七絃灌頂血脉──琴の琴ものがたり

国香

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乱声

八拍・烈婦(参)

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 その日、家宣はまた麻の衣を着て山桜の邸にやってきた。途中で迷い猫を拾って連れてきて、調姫君に見せた。

 家宣は乙犬(おといぬ)なぞと名乗っていたから、その乙犬の連れてきた猫だというので、姫君はその猫に乙若と名付けた。

 乙若はさすが迷い猫。自由気ままだ。

 空に何が見えたか、雲にじゃれたか、突然びゅっと跳び上がった。そして、何とそのまま池にぼちゃんと落ちた。

 猫は水が嫌いである。乙若は慌てて。人も慌てて、反射的に家宣は池に飛び込んでいた。乙若を掴むが、何しろ慌てている乙若は、暴れて暴れて手に負えない。

「あっ!こら、ひっかくな。助けてやってるのに、何で逃げるっ?」

 ばたばた暴れて家宣の手からもがき出で、ばちゃばちゃとまた池の中に入ってしまう。猫の本能忘れて、あぷあぷと溺れている。

 家宣は必死に捕まえようとするも、やはり猫は爪を立てて暴れる。家宣、無理矢理むんずと乱暴に掴み取るが、その拍子に勢い余って、ばっちゃんと転び入った。

 池の水は浅い。家宣の膝が隠れる程度なのに、池の中でひっくり返った彼は、全身濡れ鼠と化した。鼻から水まで飲んだ。

 それでも、暴れ溺れる猫と格闘すること暫し、ようやく乙若を掴み上げ、池から出た。

 夏とはいえ、乙若はふるふる震えている。全身ずぶ濡れて、毛がぺったり肌にくっついて、体の大きさがいつもの半分位に見えた。足など目を見張るほど細い。なんだかひどくみすぼらしく、情けない姿だった。

 そんな猫を抱える家宣の姿も随分なものである。貴人の若君とはおよそかけ離れた、太政大臣家の家宣卿にあるまじき姿。

 家宣はふいにからから笑い出した。何だか滑稽過ぎる。とてつもなく可笑しく、愉快でたまらなかった。

 笑い転げる家宣を余所に、調姫君は急いで中に入る。震える猫を拭いてやらねばなるまい。家宣は忍んでやってきていたし、姫君が彼と会うのは家の者には内緒であったから、猫を拭くための布を、姫君自らが取りに行かなければならなかった。

 やがて、姫君は家宣と猫を拭くものを持って出てきたが、庭の家宣の姿を見た途端、布を放り出した。

 いくら乙犬だと言ったとて、あまりに開放的過ぎる。乙犬の身分そのままに、いつもの家宣の慎みも品も忘れて、彼はもろ肌脱ぎになっていた。さすがに袴までは脱いでいなかったが。

「夏とはいえ、濡れたままでは風邪をひいてしまいますから。何ぞ着替えを下さいませんか」

 素っ裸で家宣はそう言ったが、この年頃の姫君には刺激が強すぎる。姫君はうんともすんとも言わず、その場に立ち尽くしていた。

 家宣はそのまま近付いてきたが、一歩、また一歩と近付いてくる度、姫君はどぎまぎする。家宣は簀の子まで来て、猫をその上にぽんと置いた。姫君はもう耐えられない。姫君が放り投げた布に家宣が手をかけた瞬間、彼女は気絶した。

 姫君はすぐに正体を取り戻したが、目覚めた時には寝床に臥していた。家宣の姿はなく、傍らには乙若を抱いた例の元気な侍女が座っていた。

「お気がつかれましたか?」

 侍女はほっとした表情に、不審を紛らせていた。

「……あ、あの……?」

 姫君はきょろきょろした。侍女はややぶっきらぼうに言った。

「急にお倒れになって。どうなさったのです?例のあの怪しい男が、姫君をここまで運び込んで参りましたのよ。あの男、まだ姫君の回りをうろうろと!」

「えっ、あの人がここまで私を運んできたの?」

 さっきの真っ裸の彼を思い出す。まさか、彼のあの胸に抱かれたのか?まさか、彼は裸のまま姫君を抱きかかえたのか?

