「どうしておもとは……。北ノ方とはぐれたのか?」
「いえ。北ノ方は足を怪我しておいでです。これ以上歩めぬと仰せ故、山中に隠れて頂き……わらわは東殿をお助けせねばと……」
「まさか単身、東殿の牢へ?なんと無謀な!」
東殿時高は能時に生け捕られ、東殿の中にある牢獄へ幽閉の身となっている。それを女の身で、小菅は助け出そうとしたのか。
「無謀、確かにそうでした。でも、このままでは、必ず能時殿に斬られましょう!だから、何としてもお助けせねばと。でも、駄目でした。失敗でした。武士だらけで。命からがら逃げてくるのがやっとでした!」
「無事でよかった。あとは私に任せて。東殿を奪還しに行く所だったのだ。東殿を奪ったら、彼を奉じて能時を討つ」
時実は力強くそう言うと、小菅を介抱させた。そして、北ノ方の隠れ場所に迎えをやった。
北ノ方は足を捻挫していたが、無事だった。暫く休ませた後、小菅と共に桜町館に送った。
北ノ方を桜町館にやると、時実は改めて、祖母や弟達を先に引き取っておいてよかったと思った。
それから上野へ向けて進軍を開始した。
時実が能時を討とうとしていると知り、能時は国境付近に緊急に兵を配備した。
しかし、能時に心酔している者は少ない。それでなくとも、留守の兵は少ないのに。対して、法化党には大軍がある。今回は八千にも満たない数でやって来ているらしいが、常陸にはまだまだ万の兵がいるのだ。
法化党は同盟関係にあり、上野殿に負けず劣らず広大な土地と兵とを持っている。その大多数が関東に残っているのだ。手薄の今、法化党に攻められたら、ひとたまりもない。
上野殿の留守中、好機とばかりに、法化党が攻めてこないとも限らなかった。それでも、上野殿は留守中の関東の守護を、法化党に任せた。そこまでこの同盟者を信頼しているという、上野殿の外交である。
その同盟者が、ついに上野に攻め込んでくる。だが、事情が事情である上、法化党の兵を動かしているのが時実ということもあってか、留守居達は何故か法化党に攻められるという感覚ではなかった。上野殿の内紛に時実が加わった。そんな感覚だった。
能時に心底仕えたいわけでもないし、時実が大軍を持っているなら、下手に抵抗しない方がいい。このまま素直に時実に従って、時実の兵としてともに能時を討ち、時実に上野殿の後を継いでもらってもよいのではないか。そう考える者も少なくなかった。
やがて、両軍は上野と下野の国境で衝突したが、既に上野方は戦意がなく、真っ先に降伏する者さえいて、勝負にならない。
時実も余り本気で戦わなかった。能時に命じられて嫌々戦っている伯父の兵達が、気の毒だからだ。
また、本来の目的は別にある。
時実が牧邸に攻め入ろうとすれば、その前に、能時は時高を殺してしまうだろう。今のうちに、時高を救出する必要があった。
「今は少ない兵数を補うために、皆こちらに来ている筈。今なら、東殿は手薄に違いない。今のうちに!」
こちらで戦をしている隙に、東殿に幽閉されている時高を救出しようというのだ。時実は十二安を東殿に侵入させた。
戦の方はあっという間に片付いてしまった。降伏を勧告すると、ほとんどがすんなり従い、牧邸まで逃げ帰った者は僅かだった。
時実はその勢いのまま先へ進んだ。
その途中、十二安と合流することができた。
十二安は時高を戸板に乗せて運んできていた。東殿から無事、時高を救出できたのだ。
「殿の予測なされた通り、東殿は手薄でございました」
屈強な彼等には、さほど難儀なことでもなかったらしい。ただ、時高は歩けるような状態ではなかった。
「すぐに医師を!」
時実は戸板の上の時高を見て、ぎょっとした。見るなり陣医を召し出した。
時高は十二安によって、応急処置を施されていたが、その姿、とても正視できたものではない。能時からの責め苦のためだということは、一目瞭然だった。
