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夜の黒崎製菓本社は、機械が眠っていてもまだどこか呼吸している。誰もいない役員フロアを歩くたび、絨毯の上で靴底の音が吸い込まれていく。会議室の灯りを落とし、最後の資料をファイルに戻した。窓の外には、淡い輪郭の月があった。雲はないのに、紗をかけたように揺れて見える。
この時間になると、決まって胸のどこかが冷たくなる。昔は夜が怖くなかった。兄が生きていた頃は。兄が亡くなった後、夜が怖くなった。暗闇の中で何かを失うのが怖くなった。今は、パートナーの夏樹がいなくなることを恐れている。兄のように、ある日突然、何の前触れもなく消えてしまうのではないかと。その恐れだけが、月明かりのように胸の奥でかすかに光っている。
副社長室のドアを開けると、机の上に置き去りにしていた封筒が一つあった。人事の回覧だ。そこへ何気なく手を伸ばした指が、引き出しの奥に当たり、薄い金属の手触りを拾い上げた。古いノートパソコンだ。シルバーの塗装は角から剥げ、ロゴは擦れて読めない。いつここにしまったのか、覚えがない。
気まぐれで電源を入れると、低い駆動音が静かな部屋に広がった。古いOSのロゴがゆっくりと立ち上がった。そして、パスワード入力欄が現れ、指が勝手に“0420”と打っていた。兄・拓海が交通事故で亡くなった日付だ。ログインすると、小さな封筒のアイコンが点滅していた。未送信メールが一通。件名は“報告:進路のこと”。
心臓の奥で、忘れていた痛みが目を覚ました。カーソルを合わせてEnterを押した。開いた本文には、拙い言葉が並んでいた。差出人は高校3年生の俺だ。宛先は“takumi@”。
「兄さんへ。音楽大学の推薦、受けたい。まだ迷いはあるけど、兄さんが言った、自分の音に責任を持てという言葉を、今なら少し信じられる。会社を継ぐと言ったのは嘘じゃない。でも、順番を変えたい。練習、手伝ってくれるかな。今度の土曜、そっちの家に帰るよ」
日付は4月21日の午前4時。事故の翌朝だ。送信ボタンの隣に“保存済み”の文字が青く光っている。
この時間になると、決まって胸のどこかが冷たくなる。昔は夜が怖くなかった。兄が生きていた頃は。兄が亡くなった後、夜が怖くなった。暗闇の中で何かを失うのが怖くなった。今は、パートナーの夏樹がいなくなることを恐れている。兄のように、ある日突然、何の前触れもなく消えてしまうのではないかと。その恐れだけが、月明かりのように胸の奥でかすかに光っている。
副社長室のドアを開けると、机の上に置き去りにしていた封筒が一つあった。人事の回覧だ。そこへ何気なく手を伸ばした指が、引き出しの奥に当たり、薄い金属の手触りを拾い上げた。古いノートパソコンだ。シルバーの塗装は角から剥げ、ロゴは擦れて読めない。いつここにしまったのか、覚えがない。
気まぐれで電源を入れると、低い駆動音が静かな部屋に広がった。古いOSのロゴがゆっくりと立ち上がった。そして、パスワード入力欄が現れ、指が勝手に“0420”と打っていた。兄・拓海が交通事故で亡くなった日付だ。ログインすると、小さな封筒のアイコンが点滅していた。未送信メールが一通。件名は“報告:進路のこと”。
心臓の奥で、忘れていた痛みが目を覚ました。カーソルを合わせてEnterを押した。開いた本文には、拙い言葉が並んでいた。差出人は高校3年生の俺だ。宛先は“takumi@”。
「兄さんへ。音楽大学の推薦、受けたい。まだ迷いはあるけど、兄さんが言った、自分の音に責任を持てという言葉を、今なら少し信じられる。会社を継ぐと言ったのは嘘じゃない。でも、順番を変えたい。練習、手伝ってくれるかな。今度の土曜、そっちの家に帰るよ」
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