青い月の天使~あの日の約束の旋律

夏目奈緖

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25-38(黒崎視点)

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 15時。

 副社長室にいる。母に十数分前に電話をかけたのだが、あいにく来客中であり、社長室を不在にしていた。そこで、伝言を依頼し、15時に電話をすることを伝えてもらった。

 この副社長室の空気は妙に重く澱んでいる。壁一面の窓から射し込む光は、秋の気配を帯びて白く、ブラインドの隙間から線を描くように机の上を切り取っていた。昼の来客対応を終え、ようやく一息ついたはずなのに、胸の奥には濁った何かが沈んでいる。

 机の上には一枚のメモを置いてある。朝陽から報告された親子鑑定の結果だ。――父親:谷本誠太、99.9%と書いてある。谷本と初めて会った4日前のことを思い出した。谷本はスーツ姿で現れた。そして、俺にこう言った。高校の入学式で朝陽君に会ったときに、ひどく驚きましたと。自分に似ていると思ったんです。顔のつくりも、目の形も。最初は気のせいだと思っていたのですが、朝陽が“倉口”という苗字だと知って、ようやくすべてが繋がりましたと。

 俺はその言葉を聞いた瞬間、全身の血が音を立てて引いていくのを感じた。母の過去ーーもう終わったと思っていたであろう出来事が、再び姿を現したのだと感じた。

 その後のやり取りは簡潔だった。谷本は自分の立場をわきまえており、倉口の粗暴なふるまいにも声を荒げることもなかった。ただ、教師として、そして一人の男として、”真実を知りたい”とだけ言った。その穏やかさが、かえって俺は恐ろしく思えた。そして、今、結果は出た。

 スマートフォンを取り上げ、通話リストから母の名前を選んだ。そして、呼び出し音が二度鳴ったところで、少し緊張した声が応えた。

「圭一。ごめんなさい。電話をもらっていたのね。今、いいの?お仕事中でしょう?」

 母の声は穏やかで、少し芝居がかったようだと感じた。この人は、罪を罪のままに受け止めない。どんな過ちも、時間とともに“思い出”に変えてしまう。そんな気がしている。

「ああ、仕事中だ。だが、話しておかなければならないことがある。あんたの方こそ、仕事中だろう」
「ええ、いいの。あなたこそ忙しいのはわかってるけど、今日はどうしても結果を聞きたかったの」

 俺は浅く息を吐いた。母の声には、やはり罪の影がなかった。まるで“久しぶりに旧友の噂を聞く”かのような、明るい響きすらあった。

「結果が出た。父親は谷本誠太。99.9%だ」
「やっぱり……、そうだったのね」

 母の声は、少しだけ息を含んでいた。だが、それは驚きでも恐れでもなく、長年気になっていた答え合わせを終えた人の声だった。

「谷本さんと倉口にはこれから報告してくれるの?」
「ああ。これからだ。夜まで待たなくてもいいだろう。谷本さんは昼間でいいと言っていた」
「どうだった?検査の時の谷本さんの様子は」
「驚くほど落ち着いていた。……ただ、教師としての立場で話していたようだった」
「谷本さんらしいわ。そういう人なの」

 その言葉を聞き、息をついた。母の声の軽やかさが、胸の奥を苛立たせた。母は、過去の出来事を“恋”という言葉で上書きしてしまう。どんな裏切りも、美談に変えてしまうのだろう。

「あんたは後悔していないのか」
「ええ。少しはあるわよ。けれどね、あの頃は倉口とうまくいってなかったの。寂しかったのよ」
「寂しさで自分の家庭を壊そうとしたのか。谷本さんにも壊させようとしたんだぞ」
「壊していないわ。私はただ、ほんの少し息をしてみたかっただけ」

 俺が沈黙すると、母がかすかに笑う気配がした。その笑いは自嘲ではなく、思い出を懐かしむような音だった。

「あなた、本当にお父さんに似てきたわね。そういう冷たい言い方をするところ」
「冷たいのはあんたの方だ。朝陽に真実を伏せたまま、22年も過ごした」
「でも、倉口は良いお父さんだったわ。私が黙っていたからこそ、平和だったのよ」
「平和、か……」

 俺は目を伏せ、机を見つめた。母の言葉の一つひとつが、空虚に響く。母にとって“平和”とは、罪が見えないことを意味している。

「谷本さんは覚悟を決めていたようだ。自分が父親だと確信していたと言っていた」
「そうでしょうね。……あの人、きっと私に似てるのよ。決めたことは曲げないの」
「似てほしくない部分だ」
「ひどい言い方。でも、あなたらしいわ」

 俺は自然と笑みが浮かんだ。それは、乾いた笑いだった。この人には怒りをぶつけても無駄だと知っている。母は自分の過去を悲劇にも罪にもできず、“思い出”として抱えてしまう。

「これから谷本さんとも話す。朝陽の将来のことを考えないといけない」
「そうね。あの子が混乱しないようにしてあげて。……私はもう、出しゃばらない方がいいわね」
「その方がいい」
「わかってるわ。私は昔から、後始末が下手だから」

 電話の向こうで、母が小さく息をついた。それは反省のため息ではなかった。ただ、懐かしい秘密を思い出して微笑むような、軽い音だった。

「圭一、ありがとう。教えてくれて。……これで、ようやく落ち着けるわ」
「あんたはそれでいいかもしれない。だが、俺は違う。朝陽にも、もう逃げ場はない」
「あなた、その言い方が、お父さんそっくり」
「勝手に谷本さんに連絡を取るな。そうしたいときは復縁したいときだけにしてくれ。俺が動く」
「ええ。わかったわ」

 俺は静かに電話を切った。その瞬間、副社長室に静寂が戻った。ブラインドの隙間から光が斜めに差し込み、机の上に伸びた影がゆっくりと動いた。胸の奥には、重たい疲労が残っている。母を責めたいわけではない。母ひとりが悪いわけではない。ただ、母の無自覚な明るさが、どうしようもなく痛かった。

 もう、母に任せていては前に進めない。俺は立ち上がり、窓の外の白い空を見上げた。遠くでビルの陰が長く伸び、秋の風が街を撫でていく。スマートフォンを取り上げ、谷本の名前を見つめた。そして、連絡先をタップした。
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