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後序
二拍・運命(下)
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梅若と入れ替わりに民部卿局がやって来た。息せききって、顔も紅潮している。いつもの民部卿局の慎みは、少しも垣間見えない。
思わず今出川殿は尋ねた。
「いったい、どうなさいましたか?」
民部卿局は挨拶さえ忘れて、藪から棒に。
「宋へ渡ることに致しました。お暇を申さばやと参りました」
「え」
今出川殿は、今民部卿局が何を言ったのか、咀嚼できなかった。
「今、どんなことを仰有いましたの?」
「ですから、お暇を申し上げに」
「暇。何でまた」
「ですから、宋に渡るからです」
「ソウに渡るって?」
「ですから、宋に留学(るがく)するんです」
「ソウってどちらのソウですの?」
「ですから、宋は宋でございましょうよ。他にどんな宋があるんですか」
「宋……」
今出川殿、絶句した。しばし時間が止まったようであったが、やがて目をしきりに瞬かせながら、
「宋って、まさか、あの宋ですの?」
と、大真面目に問う。
「まさしく、その宋です」
「海の向こうの遥か西の宋……唐土(もろこし)のことですの?漢人が住まいする、あの宋のことですの?」
「まさしく、その宋です」
「何で!?」
そう言ったきり、今出川殿は言葉を失ってしまった。今にも過呼吸を起こしそうである。身重の彼女の体には毒だ。
民部卿局はこれ以上驚かせてはいけないと思い、少し低めの声でゆっくり理由を話し始めた。
「実は琴の修行をし直したいと思ったのです。この国にいても、琴は学べますが、本場で一からやり直したいのです。私はこれまでひたすら琴を学んで参りました。帥殿の血縁として、それが当然だと思ったからです。又、身内には南唐派の蔭元朝臣と縁戚となった人もおります。私ははじめ、蔭元朝臣と同門の兼保の君に師事しました。その死後、呉楚派に移り、信利の君に師事して琴の基礎を全て学んだのです。そして、十八年前、敏平朝臣の弟子となりました。十八年という月日は実に長いものでした。私は師の君の技の全てを吸収しようと必死でした。弛まぬ努力をこの十八年、続けて参りました。努力したと、誰にも胸を張って言うことができます。それ程の努力をしたという自信があります」
そこは今出川殿も強く頷いた。誰もが認める民部卿局の努力だ。
「師の君もよくご指導下さいました。されど、どんなに頑張っても、それが結果とならなかったのです。努力の仕方でも年月でもありません。それだけでは乗り越えられないものがあるのです。私は師の君がお求めになるような弟子ではありませんでした。十八年続けたのですから、もう結果は見えたと申して宜しうございましょう。私は無理なのでございます」
民部卿局は静かにそう言った。
今出川殿は大きな腹を重たげに動かしながら、一歩前へにじり寄った。そして、手を伸ばし、ようやく届いた民部卿局の爪の長い右手を握った。
「あなたのせいではありません。夫が悪いのです。私から夫へ伝えておきましょう。あなたへ灌頂するようにと。ですから、宋へ行くというのはお考え直し下さい。海は危険です。お命がきっと奪われてしまいます。希望を持って船出しても、それは死出の旅路となりましょう。この国に留まって、夫の灌頂を受けて下さい」
強い眼差しである。
けれど、民部卿局は静かに首を横に振った。
「船が波に呑まれるならば、それもよし。私は既に死を決意しております。命をかけてでも、宋へ渡りたいのです。かつての行実朝臣がそうであったように」
「でも」
「それに、師の君は私に灌頂はお授けにはなりますまい。師の君は呉楚派の灌頂を受けていらっしゃいますが、南唐派の奥義も極めていらっしゃいます。ただ、灌頂を、南唐派の『広陵散』を伝業されていないだけです。それで、師の君は二流の琴を一つに統合し、独自の流儀を興されるおつもりです。その北白川流は秘密にし、門は堅く閉ざし、秘技秘説はただ一人の後継者にのみ伝え、他者はただの数寄者にとどめおかれるおつもりです。北白川の技は、師の君のお身内にのみ受け継がれるのであって、私は永久にお伝え頂けないでしょう。ご嫡男、ご閨室、婿君などでなければ」
