七絃灌頂血脉──琴の琴ものがたり

国香

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後序

七拍・宮商荊仙楽(弐)

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 その夜、東寺の長者が阿闍梨一人を伴ってやってきた。仁和寺の阿闍梨二人も加わって、御室と五人がかりで敵を調伏することになった。

 敏平は堂から出て、彼方の建物に移る。そこで御室達の呪法を受けた。

 敵は相当である。五人の法力をもってしても、とても太刀打ちできない。

「駄目です。宮、寺じゅうの僧の力をもお借りして、荼枳尼天法を施しましょう」

 長者が額の汗を拭いながらそう言った。

 この長者はあの荼枳尼天の秘法を操れるのである。

 それにしても、敵は桁違いの呪力を持っている。御室は頷き、寺の僧を皆集めて荼枳尼天法を行う。

 すると、忽ち敵が姿を見せた。

「あ!?」

 敏平が見たもの、それは。

「めうれん尼っ!!」

 その背後に、大きな二つの眼球がこちらを睨んでいた。

「さては、おぬしは法真阿闍梨だな!?」

 長者がそう叫んだ。

 法真だと?

 あの縦目阿闍梨が念の正体なのか。

「違う。尼だ。尼が念の正体。法真の呪力を借りた尼の呪いだ!」

 御室はそう言ったが、恐怖を隠そうとしない。

 長者がめうれん尼へ問う。

「おぬし、いったい何者だ。何故に敏平朝臣を呪う?」

「別に。この者に怨みがあるわけではない。意思に関係なく、我が念がこの男に巻き付いた」

 めうれん尼はにんまり笑った。鬼女だ、その顔はまさしく。

「我は四海を制覇する強大な力を得た」

 尼は法真の大きな眼を握りつぶす。

「さては法真をも飲み込んだか!」

 長者の声は真っ直ぐ。怯んではならぬ、怯めば負ける。長者は挫けそうになるのを必死に堪え、恐怖に打ち勝たんとした。

 仁和寺じゅうの僧の力が長者に注がれている。こんな強大な敵を相手にするのは初めてだ。

「我は昔、朽葉の衣がよく似合うと、その色香をもてはやされていた女。好色な男に情熱をかけられ、宿世を契りしも、夫はあらぬ妖婦にたぶらかされて、その女のもとに走った。女は我には決して授からなかった夫の子を宿した。憎や、我が夫を奪い、我が夫の子を宿し!あんな女も腹の子も死んでしまえ!我が念は法真に通じたり。法真、我が無念を受け止め、力を貸し、腹の子を男と女の双子にしたわえ。生まれた鬼畜の子は耶阿摩。娘は捨てて、いい気味だと思うていたに……あの男が拾うてきたりするが故に……」

 敏平はぞぞっとした。では、これなる尼は、あの朽葉の上だったというのか。伯父・忠兼朝臣の北ノ方の。

「あの男は憎い奴。自分の妻を我の夫に奉り、我を苦しめ、挙げ句に夫の子を拾うてくるとは。憎い男。そして、何よりあの女が憎い。あの子どもが憎い。憎い、憎い、憎い!」

「だが、敏平朝臣は関係なかろうよ」

「い、いや……」

 長者の挑みに、敏平が割り込む。

「……私はあの尼が憎む者の縁者……故」

「そうだ、おまえ!」

 尼がくわっと敏平を見やった。

「おまえに恨みはない。だが、我の憎む人は皆死に絶えて、あの女とおまえが残った。あの女だけは許せぬ。怨むうちに、あの女は鬼畜の道を歩み、男の精を求めて、ひたすら愛欲に生きるいやらしい女に身を落とした。だが、まだ許せぬ。あの女をずたずたにしてやる。その念が、いつしかおまえにも纏わりついた。おまえには少し悪いことをしたと思わぬでもないが、意思とは関係なく、おまえに念が纏わりつく。だが、いい気味ではあるよ。おまえが畜生道を進むのを見るのは。やはり気持ちのいいものだねえ。あははははははは!」

