夏椿の天使~あの日に出会った旋律

夏目奈緖

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 さらに進んだ先では、丸ごと一匹のブリが並んでいるショーケースがあった。お刺身や切り身、アサリなどの海産物も豊富だ。魚好きとしては興味が引かれる。

「このスーパーってね。いい魚があるんだよ。佳代子さんが教えてくれたんだ」
「……いい魚だな」

 この魚が気に入ったようだ。黒崎は舌も目も肥えている。つまりは、我が家の食事にもうるさいということを表している。豆腐だけではなく、素材と調味料にもこだわっている人だ。ただし、作るのは俺だ。いつもうるさいことを言われているから、やっぱりスーパーに連れて来ない方が良いかと思った。

「美味そうだ」
「そうだね……」
「塩焼きが食いたい」
「じゃあ、切り身を買うよ」
「一匹さばけるだろう?」
「それは出来るけどさー。片づけが面倒くさいんだよ。まな板もさー」
「明日でもいいから、ブリ大根も食いたい」
「はいはい。これにするよ。いい感じだなあ」

 近くにあった、ブリのアラ入りのパックを手に取った。さっさとカゴに入れて退散するに限る。それなのに、黒崎からカートを留められた。

「丸ごと一匹を買うといい。塩焼きもブリ大根も、両方楽しめる」
「面倒くさいんだってば。後片付けを手伝ってくれるわけ?」

 口だけでもいいから、手伝うと言われれば買うことにした。大して期待はせずに言葉を待っていると、黒崎が首を横に振った。

「……やらない」
「ええ?」
「……手伝わない」
「ええー?」
「俺は嘘をつくのが嫌いだ。口約束も嫌いだ。YESとは言えない」
「だったら買わないよ?」
「……食いたい」
「あのねえ。嘘も方便だよ。それでいいから言えよ~」

 ストレートな表現をする人だ。しかし、物は言いようだろう。こうしている間もブリを選んでいるから、その手を止めてやった。

「黒崎さん!買わないからね」
「買ってくれ」
「お手伝いしない旦那さんには買いません!」
「これが食べたい。頼む、カゴに入れろ」
「……」

 とても頼んでいる態度ではない。するとその時だ。保育園児の男の子を連れた人が通り過ぎて行った。2人の会話が聞こえてきた。まるで俺たちのやり取りのようだ。

「お母さんー。月夜のレンジャーのチョコを買ってよー」
「いけません。いつもそれでご飯が食べられなくなるから」
「ちゃんと食べるからー」
「このブリを食べられるのね?」
「うんっ。食べるよ!」
「そんなことを言って、……いつも食べないくせに」
「ちゃんと食べるよ。お皿も片づける!」
「本当に?」
「うんっ」
「もうーー。約束よ?」
「やったー」

 とうとうお母さんが折れた。ブリの切り身2パックをカゴに入れた後、お菓子のコーナー方面へ歩き出した。その2人を見送るように眺めた後、黒崎が口を開いた。

「皿を片づけるから買ってくれ」
「もう……、本当にやってよ?」
「ああ。やる」
「へえ?それなら買ってあげるよ~」

 お皿を片づけるとは言っても、流し台に運ぶだけだ。それでも黒崎にしては進歩した発言だから、言うことを聞いてあげることにした。

「ふふん……、楽しみだよ」
「これがいい」
「けっこう大きさがあるね?多めに作って、お義父さんにも食べてもらおうか?」
「喜ぶだろう」

 黒崎が本格的にブリを選び始めた。彼が選んだものは美味しい。さっそく指したものを、スコップのような物で取り出した。それを透明の袋に入れて口をしばり、カゴに入れた。こういう時間が幸せだ。
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