民部卿局はややさし俯いた。
今出川殿は目をぱちくりさせる。
「嫡男?」
「ええ。太郎君です。師の君は琴を家業となさるおつもりなのです。だから、太郎君に後を継がせると、お約束になったそうです」
「でも、梅若は琵琶はよくするけれど、琴は触ったこともないのですよ」
「それで、別な方を後継者に定められたのでしょうか。私に、灌頂を望むのならば、閨室に加われと助言して下さる方もありましたが、石山寺に祈願して神仏より与えられた御方に、私が勝てる筈もございません」
「それは、どういう意味です?」
女の直感というものか。今出川殿は、
「その後継者とは何ですか?どういうことで?神仏が夫に与えた人というのですか?」
と、鋭い口調で問う。
民部卿局はそらとぼけて、
「私はよく存じません。ともかく私には見込みがございませんから、私は宋へ渡ります。北ノ方、これにてお別れにございます。長い間、お世話になりました」
と言って、深々と頭を下げた。
今出川殿もそれ以上は何も言わなかった。
かくして、民部卿局は宋へ渡ることになったのである。
この国は宋との行き来はない。だが、私的には商船が宋に渡り、貿易していた。
初め、今出川殿は民部卿局の渡宋を反対したが、その情熱に折れて、商船を手配してくれた。少弐の私的な船である。
少弐は敏平の育ての親・讃岐の君の兄である。もともと少弐は商船を数多く有し、官職も得ていたが、時憲の乱で功績があって累進した。その財力と武力で少弐の地位を手に入れた。今ではその立場を利用し放題。私的な宋との貿易で、私腹を肥やしている。
とはいえ少弐は、妹が全身全霊をかけて仕えた敏平へ、援助することは怠らない。長年、援助し続けてきた。そして、その妻である貴人の今出川殿には、臣下の礼をもって仕えているのであった。だから、今出川殿の頼みであれば、当然従う。
商船一隻を用意し、郎党や水夫(かこ)どもを大勢護衛につけて、民部卿局に与えた。
船の手配以外にも、今出川殿が行ったことがある。嵯峨の青要殿の兵衛の君に使いを出し、庭の梨の一枝を所望したのである。わけを伝えると、兵衛の君は心麗しき人であるので快諾し、梨の枝を分けてくれた。
今出川殿はこれと、生きた犀からとった角の欠片とを、民部卿局への餞別とした。
「あなたは亡き清花の姫君には孫弟子に当たりますが、かの人は私の従姉妹でもあります。かの人がいつも修行の場としていた堂が、嵯峨にあります。その堂の庭には一本の梨の木があり、その木は沙棠の君と呼ばれておりました。かの人の祖父君が名付け親だそうで、これは仙界の植物の名だそうです。沙棠を口にくわえると、溺れないのだとか。また、生きた犀の角も然り。この角は、天竺から宋に運ばれたものを、少弐が手に入れたとかで、とても珍しいものです。沙棠の君の方は、まだ実の季節ではないので、仕方なく花芽のある枝を折らせましたが、幾分かは効き目もありましょう。これらを持って船に乗れば、危険な海路も安全です。あなたを水難からこれらが救い、無事に宋まで送り届けてくれるでしょう。どうぞお持ち下さい」
民部卿局はその二品をありがたく受け取って、宋へと旅立ったのであった。
いざ船出という時、民部卿局の生母・とりのこ御前が泣きついて、供を申し出た。それで、民部卿局は母と二人で遠き異国に出発したのである。
敏平朝臣が都に帰ってきたのは、民部卿局が船出した四日後のことであった。
迎え入れた今出川殿の眼差しといったらない。今出川殿は何も言わないが、それだけに不気味なものである。
彼女は明らかに夫を疑っているのである。
民部卿局の話から、彼女は夫に愛人ができたのだと確信していた。そして、その新たな女を琴の後継者にしたのだ。嗣子の梅若をさしおいて。
