後拾遺七絃灌頂血脉──秋聲黎明の巻──

国香

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標の中で(上)

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 急に闇になった。真っ暗で何も見えない。

(これは、禁を犯して、女が死んだのだろうか?)

 咄嗟に周雅はそう思った。

 生け贄の女は穢れてはならないという。だが、あの二人は過ちを犯してしまったのではないか。それで、女に天罰が下り、周雅の目となっていた彼女の目が永遠に閉ざされてしまったのではないのか。

「わあっ!」

 突然、巨大な目が視界いっぱいに飛び込んで来た。

「たはたはたは」

 不気味に床板に響く声。

(戻ってきたのか!)

 周雅はようやく幻想から戻ったことに気付いた。闇は、師・政任の邸を包むこの邪悪な気のせいだったのだ。

(よかった。あの女が死んだわけではなかったのだ……)

 そう思う一方で、子解と嬰はあの後どうしただろうかと気になった。嬰は純潔のままなのだろうか。

「ふふふ、同じ年頃の者の悲恋は気になるよのう?」

 目が、血をしたたらせる口のように言う。

 また恐怖が宿り始める周雅。それでも、

「悲恋?」

と、聞き返した。

「恋人が生け贄、それや悲恋であろうよ。たはったはっ、二人の悲恋がもはや他人事ではないようだのう?」

 嬰の目となって、長時間幻想の世界を漂っていたのだ。それは他人事とは思えない。

 周雅が俯くと、彼の膝にはなお琴の名器・鳳勢があった。ずっと亀居していたようだ。いったいどれくらいの時間が経過していたのだろう。重い物を置いて同じ姿勢でいたのに、足はちっとも痺れていない。

「なあに、おことも同じような悲恋の運命よ、よかったのう、たははっひひ」

 再び目が喋る。

「琴韻がこの幻に導いた。美女の琴韻が導く男の悲恋に、おことも導かれる運命よ」

「どういうことか、私に悲恋の運命とは──?」

「うふふふ。琴の音だよ、おことを幻に導いた。うふふふ、その美しい悲恋に、おことも狂うのだ」

 周雅にはまだ恋の経験がない。恐怖と同時に腹立たしさがわき起こり、鳳勢を床に置いて立ち上がった。

「悲恋?」

「その恋に死ね!」

「冗談ではない!そんなくだらない話」

「宿命だ。宿命は変えられんぞ。たはは」

「そんな話は聞きたくない!それより、師の君を返せ!」

 叫ぶと、周雅は几帳を退けて、上局を出た。

「ほうっほほほ!その師の君も負けたのにねえ、悲恋の君の音に」

 目がそう嘲笑ったが、周雅の耳には届かなかった、いや、聞かなかった。彼は強いて耳を閉ざし、幾重にもある屏風を退け、破れ御簾を払って戸を開けた。

 光に包まれた。簀子まで出る。

「あっ?」

 その師宅の庭の景色に、周雅は絶望を覚えた。

(逃れられないのかっ!)

 半ば雑木林のはずの政任のおどろおどろしい邸の庭は、また仙界の風景になっていた。あの幼い清花の姫君の琴に導かれた時に見た景色そのまま。

(どうして逃れられない?どこまでも幻が追ってくる。この邸を抜ければ、邸の外に出られたならば、外は現なのだろうか?)

 簀子を下りた。琴韻が響いてきた。かすかに。小川のせせらぎのように。岩場から染み出るようなその音は、周雅の夢の曲を奏でている。

 明るい。昼間なのだろう。だが、青空には大きな満月が浮かんでいた。

 仙界だからか。或いは蓬莱だからなのか。

 ぽわと、空中を丸い小さな淡い光が浮游している。よく見ると球体で、玉のようであった。幾つも浮游している。あたかも意思があるように、琴の曲に合わせてぽわぽわ動いていた。

(何故逃れられない?)

 大きな月を睨むように仰ぎ見た。やわらかな秋風が頬を撫でる。

(仲秋!?)

 不意に思い得た。

 今日は八月十五夜だ。

「ああ、それでか。私が先年、琴の灌頂を授けられた日が八月十五夜だった。だから、こんな幻想に?」

 巨大な目に問うが、目は何故か何も言わなくなり。代わりに再び、目の前の岩の上に十絃琴が現れた。そして、浮游する玉がやさしく光ると、次々に十絃琴の中に吸い込まれて行く。

 全部で十三。玉が琴の中に吸収されるや、琴の音が増した。

 ふわりとまた秋風が吹き、空気が揺らいで。いつの間にか女がその琴を弾いていた。

 岩場に腰掛け、こちらに背を向けて十絃琴を奏でる女。周雅の夢の曲を。

「おもとは──?」

 寄って、声をかける。肩に、伸ばした手が届きかけた時、女が振り返って、周雅を見た。

 美しい、若い娘。汚れを知らぬげな瞳。思い描いていた通りの娘。いや。

「おもとは、姫嬰──」

 張大夫の目を通して見ていた時に、杏畑で見ている。先程まで周雅の目となっていた嬰に違いなかった。

「子解」

 嬰は周雅に麗しく囁いた。微笑んで。

 夢の曲を最後まで奏で続けた。時折こちらに微笑みながら。

 心地よく、夢とも現ともしれず。とろりとして。気がつけば、曲は終わっていて、嬰の顔が恐ろしく至近距離にあった。

「あ?」

「子解、お加減は如何ですか?」

 景色は賓貞の小屋の中。

「少し涼やかになったようだ」

 勝手に話す、周雅の目となっている者。仰向けに寝ているのだ、小屋の天井が嬰の顔越しに見えている。

「そなた、ずっと琴を弾いていてくれたのだな。杏畑でそなたを見た時のように、至福の一時だったよ。琴を弾くそなたを眺めているのが、私には何より幸せだ」

「子解」

 うっとりと見つめてくる嬰。周雅は子解の目を通して、また幻想の世界を見ているのだ。

 子解はまだ高熱があるらしい。しばらく寝ていたのだろう。この体で嬰に触れたとは思えないが。

「お寒くありませんか?」

「そなたに湯に入れてもらってからは、寒くないよ。今は暑くてたまらないくらいだ。熱が上がりきったのだろう。このまま汗が出れば、すぐに熱など下がる」

「よかった。薬湯をお作りしてきますね」

 嬰は安堵の表情で小屋の外に出て行った。
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