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# act1 契約
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「はい、腕まくりしてくださーい。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、血を抜きますね!」
ほんのちょっと、とは何だったのか。
目の前の医者は先ほどから、3本目の試験管に僕の血を詰めている。
「今日は12本くらい採ろうかな」
「楽しそうですね」
「当たり前じゃないか! 私にとっては宝石に等しいよ。
ああ、これだけ大量の健康なオメガの血……素晴らしい。そしてなんて美しいんだ。
フフッ、どんな実験に使おうかな……」
セシル先生は清潔感漂う白衣に、ミディアムショートの銀髪をピシッとセットしている、変態……ではなく、医者だ。
赤い液体で満たされた試験管を光にかざしてうっとりと見つめるその視線は、どこか狂気的だった。
それなのに、その横顔があまりにも端正で、つい見惚れてしまう。
「ほら、君の刺入点。ずっと針を挿入させられているから、赤く腫れてきて……ふふっ、あとでゆっくり薬を塗ってあげるね」
なんか言い方がエロいのは気のせいだろうか。
どんどん採られていくな……と横目で見ていると、針が挿入されている腕を優しく撫でられた。
彼に触れられると、そこがぞわりと熱を持ってしまう。
「すばらしい血管だ……まっすぐで、従順で。ほんとに、君の体は理想的だよ」
僕自身ではなく、血管や腕を愛でているような妖しい目つきに、息が止まった。
セシル先生はオメガオタクとして有名だ。有能で人当たりがいいのに、一度スイッチが入ると様々なことを聞き出してメモを取りまくる。
それは発情のことから私生活まで幅広く、オメガのことすべてに興味が尽きないようだ。
オメガの神秘性や尊さについても語りまくるため、一部の患者は辟易している。
しかし僕は嫌いじゃないし……なんなら、可愛いとすら思っている。もちろん、こんなこと、本人には絶対に言えない。
だって、言ってしまったら、これ幸いとばかりに、実験台にされてしまいそうじゃないか?
――でも、そんなにオメガが好きなら、当然、恋人くらいは……いるよね?
別に、恋人がいるか気になるというわけじゃない。
逆にこんなにオメガ好きなアルファが独り身なわけ……ないし。
でもまぁ、どんなモノ好きが恋人なのか、聞いてみるのも面白いかもしれない。
「僕が献血しなくても……恋人、の、オメガに……頼めば……」
「ユウくん、私は研究者なんだよ。
私がほしいのは客観的なデータと観察のみだ。それが全てのオメガに生かせるからね。
一人のオメガと個人的なつながりを持つ気はないんだよ。
そういった感情や関係は、研究の邪魔になるから」
驚いた。
オメガ大好きなのだと思っていたけど、逆に恋人として付き合うつもりはないって、そんなこと、あるのだろうか。
「そうなんですね……
じゃあ当然、か、患者とかとも……」
「たまに患者と個人的な付き合いをしている医者を見るけど……あり得ないね。
オメガは私にとって救うべき対象だ。それに自分の欲望をぶつけるなんて。
私はそういう医者を軽蔑するよ」
「……ですよね」
ほんの少し、違う答えを期待していた自分に気づいて、慌ててその気持ちを打ち消した。
彼は自分の興味や欲望を隠さない。
そして、研究の前ではオメガやアルファでさえも、等しく観察対象だ。
その距離感と冷たさが、なぜか心地よかった。
――だが同時に、少しだけ怖くもあった。
彼にとても興味をひかれるけど、踏み込んだらどうなってしまうのだろうか。
美しい蜘蛛の糸に近付く蝶のように、捕らえられて逃げられなくなってしまう。
そんな僕の心境を知ってか知らずか、セシル先生は唇に笑みを浮かべた。
「でも……自発的な実験の協力者としてなら、必要かな。もちろん、愛や恋なんて関係ない。
きっちりと契約書を交わして、報酬も発生する」