梅若はきっと、その女と夫の情事を知ってしまったのだろう。何を聞いても口を噤んだままだが、きっとそうに違いないと、今出川殿は思った。
自分はいい。けれど、梅若には酷だ。嫡子でありながら、家業の伝業をよその女に奪われ、しかもその女と父の不倫を目撃してしまったのだから。子供にそんな傷を負わせて、それだけは許せないと、彼女は夫を怨んだ。
妻への後ろめたさ故だろうか、その視線に刺される身が悲鳴を上げ、堪えきれず、敏平は翌朝にはもう今出川の邸を出ていた。北白川の邸に移る。
そこから久々に参内し、宿直もしたのであった。
彼が再び今出川に姿を現したのは、八日も後のことである。
なお妻のもとは居心地が悪い。
妻は何も言わない。だから、余計に恐かった。
「今日は早く帰りますよ」
そそくさと出仕してしまう。
妻も、
「いってらっしゃいませ」
とだけ。
だが、そう言って下げた頭をゆっくり上げた時の目。敏平とかち合った時のその眼が、敏平の脳裏からいつまでも離れなかった。
宮中で、皇后宮の阿波内侍に会った。彼女は昨日まで里下がりしていたらしく、今日からの出仕である。
「やあ、しばらく」
敏平朝臣は愛想を見せたが、阿波内侍は仏頂面を崩さず、
「ええ、本当にお久し振りですこと。そろそろ大陸より、桃の花の便りも届きますかしら」
と言い捨てると、つんけんと去ってしまった。
「はて、何だ?」
内侍の態度を怪訝に見る敏平だったが、その謎は帰宅して初めて解けたのである。
「い、今のお話は、本当ですか?」
北ノ方からの話に、これまでにないほど敏平は動揺した。
「ええ、本当です。嘘をついてどうなりますか。お疑いならば、大宰府に使いを遣って、少弐にお問い合わせになったらいかがです?」
今出川殿は実に澄まして、せいせいと答えるではないか。
「ええい、何故それをもっと早く仰らない?」
「言ったところで詮無きこと。民部卿の君はとうに西海万里の果てです。それに、申し上げようにも、殿は帰京遊ばした翌日にはもう北白川にお移りでしたもの。お話しする機会を逸してしまったのは、私のせいではございません。だいたい、弟子が国を捨てて宋に船出するのを知らぬ師ということ自体が問題でしょう。こんなことになる前に、どうして帰っていらっしゃらなかったのですか。梅若など、とうに帰っておりましたのに。殿はいったい、どこをほっつき歩いていらしたのです?いったいどうして何用があって、今まで石山寺に詣でていらしたのでしょう?」
ようやくそれを言われたが、言われたら言われたで、何と申し開きしたらよいのかわからない。
「まったく、民部卿の君に宋への留学を決意させるようなことをしでかすなんて」
「あの人のことは関係ないでしょうに」
「まあ、何をとぼけて!あの方が旅立たれたのは、灌頂の望みが完全に絶たれたからですよ。私が何も知らないとでもお思いなの?二十年近くもの弟子に灌頂を絶対に授けないと決意したのは、琴を家業とし、その秘技を守るためだったのでしょう?梅若ただ一人に伝業すると決意なさったのでしょう?梅若が後を継ぐ筈でしたのに、これはいったいどうしたことでしょう。よその女を後継にするなんて!梅若がどんなに傷ついたか。民部卿の君が殿に対して、どんなに失望なさったか」
「そ、それは……」
「いったいどこの何という女ですの?殿の子を宿しているこの私をどうなさるおつもりです?私を離縁なさる?」
「まさか、そんなこと!!」
敏平は思わず叫んだ。妻を離縁するなど、考えたこともない。
「殿とその愛妾を憎く思いますわ」
一言、棘のある声で言うと、あとは今出川殿は口を噤んで自分を慰めた。騒ぐまいと、懸命に努めている。大人として冷静に対応しなければ、物笑いの種。夫が一方的に悪いのに、自分が恥をかいたのではつまらない。そう彼女は思うのだ。
「おもとは勘違いをしておいでのようだが、私はおもとと離れる心などない。我が妻はおもとただ一人です。かの人のことは誰からお聞きになったのか知らないが、事実を曲げて、おもとに伝えられたものらしい。かの人と私とは、おもとが考えておられるような仲ではありません」