体中、打たれたり殴られたりしたのだろう。痣や傷だらけで、骨まで折れている。壊死しかかっている傷もある。今日も酷く責められたのか、頭から伝う鮮血が顔を汚していた。熱もあり、朦朧としている。意識はあることはあるのだろう、時折会話をすることもできたが、衰弱しきっていた。
「能時め!何と酷いことを!」
法化党の者さえそう言った。上野殿の留守の兵で時実に降伏した者などは、時高の余りに痛ましい姿に眼を背けた。
彼等に時実は言った。
「これではっきりしただろう。能時は慈愛の心もない残虐な者だと。奴に皆を纏める資格はない。このまま奴が上野殿となったら、恐怖の時代が訪れる。今こそ能時を討ち、皆の幸せと安泰とを、自らの手でもぎ取る時ぞ!能時を討つ!」
「おお!」
と、一斉に声が上がった。
こうして、上野殿の兵達は法化党に加わって、共に能時を討つべく、牧邸に攻め込んだのである。
牧邸では応戦したが、僅かな兵数しかない。しかもこの邸は寝殿造りで、戦には適しない。能時は戦も下手である。信濃勢が奮戦したが、法化党には敵わない。
「若殿!すぐにこの邸を出られませい!」
能時の外祖父が寝殿にやってきて告げた。
「このまま、信濃まで落ち延びられませい。あちらは山城。あちらで軍を立て直し、敵を迎え撃ちましょう!」
法化党がまだ国境付近にいた時に、逃げるべきであった。祖父は何度もそう進言していた。しかし、能時は上野殿の席に固執し、決して動こうとしない。
「嫌だ。ここを離れれば、法化の時実がそのまま雪崩入ってきて、この座に難なく座ってしまう。この座だけは譲れない!」
そう言って聞かなかった。
だが、今はもうそんなことは言っていられない。間もなく囲いは突破される。
逃げるか、枕を並べて死ぬか。そのどちらかだ。この席に座ったまま自害する。そういう選択肢もある。しかし、能時は祖父の望む通り、逃亡を選んだ。
北ノ対に居座る母の千代野を打ち捨てて、彼は祖父の手勢に守られつつ、裏の木戸からこっそり抜け出した。
能時が脱出したのとほぼ同時刻に牧邸は陥落。法化党に制圧された。
能時は十人にも満たない兵と信濃に向かっていた。牧邸から出て、一目につかない道を選び、暫く来た時、後ろを振り返った。牧邸から大分離れた。もう戦の喧騒も耳に届かない。
なんとなくほっとした。その時だった。
突然、目の前の木に矢が刺さった。びっくりする間もなく、左方向から、ひゅんひゅんと次から次へ、沢山飛んでくる。
「やあ、能時殿!どちらへお出ましか?」
すぐに百騎ばかりの軍が姿を現した。
能時はとっさに逃げた。
「おっと、待たれい!」
待ち伏せていた法化の軍は、どどどどと追いかけてくる。能時は必死に逃げたが、あっさり捕まってしまった。
能時が信濃へ逃亡する可能性を見越して、時実が待ち伏せさせておいた軍だった。能時はまんまと生け捕られ、牧邸に連行された。
さて、牧邸を制圧した時実であったが、彼はあくまで法化党の人間である。上野殿の甥には違いないが、法化党の人間となった彼が、上野殿の座につく愚はわかっている。従う者もいようが、従わない者も必ずいる。そして、能時の時以上に反発を招くだろう。
だから、時実は満身創痍の時高を、その座に据えた。時高は礼も言えない程に衰弱していたが、時実はそれでもそうした。
ただ、戦後処理のできない時高に代わって、何から何まで時実がやったのだから、時高は飾り物である。
生け捕りにした能時は、今回の一連の変事を起こした張本人である。時実は、時高の名で処罰してしまうことも考えたが、これを都の上野殿に任せることにした。即ち、時実は時高の名で、能時を都に送った。同様に千代野、鶴菊御前、その他信濃勢の捕らえた武将も都にやった。
