178 / 180
後序
七拍・宮商荊仙楽(陸)
しおりを挟む
何だか重苦しい。息ができない。いや、重い。何かが胸にのしかかっている。
唸って身を捻る。すると、何やら首筋がくすぐったい。ぞっと何かが首をなぞって、それから鼻先にとどまった。ふかふかふわふわしたもの。暑苦しい。息苦しい。鼻に口に頬に、むくむく当たって、くすぐったい。
思わずくしゃみした。
その自分のくしゃみの振動で目が覚めた。と、いきなり視界全体に毛が広がった。
「きゃぁっ!」
反射的に悲鳴を上げた。だが、声にはなっていなかった。悲鳴と同時にがばっと起き上がっている。
毛の塊が、ねうと喋って、むっくり動き出した。そして、こちらを振り返り、もう一度、ねうと鳴く。円らな目と合った。
「なんだ、猫か……」
ほっとすると、急に頭痛を覚える。右手を床につけて体を支えたまま、左手を額にやると、熱い。
ふと、そこに濡れた布が転がっているのが見えた。もしかして、今までこれが額にあって、勢いよく飛び起きた弾みで落ちたのか?
そう考えていると、猫が右の手首に頭を擦りつけてきた。柔らかく、ふわふわと気持ちよい。
「かわいい」
思わず笑顔になって、猫を抱き上げようと、左手を差し出した時、
「乙若(おとわか)、乙若!おうい、乙若!」
と、外から若い男の声が聞こえてきた。
ねう、と猫はその声に反応した。夕星も反応し、思わず身構える。それで、初めて気づいた。自分が見知らぬ所にいることを。
ひどく豪奢な部屋の中にいる。天井の絵が色彩豊かで美しく、几帳に囲まれた中に閨が設えられていて、そこに寝かされていたことを知る。周囲の調度品は皆豪華だ。
いったいここはどこなのだろうか。青ざめていると、また外から、
「乙若!」
と、聞こえてくる。さっきより声が近くなっている。
いよいよ体を硬くすると、ふいっと猫が行ってしまった。
几帳をくぐって、ててとと部屋を走って行く音がする。
夕星は心細くなった。
暫くすると、外で猫が大きな声で一つ鳴いた。すると、
「なんだ、乙若、ここで遊んでいたのか?」
と、先程の声。
しかし、すぐに、
「あれっ?おまえ、そこから出てきたの?」
と、声は明らかに戸惑いを響かせた。
どうしよう。夕星は息を詰めた。
それから御簾の揺れる気配がして、向こうから衣擦れの音が近づいてくる。空気が動く。次第に足音がこちらに来て、ついには気配さえ感じられ……
すぐ目の前の几帳で止まった。そして、猫がまた一つ鳴く。猫はその人に抱えられているのだろう。随分高い所から声が落ちてきた。
猫を抱いた人から、えならぬ香りが僅かに漂ってきた。そして、その人は閨の様子を窺っているようである。
やがて、身を縮めて座っている夕星の背に、
「もし」
と、声がかけられた。
とても若い声だった。
「もし、お気がつかれましたか?」
その人がもう一度そう言った。だから、返事をしなくてはと思った時、
「あっ!こら、乙若、暴れるな!」
と、彼女の出かかった声は、その人の声にかき消された。
「こらっ!」
ぼんっと床が音を立てた。猫が飛び降りたに違いない。
「そっちは駄目!病人が……」
思わず夕星がそちらを振り返った時、猫が几帳を捲り上げ、瞬間その公達と目が合った。
はっとしたけれど、もう遅い。完全に彼女の姿は彼に見られていた。
公達はまだ本当に若く、夕星より少しだけ年少だろうか。だが、かなり落ち着いた様子で、夕星よりも大人びていた。
この若公達、見た目の奥ゆかしさに似ず、意外に大胆な男だった。あの両親に育てられたせいだろうか。彼は夕星の顔を見てしまったら、もう常識もへったくれもないとてか、不敵にも猫の後を追って几帳を掻き分け、閨の中に入ってきた。
夕星も好奇心旺盛な方だし、都の姫君とは違うが、さすがにこれには驚いた。
だが、この大胆な男、夕星の枕元に座ると、やけに屈託なくあどけない顔で、
「やあ」
と笑った。憎らしいくらいに可愛らしく。
その膝に、件の猫が自ら座る。
無邪気に嬉しそうな目を膝の猫に向けた後、夕星を見た。
「気がついてよかった。ご気分は?」
理由もなくどぎまぎして、夕星は襟を掴みながら、目を伏せる。