〝契約〟――その語感は冷たいのに、すごく引き付けられた。
そんなふうに思ってしまうのは、たぶん、恋愛じゃないからだ。
いや、そもそも僕は恋愛なんてしたことがあっただろうか。
オメガはアルファの誘発フェロモンによってしか発情できない。
自分の意思じゃない、誰かのフェロモンで発情させられて――その支配は心にまで及ぶ。
だけど、アルファは複数のオメガと関係を持つのが普通だ。
分かっていながら好きになって、嫉妬して、重いと棄てられる。
誰かのフェロモンに心まで――引きずられてしまう。
肌の奥にこびりついているような、誰のものともわからない匂いが、いまでもふいに蘇る。
ほんの一瞬でも気を抜いたら、あのときと同じように流されてしまいそうで……。
だから、この病院の前で献血協力者募集の張り紙を見た時、なんか嬉しかった。
こんな僕でも、役に立てることがあるなんて。
それに、セシル先生も他のアルファのような濃い匂いが無くて、とても安心できる。
恋愛ではない、こんな契約の関係が、僕にとってはとても居心地が良かった。
でも、この関係はこれ以上の発展性はない。
そう思うと、セシル先生に会うたびに、少しだけ心がざわついていた。
だから、もっと深い契約を結べるなんて聞かされたら、興味を持ってしまうのは当然だろう。
「お疲れさま、これで終わりだよ」
セシル先生は12本の試験管をずらりと並べて、にこやかに言った。
「君は健康体だからサンプルにうってつけなんだ」
「お役に立ててよかったです」
「今日も奥で少し休んでいくといい。
その後で、さっきの実験協力の話をさせてくれるかな」
「はい」
僕は中扉のある、少し奥まった部屋で横になった。
12本分の血液を採られても、特にふらついたりはしていなかった。だがこの病院にいると心が癒されるから、セシル先生の言葉に甘えることにした。
飲み物とタオルを貰って休んでいると、いつの間にか寝てしまったようだ。
目を開けると、窓の外はもう真っ暗になっていた。
薄暗い部屋の中で起き上がろうとしたとき、事務机のところに人影を見つけて、喉がヒッと鳴った。
明かりもつけずに、椅子の背もたれを前に抱きかかえるようにして、白衣の人影がこちらを見ている。
その顔はよく知っている人のものなのに、初めて見る表情だった。
「起きたかな」
「セ……シル、せんせい……」
心臓が喉から脈打っているようだ。
ギッ、と音が鳴った。
セシル先生が椅子から立ち上がり、壁のスイッチを押した。
明かりがつき、いつもの室内が蛍光灯の下に浮かび上がった。
だが、僕にはそれがどこか違っているように見えた。
「寝てしまっていたから、起こすのもと思って……忙しくしていたら、いつの間にか診療時間を過ぎてしまっていたんだよ」
「今、何時ですか?」
「9時31分」
「すいません、そんな遅くまで」
「私も放っておいて申し訳なかったね。もしかして、何か予定があったかな」
「いえ、家に帰って、ご飯を食べて寝るだけなので」
言いながら、彼の視線がチリチリと頬を刺すような気がしていた。
今までこんな風に見られたことはなかった。
「では、昼間の実験協力の話をしてもいいかな」
「はい」
先生は椅子に腰かけて、白衣から覗く長い足を組んだ。
蛍光灯の下で、青灰色の目が輝きを増した。
「私は正常なオメガにとても……興味があってね、君で実験できたらどんなに素晴らしいだろうと常々考えていたんだ。
だから君が興味を示してくれて、正直……とても興奮している」
どくん、胸に異物でも入っているかのように、脈打つたびに痛みが走る。
「もし君が良かったら、もう少し踏み込んだ実験をしたいんだ」
僕は口を開いたが、喉が引き攣れて、なかなか声が出なかった。
「どんな……」
やっと出たのは掠れてざらついた声だった。
「オメガとアルファの間に起こる強制発情や心理支配に興味があってね。
私が連れてくるアルファのフェロモンを浴びて、その様子を記録させて欲しいんだ」
「連れて……先生じゃダメなんですか?」
――普通のアルファは怖い。セシル先生だったら……よかったのに。
