聖なる雫の音楽少年~あの日のキミ

夏目奈緖

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8-1 島川社長とモデル起用

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 1月28日、水曜日。午前6時

 カレンダーを見ると、72候の欄には水沢腹堅・さわみずこおりつめると書かれている。味噌汁鍋からの湯気が立ち込めた。どうも加熱し過ぎたようだ。しかし、キッチンが温かくなったから良かった。

 正月明けに熱を出したが、ここへ帰った後には下がった。でも、本調子ではなかったようで、先週にはまた風邪を引いて寝ていた。

 あの事件が起きたことで良いこともあった。早瀬に素直に甘えるようになったことだ。我儘も口にしている。今までの反動だったのかと?と、早瀬から苦笑されている。

「沢に厚い氷が張りつめる頃。沢に流れる水さえも凍る、厳冬ならではの風景。……風邪を引くわけだよ」
「キミの場合は腹巻きをしないからだ」
「月夜のレンジャーを装着したくないよ」
「寝ている時に外すからなあー」

 コト……。

 味噌汁を注ぎ入れた後、ダイニングテーブルに並べた。食卓の彩りがいいのは、ロールパンをサンドイッチ仕様にしたからだ。卵焼きときゅうりを挟んだだけでも大違いだ。

 まだ大きな変化がある。自分自身の物事の受け止め方のことだ。じたばたしても結果が同じなら、楽しく過ごそうと決めた。実際には難しくても、練習していく。それを早瀬に話すと、”ネガティブのままでもいいぞ” と言われた。強くなると守れなくなるからだった。もちろん冗談だ。

 遠藤さん宅で過ごした4日間、早瀬は大きく後悔をしたそうだ。熱まで出させてしまったと、自分を責めていた。遠藤さん宅で預かる話が出た時に、初めは早瀬が拒んだそうだ。しかし、周りの関係者のことを考えて、俺のことを預ける方法を選択したと、遠藤さんから聞いた。

 俺に何か起きるといけない。最悪の事態を考えての決断だった。事前に話してくれなかったのは、ここに居たいと言い出すに決まっているからだ。だから俺は強くあろうとしたいと思っている。

 音楽のことでは、新しい計画が出来た。ヴィジブルレイが終了した後、佐久弥が立ち上げるバンドへの参加を決めた。ボーカルは夏樹だ。これから夏樹のことを説得する。一緒にやりたいのだと。そこは強く出る。

 さらに、MIDSHIPのモデル起用の話が持ち上がった。これには驚くしかない。最初に、黒崎さん経由で連絡があった。今日の夜、島川社長と会う約束をした。電話で話すと、第一印象よりも腰の低い人だった。

(……怪しい者ではありません。まずは僕のことを気に入って頂きたい。いきなりの話では不安でしょう。早瀬さんとも親しくさせて頂きたい……か)

「島川さんって、面白い人じゃないかな?怪しい者ではありませんって……。自分から言い出す?」
「会った時に分かるぞ。楽しみか?」
「気に入ってもらえるのは嬉しいよ。起用されるかどうかは別として」

 そう言いながらも、早瀬のことが心配になった。俺なら面白くない気分になる。他の人と会いたいだなんて。顔を上げると、彼が笑っていた。

「どうした?心配なのか?」
「会いたいって言われたくないだろ?俺なら嫌だもん」
「他の男に目移りしないだろう?」
「それはそうだよ。なんでー?」
「迎えに行ったとき、遅かったと怒って、泣いていたじゃないか。あれほど愛されていたら心配がない」
「あああ……」

 どうしよう?感情が高ぶっての結果だ。思い出すと恥ずかしい。面と向かって話題に出されると、逃げ出したくなる。チラッと視線を向けると、早瀬がいじめっ子のような顔をして笑っていた。

 どうも気まずいから、物を取りに行くふりをした。すると、インターフォンが鳴った。モニター画面を見に行こうとすると、早瀬が先に確認した。なるべく外との接触をさせないと言いながら。

「佐藤さんだ。出てくるよ」
「俺も行くよー。お礼を言いたいから」

 すぐに追いかけて行った。玄関には、お洒落な格好をした女性がいた。下の階に住んでいる佐藤さんだ。母よりも少し年上だと思う。早瀬のお父さんの知り合いでもある。

「おはようございます。弟から送ってきたカボチャです。沢山あるのでよかったら……」
「いつもありがとうございます。ゆうとー、カボチャを頂いたぞ」
「ありがとうございます。この間のお饅頭、美味しかったです。銀座にあるんですか?買いに行きたくて……」
「そうよ。知り合いが経営しているお店なの」

 段ボールをキッチンへ持って行った後、田中屋のカボチャ食パンを渡した。この間のお礼だ。佐藤さんもファンだからだ。

 二人が話している姿を眺めた。爽やかイケメンが流れるように会話を進めている。身のこなし、声のトーン、全てがかっこいいと思う。しかし、俺の前では崩れ去ってしまう。残念なのか嬉しいのか、半々の気持ちだ。

 玄関から見送った後は爽やかイケメンが消え失せて、いじめっ子が復活した。忘れてくれたものだと期待した話題を蒸し返してきた。

「さっきの続きだ。あれほど愛されていると疑いようがない。嬉しかったよ」
「もう……」

 逃げ出そうとして、後ろから抱きつかれた。耳元では笑い声が響いている。そんなに笑わなくてもいいだろう。足で蹴ってもムダだった。さらにイジられ始めたから、腕に噛みついてやった。

「いたたた。ゆうとくーん。離してくれ」
「いじめっ子のユーリ!我慢しろーー!」
「やめられないよ。可愛いから」
「きいいいいいっ」

 噛みつかれても笑っている。お返しだと囁かれた後、頬に軽く噛みつかれた。やっと逃げ出した時には時間が経っていたから、急いで朝ごはんを食べた。
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