「まだ熱があるようだけど、大丈夫かな?気分が悪いようなら、薬湯を持ってきましょう」
「い、いいえ。平気です……」
辛うじて彼女は返事した。そして、頭の中の疑問を口にしようと思った時、公達の方からその解答を言ってくれた。
「びっくりしましたよ。川に倒れていたのだから。暑気ですね。いったいどうしたのですか、供も連れずにお一人で。あのままあそこに臥していたら、死ぬところでしたよ。たまたま私が通りかかったからよかったけれど。家はどこです?そのお体では、まだ帰すわけにはいかないけれど、家の人に連絡してあげましょう」
「助けて頂いて……有難うございます……あの河原から運んできて下さったのですか。ご迷惑を……」
「迷惑だなんて、とんでもない!とても嬉しかったんですから!やっと出逢えたって、天に感謝した」
「え?感謝?」
わけがわからなくて、夕星が思わず顔を上げると、彼の澄んだ瞳と出会う。
彼はにこにこしていた。笑うとあどけない。だが、その目元はどこか大人びていて、口元はなまめいていた。
増せている。多分夕星より二つ三つ年下だ。だが、この色香、ふてぶてしさはどうだろう。子供の中に大人が混在している。
その艶めいた紅顔を一層輝かせて、公達は言った。
「それで、家はどちらです?」
自分の家に上げたのだ。素性を知りたがるのは当然のことだ。いくら年若い女とて、行きずり。危険だ。
しかし、夕星は答えられない。
沈黙ができてしまった。
夕星が何と言おうか迷っていると、それをどうとったのか、公達は頷いた。
「なるほど。家には帰れないのですね」
「え。いえ……」
そういうわけではない。
けれど、家出か何かと公達は思ったらしい。
「家の人に連絡されたら困るのですね。わかった。行く所もないのでしょう?だったら、ずっとここに住めばいいですよ」
「いえ、そんな」
「迷惑なんてこれっぽっちもないですからね」
行く所がないわけでもないし、良禅に連絡されたって困らないし。しかし、公達は一方的に話を進める。
「決まり。ここに住んで下さい。ずっといて下さい」
「お待ちを!」
夕星はやっと言った。
「私のような者を置くなんて、そんな……」
「だから、大丈夫ですよ」
と、夕星を遮って公達は言った。
「むちゃくちゃは言っていないつもりですよ。私はずっとあなたを探していたのです。父も人の素性なんかに拘る人ではないし、母も田舎育ちで、身分だって低いし。あなたを置くのに難色は示さないと思います」
「……??」
「あ。もしかして、私のことを怪しいと思っていらっしゃいます?そうですよね。見知らぬ人の家に住むのは危険ですよね。でも、大丈夫。祖父は太政大臣になったこともあるし、父も大臣。私もちゃんと公卿ですよ」
「げっ?」
夕星は頭を疑問で一杯にしていたのに、全てそれが吹き飛んだ。とんでもない高貴な人の家だ。
青ざめた夕星を見て、公達はおかしそうにけたけた笑った。膝の猫を抱え上げ、
「大丈夫大丈夫。そんなに心配しなくても、本当に父は平気だから。何しろ、猫を追って築地の上を走ったり、猫と一緒に池に落ちるような人だからね。あなたのことを咎めたりしませんよ。母だって。きっとあなたが住んでくれたら、喜ぶのではないかな」
と言った。
「まさか」
辛うじて言った。そんな貴人が、猫と池に入ったりするものか。何でこの公達の母君が、得体の知れない小娘を歓迎したりするものか。
「……ど、どうして、お喜びになる、と……?」
「だって、母の大好きな物語の主人公そのものだから、あなたが」
「私が?」
目が点になった。
「そう。だから、私もあなたに逢いたかったのですよ」
「……」
先程からおかしなことばかり言う公達だ。
そして、さらに彼はうっとりとその物語を話してくれた。
「昔、小冠者が翁を伴って、盛夏の中を歩いていました。本当に暑い日で、小冠者は翁のために、翁が以前から飲みたがっていた湧き水を飲ませようと、泉に連れて行ったのです。それは甘露な清水で。ところが、泉のすぐそばの花園の中に、一人の乙女が倒れていたのです。二人は乙女を助け、近くの尼寺に預けました。それはそれは艶やかな美しい乙女で。小冠者は一目で心を奪われました。けれど、先を急ぐ身。離し難かったけれど、仕方なく乙女を尼寺に預けて行ったのです。暫くして、小冠者が再びそこを訪れると、乙女はもうそこにはいませんでした」