敏平は慌てて言った。
けれど、今出川殿はなお黙っている。「その女とはそんな関係ではないですって?どうかしら!」と、心の中で言っているに違いない。
敏平はなお弁解する必要があった。
「誰がそんな偽りを言ったのか知らないが、私はおもとの安産を祈願しに参ったのだし、おもとを大切に思っているのです。どうしてよそに女なぞつくったり……」
「嘘です!」
外から子供の声が、いきなり割り込んできた。
「でたらめです!」
言いながら中へ入ってきたのは、梅若であった。
「誰が母上のお耳に入れたかですって?それは私ですよ。そう、私が民部卿の君に教えて差し上げた。民部卿の君が母上にお話しになった」
口を斜めに引きつらせ、それこそ耳の元の方まで吊り上げさせて、梅若は子供とは思えぬ毒々しさで言う。
「私は知っている。父上は愛妾を後継者にするのだ。妻という立場の一人ならば、琴の技を伝業するのもおかしくない。私はあの女の顔も名前も知っている。継母というより、私の姉みたいな、若い妙齢の美人だ。夕星、そう夕星女だ」
「う、梅若」
敏平は体中冷や汗に濡らして、狼狽している。
「父上は汚らわしい!私にも父上の血が流れているのかと思うと、ぞっとする。この血の連鎖を断ち切って、この身は清浄になりたい。申し訳ないが、父上、私はあなたの嫡男でいることを辞退させて頂きたい。母上、不孝をお許し下さい。私は出家します!」
「なにっ!」
敏平は顔色を変えた。
今出川殿もさすがに狼狽え、
「そ、それだけは考え直して!」
と、おろおろ梅若にすがりつく。
「いいえ。私の考えは変わりません」
梅若はぴしゃりと言い放った。
「そんな、そんな……。母上が悪かったわ。父上をもう困らせないから、どうか勘弁して頂戴」
「母上は悪くありませんよ」
そう言って、ぎっと敏平を睨んだ。
どうにかこの日は梅若を思いとどまらせたが、いつまた出家すると息巻くかわからない。
思わず今出川殿は尋ねた。
「いったい、どうなさいましたか?」
民部卿局は挨拶さえ忘れて、藪から棒に。
「宋へ渡ることに致しました。お暇を申さばやと参りました」
「え」
今出川殿は、今民部卿局が何を言ったのか、咀嚼できなかった。
「今、どんなことを仰有いましたの?」
「ですから、お暇を申し上げに」
「暇。何でまた」
「ですから、宋に渡るからです」
「ソウに渡るって?」
「ですから、宋に留学(るがく)するんです」
「ソウってどちらのソウですの?」
「ですから、宋は宋でございましょうよ。他にどんな宋があるんですか」
「宋……」
今出川殿、絶句した。しばし時間が止まったようであったが、やがて目をしきりに瞬かせながら、
「宋って、まさか、あの宋ですの?」
と、大真面目に問う。
「まさしく、その宋です」
「海の向こうの遥か西の宋……唐土(もろこし)のことですの?漢人が住まいする、あの宋のことですの?」
「まさしく、その宋です」
「何で!?」
そう言ったきり、今出川殿は言葉を失ってしまった。今にも過呼吸を起こしそうである。身重の彼女の体には毒だ。
民部卿局はこれ以上驚かせてはいけないと思い、少し低めの声でゆっくり理由を話し始めた。
「実は琴の修行をし直したいと思ったのです。この国にいても、琴は学べますが、本場で一からやり直したいのです。私はこれまでひたすら琴を学んで参りました。帥殿の血縁として、それが当然だと思ったからです。又、身内には南唐派の蔭元朝臣と縁戚となった人もおります。私ははじめ、蔭元朝臣と同門の兼保の君に師事しました。その死後、呉楚派に移り、信利の君に師事して琴の基礎を全て学んだのです。そして、十八年前、敏平朝臣の弟子となりました。十八年という月日は実に長いものでした。私は師の君の技の全てを吸収しようと必死でした。弛まぬ努力をこの十八年、続けて参りました。努力したと、誰にも胸を張って言うことができます。それ程の努力をしたという自信があります」
そこは今出川殿も強く頷いた。誰もが認める民部卿局の努力だ。