「あいにく、私は〝壊れたアルファ〟なんだ。
アルファの胸部にある、フェロモンを分泌するサイマー腺。
それが生まれつき欠損している。
オメガを発情させることができない、恋愛においては役立たずな存在なんだよ」
その声の奥に、氷のような自嘲が混じっていた。
「…………」
表情も変えずに淡々と話すセシル先生。
顔は端正でスタイルもいい、頭も良くて優しくて……完璧に見えるのに、内部の機構は欠損している。
外側と内側のアンバランスさが、彼をより美しく見せているのだろうか。
見知らぬアルファとの強制発情と心理支配。
怖気が走るほど嫌だし、過去からのトラウマにもなっている。
セシル先生はそれに関与すら……しない。観察するだけだ。
リスクが大きすぎる。契約してしまったら、それをたてに範囲ギリギリまで色々させられるかもしれない。
断れ、断るんだ。
それなのに、口が勝手に動いていた。
「……やります」
「よく考えたほうがいい。
今までの献血は話してある通り、オメガの治療の研究に使っている。
だがこの実験は完全に私の個人的な興味を満たすだけのものだ。
社会的な益はないし、何なら違法寸前の行為なんだよ」
これを断ったら、きっとセシル先生医師は別のオメガに声をかけるだろう。
なぜか、それが耐えがたいほど嫌なことに思えた。
自分ではない誰かが、彼に〝観察〟される。
そう思うと心が潰されそうだ。
「やります」
僕の言葉に、彼は一瞬だけ戸惑ったように見えた。
まるで予想外の返事だったように。
「……分かった、では契約の説明をするね。診察室に行こう」
「はい」
「契約には段階があってね。君がどれを選ぶのか、私にも興味があるよ」
夜の院内をセシル先生に付いて歩きながら、僕はこの特別感に高揚していく気持ちを抑えることができなかった。
※ ※ ※
「さあ、契約をしようか」
白衣を着たセシル先生はいつもの医者の顔なのに、悪魔のように美しかった。
「これはORMA(オメガ生殖医療機構)で定められている正式な契約書だ」
診察室の机の上に置かれた紙には〝契約書〟の文字が記載されていた。
「今まで君は等級Ⅰの〝提供者〟だった。
血液やフェロモンなどの物質、情報を提供するだけで、どんな拘束も受けることはない。
基本的に、等級Ⅰは契約書を交わさなくてもいいことになっている。
等級Ⅱからはこのように契約書の提示が必要だ」
契約書には古めかしいフォントで等級Ⅰから等級Ⅴまでの項目が印刷されていた。
等級Ⅰ 提供者 フェロモン、血液、情報などの提供
等級Ⅱ 被験者 薬の投与、経過観察
等級Ⅲ 試験協力者 精神・生理反応観察、フェロモン接触実験(第三種ケア)
等級Ⅳ 研究協力者 フェロモン曝露、発情・性交含む(第一種ケア)
等級Ⅴ 実験体 所有物とみなされ、人格保証・拒否権限なし。長期拘束も可能。
「どの等級を選んでも構わない。
契約は一か月ごとに更新されるから、嫌だったら解除することもできるよ。
私としては、等級Ⅲを選んでほしいかな。
アルファのフェロモンに触れてもらって、その反応を記録したいからね」
その言葉だけで、胸の奥がきゅっとなる。
アルファのフェロモン。
好きでもない雄に無理やり発情させられる……。
あの、抵抗できずに心が徐々に蝕まれていく感覚は、絶対に慣れることはできない。
それなのに、僕の視線は〝ケア〟という項目に集中していた。
「この最後の項目の、ケアというのは……?」
「負担が重い等級ほど、ケアの義務があるんだ。
等級Ⅲでフェロモン実験などを行った後は、中和剤の投与や休憩場所の確保などが義務付けられている」
「等級Ⅳの、第一種ケアって」
「これは実際に発情するまでの強い反応を許容する等級だから、
医療措置に加え、ケアタイムを設けて、接触安定を図ることになっている」
僕はその項目から目を離すことができなくなった。
――接触安定、それって……。
「セシル先生が触ってくれるということですか?」
「……まあそうなるかな。この実験は秘密裏に行われるからね。他のスタッフはいない」
腹の底から恐怖が湧き上がってくる。