また、信濃勢の討ちとった者については首を晒して、堀川殿と姫君は丁寧に埋葬した。親時については、特に法要もなし。
上野殿の北ノ方が桜町館から出てきた。牧邸に到着した頃、丁度時実も雑務を終えた所だった。彼は牧邸に北ノ方を迎え入れると、南殿に向かった。
南殿も戦に巻き込まれて、整備の必要があった。大上や千手丸を迎え入れる前に、住める状態に戻さなければならない。
時実が南殿の修繕に着手した時だった。
東殿時高が亡くなった。能時から受けた責め苦のためである。
すぐに時高の訃報は、桜町館にも伝えられた。
大上はそれは悲しんだが、複雑である。
時高と能時を嵌めようとして、逆に時高に殺された親時も、親時に騙されて時高を攻めた能時も、皆上野殿の子。大上の孫であるのだから。単純に孫の死を悲しむ哀れな老女というのとは違う。
先には信時を継子の時憲に殺されて……。どうしてこんなに異母兄弟とは、悲しいものなのだろう。
大上の苦しみとは別に、にんまりした人もある。
希姫君だ。
彼女は桜町館で女に戻り、好き勝手に楽しく暮らしていた。勿論、時実が采配に迷った時には、助言はしてやる。しかし、滅多なことでは口を出さなかった。
教育するより、経験を積む方がよき棟梁となる。だから、本当に困った時にしか希姫君は口を出さなかった。時実が迷えば迷うほどよい。
しかし、今回ばかりは時実に迷わせるどころか、考えさせることさえせず、
「そのまま上野を制圧せよ。留守の上野殿に取って代わってしまえ。上野殿と法化棟梁が一つになる、坂東を統一する絶好の機会が巡ってきたのだ」
と、南殿の時実へ言った。
しかし、時実はそれができない。実際、上野殿の実子が皆死んでしまったのだから、順番から言えば次は甥の時実か千手丸だ。
時実にこのまま関東を治めて欲しいという声もある。だが、彼は法化党の人間である。彼が治めれば、上野殿の支配地を法化党が奪うことになる。
時実はなお決意できなかった。
希姫君は平五を引き入れ、酒池肉林に浸っていた。だが、ついに煮え切らない時実にしびれを切らして経実に戻り、久しぶりに表に出てきた。
経実は軍を率いて上野に入ると、そのまま時実を担ぎ上げ、上野殿の全領土を法化党のものにしてしまったのだった。
こうして遂に法化党は、陸奥から北陸、関東、東海の全土を統一したのである。
親時の奸計により、意外な方向に事は転じて、牧邸を制圧することになった能時。彼は成り行きで、上野殿の牧邸に鎮座することになった。
一応、関東の留守居の者達は、それに従う形となったのだが、能時は若輩であり、能力がない。又、彼の背後には信濃の軍団がついている。このまま能時が上野殿の後継となれば、信濃の勢力が強くなり、彼等に牛耳られることにもなるだろうとの懸念もあった。
上野、下野などの各地の有力者達は、能時には従えないという気持ちがあった。同輩の信濃軍団だけが権力を持つのは、心情的にも受け入れ難い。やはり、彼等を束ねる上野殿の後継は貴種でなければ纏まらないだろう。その母は、京の身分ある人でなければならなかった。
時高も親時も母は違うが、どちらも京の貴人。一方、能時の母は彼等武士達の同輩の娘。
実質的軍事力を持っているのは能時かもしれないが、皆からの圧倒的尊敬を得られる身分ではなかった。
故に今回、力で牧邸を制圧したが、皆の心までは得られていないのである。能時では、関東は一つに纏まらない。今は一つになっているが、必ずいつか分裂して、群雄割拠の時代がやって来るだろう。
そして、その兆しは既に見えていた。
能時が信濃の者を側に置き、重用し始めたのである。信濃勢や能時の生母・千代野、鶴菊御前らの発言力が強くなってきている。
また、千代野は奥向きまでをも支配しようとし始めた。
