七絃灌頂血脉──琴の琴ものがたり

国香

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後序

七拍・宮商荊仙楽(陸)

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 何だか重苦しい。息ができない。いや、重い。何かが胸にのしかかっている。

 唸って身を捻る。すると、何やら首筋がくすぐったい。ぞっと何かが首をなぞって、それから鼻先にとどまった。ふかふかふわふわしたもの。暑苦しい。息苦しい。鼻に口に頬に、むくむく当たって、くすぐったい。

 思わずくしゃみした。

 その自分のくしゃみの振動で目が覚めた。と、いきなり視界全体に毛が広がった。

「きゃぁっ!」

 反射的に悲鳴を上げた。だが、声にはなっていなかった。悲鳴と同時にがばっと起き上がっている。

 毛の塊が、ねうと喋って、むっくり動き出した。そして、こちらを振り返り、もう一度、ねうと鳴く。円らな目と合った。

「なんだ、猫か……」

 ほっとすると、急に頭痛を覚える。右手を床につけて体を支えたまま、左手を額にやると、熱い。

 ふと、そこに濡れた布が転がっているのが見えた。もしかして、今までこれが額にあって、勢いよく飛び起きた弾みで落ちたのか?

 そう考えていると、猫が右の手首に頭を擦りつけてきた。柔らかく、ふわふわと気持ちよい。

「かわいい」

 思わず笑顔になって、猫を抱き上げようと、左手を差し出した時、

「乙若(おとわか)、乙若!おうい、乙若!」

と、外から若い男の声が聞こえてきた。

 ねう、と猫はその声に反応した。夕星も反応し、思わず身構える。それで、初めて気づいた。自分が見知らぬ所にいることを。

 ひどく豪奢な部屋の中にいる。天井の絵が色彩豊かで美しく、几帳に囲まれた中に閨が設えられていて、そこに寝かされていたことを知る。周囲の調度品は皆豪華だ。

 いったいここはどこなのだろうか。青ざめていると、また外から、

「乙若!」

と、聞こえてくる。さっきより声が近くなっている。

 いよいよ体を硬くすると、ふいっと猫が行ってしまった。

 几帳をくぐって、ててとと部屋を走って行く音がする。

 夕星は心細くなった。

 暫くすると、外で猫が大きな声で一つ鳴いた。すると、

「なんだ、乙若、ここで遊んでいたのか?」

と、先程の声。

 しかし、すぐに、

「あれっ?おまえ、そこから出てきたの?」

と、声は明らかに戸惑いを響かせた。

 どうしよう。夕星は息を詰めた。

 それから御簾の揺れる気配がして、向こうから衣擦れの音が近づいてくる。空気が動く。次第に足音がこちらに来て、ついには気配さえ感じられ……

 すぐ目の前の几帳で止まった。そして、猫がまた一つ鳴く。猫はその人に抱えられているのだろう。随分高い所から声が落ちてきた。

 猫を抱いた人から、えならぬ香りが僅かに漂ってきた。そして、その人は閨の様子を窺っているようである。

 やがて、身を縮めて座っている夕星の背に、

「もし」

と、声がかけられた。

 とても若い声だった。

「もし、お気がつかれましたか?」

 その人がもう一度そう言った。だから、返事をしなくてはと思った時、

「あっ!こら、乙若、暴れるな!」

と、彼女の出かかった声は、その人の声にかき消された。

「こらっ!」

 ぼんっと床が音を立てた。猫が飛び降りたに違いない。

「そっちは駄目!病人が……」

 思わず夕星がそちらを振り返った時、猫が几帳を捲り上げ、瞬間その公達と目が合った。

 はっとしたけれど、もう遅い。完全に彼女の姿は彼に見られていた。

 公達はまだ本当に若く、夕星より少しだけ年少だろうか。だが、かなり落ち着いた様子で、夕星よりも大人びていた。

 この若公達、見た目の奥ゆかしさに似ず、意外に大胆な男だった。あの両親に育てられたせいだろうか。彼は夕星の顔を見てしまったら、もう常識もへったくれもないとてか、不敵にも猫の後を追って几帳を掻き分け、閨の中に入ってきた。