「師の君もよくご指導下さいました。されど、どんなに頑張っても、それが結果とならなかったのです。努力の仕方でも年月でもありません。それだけでは乗り越えられないものがあるのです。私は師の君がお求めになるような弟子ではありませんでした。十八年続けたのですから、もう結果は見えたと申して宜しうございましょう。私は無理なのでございます」
民部卿局は静かにそう言った。
今出川殿は大きな腹を重たげに動かしながら、一歩前へにじり寄った。そして、手を伸ばし、ようやく届いた民部卿局の爪の長い右手を握った。
「あなたのせいではありません。夫が悪いのです。私から夫へ伝えておきましょう。あなたへ灌頂するようにと。ですから、宋へ行くというのはお考え直し下さい。海は危険です。お命がきっと奪われてしまいます。希望を持って船出しても、それは死出の旅路となりましょう。この国に留まって、夫の灌頂を受けて下さい」
強い眼差しである。
けれど、民部卿局は静かに首を横に振った。
「船が波に呑まれるならば、それもよし。私は既に死を決意しております。命をかけてでも、宋へ渡りたいのです。かつての行実朝臣がそうであったように」
「でも」
「それに、師の君は私に灌頂はお授けにはなりますまい。師の君は呉楚派の灌頂を受けていらっしゃいますが、南唐派の奥義も極めていらっしゃいます。ただ、灌頂を、南唐派の『広陵散』を伝業されていないだけです。それで、師の君は二流の琴を一つに統合し、独自の流儀を興されるおつもりです。その北白川流は秘密にし、門は堅く閉ざし、秘技秘説はただ一人の後継者にのみ伝え、他者はただの数寄者にとどめおかれるおつもりです。北白川の技は、師の君のお身内にのみ受け継がれるのであって、私は永久にお伝え頂けないでしょう。ご嫡男、ご閨室、婿君などでなければ」
民部卿局はややさし俯いた。
今出川殿は目をぱちくりさせる。
「嫡男?」
「ええ。太郎君です。師の君は琴を家業となさるおつもりなのです。だから、太郎君に後を継がせると、お約束になったそうです」
「でも、梅若は琵琶はよくするけれど、琴は触ったこともないのですよ」
「それで、別な方を後継者に定められたのでしょうか。私に、灌頂を望むのならば、閨室に加われと助言して下さる方もありましたが、石山寺に祈願して神仏より与えられた御方に、私が勝てる筈もございません」
「それは、どういう意味です?」
女の直感というものか。今出川殿は、
「その後継者とは何ですか?どういうことで?神仏が夫に与えた人というのですか?」
と、鋭い口調で問う。
民部卿局はそらとぼけて、
「私はよく存じません。ともかく私には見込みがございませんから、私は宋へ渡ります。北ノ方、これにてお別れにございます。長い間、お世話になりました」
と言って、深々と頭を下げた。
今出川殿もそれ以上は何も言わなかった。
かくして、民部卿局は宋へ渡ることになったのである。
この国は宋との行き来はない。だが、私的には商船が宋に渡り、貿易していた。
初め、今出川殿は民部卿局の渡宋を反対したが、その情熱に折れて、商船を手配してくれた。少弐の私的な船である。
少弐は敏平の育ての親・讃岐の君の兄である。もともと少弐は商船を数多く有し、官職も得ていたが、時憲の乱で功績があって累進した。その財力と武力で少弐の地位を手に入れた。今ではその立場を利用し放題。私的な宋との貿易で、私腹を肥やしている。
とはいえ少弐は、妹が全身全霊をかけて仕えた敏平へ、援助することは怠らない。長年、援助し続けてきた。そして、その妻である貴人の今出川殿には、臣下の礼をもって仕えているのであった。だから、今出川殿の頼みであれば、当然従う。
商船一隻を用意し、郎党や水夫(かこ)どもを大勢護衛につけて、民部卿局に与えた。
船の手配以外にも、今出川殿が行ったことがある。嵯峨の青要殿の兵衛の君に使いを出し、庭の梨の一枝を所望したのである。わけを伝えると、兵衛の君は心麗しき人であるので快諾し、梨の枝を分けてくれた。
