後拾遺七絃灌頂血脉──秋聲黎明の巻──

国香

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師の発心

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 唐土には有史以来、多数の王朝がある。最初の国は夏で、二番目が殷である。

 殷は商という。少なくとも殷人は商を自称した。周以降の異邦人が、勝手に殷と呼んだものだろう。

 東海に太陽の宿る扶桑樹があるという。扶桑樹には十の太陽が宿り、輪番で一つずつ天に昇る。三本足の烏が天空に運ぶのだという。天に居た太陽は夜になると扶桑樹に帰ってくる。すると、次の太陽が天空に行く。

 殷──商の人々はそう信じていたという。十干はその名残であろう。

 扶桑樹は商から見て東海にあるが、蓬莱もまた唐土の中原から見て東海にあるという。

 徐福という人がいる。彼は秦の始皇帝の命により、東海中に蓬莱を探して船出したまま、帰ってこなかったという。徐福は秦に制圧された斉の人である。

 山東の斉の周辺には燕があり、その辺りの人々は秦に攻められたり、臣従したり、情勢は目まぐるしく変わった。

 同じ時期、満という人がいた。

 満は燕の近くにあった箕子国に大挙して押し寄せ、しばらく世話になった後、隙を見て謀叛し、国王から玉座を奪った。箕子国王・準は半島の南に逃げ、その地を奪って韓の国を起こした。

 箕子国は商の後継国である。

 商末期の王族に子余という賢人がいた。箕国に封じられた王子なので、箕子と呼ばれた。商は周を中心とした諸侯(主に楚、蜀等)によって滅ぼされるが、周の武王は革命の後、子余を敬い、臣下とするのを憚った。

 武王は子余を侯に封じて、遼東周辺を治めさせた。子余は商の遺民たちを率いてそこに移った。それが箕子国である。

 それから数百年、箕子国君主は王を僭称するに至った。時代によって、盛衰著しく。ある時は北の異民族に押され、後には燕に属するに及んで版図も縮小した。ついに、王の権威が及ぶ範囲は半島の北部ばかりとなった。しかし、侵攻してきた燕が秦の始皇帝に滅ぼされるや、秦に属して、辛うじて命脈を保った。

 しばらく後に、唐土大乱。楚漢が天下の覇権をかけて争う間、満将軍が箕子国に逃亡してきた。

 この満により、準王の時に遂に終焉を迎えた。





──

 周雅が知り得た殷の情報は、これくらいである。

 また、扶桑樹の生える場所がこの日本であること、蓬莱も日本で、徐福が多数の人々と共に渡って来たことも、以前から知識として知っていた。三足烏の存在も。

 十絃琴はもしや、この日本国内のどこかにあるのだろうか。

 また、夢の中の女が、商人は宮人に勝れりと言っていたが、おそらく商人とは殷人、宮人とは周人のことであろう。

 俗に宮は君主、商は臣下とされている。音楽に於いてもそうで、五声の中心は宮であり、商が宮より強い、または同等の曲は反逆の曲として忌み嫌われている。

 それは琴曲についても同じで、琴の絃名は第一の大絃より順に、宮絃(第一絃)、商絃(二絃)、角絃(三)、徴絃(四)、羽絃(五)、文絃(六)、武絃(七)と称するが、君である宮絃と臣である商絃を、同音に調絃してはならないとされる。その禁を破ったのが『広陵止息』で、これが秘される理由はそこにある。

 商が周に勝るのか、臣が君に勝るのか。夢の女の言いたいことははっきりとはわからないが、あの女は十絃琴のあった岩にいたのであるから、十絃琴の化身か十絃琴に宿る精霊なのだろう。

 とすれば、夢の内容を政任に話せば、十絃琴のことが何かもっとわかるかもしれない。

(そういえば、『広陵止息』は聶政が韓王を刺殺するという話だったが──)

 周雅は閃いた。

 韓の国は周の王侯の国であり、国姓は周と同じ姫姓である。周の王族の国であるから、『広陵止息』は臣下が周に勝る話ということになる。

(次の稽古にはもう一度『広陵止息』を持って行こう。そして、夢の話をして、師の君に、かの十絃琴の女人の言葉の意味を解いて頂こう。それから、夢の曲を聴いて頂きたい)

 周雅は夢の中の曲をすっかり我が物としていた。これを次の稽古に持って行き、夢の意味を解く手がかりとしてもらうのだ。

 ところが、前回から五日後の稽古の日、政任宅に行ってみると、兄弟子の広仲が血相変えて、寝殿の中から飛び出してきたのだ。

 周雅を見ると、説明するのももどかしいという様子で、

「師の君が逐電遊ばされました!探して参ります。私が出ている間に、他から消息が伝わってくるかもしれません、御身は私が戻るまで、こちらで待機していて下さい!何かわかれば、使いを寄越して下さい」