それでも彼と秘密の契約をする、という特別感がそれを上回っていた。
僕は乾いた声で訊ねた。
「もし僕がⅣを選んだら……?」
一拍置いて、セシル先生は冷静な声で答えた。
「ⅢとⅣではフェロモンの量が段違いだよ。しかも実際に発情するまで行う」
そんなことを冷静に断言されるのは、怖い。
でも……。
「先生は、本当は僕がⅢじゃなくてⅣを選んで欲しいと思っているんじゃないんですか?」
「それは……」
セシル先生は珍しく息を呑んで黙り込んだ。
「……そうだね。正直に言うと……君のようなオメガに出会ったのは初めてなんだ。
最初に見た瞬間……よくある表現だが、本当に雷に打たれたようだった。
それは“天啓”だと、今では思っている。
それからずっと君のことが頭から離れなかった。
君が等級Ⅳで契約してくれたら……きっと夢みたいだ」
セシル先生の表情は明らかに動揺していた。
まるで、予算を遥かに超える玩具をクリスマスの時に買ってもらえる子供のように。
その理知的な瞳の奥はゆらりと燃えているようだった。
――セシル先生にプレゼントをあげられるのは、僕だけなんだ。
そして特別な〝契約〟をするのも。
恐怖と希望に声が震えた。
「僕は、Ⅳにします」
僕の囁くような声は、しんとした診察室に思いのほか響いた。
セシル先生の表情が、戸惑に歓喜と罪悪感が混ざったような、複雑なものに変わっていった。
喜んでくれるかと思っていたのに、なんだか破滅に怯える聖職者のように見える。
「……そうか、ありがとう」
セシル先生の声は掠れていた。ずっと話したことのない人が、やっと言葉を発したように。
「ここに君の署名を」
長い指で示された場所。公的に認められた契約書にサインする。そう思うと、胸の奥がざわめいた。
ペンを渡されて、指が触れ合う。セシル先生の指は――驚くほど熱かった。
古く茶色に変色した紙は独特の臭いを放っている。
粗雑な質の紙に鋭いペン先がひっかかって、カリカリと音を立てた。
そのたびに、セシル先生の体温が胸に刻まれて行くような気がした。
「実験の日が決まったら連絡するよ」
その声のあと、世界が一瞬だけ静止した。
頭のどこかで鐘が鳴っていた。
それが警鐘なのか、教会の鐘なのか――今の僕には判別することができなかった。
ほんのちょっと、とは何だったのか。
目の前の医者は先ほどから、3本目の試験管に僕の血を詰めている。
「今日は12本くらい採ろうかな」
「楽しそうですね」
「当たり前じゃないか! 私にとっては宝石に等しいよ。
ああ、これだけ大量の健康なオメガの血……素晴らしい。そしてなんて美しいんだ。
フフッ、どんな実験に使おうかな……」
セシル先生は清潔感漂う白衣に、ミディアムショートの銀髪をピシッとセットしている、変態……ではなく、医者だ。
赤い液体で満たされた試験管を光にかざしてうっとりと見つめるその視線は、どこか狂気的だった。
それなのに、その横顔があまりにも端正で、つい見惚れてしまう。
「ほら、君の刺入点。ずっと針を挿入させられているから、赤く腫れてきて……ふふっ、あとでゆっくり薬を塗ってあげるね」
なんか言い方がエロいのは気のせいだろうか。
どんどん採られていくな……と横目で見ていると、針が挿入されている腕を優しく撫でられた。
彼に触れられると、そこがぞわりと熱を持ってしまう。
「すばらしい血管だ……まっすぐで、従順で。ほんとに、君の体は理想的だよ」
僕自身ではなく、血管や腕を愛でているような妖しい目つきに、息が止まった。
セシル先生はオメガオタクとして有名だ。有能で人当たりがいいのに、一度スイッチが入ると様々なことを聞き出してメモを取りまくる。
それは発情のことから私生活まで幅広く、オメガのことすべてに興味が尽きないようだ。
オメガの神秘性や尊さについても語りまくるため、一部の患者は辟易している。
しかし僕は嫌いじゃないし……なんなら、可愛いとすら思っている。もちろん、こんなこと、本人には絶対に言えない。
だって、言ってしまったら、これ幸いとばかりに、実験台にされてしまいそうじゃないか?