「何ということだ。あの法真をも飲み込み、この無関係な者にまで取り憑くとは。調伏してくれる!」

 長者は怒って、荼枳尼天を操り始めた。

 しかし、少しも効果はない。

 生き霊は、口を耳まで裂いて、にやりと笑う。

「どうだね、おまえ。生きて畜生道を歩む気分は。おまえも、おまえの母親と少しも変わらぬ鬼畜だわえ。経王御前、あれはいい女だったねえ。さすがは耶阿摩の片割れだ。さすがはおまえの母の子だ。くくくく」

 ぞっと敏平は背筋を凍らせた。

 再び、法真の縦目が影のように大きく広がる。

 あの縦目は、そう。見覚えがある。あの時、巨大な竜巻の中に見た双の目。燭龍の幻を見たと思ったあの時。その直後、敏平は急に欲情して、出会った女を犯した。それが輪台尼、経王御前だった。

「あれは。あの時の縦目は、法真阿闍梨のものだったのか。あなたが私を畜生道に落とすために、経王御前のもとに導いたのか、朽葉の上!?」

 その時だった。

 俄に生き霊が苦しみ出した。

「おぬしの正体見たり、朽葉の上。いや、参議衡行の娘、源行子!」

 長者がそう叫んだ途端、法真の双の縦目が生き霊を挟み込んだ。

 ぎゃあと生き霊が断末魔の叫びを上げる。

 どんっと巨大な音が地の底より割れ鐘のように響き、わっと人間が両耳を塞ぐと、巨大な縦目がさらに大きくなって、みるみる堂を包んでゆく。そして、あっという間に飽和し、瞬間、護摩の火も消え闇になり、長者も敏平も御室も全員の意識が切れた。

──

 ぽつりと冷たいものが頬に落ちてきて、目が覚めた。手を頬にやると、水である。もう一つぽつと、今度は額に落ちる。

「ん」

 かすむ目を凝らして仰ぎ見れば、真上に雲が見えた。そこから雨が一粒二粒と落ちてくる。

 敏平、驚いて飛び起きると、ぷすぷすと護摩から微かな煙が立ち昇っていた。

 上を見れば、天井が抜けている。随分と大きな穴があいていた。そこから雨が落ちてきていた。

「終わったな……」

 背後で声がした。長者のものであった。

 次々に人々が目を覚ます。

「もう大丈夫だ、右京大夫。全て終わったよ。こなたに取り憑いていたものは消滅した」

 御室も起き上がって、そう言った。

「……あれは、我が母の従兄弟の妻であったのだな」

 御室は少ししんみりとした様子で、穴から空を見上げた。すでに雲の色が見える時刻になっている。いつしか夜が明けていた。

 御室はふと生き霊に憐れみを感じたのだろうか。動く雲を目で追いながら、

「あのようなものに変化して、さぞ苦しかったであろうよ。我が母がかの者を救うよう、導いて下さったのかもしれぬ」

と、吐息した。

「それにしても、派手にやってくれましたね」

 長者は改めて生き霊の凄まじさに目を見張る。仁和寺の僧侶が総力を上げて挑んで、ようやく片付いたのだ。しかも、生き霊は置き土産に堂を豪快に破壊して行ってくれた。

「あの法真を飲み込んだくらいだから」

「法真は天狗になったと聞きましたが、まさかあれほどの超人が、手弱女一人に飲み込まれてしまったとは……」

 御室と長者が話しているのを横に聞きながら、敏平は良禅を思っていた。

 あの逢坂の邸で、めうれん尼と一緒にいた盲人の良禅。あの老人は眼球を持っていなかった。盲人なのに、毎日山を駆け抜けて、まるで目が見えているようだった。あの異様さ。まさか、あの良禅が法真阿闍梨ということはあるまいな?

 敏平がそういう考えに至った時、俄かに周囲の空気が変わるのを感じた。同時に侍僧の、

「宮!宮!」

と呼ぶ声が聞こえてきた。

 侍僧の御室を呼ぶ声は、どんどん近づいてくる。走っているのだ、声が大きくなるのが速い。すぐに足音を鳴らして、飛んできた。

「宮、検非違使です!」

「いかん!騒ぎを聞きつけてきたのだ。門を閉ざして、決して入れるな。大丈夫。寺に踏み込むことなど、検非違使には……」

「ところが、狼藉者がすでに乱入してきております!」

「何?左様なこと許されるとでもっ……!」

 言っているそばから、多数の人声が聞こえてきた。こちらに向かってくる。足音も近づいてくる。十二、三人はいようか。

「右京大夫!早う隠れよ!」

 御室は焦ってあたふたと言う。

「あっ、はっはい!」

 敏平は答えるや否や、その場を飛び出していた。

 敏平が飛び出した直後、検非違使がやって来た。

「下手人・右京大夫敏平をこの辺りで見たというので、巡回しておりましたら、何やら突然こちらで大きな音がして、巨大なものが弾け飛んだようでしたので、ただ事ならじと、無礼は承知で押し入って参りました。何事ですか?大事ありませぬか?まさか、敏平が忍び込んで何かしでかしたのでは?御室に危害でも……」

