聖なる雫の音楽少年~あの日のキミ

夏目奈緖

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 悠人のことを思うと、今すぐに駆け付けたいのが本音だ。そばにいて安心したい。デスクに戻ると、黒崎がそばへ来た。来客対応後だが、様子がおかしい。些細な表情を読むことは、秘書時代の名残だ。

「夏樹から連絡が入った。悠人君が熱を出して病院へ行く」
「さっき悠人から聞いたよ。定時で帰る。任せてもいいかな?」
「今すぐに出ろ。俺がやっておく」
「圭一さんに負担がかかる。家を留守にするのは……」
「それだけが理由か?」

 お見通しなのか。部下たちが乗り切れるのかと、心配で帰れない。ここに居るならフォローが可能だ。今日の状況では課長職も手が離せない。すると、黒崎がさらに詰めてきた。笑顔のままで。

「人に任せる度量が必要だ。これからは特にだ」
「耳に痛いよ」
「俺も同じだ。今はマシになった。知っているだろう?親父から指摘されたことを」
「覚えているよ。ここへ移る手前だ。”今の仕事のスタイルではパンクする”と。先へ進むときは、怖くなかったのか?」
「怖かった。今のお前の状況だった。一緒にやってきただろう?だから進んで来れた。夏樹のことを守るためもある。自分は力不足だと思っているだろう?」

 大当たりだ。声を出さずとも伝わった。36歳と32歳では、大した力があるわけがない。”俺の方も親父の力を借りている。常務取締役としての人脈であって、個人のものではない”。その言い切った様が心地よかった。

 すると、また声がかけられた。R&W社の高野が訪れたそうだ。気兼ねが要らない相手で良かった。そろそろオフィス内が落ち着いてくる。外回りの社員が戻るのを待つだけだ。

(悠人……。電話をかけようか。心配するか?)

 心の中で名前を呼ぶと、悠人からラインが入った。御園クリニックに着いたことと、早めに遠藤さんの家に来てほしいと書かれてあった。こういうことを書いてくるのは珍しいことだ。遠慮がちにしている様子が、急に変わった。熱が高いのか?心細くなったのか?今すぐに会いに行きたい。

 どう返事をするか躊躇しながら、オフィス内を見渡した。普段の光景が戻りつつある。本日のスケジュールを思いめぐらせた。黒崎へ頼もうか。いや、家を留守にさせたくない。夏樹が心配だ。黒崎社長も出社している。

 堂々巡りの思考の中で、悠人の顔が浮かんできた。海外に居るわけでもない。タクシーで20分もあれば到着する距離だ。ここへ戻ることも可能だ。いや、そのままそばに居よう。黒崎へ振り向くと、笑い掛けられた。これもお見通しなのか。

「午後からの予定を頼んでもいいかな?」
「もちろんだ。帰るのか?」
「ああ、そうする。会議資料は共有フォルダに入っている。あとは……」
「俺なら全てお前に丸投げして、さっさと帰るぞ。仕返ししておけ。倍返ししてやる」
「恐ろしいなあ。退散するよ。ありがとう」

 ”せっかち常務”に習い、さっさと帰り支度を済ませた。思い切ると、ここまで楽なのか。初めて知る感覚かもしれない。オフィスを出る際に高野と一緒になった。枝川とは友人同士であり、今回の件を知っている。

「早瀬さん。今日はありがとう。気をつけて」
「こちらこそ。ああ、ありがとう。悠人が喜ぶよ」

 タクシーに乗り込む前に紙袋を渡された。田中屋のロールパンが何個も入っていた。悠人の好物だ。いつ話しただろうか?それを聞くと、いつも悠人君の話しかしないだろうと返された。

(そうか?そうだな……)

 開き直って、タクシーに乗り込んだ。行く先は遠藤社長宅だ。まだ病院内にいるだろうから、電話を控えておこう。これから行くと、ラインのメッセージを送信した。

 病院から戻る前に到着するだろう。御園クリニックへ寄ろうか。いや、手前にある書店で雑誌を買っていこう。音楽雑誌が出ている頃だ。

「ゆうとー……」

 ぼんやりと窓の外を眺めて、悠人の名前を呼んだ。
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