 夕星も好奇心旺盛な方だし、都の姫君とは違うが、さすがにこれには驚いた。

 だが、この大胆な男、夕星の枕元に座ると、やけに屈託なくあどけない顔で、

「やあ」

と笑った。憎らしいくらいに可愛らしく。

 その膝に、件の猫が自ら座る。

 無邪気に嬉しそうな目を膝の猫に向けた後、夕星を見た。

「気がついてよかった。ご気分は?」

 理由もなくどぎまぎして、夕星は襟を掴みながら、目を伏せる。

「まだ熱があるようだけど、大丈夫かな?気分が悪いようなら、薬湯を持ってきましょう」

「い、いいえ。平気です……」

 辛うじて彼女は返事した。そして、頭の中の疑問を口にしようと思った時、公達の方からその解答を言ってくれた。

「びっくりしましたよ。川に倒れていたのだから。暑気ですね。いったいどうしたのですか、供も連れずにお一人で。あのままあそこに臥していたら、死ぬところでしたよ。たまたま私が通りかかったからよかったけれど。家はどこです?そのお体では、まだ帰すわけにはいかないけれど、家の人に連絡してあげましょう」

「助けて頂いて……有難うございます……あの河原から運んできて下さったのですか。ご迷惑を……」

「迷惑だなんて、とんでもない!とても嬉しかったんですから!やっと出逢えたって、天に感謝した」

「え?感謝?」

 わけがわからなくて、夕星が思わず顔を上げると、彼の澄んだ瞳と出会う。

 彼はにこにこしていた。笑うとあどけない。だが、その目元はどこか大人びていて、口元はなまめいていた。

 増せている。多分夕星より二つ三つ年下だ。だが、この色香、ふてぶてしさはどうだろう。子供の中に大人が混在している。

 その艶めいた紅顔を一層輝かせて、公達は言った。

「それで、家はどちらです?」

 自分の家に上げたのだ。素性を知りたがるのは当然のことだ。いくら年若い女とて、行きずり。危険だ。

 しかし、夕星は答えられない。

 沈黙ができてしまった。

 夕星が何と言おうか迷っていると、それをどうとったのか、公達は頷いた。

「なるほど。家には帰れないのですね」

「え。いえ……」

 そういうわけではない。

 けれど、家出か何かと公達は思ったらしい。

「家の人に連絡されたら困るのですね。わかった。行く所もないのでしょう?だったら、ずっとここに住めばいいですよ」

「いえ、そんな」

「迷惑なんてこれっぽっちもないですからね」

 行く所がないわけでもないし、良禅に連絡されたって困らないし。しかし、公達は一方的に話を進める。

「決まり。ここに住んで下さい。ずっといて下さい」

「お待ちを!」

 夕星はやっと言った。

「私のような者を置くなんて、そんな……」

「だから、大丈夫ですよ」

と、夕星を遮って公達は言った。

「むちゃくちゃは言っていないつもりですよ。私はずっとあなたを探していたのです。父も人の素性なんかに拘る人ではないし、母も田舎育ちで、身分だって低いし。あなたを置くのに難色は示さないと思います」

「……??」

「あ。もしかして、私のことを怪しいと思っていらっしゃいます?そうですよね。見知らぬ人の家に住むのは危険ですよね。でも、大丈夫。祖父は太政大臣になったこともあるし、父も大臣。私もちゃんと公卿ですよ」

「げっ?」

 夕星は頭を疑問で一杯にしていたのに、全てそれが吹き飛んだ。とんでもない高貴な人の家だ。

 青ざめた夕星を見て、公達はおかしそうにけたけた笑った。膝の猫を抱え上げ、

「大丈夫大丈夫。そんなに心配しなくても、本当に父は平気だから。何しろ、猫を追って築地の上を走ったり、猫と一緒に池に落ちるような人だからね。あなたのことを咎めたりしませんよ。母だって。きっとあなたが住んでくれたら、喜ぶのではないかな」

