海のそばの音楽少年~あの日のキミ

夏目奈緖

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 午前9時。

 マンションが建っているアイランド内には、クリニックが建ち並ぶエリアがある。その一つである『かもめクリニック』へ到着した。

 待合室で問診票に記入しつつ、漂ってきた消毒液のような匂いに身体が震えた。あくまでもクールな男でいたいのに、そうなれないのが現実だ。

「怪我をしていないから、消毒はないだろう?」
「匂いがだめなんだ……」
「はいはい。いい子だから」
「うん……ズズッ」
「マスクをずらそう。鼻が出ているぞ」
「うん……クシュン」
「はいはい。ズーーッて、やってごらん」
「ズーーーッ」

 早瀬と暮らし始めてから、風邪をひいたのは2回目だ。前回はすぐに治り、病院へ行かなかった。元から身体が丈夫なこともある。

 まるで小さな子供だ。消毒液の匂いに怖がり、鼻を拭いてもらっている。向かいのソファーの小学生の女の子ですら、自分で鼻水を拭いているというのに。

 問診票を書き終えて待っていると、早瀬が雑誌を取ってきて開いた。それは週刊誌で、千尋製菓の見出しが大きく出ていた。とっさに目を逸らして見ないふりをしたが、早瀬が笑ったから視線を戻した。そして、一緒にページを眺めた。

 その記事には、社長就任のための跡目争いが表に出てきたことで、業績悪化にも影響していると書かれていた。身売り先の企業候補一覧まで載っている。そのトップはコンラッド株式会社という、製薬系のグループだ。千尋製菓は製薬部門にも広がっているためだろう。

「表に出て影響があるって書くなら、こんな記事を載せるなよ……」
「……ウーン、たしかにそのとおりだ。分かっていて争っているほうがおかしい」
「そうだけど。ごほっ、離れておくよ。うつるし……」

 この時期に風邪をうつしたくないから、今更ながら距離を取った。しかし、すぐに抱き寄せられて、元の位置に戻された。

「これでうつったら、看病してもらえるんだろう?」
「もちろんだよ。おかゆを作るし……」
「風邪をひきたい。看病されるのが味をしめた。可愛いことこの上ない」
「あ……」
「ここで言うなって?どうして困るんだ?」
「言うなよ!ズズ……」

 鼻をかむふりをして向こうを向くと、左手を握られた。今朝も貼り付けられた、絆創膏の上から触れている。ここで聞くチャンスだと思った。

「裕理さん。どうして絆創膏を貼るんだよ?虫よけの意味が分からないし。ずっと見ているのはなんでだよ?」
「……明後日、話すよ」
「夏樹と遊びに行った帰りだよね。その前に寄るところがあるって言ってたよね?その関係?」
「そうだよ。体調が悪いから予定を変えておけ。夏樹君にも心配を掛けるだろう。南国温泉物語にも行くんだろう?」
「大丈夫だよ。体調をみて、温泉に入らないようにするよ。せっかくだから遊びに行くよ」

 早瀬の誕生日プレゼントを選びたいからだ。大した風邪でないだろう。これを逃すと買いに行けなくなる。体調のことを言えば、夏樹から止められるだろう。さっきもラインで予定を変えないかと、メッセージが入ったばかりだ。せめて買い物だけでもしたいと返しておいた。しかし、早瀬は納得してくれない。反対の立場なら、俺も同じことを言うだろう。

「予定は逃げないぞ。再来週に変更しておけ」
「金曜日がいいんだ。それを逃すと……」
「……逃すと?」
「げげげげ……」
「……げげげ?」
「限定のメニューが食べられなくなるんだよ。南国温泉物語の、チキン南蛮セットのクリスマススペシャルだよ」
「今度にしようね?」
「あああ……、行くんだ!」
「悠人、こら」
「久田さん。診察室の前におこしくださいーー」

 ちょうどいいタイミングで名前を呼ばれた。眉を寄せて怒っている早瀬に謝って、診察室へ行った。そこにある椅子に腰かけると、早瀬が隣に立った。

「……逃がさないぞ」
「許してよ……」
「……悠人。呼ばれたぞ」
「う、うん。はーい、ズズ……」

 そそくさと逃げるように診察室へ入った。おかげで怖がらずに入ることが出来た。何が幸いするやらと思った。 
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