貴方へ贈る白い薔薇~思い出の中で

夏目奈緖

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家族の呼び名

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 すると、拓海兄さんがふっと笑った。

「落第点だな」

 その言葉の意味は知っている。ピアノのレッスンで何度も聞いた言葉だった。

「圭一。だめだな。とっさに抱かれたら、誘拐されるぞ。俺のこと、信用しただろう」
「あ……」
「こういう時はな、大声を出すんだ。“わーーー!”ってな。言ってみろ」
「あ……」
「遠慮するな。ほら、わーーー!」
「あ、あの……。わーーー……」
「もっとだ。わーーーーー!」
「わーーーーー!」

 ほとんど脅されたように、俺は声を張り上げた。すると、隣の部屋から母が姿を現した。

「おかえりなさい」

その一言だけだった。俺は背筋を伸ばし、頭を下げた。

「ただいま帰りました」

 これが黒崎家の挨拶だ。そう躾けられてきた。黒崎家の一員としての教育だった。

 その日、父は母の説得に来ていた。結婚の話はすでに進んでいた。母は黒崎家に馴染めないと言って拒んでいたが、”圭一のために”という父の言葉に押し切られた。結婚を決めたのは、その日の夕方だった。

 拓海兄さんから、俺たちは兄弟なのだと教えられた。母親は違う、と。彼の母は家を出て行ったという。だから、父は母を正式な結婚相手にしたいのだと説明された。6歳の俺には難しい話だった。けれど、聞いておかなければならない話でもあった。

 俺は拓海兄さんを好ましく思っていた。兄弟がいたらいいと、ずっと思っていたからだ。だが、”兄”と名乗られたからといって、すぐに信用してはいけない。そう教え込まれてきた。砂粒の中から真実を探すような感覚だ。幼い俺は、いつもどこかで疲れていたのだと思う。それでも、拓海兄さんの笑顔の前では、不思議と肩の力が抜けた。

「圭一。いい声だった。そうだな……、誘拐犯がお手伝いさんを連れていくかもしれない。その時は、お前が大声を出すんだ」
「はい」
「俺の前では“うん”でいい。お父さんの前では“はい”なんだろ?」
「……うん」
「俺のことは信用してくれ。ママもいる。お手伝いさんもいる。お父さんもいる。……ああ、そうか。おじさんって呼んでるのか」
「うん」

 母からは、”お父さんと呼びなさい”と言われていた。だが、毎日家にいない男を、そう呼ぶことができなかった。同じマンションに住む初老の男に、どこか似ていたせいもある。

「今日から“お父さん”って呼んだらどうだ? お前の父親なんだぞ。ママがママだってことは分かってるか?」
「分かっているよ」
「名前は知ってるか?」
「言わない」
「正解だ。俺に教える必要はないな。俺は知ってるけどな。烏丸真琴さん、29歳」
「うん」
「ママは真琴さんだ。お母さんだって分かってるか?」
「お母さんは、幼稚園のバスを迎えに来てる人たちのことだよ。うちにはいない」
「へえ……。お前にはいないのか」
「うん」
「じゃあ、ママって何だ?」
「名前だよ。ママはママ」

 一瞬の沈黙の後、拓海兄さんは大きく笑った。そして、その笑い声に反応するように、父が隣の部屋から出てきた。

「おじさん!こんにちは!」
「こんにちは。おかえり。そのお兄さんは拓海だ。お前の兄だ。ピアノが欲しかったんだろう? 元のピアノはどうする?」
「持っていたい!ずっと弾くよ」
「そうか。ピアノだらけだな。もうすぐ新しい家に引っ越す。もっと置けるぞ」
「引っ越し?」
「お父さん、まだ決まっていないでしょう」

 拓海兄さんが静かに制した。父は俺に向き直る。

「拓海と話していなさい」

 命令だと分かった。口調は穏やかでも、拒否は許されない。父は再び部屋へ戻った。母と何かを決めるのだろう。

 当時の俺は、母を追いかけなかった。“ママ”は同じ家に住む女の名前であり、“お母さん”とは別の存在だった。幼稚園でも、”圭一くんのおうちの方は”と聞かれた。“お母さん”という言葉を向けられたことはなかった。疑問はなかった。

 入園式、卒園式、クリスマス会には母が来た。それ以外はお手伝いさんだった。それで成り立つ園だった。だから俺は、自分が欠けているとは思わなかった。だが、この日から、変わった。初めて、自分を預けてもいいと思える存在に出会った。それが、拓海兄さんだった。
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