月下ノート

夏目奈緖

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 記憶が、音を立てて戻ってくる。それは、4月2日の夜のことだった。コーヒーから湯気が上がっていた。拓海たくみ兄さんはスーツの上着をハンガーにかけ、ネクタイを緩め、月を見上げてこう言った。――怖いのか? と。

 あの夜、俺は音大推薦を受けてピアニストへの道を目指すか、それとも会社を継ぐ準備を始めるか、迷っていた。拓海兄さんの助けになりたかった。父が社長を務める会社で働く選択肢を取る方が現実的だと思っていた。しかし、ピアノを弾くと心が弾んだ。拓海兄さんだけが、その揺れる思いを理解してくれた。

 ――怖いか?
 ――うん。
 ――怖いのはいい兆候だ。好きなら、なおさら怖い。責任が増えるからな。
 ――兄さんは怖くないの?
 ――いつも怖いよ。お父さんの前でも、社員の前でも、圭一けいいちの前でも。
 ――俺の前でも?
 ――とくに、圭一の前で一番。嘘をついたらすぐにバレるからな。

 拓海兄さんは笑った。どこか子供のように。その笑顔が好きだった。

 ――圭一。音楽は逃げ場じゃないぞ。盾にするな。
 ――……わかってる。
 ――それでもやるなら、推薦を受ければいい。落ちたら悔しがれ。受かった  ら、ちゃんと喜べ。お父さんにも、会社にも、自分にも報告するんだ。順番を変えるのは、悪いことじゃない。いいことなんだ。

 その18日後、拓海兄さんは帰ってこなかった。交通事故の犠牲になったからだ。享年33歳。信じられないと呟くたび、現実の方が先に頷いた。俺は音大の推薦を受けて合格し、一生懸命に勉強すると決めた。しかし、父が勝手に推薦を取り消した。理由を聞くと、返ってきたのは、”どのみちピアノを弾く時間はなくなる”という一言だった。

 未送信メールは、すべてを知っていた。送信ボタンの上に、震えるような指先を置いた。押せば何かが終わる気がして、押さなければ何も始まらない気もした。
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