何となく話に引き込まれる。夕星は続きが気になってきた。
「それで、どうしたのですか、小冠者は?」
「目を開けている乙女を見たいという望みは叶いませんでした。でも、乙女は気を失っていても、自分を助けてくれた人の肌の温もりと匂いは覚えていました。だから、感謝して、恩人のために写経しました。それを恩人への礼として、尼に預けて帰って行ったのです。小冠者はその経文を尼より受け取ったのでした」
「それで?」
夕星は続きを知りたかった。けれど、公達はそこで話をやめてしまって、代わりにこう言った。
「あなたを見つけた時、その物語の乙女を思いました。小冠者は尼に乙女を預けてしまったから、乙女に逢えなかった。でも、私はそんなのは嫌だった。あなたの目が開かれるのを見たかった。だから、私はあなたを連れ帰ったのです。手放したくありません。ずっとここにいて下さい!」
「え!?」
いきなり、初めて会った人に、そんな信じられないことを言われて、夕星はわけがわからない。
「……」
絶句している彼女に、彼は真剣に言った。
「いて下さい。いなくては駄目だ。その物語には続きがあって、二人は波瀾万丈の末、ついに結ばれるのです。色々あって、それはそれは苦労したけれど、辛い運命だったけれど、最後は幸せになった。だから、私も幸せになると信じています。あなたは私の運命の人。その物語の二人のように幸せになるんです。でも、その二人のように辛い憂いを経るのは嫌です。だから、私はあなたを離さずに、連れてきたのですよ」
その目は冗談の欠片も見えない。本当に真剣で、夕星は面食らってしまう。
「……しかし……御身はともかく……母君がどうして?」
どぎまぎしてきた。紅顔を正視できずに俯く彼女に、公達はふっと柔らかく微笑んだ。
「言ったでしょう、母の大好きな物語だと。私も大好きです。幼い頃、小冠者の老臣に聞いて、胸ときめかせたものです」
「小冠者の老臣?」
「だって、この物語は本当にあった実話だから。英雄・信時朝臣と、美女・貴姫君の恋の物語ですよ。二人が辛い悲恋を乗り越えて結ばれたおかげで、私の母は生まれたんです」
「あ、では……」
「私の祖父母の物語。私は幼い日に、俊幸の翁からこの話を聞いて、ずっと憧れていました。そして、私の貴姫君をずっと探していました。そして、ついに見つけた!あなたですよ、間違いない!母もそうと知ったら、笑ってあなたを迎えてくれると思います」
夕星は顔を上げた。公達の澄んだ瞳に見つめられた。
「ずっと一緒にいて下さい」
そんなことを言われたのは、夕星は生まれて初めてだった。この時、彼女の心にともった灯火は、次第次第に熱く燃えてゆくのである。
山桜の巨木が見事な花の邸。
信時朝臣の孫の範久卿と、韶徳三位殿の孫の夕星と。互いの祖父の間にあった呪わしい秘密を知らずに、敵だった者同士はついに和合する。
そして、範久卿は烏丸左大臣殿の曾孫であり、夕星は風香中納言殿の曾孫でもあった。
時はゆっくりと、けれど確かに流れて行く。
唸って身を捻る。すると、何やら首筋がくすぐったい。ぞっと何かが首をなぞって、それから鼻先にとどまった。ふかふかふわふわしたもの。暑苦しい。息苦しい。鼻に口に頬に、むくむく当たって、くすぐったい。
思わずくしゃみした。
その自分のくしゃみの振動で目が覚めた。と、いきなり視界全体に毛が広がった。
「きゃぁっ!」
反射的に悲鳴を上げた。だが、声にはなっていなかった。悲鳴と同時にがばっと起き上がっている。
毛の塊が、ねうと喋って、むっくり動き出した。そして、こちらを振り返り、もう一度、ねうと鳴く。円らな目と合った。
「なんだ、猫か……」
ほっとすると、急に頭痛を覚える。右手を床につけて体を支えたまま、左手を額にやると、熱い。
ふと、そこに濡れた布が転がっているのが見えた。もしかして、今までこれが額にあって、勢いよく飛び起きた弾みで落ちたのか?