とまで言って、検非違使を率いてきた判官は、はっと異変に気付いた。

「こ……」

 絶句している。部下達も皆屋根を見て呆気にとられていた。

 ぱくぱくと声も出ずにいるその姿を、敏平は物陰から見て、そっとその場を離れた。

 あれなら大丈夫だろう。検非違使の気は敏平から逸れた。暫く屋根の異変を調べるだろう。

 敏平はそれでも用心しながら、隠れていた堂に戻った。敏平はここでは見つかるわけにはいかない。見つかれば、罪人を匿ったとして、御室に迷惑がかかる。だから、慎重に移動した。

 そして、どうにかうまく堂まで戻ることができた。

 しかし、彼は知らない。途中、彼を待ち伏せていた二つの目に、その姿をしっかと見られていたことを。

 敏平がこちらに逃亡すると読んで、先回りしていた者がいた。敏平が堂に身を隠すのをしかと見届ける。

 そうとは知らない敏平は、堂に入ると、待っていた従者に問うた。

「吉上は戻ってきたか?」

「いいえ」

「では、何か連絡は?」

「それもございませぬ」

「そうか」

 早く戻ってくれるとよいのだが。そう思っていると、

「ところで、御食事はまだですよね?」

と従者が言って、隅から膳を持ってきた。

「先程、寺の者が持って参りました。どうぞ」

 質素だが、美味そうだ。そういえば、腹が減ったようだ。

 敏平は暢気にも食事を始めた。

 そうして箸を動かしていると、不意に堂の壁がごつんと鳴った。

「何だろう?」

 石か?敏平は顔を上げて、音のした壁を見やった。

「見て参りましょう」

 従者は戸口まで行くと、暫くは開けずに、外の様子を伺った。それから、やおら戸を音も立てずに微かに開ける。と、かさっと何かが落ちた。

 床に落ちた紙を慌てて拾い、そのまま戸を閉めてしまう。

「殿、かようなものが、戸口に挟まっておりました」

 従者は恭しくそれを差し出す。

 受け取って、敏平はその風情のない紙を開いた。字が書いてある。紛れもなく文だ。その文面に目を落とす。

「やっ?」

 一文読んだだけで、敏平は仰天した。

 文は敏平に宛てたもので、検非違使別当にして敏平の琴の弟子・公季卿からだった。

 内容は──。

 検非違使は敏平を捜索していること。そして、見つけ次第、生け捕りにするということ。この周辺で敏平の目撃情報があること。故に、検非違使はこの辺りを常に巡回していること。早暁の仁和寺の異変に、検非違使は無断で寺に入ったこと。

 そして、検非違使の乱入により、慌てた敏平がこちらに逃亡してくるだろうこと予測して、待ち伏せていたこと。予測が当たったこと……等。

 つまり、公季卿本人が、敏平がこの堂に逃げ込むのを見たのだ。

 だから、この文を書いて、戸口に差し入れておいたのだ。石を壁に投げたのは、敏平を文に気付かせるためだ。

 公季卿の文は続く。

 公季卿は別当だから、敏平を見逃すことは許されない。しかし、公季卿は院に逆らい、敏平を逃がすつもりであると。

今は別当として、検非違使を指揮しなければならないので、皆の所に戻るが、後で会いたいと書いてある。そして、落ち合う場所と時刻まで書かれてあった。

「……これは、また……」

 敏平は一日考えた。

 公季卿の言う通りにするべきか。それとも出頭するか。このまま仁和寺に匿われるか。公季卿に会わずに逃亡するか。

 考え抜いた。

 だが、彼は弟子を信じることにした。公季卿の指示通りにすることに。
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