今出川殿はこれと、生きた犀からとった角の欠片とを、民部卿局への餞別とした。
「あなたは亡き清花の姫君には孫弟子に当たりますが、かの人は私の従姉妹でもあります。かの人がいつも修行の場としていた堂が、嵯峨にあります。その堂の庭には一本の梨の木があり、その木は沙棠の君と呼ばれておりました。かの人の祖父君が名付け親だそうで、これは仙界の植物の名だそうです。沙棠を口にくわえると、溺れないのだとか。また、生きた犀の角も然り。この角は、天竺から宋に運ばれたものを、少弐が手に入れたとかで、とても珍しいものです。沙棠の君の方は、まだ実の季節ではないので、仕方なく花芽のある枝を折らせましたが、幾分かは効き目もありましょう。これらを持って船に乗れば、危険な海路も安全です。あなたを水難からこれらが救い、無事に宋まで送り届けてくれるでしょう。どうぞお持ち下さい」
民部卿局はその二品をありがたく受け取って、宋へと旅立ったのであった。
いざ船出という時、民部卿局の生母・とりのこ御前が泣きついて、供を申し出た。それで、民部卿局は母と二人で遠き異国に出発したのである。
敏平朝臣が都に帰ってきたのは、民部卿局が船出した四日後のことであった。
迎え入れた今出川殿の眼差しといったらない。今出川殿は何も言わないが、それだけに不気味なものである。
彼女は明らかに夫を疑っているのである。
民部卿局の話から、彼女は夫に愛人ができたのだと確信していた。そして、その新たな女を琴の後継者にしたのだ。嗣子の梅若をさしおいて。
梅若はきっと、その女と夫の情事を知ってしまったのだろう。何を聞いても口を噤んだままだが、きっとそうに違いないと、今出川殿は思った。
自分はいい。けれど、梅若には酷だ。嫡子でありながら、家業の伝業をよその女に奪われ、しかもその女と父の不倫を目撃してしまったのだから。子供にそんな傷を負わせて、それだけは許せないと、彼女は夫を怨んだ。
妻への後ろめたさ故だろうか、その視線に刺される身が悲鳴を上げ、堪えきれず、敏平は翌朝にはもう今出川の邸を出ていた。北白川の邸に移る。
そこから久々に参内し、宿直もしたのであった。
彼が再び今出川に姿を現したのは、八日も後のことである。
なお妻のもとは居心地が悪い。
妻は何も言わない。だから、余計に恐かった。
「今日は早く帰りますよ」
そそくさと出仕してしまう。
妻も、
「いってらっしゃいませ」
とだけ。
だが、そう言って下げた頭をゆっくり上げた時の目。敏平とかち合った時のその眼が、敏平の脳裏からいつまでも離れなかった。
宮中で、皇后宮の阿波内侍に会った。彼女は昨日まで里下がりしていたらしく、今日からの出仕である。
「やあ、しばらく」
敏平朝臣は愛想を見せたが、阿波内侍は仏頂面を崩さず、
「ええ、本当にお久し振りですこと。そろそろ大陸より、桃の花の便りも届きますかしら」
と言い捨てると、つんけんと去ってしまった。
「はて、何だ?」
内侍の態度を怪訝に見る敏平だったが、その謎は帰宅して初めて解けたのである。
「い、今のお話は、本当ですか?」
北ノ方からの話に、これまでにないほど敏平は動揺した。
「ええ、本当です。嘘をついてどうなりますか。お疑いならば、大宰府に使いを遣って、少弐にお問い合わせになったらいかがです?」
今出川殿は実に澄まして、せいせいと答えるではないか。
「ええい、何故それをもっと早く仰らない?」
「言ったところで詮無きこと。民部卿の君はとうに西海万里の果てです。それに、申し上げようにも、殿は帰京遊ばした翌日にはもう北白川にお移りでしたもの。お話しする機会を逸してしまったのは、私のせいではございません。だいたい、弟子が国を捨てて宋に船出するのを知らぬ師ということ自体が問題でしょう。こんなことになる前に、どうして帰っていらっしゃらなかったのですか。梅若など、とうに帰っておりましたのに。殿はいったい、どこをほっつき歩いていらしたのです?いったいどうして何用があって、今まで石山寺に詣でていらしたのでしょう?」