 考えただけで、耳の根まで真っ赤になった。

「もし!姫君?お熱が?」

 侍女は慌てる。

 流石に、あの男が素っ裸だったのかどうだったのかとも聞けない。辛うじて、

「か、帰ったの……?」

と、訊いた。

 その日から、調姫君は家宣のことを考えると、必ず真っ赤になって恥ずかしくなった。

 この気持ちは。家宣を変に意識している。これは……

 彼のことが好きなのかと自覚するのに、そう時間はかからなかった。

 その晩秋。

 前大相国が、

「年明け早々裳儀をするが、そうしたら、我が子の家宣の妻となってもらおうと思うが。どうかな?」

と、言ってきた。

 まさか乙犬が家宣だとは思いもしない。

 調姫君は返事ができなかった。前大相国が決めた縁談を断れるわけがない。しかし……

 初冬のある日、家宣が直衣姿で調姫君を訪ねてきた。直衣ではあるが、いつものように、築地を飛び越えて忍んできたのだ。

 家宣は、調姫君が前大相国の持ってきた縁談に返事ができなかったということを知っていた。そして、彼には自信があった。姫君が乙犬を好いているということの。

 さて、直衣姿でやってきた彼を見ても、姫君はあまり驚かなかった。

 家宣は言った。

「前にも言いましたが、改めて言います。妻になって下さい」

「……」

「家宣卿のことがあるから、うんとは言えませんか?でも、姫君は私を……」

「ごめんなさい。どうしても、うんとは言えません」

「でも、家宣卿はお嫌なのでしょう?姫君、お願いします。私の妻に!恋焦がれているのです!」

 こんな求婚の仕方があろうか。和歌でない、口で直接言うなんて。

 けれど、どんなに口にしても、繰り返しても、姫君はうんとは言わなかった。

「どうして?そんなに頑ななのですか」

「……乙犬に初めて会った時、乙犬は直衣姿でした。貴人なのに、わざわざ身分を隠して来ていたことは知っています。だからです」

「私が誰だかご存知だったのですか?」

「どなたかは存じません。けれど、大殿(前大相国)と親しい方だとは思っておりました。この邸の桜を見に来ていらっしゃったのですから。私は身分卑しい者です。鄙びた所で生まれ育ち、こちらでお仕えできるのでさえ、夢のようですのに……大殿の若君を……あまりに畏れ多くて、恐ろしくて……こんなに勿体無いお話……気後れするばかりですが、無礼にもお断りなどできません……あなたを選べない。あなたを選び、家宣卿を拒むなど……あなたが大殿や家宣卿の知人なれば、なおさら……」

「だったら、きっぱり家宣卿のこと、了承すればよいでしょうに。どうして躊躇われる?姫君、あなたの本心を聞かせて下さい」

 姫君はぼろぼろと涙をこぼした。もうどうしたらよいのか、自分でもわからないのだ。

「姫君を妻にしたい」

 もう一度そう言われて、彼女はこくりと頷いた。

「私を好いて下さっている?」

 こくり。もう一度頷いた。

 家宣は満足した。満面の笑顔だ。

 姫君は口を尖らせた。

「……何でそんなに喜んでいるのですか……?」

「調姫君。心配しなくていい。私です。私が家宣です。だから」

 家宣は優しく微笑んだ。

 だが、そんな言葉で安心するものか。

「え?」

「私が家宣です」

 姫君は暫し現実を受け入れられなかったが、やがて怒り出した。

「家宣卿ですって?」

「はい」

「だったら、どうして最初から名乗らなかったのですか?どうして、乙犬などと!」

 家宣はなお微笑んでいる。

「だって。あなたはあまりに可愛いかったんだ」

「鄙びた子供だからって、からかっていらしたの?」

「違うよ!本当に好きになってしまったから!だから、太政大臣家の息子ではなく、ただの一人の人間として、あなたの心を得たかった。私が家宣だと名乗れば、あなたは私の身分を気になさったでしょう?何の先入観も持たずに、私を好きになって欲しかったのです。一個の私を。本当の私を。だから!」