そう考えていると、猫が右の手首に頭を擦りつけてきた。柔らかく、ふわふわと気持ちよい。
「かわいい」
思わず笑顔になって、猫を抱き上げようと、左手を差し出した時、
「乙若(おとわか)、乙若!おうい、乙若!」
と、外から若い男の声が聞こえてきた。
ねう、と猫はその声に反応した。夕星も反応し、思わず身構える。それで、初めて気づいた。自分が見知らぬ所にいることを。
ひどく豪奢な部屋の中にいる。天井の絵が色彩豊かで美しく、几帳に囲まれた中に閨が設えられていて、そこに寝かされていたことを知る。周囲の調度品は皆豪華だ。
いったいここはどこなのだろうか。青ざめていると、また外から、
「乙若!」
と、聞こえてくる。さっきより声が近くなっている。
いよいよ体を硬くすると、ふいっと猫が行ってしまった。
几帳をくぐって、ててとと部屋を走って行く音がする。
夕星は心細くなった。
暫くすると、外で猫が大きな声で一つ鳴いた。すると、
「なんだ、乙若、ここで遊んでいたのか?」
と、先程の声。
しかし、すぐに、
「あれっ?おまえ、そこから出てきたの?」
と、声は明らかに戸惑いを響かせた。
どうしよう。夕星は息を詰めた。
それから御簾の揺れる気配がして、向こうから衣擦れの音が近づいてくる。空気が動く。次第に足音がこちらに来て、ついには気配さえ感じられ……
すぐ目の前の几帳で止まった。そして、猫がまた一つ鳴く。猫はその人に抱えられているのだろう。随分高い所から声が落ちてきた。
猫を抱いた人から、えならぬ香りが僅かに漂ってきた。そして、その人は閨の様子を窺っているようである。
やがて、身を縮めて座っている夕星の背に、
「もし」
と、声がかけられた。
とても若い声だった。
「もし、お気がつかれましたか?」
その人がもう一度そう言った。だから、返事をしなくてはと思った時、
「あっ!こら、乙若、暴れるな!」
と、彼女の出かかった声は、その人の声にかき消された。
「こらっ!」
ぼんっと床が音を立てた。猫が飛び降りたに違いない。
「そっちは駄目!病人が……」
思わず夕星がそちらを振り返った時、猫が几帳を捲り上げ、瞬間その公達と目が合った。
はっとしたけれど、もう遅い。完全に彼女の姿は彼に見られていた。
公達はまだ本当に若く、夕星より少しだけ年少だろうか。だが、かなり落ち着いた様子で、夕星よりも大人びていた。
この若公達、見た目の奥ゆかしさに似ず、意外に大胆な男だった。あの両親に育てられたせいだろうか。彼は夕星の顔を見てしまったら、もう常識もへったくれもないとてか、不敵にも猫の後を追って几帳を掻き分け、閨の中に入ってきた。
夕星も好奇心旺盛な方だし、都の姫君とは違うが、さすがにこれには驚いた。
だが、この大胆な男、夕星の枕元に座ると、やけに屈託なくあどけない顔で、
「やあ」
と笑った。憎らしいくらいに可愛らしく。
その膝に、件の猫が自ら座る。
無邪気に嬉しそうな目を膝の猫に向けた後、夕星を見た。
「気がついてよかった。ご気分は?」
理由もなくどぎまぎして、夕星は襟を掴みながら、目を伏せる。
「まだ熱があるようだけど、大丈夫かな?気分が悪いようなら、薬湯を持ってきましょう」
「い、いいえ。平気です……」
辛うじて彼女は返事した。そして、頭の中の疑問を口にしようと思った時、公達の方からその解答を言ってくれた。
「びっくりしましたよ。川に倒れていたのだから。暑気ですね。いったいどうしたのですか、供も連れずにお一人で。あのままあそこに臥していたら、死ぬところでしたよ。たまたま私が通りかかったからよかったけれど。家はどこです?そのお体では、まだ帰すわけにはいかないけれど、家の人に連絡してあげましょう」
「助けて頂いて……有難うございます……あの河原から運んできて下さったのですか。ご迷惑を……」
「迷惑だなんて、とんでもない!とても嬉しかったんですから!やっと出逢えたって、天に感謝した」
「え?感謝?」
わけがわからなくて、夕星が思わず顔を上げると、彼の澄んだ瞳と出会う。
