アイアンエンジェル~あの日の旋律

夏目奈緖

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 トイレに来た。広くて綺麗だから驚いた。ロビーもこのフロア全体も綺麗だから、どこかの施設に来た気分になった。

 ふと、実家の生活のことを思い出した。玄関掃除が大事だと両親から教わり、兄弟で交代して掃除をしていた。トイレ掃除は父の担当で、こうすれば家族が健康に暮らせるんだよと教えてくれた。おまじないの意味もあるそうだ。綺麗にすることは縁起が良いのだと習った。黒崎製菓もそうなのだろうと思った。

(ホテルみたいな洗面所だなあ……)

 トイレの隣には別のコーナーがあった。全身鏡やドレッサーのようなものまで並んでいた。まるで女性用トイレのようだ。身だしなみチェックをするのだろう。どの社員さんも清潔感があった。人に会う仕事だからだと、黒崎が言っていたのが納得できた。

 トイレを済ませて出ようとすると、洗面所から話し声が聞こえてきた。その話し方の感じでは、今回の説明会の参加者だと思った。

「あいつ、調子いいよなー?」
「あの手を挙げたやつだろ?さっき、社員の人と話していたぞ。あのおかげで顔を覚えられたんだよ」
「えーっと、部長さんだっけ?イジられるのが分かっていたら、手をあげたのになー」
「社員から話しかけられていた子がいただろ?ナツキ君って呼ばれてた……」
「あ~、あいつか。コネがあるなら参加しなくていいだろ?なんで来るのかな?俺たちとは違うんだし」
「そのナツキ君にも話しかけていたんだよ。手を挙げていた奴!なんか必死だよな?そこまでして自分を売り込むってさ~」
「さっき、別の人と笑って話してたぞ。コネのある奴に近づいたんだな」

 呆れて言葉もない。かろうじてため息が出たぐらいだ。面倒くさいから、さっさと会議室へ戻ろう。洗面所には扉がないから、通り過ぎる自分の姿が丸見えだ。俺のことを見たら何か言い出すだろうと思いながら歩いて行くと、予想通りの声が飛んできた。

「ヤバイ。言われるんじゃないの?」
「名前知られてないから……」

 黙って通り過ぎて、廊下に出た。すると、そばにあったエレベーターの扉が開いた。その中から、深川副社長と早瀬さんが出てきた。その他にも男性がいた。俺のことに気が付いて、深川さんから声を掛けられた。

「今日は説明会だったね。何かあったのか?」
「いえ、何でもありません」

 すると、深川さんから、一緒に居る男性を紹介された。伊吹の会社の広告を担当している人だということだった。

「黒崎製菓グループの、R&W社の高野君だよ」
「はじめまして!」
「高野君、この子が夏樹君だよ」
「はじめまして。お兄さんの中山社長には、大変お世話になっています」
「こちらこそ、兄が……」

 伊吹の名前が出たことに驚いた。4歳しか違わないのに、ずっと前を歩いているのだと実感した。なんだか焦って来た。伊吹なら、さっきの学生達の言葉には動揺しないだろう。気にも留めないはずだ。それだけのことを乗り越えて来たからだと思う。

 挨拶が終わった後、3人が奥のフロアへと曲がって行った。その後ろ姿を見つめて、ちっぽけな自分を自覚した。
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