と、慌てて声高に告げるや、疾風のように屋敷を出て行った。

 何事が起きたのか、周雅は理解できず、おろおろしたが、すでに広仲の姿はない。家人たちも慌ただしく、あちこちに出掛けている。

 ようやく周雅に気付いてくれた家司に導かれて、寝殿の稽古場に入る。

 いつもは家人たちが立ち入りを禁じられている寝殿の中である。そこへ家司が入っているのだ。それだけでただ事ではない。

「主が突然、出家すると申して、出て行ったのです」

 稽古場は、数多溢れていた琴や楽譜がだいぶ無くなり、がらんとした空間を作っていた。

「出家ですって?」

 周雅はようやく話を咀嚼して、聞き返した。

「最近、主は怪僧の悪霊に取り憑かれていたのです。あれはどうやら生き霊のようです。その生き霊に騙され、深山に籠ると仰せられて。今朝、家人どもが起き出してきたら、すでに消え失せてしまわれた後でした。もしや、生き霊に拐われたのやもしれませぬ。近頃、出家しなければならぬと口を極めて仰せでしたので、ご自分のご意志やもしれませぬが──」

 家司はそう述べると、忙しそうに去って行った。

 広仲は政任の行き先に心当りでもあるのだろうか、探しに行ったのだ。ここで待てと言われたからには、待つしかあるまい。

 夢の話どころではなくなった。

 周雅は稽古場を見回した。多くの琴、譜、書物は政任が持ち出したのか、失われていたが、まだいくらか残っているものがある。

(あれは──)

 彫漆の細長い箱があった。日本ではおよそ見かけない代物だ。唐土伝来の箱であろう。いつも政任が忌み嫌っていた物だ。中には絵が入っているとか。政任はそれは置いて行ったらしい。

 周雅がそれの蓋に触れた時、ぼわとどす黒い大きな目に包まれた。

 思わず手を離し、目を瞑ってしまう。

(またか!これは何だ?)

「鳳勢を手に取れ」

 この世の者ならぬ声が聞こえてきた。

(物の怪っ!!)

 周雅は恐ろしくて震えた。目を開けてはいけない気がした。

 この目は先日も見た。この屋敷を包んでいた。政任を惑わせた生き霊とは、これのことではないか。

「鳳勢を取れ」

 再び声がする。

 恐ろしくて、目を強く瞑ったまま、手で耳を塞いだ。

 すると、どうしたことだろう。目をぎゅっと瞑っているのに、また蓬莱の景色が見えてきたのだ。

(これは、何故だ──?)

「鳳勢を取れ」

 再びの声。直後、ずしんと膝に重みがかかった。

(まさか、生き霊が……)

 周雅の膝にあの巨大な目がのし掛かってきたのではないか。

 恐怖に戦慄きながらも、手を振り払った。辺りを手当たり次第払っていく。だが、何の手応えもなく。ただそこには空気しかない。

 恐る恐る手を膝に落としてみた。何かが触れる。触れたと同時に音が鳴った。

「琴っ」

 指は確かに琴絃を弾いていた。弾かれたように、思わず目を開けていた。

 膝の上にあるのは、一張の琴。それも、師の秘蔵の名器・鳳勢であった。

「こなたは張である。張の目となり、見るがいい。さあ、鳳勢を取れ」

 再びの声。景色は蓬莱。周雅は蓬莱の中に佇んでいた。

(これは怪しや!)

 そして、巨大な目の存在はそこにはない。

(これを弾けと……)

 膝の上の鳳勢を。周雅はこれで何を弾くべきなのか察した。

(夢の、曲……)

 よくはわからないが。周雅は素直に従って、夢の曲を弾き始めた。

 すると、たちまち景色は変わって。

 いつしか琴も消え。

(これは?)

 手足が見えた。間近に。しかも、自分の体から生えている自分の手足のような見え方だ。

 だが、それは周雅のものではなかった。全く知らない他人の手足。他人の体。

 ひどく原始的な景色が見えている。まるで、自分の目で見ているように見える。

(まさか。私は……これが世に言う憑依というものか……?)

 周雅は誰かの体に憑依してしまったのかもしれないと悟った。

 原始的で、それでいてなかなか堅固な城壁が広がっている。このような景色は日本のどこにもない。これは唐土であろう。

「張公」

 背後から人声がした。

 振り返ったのだろう。鎧を身につけた立派な髯の男が立っている。

 頭を下げたらしく、地面が見えた。

 違和感を覚える。憑依したのに、周雅の意思に関係なく、周雅に乗っ取られた体は勝手に動く。どうも勝手が違う。

「張公、よいな?」

 目の前の髯の男が油断ならざる眼光で、こちらに話しかけた。

「お任せあれ」

 周雅の乗っ取った体の主が、返事して胸を張った。

(これは、憑依ではない?)

 周雅は他人の体に憑いてなどいないのかもしれない。周雅の目はこの張公なる者の目と繋がっている。これは張公の目を通して、見えている光景なのだ。
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