彼はにこにこしていた。笑うとあどけない。だが、その目元はどこか大人びていて、口元はなまめいていた。
増せている。多分夕星より二つ三つ年下だ。だが、この色香、ふてぶてしさはどうだろう。子供の中に大人が混在している。
その艶めいた紅顔を一層輝かせて、公達は言った。
「それで、家はどちらです?」
自分の家に上げたのだ。素性を知りたがるのは当然のことだ。いくら年若い女とて、行きずり。危険だ。
しかし、夕星は答えられない。
沈黙ができてしまった。
夕星が何と言おうか迷っていると、それをどうとったのか、公達は頷いた。
「なるほど。家には帰れないのですね」
「え。いえ……」
そういうわけではない。
けれど、家出か何かと公達は思ったらしい。
「家の人に連絡されたら困るのですね。わかった。行く所もないのでしょう?だったら、ずっとここに住めばいいですよ」
「いえ、そんな」
「迷惑なんてこれっぽっちもないですからね」
行く所がないわけでもないし、良禅に連絡されたって困らないし。しかし、公達は一方的に話を進める。
「決まり。ここに住んで下さい。ずっといて下さい」
「お待ちを!」
夕星はやっと言った。
「私のような者を置くなんて、そんな……」
「だから、大丈夫ですよ」
と、夕星を遮って公達は言った。
「むちゃくちゃは言っていないつもりですよ。私はずっとあなたを探していたのです。父も人の素性なんかに拘る人ではないし、母も田舎育ちで、身分だって低いし。あなたを置くのに難色は示さないと思います」
「……??」
「あ。もしかして、私のことを怪しいと思っていらっしゃいます?そうですよね。見知らぬ人の家に住むのは危険ですよね。でも、大丈夫。祖父は太政大臣になったこともあるし、父も大臣。私もちゃんと公卿ですよ」
「げっ?」
夕星は頭を疑問で一杯にしていたのに、全てそれが吹き飛んだ。とんでもない高貴な人の家だ。
青ざめた夕星を見て、公達はおかしそうにけたけた笑った。膝の猫を抱え上げ、
「大丈夫大丈夫。そんなに心配しなくても、本当に父は平気だから。何しろ、猫を追って築地の上を走ったり、猫と一緒に池に落ちるような人だからね。あなたのことを咎めたりしませんよ。母だって。きっとあなたが住んでくれたら、喜ぶのではないかな」
と言った。
「まさか」
辛うじて言った。そんな貴人が、猫と池に入ったりするものか。何でこの公達の母君が、得体の知れない小娘を歓迎したりするものか。
「……ど、どうして、お喜びになる、と……?」
「だって、母の大好きな物語の主人公そのものだから、あなたが」
「私が?」
目が点になった。
「そう。だから、私もあなたに逢いたかったのですよ」
「……」
先程からおかしなことばかり言う公達だ。
そして、さらに彼はうっとりとその物語を話してくれた。
「昔、小冠者が翁を伴って、盛夏の中を歩いていました。本当に暑い日で、小冠者は翁のために、翁が以前から飲みたがっていた湧き水を飲ませようと、泉に連れて行ったのです。それは甘露な清水で。ところが、泉のすぐそばの花園の中に、一人の乙女が倒れていたのです。二人は乙女を助け、近くの尼寺に預けました。それはそれは艶やかな美しい乙女で。小冠者は一目で心を奪われました。けれど、先を急ぐ身。離し難かったけれど、仕方なく乙女を尼寺に預けて行ったのです。暫くして、小冠者が再びそこを訪れると、乙女はもうそこにはいませんでした」
何となく話に引き込まれる。夕星は続きが気になってきた。
「それで、どうしたのですか、小冠者は?」
「目を開けている乙女を見たいという望みは叶いませんでした。でも、乙女は気を失っていても、自分を助けてくれた人の肌の温もりと匂いは覚えていました。だから、感謝して、恩人のために写経しました。それを恩人への礼として、尼に預けて帰って行ったのです。小冠者はその経文を尼より受け取ったのでした」
「それで?」
夕星は続きを知りたかった。けれど、公達はそこで話をやめてしまって、代わりにこう言った。