ようやくそれを言われたが、言われたら言われたで、何と申し開きしたらよいのかわからない。
「まったく、民部卿の君に宋への留学を決意させるようなことをしでかすなんて」
「あの人のことは関係ないでしょうに」
「まあ、何をとぼけて!あの方が旅立たれたのは、灌頂の望みが完全に絶たれたからですよ。私が何も知らないとでもお思いなの?二十年近くもの弟子に灌頂を絶対に授けないと決意したのは、琴を家業とし、その秘技を守るためだったのでしょう?梅若ただ一人に伝業すると決意なさったのでしょう?梅若が後を継ぐ筈でしたのに、これはいったいどうしたことでしょう。よその女を後継にするなんて!梅若がどんなに傷ついたか。民部卿の君が殿に対して、どんなに失望なさったか」
「そ、それは……」
「いったいどこの何という女ですの?殿の子を宿しているこの私をどうなさるおつもりです?私を離縁なさる?」
「まさか、そんなこと!!」
敏平は思わず叫んだ。妻を離縁するなど、考えたこともない。
「殿とその愛妾を憎く思いますわ」
一言、棘のある声で言うと、あとは今出川殿は口を噤んで自分を慰めた。騒ぐまいと、懸命に努めている。大人として冷静に対応しなければ、物笑いの種。夫が一方的に悪いのに、自分が恥をかいたのではつまらない。そう彼女は思うのだ。
「おもとは勘違いをしておいでのようだが、私はおもとと離れる心などない。我が妻はおもとただ一人です。かの人のことは誰からお聞きになったのか知らないが、事実を曲げて、おもとに伝えられたものらしい。かの人と私とは、おもとが考えておられるような仲ではありません」
敏平は慌てて言った。
けれど、今出川殿はなお黙っている。「その女とはそんな関係ではないですって?どうかしら!」と、心の中で言っているに違いない。
敏平はなお弁解する必要があった。
「誰がそんな偽りを言ったのか知らないが、私はおもとの安産を祈願しに参ったのだし、おもとを大切に思っているのです。どうしてよそに女なぞつくったり……」
「嘘です!」
外から子供の声が、いきなり割り込んできた。
「でたらめです!」
言いながら中へ入ってきたのは、梅若であった。
「誰が母上のお耳に入れたかですって?それは私ですよ。そう、私が民部卿の君に教えて差し上げた。民部卿の君が母上にお話しになった」
口を斜めに引きつらせ、それこそ耳の元の方まで吊り上げさせて、梅若は子供とは思えぬ毒々しさで言う。
「私は知っている。父上は愛妾を後継者にするのだ。妻という立場の一人ならば、琴の技を伝業するのもおかしくない。私はあの女の顔も名前も知っている。継母というより、私の姉みたいな、若い妙齢の美人だ。夕星、そう夕星女だ」
「う、梅若」
敏平は体中冷や汗に濡らして、狼狽している。
「父上は汚らわしい!私にも父上の血が流れているのかと思うと、ぞっとする。この血の連鎖を断ち切って、この身は清浄になりたい。申し訳ないが、父上、私はあなたの嫡男でいることを辞退させて頂きたい。母上、不孝をお許し下さい。私は出家します!」
「なにっ!」
敏平は顔色を変えた。
今出川殿もさすがに狼狽え、
「そ、それだけは考え直して!」
と、おろおろ梅若にすがりつく。
「いいえ。私の考えは変わりません」
梅若はぴしゃりと言い放った。
「そんな、そんな……。母上が悪かったわ。父上をもう困らせないから、どうか勘弁して頂戴」
「母上は悪くありませんよ」
そう言って、ぎっと敏平を睨んだ。
どうにかこの日は梅若を思いとどまらせたが、いつまた出家すると息巻くかわからない。
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毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
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克全
歴史・時代
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