先ず、上野殿の北ノ方と堀川殿を追い出しにかかった。それどころか、襲って殺してしまった。
堀川殿とその腹の姫君は殺されたが、北ノ方はどうにか逃れて、下野まで落ち延びた。
これで邪魔者はいなくなり、千代野の天下となったが、このようなことをしていては、人心は離れる一方だ。
こうした人々の心の動きを感知して、法化党の時実は、今こそ能時を討つべき時だと考えた。彼は下野に駐留していたが、ある時、十二安が一人の女を捕らえてきた。
女は陣の近くをふらついていて、十二安が怪しんで見ていると、いきなりつかみかかってきたと言う。そして、ひどく高慢な態度で色々喚き散らして暴れた。
十二安をそれと知ると、時実に会わせろと言ってきかぬのだという。余りに喧しいので、持て余して連れて来たのだということだったが、
「お会いになんて、なりませんよね?」
と、十二安の一人の隆安は、時実の顔を窺った。
「なんだ、それは?」
時実は思わず笑ってしまった。
「そんなに困っているなら、連れてくればよいだろうに。どうせ暇だし、会ってやる」
「あ、有難うございます!」
隆安は心底感謝して、戻って行った。
あの十二人の手を焼かせるというのだから、よほどな女なのだろう。
やがて女は連れられて来たが、時実はその薄ら汚れた女の顔を見て、歓喜した。
「小菅の君ではないか!何と、ご無事だったか!」
女は時実を前にすると、急に態度を改めて、
「ああ、よかった。法化の若君。もう駄目かと思ったけれど……天の助けです。どうか、お助けを!」
と、時実にすがりつく。
「勿論、お助けする。よくぞご無事で。それより、北ノ方、義伯母君は?」
この女は小菅。上野殿の北ノ方の侍女だった。
「……この先、北へ二里程の山中に。今もいらっしゃるかと」
「どうしておもとは……。北ノ方とはぐれたのか?」
「いえ。北ノ方は足を怪我しておいでです。これ以上歩めぬと仰せ故、山中に隠れて頂き……わらわは東殿をお助けせねばと……」
「まさか単身、東殿の牢へ?なんと無謀な!」
東殿時高は能時に生け捕られ、東殿の中にある牢獄へ幽閉の身となっている。それを女の身で、小菅は助け出そうとしたのか。
「無謀、確かにそうでした。でも、このままでは、必ず能時殿に斬られましょう!だから、何としてもお助けせねばと。でも、駄目でした。失敗でした。武士だらけで。命からがら逃げてくるのがやっとでした!」
「無事でよかった。あとは私に任せて。東殿を奪還しに行く所だったのだ。東殿を奪ったら、彼を奉じて能時を討つ」
時実は力強くそう言うと、小菅を介抱させた。そして、北ノ方の隠れ場所に迎えをやった。
北ノ方は足を捻挫していたが、無事だった。暫く休ませた後、小菅と共に桜町館に送った。
北ノ方を桜町館にやると、時実は改めて、祖母や弟達を先に引き取っておいてよかったと思った。
それから上野へ向けて進軍を開始した。
時実が能時を討とうとしていると知り、能時は国境付近に緊急に兵を配備した。
しかし、能時に心酔している者は少ない。それでなくとも、留守の兵は少ないのに。対して、法化党には大軍がある。今回は八千にも満たない数でやって来ているらしいが、常陸にはまだまだ万の兵がいるのだ。
法化党は同盟関係にあり、上野殿に負けず劣らず広大な土地と兵とを持っている。その大多数が関東に残っているのだ。手薄の今、法化党に攻められたら、ひとたまりもない。
上野殿の留守中、好機とばかりに、法化党が攻めてこないとも限らなかった。それでも、上野殿は留守中の関東の守護を、法化党に任せた。そこまでこの同盟者を信頼しているという、上野殿の外交である。
その同盟者が、ついに上野に攻め込んでくる。だが、事情が事情である上、法化党の兵を動かしているのが時実ということもあってか、留守居達は何故か法化党に攻められるという感覚ではなかった。上野殿の内紛に時実が加わった。そんな感覚だった。