――でも、そんなにオメガが好きなら、当然、恋人くらいは……いるよね?
別に、恋人がいるか気になるというわけじゃない。
逆にこんなにオメガ好きなアルファが独り身なわけ……ないし。
でもまぁ、どんなモノ好きが恋人なのか、聞いてみるのも面白いかもしれない。
「僕が献血しなくても……恋人、の、オメガに……頼めば……」
「ユウくん、私は研究者なんだよ。
私がほしいのは客観的なデータと観察のみだ。それが全てのオメガに生かせるからね。
一人のオメガと個人的なつながりを持つ気はないんだよ。
そういった感情や関係は、研究の邪魔になるから」
驚いた。
オメガ大好きなのだと思っていたけど、逆に恋人として付き合うつもりはないって、そんなこと、あるのだろうか。
「そうなんですね……
じゃあ当然、か、患者とかとも……」
「たまに患者と個人的な付き合いをしている医者を見るけど……あり得ないね。
オメガは私にとって救うべき対象だ。それに自分の欲望をぶつけるなんて。
私はそういう医者を軽蔑するよ」
「……ですよね」
ほんの少し、違う答えを期待していた自分に気づいて、慌ててその気持ちを打ち消した。
彼は自分の興味や欲望を隠さない。
そして、研究の前ではオメガやアルファでさえも、等しく観察対象だ。
その距離感と冷たさが、なぜか心地よかった。
――だが同時に、少しだけ怖くもあった。
彼にとても興味をひかれるけど、踏み込んだらどうなってしまうのだろうか。
美しい蜘蛛の糸に近付く蝶のように、捕らえられて逃げられなくなってしまう。
そんな僕の心境を知ってか知らずか、セシル先生は唇に笑みを浮かべた。
「でも……自発的な実験の協力者としてなら、必要かな。もちろん、愛や恋なんて関係ない。
きっちりと契約書を交わして、報酬も発生する」
〝契約〟――その語感は冷たいのに、すごく引き付けられた。
そんなふうに思ってしまうのは、たぶん、恋愛じゃないからだ。
いや、そもそも僕は恋愛なんてしたことがあっただろうか。
オメガはアルファの誘発フェロモンによってしか発情できない。
自分の意思じゃない、誰かのフェロモンで発情させられて――その支配は心にまで及ぶ。
だけど、アルファは複数のオメガと関係を持つのが普通だ。
分かっていながら好きになって、嫉妬して、重いと棄てられる。
誰かのフェロモンに心まで――引きずられてしまう。
肌の奥にこびりついているような、誰のものともわからない匂いが、いまでもふいに蘇る。
ほんの一瞬でも気を抜いたら、あのときと同じように流されてしまいそうで……。
だから、この病院の前で献血協力者募集の張り紙を見た時、なんか嬉しかった。
こんな僕でも、役に立てることがあるなんて。
それに、セシル先生も他のアルファのような濃い匂いが無くて、とても安心できる。
恋愛ではない、こんな契約の関係が、僕にとってはとても居心地が良かった。
でも、この関係はこれ以上の発展性はない。
そう思うと、セシル先生に会うたびに、少しだけ心がざわついていた。
だから、もっと深い契約を結べるなんて聞かされたら、興味を持ってしまうのは当然だろう。
「お疲れさま、これで終わりだよ」
セシル先生は12本の試験管をずらりと並べて、にこやかに言った。
「君は健康体だからサンプルにうってつけなんだ」
「お役に立ててよかったです」
「今日も奥で少し休んでいくといい。
その後で、さっきの実験協力の話をさせてくれるかな」
「はい」
僕は中扉のある、少し奥まった部屋で横になった。