「あなたを見つけた時、その物語の乙女を思いました。小冠者は尼に乙女を預けてしまったから、乙女に逢えなかった。でも、私はそんなのは嫌だった。あなたの目が開かれるのを見たかった。だから、私はあなたを連れ帰ったのです。手放したくありません。ずっとここにいて下さい!」
「え!?」
いきなり、初めて会った人に、そんな信じられないことを言われて、夕星はわけがわからない。
「……」
絶句している彼女に、彼は真剣に言った。
「いて下さい。いなくては駄目だ。その物語には続きがあって、二人は波瀾万丈の末、ついに結ばれるのです。色々あって、それはそれは苦労したけれど、辛い運命だったけれど、最後は幸せになった。だから、私も幸せになると信じています。あなたは私の運命の人。その物語の二人のように幸せになるんです。でも、その二人のように辛い憂いを経るのは嫌です。だから、私はあなたを離さずに、連れてきたのですよ」
その目は冗談の欠片も見えない。本当に真剣で、夕星は面食らってしまう。
「……しかし……御身はともかく……母君がどうして?」
どぎまぎしてきた。紅顔を正視できずに俯く彼女に、公達はふっと柔らかく微笑んだ。
「言ったでしょう、母の大好きな物語だと。私も大好きです。幼い頃、小冠者の老臣に聞いて、胸ときめかせたものです」
「小冠者の老臣?」
「だって、この物語は本当にあった実話だから。英雄・信時朝臣と、美女・貴姫君の恋の物語ですよ。二人が辛い悲恋を乗り越えて結ばれたおかげで、私の母は生まれたんです」
「あ、では……」
「私の祖父母の物語。私は幼い日に、俊幸の翁からこの話を聞いて、ずっと憧れていました。そして、私の貴姫君をずっと探していました。そして、ついに見つけた!あなたですよ、間違いない!母もそうと知ったら、笑ってあなたを迎えてくれると思います」
夕星は顔を上げた。公達の澄んだ瞳に見つめられた。
「ずっと一緒にいて下さい」
そんなことを言われたのは、夕星は生まれて初めてだった。この時、彼女の心にともった灯火は、次第次第に熱く燃えてゆくのである。
山桜の巨木が見事な花の邸。
信時朝臣の孫の範久卿と、韶徳三位殿の孫の夕星と。互いの祖父の間にあった呪わしい秘密を知らずに、敵だった者同士はついに和合する。
そして、範久卿は烏丸左大臣殿の曾孫であり、夕星は風香中納言殿の曾孫でもあった。
時はゆっくりと、けれど確かに流れて行く。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
徳川慶勝、黒船を討つ
克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。
もしかしたら、消去するかもしれません。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
大奥~牡丹の綻び~
翔子
歴史・時代
*この話は、もしも江戸幕府が永久に続き、幕末の流血の争いが起こらず、平和な時代が続いたら……と想定して書かれたフィクションとなっております。
大正時代・昭和時代を省き、元号が「平成」になる前に候補とされてた元号を使用しています。
映像化された数ある大奥関連作品を敬愛し、踏襲して書いております。
リアルな大奥を再現するため、性的描写を用いております。苦手な方はご注意ください。
時は17代将軍の治世。
公家・鷹司家の姫宮、藤子は大奥に入り御台所となった。
京の都から、慣れない江戸での生活は驚き続きだったが、夫となった徳川家正とは仲睦まじく、百鬼繚乱な大奥において幸せな生活を送る。
ところが、時が経つにつれ、藤子に様々な困難が襲い掛かる。
祖母の死
鷹司家の断絶
実父の突然の死
嫁姑争い
姉妹間の軋轢
壮絶で波乱な人生が藤子に待ち構えていたのであった。
2023.01.13
修正加筆のため一括非公開
2023.04.20
修正加筆 完成
2023.04.23
推敲完成 再公開
2023.08.09
「小説家になろう」にも投稿開始。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる