後拾遺七絃灌頂血脉──秋聲黎明の巻──

国香

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若き韶徳君の夢(上)

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 秋の足音流るる平安京。

 今を時めく四辻内大臣殿の甥に、韶徳の君という少年がいる。風香中納言殿の子息で、十五歳になったばかりだった。諱を周雅という。

 周雅はその姿の美しさで有名であったが、またその性質も温厚で、若年ながら雅びを愛する風流人だ。殊に音楽の才能に恵まれており、僅か十五歳ながら、琴の琴(きんのこと)の名手として、名をなしていた。

 すでに琴灌頂を授けられているという。

 とはいえ、その師匠は相変わらず厳しく、灌頂を授けた後でも、稽古の度に怒鳴り散らしていた。世に名高い周雅を怒鳴るくらいだから、余程の才人なのである。

 政任という。若くして四位にまで昇りながら、琴道を極めるあまり、朝廷に出仕せず、罷免されたという厄介な男である。才能さえあれば、琴さえあればそれで良いという偏屈さ故に、変人との聞こえあり。

 周雅は今日もこの変人師匠の稽古に出掛けるわけであるが、また怒鳴られると思うと、すでに萎縮している。周雅は絶えず、師匠を恐れ、琴道に悩まされて、少食であった。痛む胃の腑と戦いながら、牛車に揺られて行く。

 この世の全ての人が周雅を天才と言うが、本人は絶えず琴道に苦しみ、喘いでいた。一芸を極める人ならではである。凡夫匹夫には想像だにつかない。

 さて、緊張のあまり牛車に酔って、涙を滲ませながら、歯を食いしばって堪えているうちに、師の政任の屋敷に着いた。人の住処とは思えない凄まじさである。

 それでも一応、門の残骸らしきものはある。蔦に乗っ取られて形も覚束ないそれの前に、牛飼いは車を停めた。たいていの貴族の邸には車宿りがある。普通はそこまで主人を乗せて行くものだが、この牛飼いはいつもここで停車した。

「車宿りまでたどり着けません。だいたい車宿りなんて、この雑木林にはあるのですか?」

 雑木林とはひどい言い様であるが、事実、庭は草木に覆われ、車を入れることもできない。

 周雅は車から出て、門の中に一人で入った。ここまで沢山の供がついて来ていたが、誰も中には入ってこない。物の怪の住処だと言って、皆恐れて、入りたがらないのだ。

 確かに人気なく、草木が茂り、建物は朽ち果てているので、気味が悪いどころの話ではない。だから、周雅に誰もついていってあげないのだ。

 もっとも、周雅がこれまでこの屋敷で物の怪に出会ったことはないが。

(物の怪も吹き飛ばす我が師の凄まじさよ)

 さすがは変人政任。物の怪も鬼も寄り付かないほどの変人ぶりである。鬼も幽霊も、やはり儚げだったり、病んでいる人を好む。人が嫌う者は、人でないものにも魅惑的ではないのだろう。できれば関わりたくない御仁。物の怪でもそう思う政任なのだ。

 周雅は慣れたもので、中へ入ると、倒木が立木に斜めにしなだれかかっている隙間をぬって、歩いて行く。女郎花が盛りで、おどろおどろしい空間に色を添えていた。

「や、これは若君」

 しばらく進んだところで、珍しく声をかけられた。草の間から声のした方を垣間見れば、この家の家司である。

 人間嫌いな政任は、家人も寄せ付けない。政任のいる寝殿には、誰も近寄ることが許されていなかった。周雅がこの屋敷に通うようになって久しいが、滅多に家人を見かけることはない。

「今日は先客がおわします。まだ稽古が終わりませぬようで、しばらくあなたでお待ち下さい」

 家司が草の御簾越しに頭を下げた。

 周雅は今日、稽古の約束をしている。約束の時間になったのに、まだ先客が帰らず留まっているので、周雅を控えの間に連れて行くため、家司がここで待っていたらしい。

「私以外にも今日は、稽古が入っていたのですか。広仲の君ですか?」

 周雅は家司に兄弟子の名を言った。

 政任は滅多に弟子を取らない。現在までに弟子は七人しかいなかった。そのうち、周雅が会ったことがあるのは二人だ。他の古い弟子たちは既に亡くなったりしているので、知らない。

 周雅が知っているのは、その広仲と伊賀守だけであった。伊賀守は最近、任国の伊賀に行ってしまったので、今、都にいる兄弟子は広仲だけなのである。

「いいえ、本日稽古にお越しなのは姫君です」

「姫君?」

 周雅は頗る意外に思った。

 姫君とは最近、政任に弟子入りを許された清花の姫君のことである。まだ十歳にも満たない幼い姫君だが、あの師匠も仙女と呼ぶほど、特別な才能に恵まれた美少女だ。

 周雅も多少親戚関係にあるが、貴族はだいたいどこの家とも親戚になっているものだ。ただ、姫君の兄君と周雅とは、親しい友人であった。

 政任は自分の練習を毎日欠かさない。だから、弟子の稽古のある日は、自分の練習時間が減ってしまう。それが理由で、稽古の日はいつも不機嫌である。だから、基本的に、稽古は一日に一人だけしかしない。二人も稽古したら、その日は自分の練習がほとんどできなくなってしまうからだ。

 だが、今日は周雅の他にも稽古が入っている。これは珍しいことであった。ただ、過去にも何度かそういうことはあった。

 そうした機会に、周雅も兄弟子二人の演奏を漏れ聴くことができた。しかし、比較的最近入門した清花の姫君の稽古には、まだ出会したことがなかった。

 いや、姫君の方は実は何度か周雅の稽古を耳にしたことはあったのだが。周雅はまだなかった。

 家司が藪から顔を出してきた。

「さ、こちらへ。しばらくお待ち下さい」

 家司が先に立って、東の渡殿へ案内して行く。

 昔、東の渡殿の傍らには泉殿があったらしい。今は水も流れていないが、もともと湿り気のある所らしく、渡殿の方までひんやりしている。真夏はこの襤褸屋敷の中で、一番過ごしやすい所だろう。

 ただ、その湿気が災いして、柱は腐り、渡殿は傾きかけている。床板には苔がびっしり生えていた。いずれ泉殿のように朽ち果て、土に還るに違いない。

 家司は円座だけ新しい物を持ってきて、苔の床に敷き、周雅に勧めた。周雅が礼を述べて座ると、すぐに去って行く。

「御身の番になりましたら、きっと主がお呼び致しましょう」

と、何とも不真面目なことを言って──。

 周雅が所在なく一人で座っていると、一陣の風がそこの女郎花を吹き倒して行った。瞬間、琴韻が聴こえた。

 琴の音は他の楽器に比べると、遥かに小さいが、確かに周雅の耳に届いた。

 稽古は寝殿の中の奥、幾重にも屏風や几帳で囲まれた中で行われている。渡殿からはけっこうな距離がある。

 音の小さな琴だ。周雅のところにまで聴こえてくるのは、並の技量ではない。

(確かに師の君の琴だ)

 周雅は耳に届くそれが、師の政任のものであると確認した。どうやら、手本を弾いているらしい。『胡笳明君別五弄』の四曲目、「奔雲」である。

 相変わらず政任の弾く琴は素晴らしい。感心していると、直後、別な琴の音が響いてきた。

(これは!なんだろう、胸がざわつく!)

 もの悲しく、周雅の胸はかき乱された。だが、どこか神聖な音色でもあり、不思議だ。初めて味わう寂寥感。

 この屋敷の景色がそのまま、辺境の荒涼とした風景と重なった。

 また一陣の風が吹く。さわと何かが耳に触れた。

 周雅は思わず耳に手をやった。湿った人の息が吹きかけられたような──。

(物の怪か?)

 ここに来て初めて、異様な存在を感じた。

 恐ろしくて目を瞑ってしまう。瞬間、風は止んで、また『胡笳明君別五弄』の「奔雲」が聴こえてきた。

(ああ、悲しいのに、何故……)

 透明過ぎて、清過ぎて、それが悲しい。異界の空気。

 周雅がそっと目を開けると、寝殿を大きな目が包んでいるように見えた。

(まさか!)

 思わず立ち上がると、ふっとそれは消えた。しかし、消えると同時に、周雅は不思議な幻想に誘われた。

 寂寥としたというよりは、むしろ鬱蒼と草が茂るこの庭に、異界の神聖な物が見えたのだ。

(崑崙山?蓬莱山?)

 徐福だろうか。玉を集める仙人が見えた。

 また風が吹き。その玉を転がして──。

 玉は玲瓏ころころと、下から上へと転がり登って行く。岩の上へと──。

 岩の上には十絃の琴が。ふっと跳ね上がって空中に遊ぶと、玉は十絃琴の上に落ちて、そのまま琴中に吸い込まれて消えた。

 ふっ。

 気が付くと、もとの政任宅に戻っていた。『胡笳明君別五弄』がなおもの悲しく寝殿の中から聴こえてくる。

(何だったのか、今のは)

 まるで白昼夢。周雅は一瞬、異界を見たのだ、この庭の中で。

(蓬莱山の玉を拾う徐福。その玉を宿す琴。それも十絃の。あやしや)

 琴の絃数は七と決まっている。琴の起源は伏羲だが、初めは五絃だった。殷周革命の頃から七絃になったという。

 ただ、殷の時代には、十絃のものが演奏されていたこともあったという。

(あれは殷の秘琴だったのか?)

 周雅の頭はなおまだ先程の幻想を引き摺ったままだ。

 彼にそのような不思議な体験をさせた清花の姫君の弾く琴。いったい幼い姫君の技量とは、どれほどのものなのだろうか。

 天の理をも動かしてしまうほどの──。どうやら清花の姫君とは、そういう次元の違う天才らしい。
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