能時に心底仕えたいわけでもないし、時実が大軍を持っているなら、下手に抵抗しない方がいい。このまま素直に時実に従って、時実の兵としてともに能時を討ち、時実に上野殿の後を継いでもらってもよいのではないか。そう考える者も少なくなかった。
やがて、両軍は上野と下野の国境で衝突したが、既に上野方は戦意がなく、真っ先に降伏する者さえいて、勝負にならない。
時実も余り本気で戦わなかった。能時に命じられて嫌々戦っている伯父の兵達が、気の毒だからだ。
また、本来の目的は別にある。
時実が牧邸に攻め入ろうとすれば、その前に、能時は時高を殺してしまうだろう。今のうちに、時高を救出する必要があった。
「今は少ない兵数を補うために、皆こちらに来ている筈。今なら、東殿は手薄に違いない。今のうちに!」
こちらで戦をしている隙に、東殿に幽閉されている時高を救出しようというのだ。時実は十二安を東殿に侵入させた。
戦の方はあっという間に片付いてしまった。降伏を勧告すると、ほとんどがすんなり従い、牧邸まで逃げ帰った者は僅かだった。
時実はその勢いのまま先へ進んだ。
その途中、十二安と合流することができた。
十二安は時高を戸板に乗せて運んできていた。東殿から無事、時高を救出できたのだ。
「殿の予測なされた通り、東殿は手薄でございました」
屈強な彼等には、さほど難儀なことでもなかったらしい。ただ、時高は歩けるような状態ではなかった。
「すぐに医師を!」
時実は戸板の上の時高を見て、ぎょっとした。見るなり陣医を召し出した。
時高は十二安によって、応急処置を施されていたが、その姿、とても正視できたものではない。能時からの責め苦のためだということは、一目瞭然だった。
体中、打たれたり殴られたりしたのだろう。痣や傷だらけで、骨まで折れている。壊死しかかっている傷もある。今日も酷く責められたのか、頭から伝う鮮血が顔を汚していた。熱もあり、朦朧としている。意識はあることはあるのだろう、時折会話をすることもできたが、衰弱しきっていた。
「能時め!何と酷いことを!」
法化党の者さえそう言った。上野殿の留守の兵で時実に降伏した者などは、時高の余りに痛ましい姿に眼を背けた。
彼等に時実は言った。
「これではっきりしただろう。能時は慈愛の心もない残虐な者だと。奴に皆を纏める資格はない。このまま奴が上野殿となったら、恐怖の時代が訪れる。今こそ能時を討ち、皆の幸せと安泰とを、自らの手でもぎ取る時ぞ!能時を討つ!」
「おお!」
と、一斉に声が上がった。
こうして、上野殿の兵達は法化党に加わって、共に能時を討つべく、牧邸に攻め込んだのである。
牧邸では応戦したが、僅かな兵数しかない。しかもこの邸は寝殿造りで、戦には適しない。能時は戦も下手である。信濃勢が奮戦したが、法化党には敵わない。
「若殿!すぐにこの邸を出られませい!」
能時の外祖父が寝殿にやってきて告げた。
「このまま、信濃まで落ち延びられませい。あちらは山城。あちらで軍を立て直し、敵を迎え撃ちましょう!」
法化党がまだ国境付近にいた時に、逃げるべきであった。祖父は何度もそう進言していた。しかし、能時は上野殿の席に固執し、決して動こうとしない。
「嫌だ。ここを離れれば、法化の時実がそのまま雪崩入ってきて、この座に難なく座ってしまう。この座だけは譲れない!」
そう言って聞かなかった。
だが、今はもうそんなことは言っていられない。間もなく囲いは突破される。
逃げるか、枕を並べて死ぬか。そのどちらかだ。この席に座ったまま自害する。そういう選択肢もある。しかし、能時は祖父の望む通り、逃亡を選んだ。
北ノ対に居座る母の千代野を打ち捨てて、彼は祖父の手勢に守られつつ、裏の木戸からこっそり抜け出した。