 しかし、調姫君はなかなか素直になれない。この年頃の娘は、一度拗ねてしまうと厄介だ。

 すっかり騙されてしまったことに腹を立てた。騙した家宣にというより、騙された自分に。その浅はかさに。

 彼女は子供に逆戻りして、兄の信俊の胸に泣いた。

「兄上。やはり都は恐い所です。上野に帰りましょう?私達みたいな田舎者なぞ、とても悪賢い都人には太刀打ちできません。言いようにやられて、騙されて……」

 えんえん泣いた。

 信俊は困ってしまう。

「だけどなあ。父上はもともと都人。世が静かなら、ずっと都にお住まいだった筈だ。そして、この家は母上が住んでいらした家だ。本来、お二人とも都にいるべきだった。我等兄妹は間違って田舎で生まれて。今が本来あるべき姿で……」

「でも、田舎で生まれて育ったのは事実なのだし、急に都になんて馴染めない!もう嫌」

 急に望郷の念に支配されてしまった妹に、信俊は心底困惑し、伯父の上野入道を訪ねた。

 上野入道は色々相談に乗ってくれたし、度々姫君を訪ねて、宥めすかしたのだった。それと、俊幸翁を姫君の側に置いた。

 この翁、ほけほけとして、不思議と昔から人を癒やす力がある。俊幸が毎日わけのわからないことを喋っているうちに、確かに姫君の心も落ち着いた。

 それで。

 年明けには無事、調姫君の裳儀が行われ、家宣も晴れてその夫となったのだった。

 再び桜の季節は巡ってきた。山桜の邸は見事である。

 調姫君は花を眺めながら法化の琴を弾いていた。曲が『梅花三弄』なのが面白い。

 今日は家宣卿も来ていて、まだ少女に過ぎない新妻の器用な手元を、物珍しそうに見つめている。

 曲が終わると、ひどく感心したように、

「琴の琴か。今時珍しいね。こんなものを誰から習ったの?」

と、訊いた。

 家宣は調姫君の琴を初めて聴いた。いや、それ以前に、彼女が琴を弾けることを知らなかった。

 本当に今時珍しいことである。琴といえば、近頃聞くのは、伊豆に流されている散位敏平と、その僅かな弟子くらいで、それ以外にやっている者など本当に稀有だろう。敏平に習っていないで、誰から学んだというのか。ましてや調姫君は上野の人だというのに。学ぶ機会などなかった筈だ。

「母に。母に学びました」

 調姫君はそう答えた。今はもう家宣への怒りは消えている。

「母上に?」

「はい」

「母上もまた、どうして。誰に師事なさったの?」

「この家、母の母、つまり我が祖母の邸だったのはご存知でしょう?祖母はかの伊賀守為長の姉でしたのよ。祖父の羽林が常陸に流されてからは、祖母もこの家を出て、為長のもとに身を寄せました。伯父達も母も、為長や祖母に琴を学んだのです。為長の伊賀下向に同行して、伊賀で為長が消息を絶つまで、共におりました。その後、母達は常陸の祖父を頼り……やがて、母は父と出逢ったのです。母は達者ではありませんでしたが、よく琴を弾いておりました。この法化の琴は、為長が師の政任朝臣より伝授されたものです。母はこれでいつも弾き、私に教えてくれました」

 この話は、家宣をとても驚かせるものだった。

 まさか調姫君が、あの伊賀守為長の琴を受け継いでいたとは。彼女の母が為長の姪だったとは。

「七賢為長が行方不明になったことは知っています。未だ謎のままだ。その姪がこの世に生き延び、その秘蔵の琴を守り、そして、あの信時朝臣の北ノ方となったとは。あなたという娘を産んで、その琴の技と法化とを伝えていたとは」

 その後、家宣はこの話を今上の耳にまで入れることになる。
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