と言った。

「まさか」

 辛うじて言った。そんな貴人が、猫と池に入ったりするものか。何でこの公達の母君が、得体の知れない小娘を歓迎したりするものか。

「……ど、どうして、お喜びになる、と……?」

「だって、母の大好きな物語の主人公そのものだから、あなたが」

「私が?」

 目が点になった。

「そう。だから、私もあなたに逢いたかったのですよ」

「……」

 先程からおかしなことばかり言う公達だ。

 そして、さらに彼はうっとりとその物語を話してくれた。

「昔、小冠者が翁を伴って、盛夏の中を歩いていました。本当に暑い日で、小冠者は翁のために、翁が以前から飲みたがっていた湧き水を飲ませようと、泉に連れて行ったのです。それは甘露な清水で。ところが、泉のすぐそばの花園の中に、一人の乙女が倒れていたのです。二人は乙女を助け、近くの尼寺に預けました。それはそれは艶やかな美しい乙女で。小冠者は一目で心を奪われました。けれど、先を急ぐ身。離し難かったけれど、仕方なく乙女を尼寺に預けて行ったのです。暫くして、小冠者が再びそこを訪れると、乙女はもうそこにはいませんでした」

 何となく話に引き込まれる。夕星は続きが気になってきた。

「それで、どうしたのですか、小冠者は?」

「目を開けている乙女を見たいという望みは叶いませんでした。でも、乙女は気を失っていても、自分を助けてくれた人の肌の温もりと匂いは覚えていました。だから、感謝して、恩人のために写経しました。それを恩人への礼として、尼に預けて帰って行ったのです。小冠者はその経文を尼より受け取ったのでした」

「それで?」

 夕星は続きを知りたかった。けれど、公達はそこで話をやめてしまって、代わりにこう言った。

「あなたを見つけた時、その物語の乙女を思いました。小冠者は尼に乙女を預けてしまったから、乙女に逢えなかった。でも、私はそんなのは嫌だった。あなたの目が開かれるのを見たかった。だから、私はあなたを連れ帰ったのです。手放したくありません。ずっとここにいて下さい!」

「え!?」

 いきなり、初めて会った人に、そんな信じられないことを言われて、夕星はわけがわからない。

「……」

 絶句している彼女に、彼は真剣に言った。

「いて下さい。いなくては駄目だ。その物語には続きがあって、二人は波瀾万丈の末、ついに結ばれるのです。色々あって、それはそれは苦労したけれど、辛い運命だったけれど、最後は幸せになった。だから、私も幸せになると信じています。あなたは私の運命の人。その物語の二人のように幸せになるんです。でも、その二人のように辛い憂いを経るのは嫌です。だから、私はあなたを離さずに、連れてきたのですよ」

 その目は冗談の欠片も見えない。本当に真剣で、夕星は面食らってしまう。

「……しかし……御身はともかく……母君がどうして?」

 どぎまぎしてきた。紅顔を正視できずに俯く彼女に、公達はふっと柔らかく微笑んだ。

「言ったでしょう、母の大好きな物語だと。私も大好きです。幼い頃、小冠者の老臣に聞いて、胸ときめかせたものです」

「小冠者の老臣?」

「だって、この物語は本当にあった実話だから。英雄・信時朝臣と、美女・貴姫君の恋の物語ですよ。二人が辛い悲恋を乗り越えて結ばれたおかげで、私の母は生まれたんです」

「あ、では……」

「私の祖父母の物語。私は幼い日に、俊幸の翁からこの話を聞いて、ずっと憧れていました。そして、私の貴姫君をずっと探していました。そして、ついに見つけた!あなたですよ、間違いない!母もそうと知ったら、笑ってあなたを迎えてくれると思います」

 夕星は顔を上げた。公達の澄んだ瞳に見つめられた。

「ずっと一緒にいて下さい」

 そんなことを言われたのは、夕星は生まれて初めてだった。この時、彼女の心にともった灯火は、次第次第に熱く燃えてゆくのである。

 山桜の巨木が見事な花の邸。

 信時朝臣の孫の範久卿と、韶徳三位殿の孫の夕星と。互いの祖父の間にあった呪わしい秘密を知らずに、敵だった者同士はついに和合する。

 そして、範久卿は烏丸左大臣殿の曾孫であり、夕星は風香中納言殿の曾孫でもあった。

 時はゆっくりと、けれど確かに流れて行く。
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