能時が脱出したのとほぼ同時刻に牧邸は陥落。法化党に制圧された。
能時は十人にも満たない兵と信濃に向かっていた。牧邸から出て、一目につかない道を選び、暫く来た時、後ろを振り返った。牧邸から大分離れた。もう戦の喧騒も耳に届かない。
なんとなくほっとした。その時だった。
突然、目の前の木に矢が刺さった。びっくりする間もなく、左方向から、ひゅんひゅんと次から次へ、沢山飛んでくる。
「やあ、能時殿!どちらへお出ましか?」
すぐに百騎ばかりの軍が姿を現した。
能時はとっさに逃げた。
「おっと、待たれい!」
待ち伏せていた法化の軍は、どどどどと追いかけてくる。能時は必死に逃げたが、あっさり捕まってしまった。
能時が信濃へ逃亡する可能性を見越して、時実が待ち伏せさせておいた軍だった。能時はまんまと生け捕られ、牧邸に連行された。
さて、牧邸を制圧した時実であったが、彼はあくまで法化党の人間である。上野殿の甥には違いないが、法化党の人間となった彼が、上野殿の座につく愚はわかっている。従う者もいようが、従わない者も必ずいる。そして、能時の時以上に反発を招くだろう。
だから、時実は満身創痍の時高を、その座に据えた。時高は礼も言えない程に衰弱していたが、時実はそれでもそうした。
ただ、戦後処理のできない時高に代わって、何から何まで時実がやったのだから、時高は飾り物である。
生け捕りにした能時は、今回の一連の変事を起こした張本人である。時実は、時高の名で処罰してしまうことも考えたが、これを都の上野殿に任せることにした。即ち、時実は時高の名で、能時を都に送った。同様に千代野、鶴菊御前、その他信濃勢の捕らえた武将も都にやった。
また、信濃勢の討ちとった者については首を晒して、堀川殿と姫君は丁寧に埋葬した。親時については、特に法要もなし。
上野殿の北ノ方が桜町館から出てきた。牧邸に到着した頃、丁度時実も雑務を終えた所だった。彼は牧邸に北ノ方を迎え入れると、南殿に向かった。
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大上の苦しみとは別に、にんまりした人もある。
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教育するより、経験を積む方がよき棟梁となる。だから、本当に困った時にしか希姫君は口を出さなかった。時実が迷えば迷うほどよい。
しかし、今回ばかりは時実に迷わせるどころか、考えさせることさえせず、
「そのまま上野を制圧せよ。留守の上野殿に取って代わってしまえ。上野殿と法化棟梁が一つになる、坂東を統一する絶好の機会が巡ってきたのだ」
と、南殿の時実へ言った。
しかし、時実はそれができない。実際、上野殿の実子が皆死んでしまったのだから、順番から言えば次は甥の時実か千手丸だ。
時実にこのまま関東を治めて欲しいという声もある。だが、彼は法化党の人間である。彼が治めれば、上野殿の支配地を法化党が奪うことになる。
時実はなお決意できなかった。
希姫君は平五を引き入れ、酒池肉林に浸っていた。だが、ついに煮え切らない時実にしびれを切らして経実に戻り、久しぶりに表に出てきた。
経実は軍を率いて上野に入ると、そのまま時実を担ぎ上げ、上野殿の全領土を法化党のものにしてしまったのだった。
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離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
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