12本分の血液を採られても、特にふらついたりはしていなかった。だがこの病院にいると心が癒されるから、セシル先生の言葉に甘えることにした。
飲み物とタオルを貰って休んでいると、いつの間にか寝てしまったようだ。
目を開けると、窓の外はもう真っ暗になっていた。
薄暗い部屋の中で起き上がろうとしたとき、事務机のところに人影を見つけて、喉がヒッと鳴った。
明かりもつけずに、椅子の背もたれを前に抱きかかえるようにして、白衣の人影がこちらを見ている。
その顔はよく知っている人のものなのに、初めて見る表情だった。
「起きたかな」
「セ……シル、せんせい……」
心臓が喉から脈打っているようだ。
ギッ、と音が鳴った。
セシル先生が椅子から立ち上がり、壁のスイッチを押した。
明かりがつき、いつもの室内が蛍光灯の下に浮かび上がった。
だが、僕にはそれがどこか違っているように見えた。
「寝てしまっていたから、起こすのもと思って……忙しくしていたら、いつの間にか診療時間を過ぎてしまっていたんだよ」
「今、何時ですか?」
「9時31分」
「すいません、そんな遅くまで」
「私も放っておいて申し訳なかったね。もしかして、何か予定があったかな」
「いえ、家に帰って、ご飯を食べて寝るだけなので」
言いながら、彼の視線がチリチリと頬を刺すような気がしていた。
今までこんな風に見られたことはなかった。
「では、昼間の実験協力の話をしてもいいかな」
「はい」
先生は椅子に腰かけて、白衣から覗く長い足を組んだ。
蛍光灯の下で、青灰色の目が輝きを増した。
「私は正常なオメガにとても……興味があってね、君で実験できたらどんなに素晴らしいだろうと常々考えていたんだ。
だから君が興味を示してくれて、正直……とても興奮している」
どくん、胸に異物でも入っているかのように、脈打つたびに痛みが走る。
「もし君が良かったら、もう少し踏み込んだ実験をしたいんだ」
僕は口を開いたが、喉が引き攣れて、なかなか声が出なかった。
「どんな……」
やっと出たのは掠れてざらついた声だった。
「オメガとアルファの間に起こる強制発情や心理支配に興味があってね。
私が連れてくるアルファのフェロモンを浴びて、その様子を記録させて欲しいんだ」
「連れて……先生じゃダメなんですか?」
――普通のアルファは怖い。セシル先生だったら……よかったのに。
「あいにく、私は〝壊れたアルファ〟なんだ。
アルファの胸部にある、フェロモンを分泌するサイマー腺。
それが生まれつき欠損している。
オメガを発情させることができない、恋愛においては役立たずな存在なんだよ」
その声の奥に、氷のような自嘲が混じっていた。
「…………」
表情も変えずに淡々と話すセシル先生。
顔は端正でスタイルもいい、頭も良くて優しくて……完璧に見えるのに、内部の機構は欠損している。
外側と内側のアンバランスさが、彼をより美しく見せているのだろうか。
見知らぬアルファとの強制発情と心理支配。
怖気が走るほど嫌だし、過去からのトラウマにもなっている。
セシル先生はそれに関与すら……しない。観察するだけだ。
リスクが大きすぎる。契約してしまったら、それをたてに範囲ギリギリまで色々させられるかもしれない。
断れ、断るんだ。
それなのに、口が勝手に動いていた。
「……やります」
「よく考えたほうがいい。
今までの献血は話してある通り、オメガの治療の研究に使っている。
だがこの実験は完全に私の個人的な興味を満たすだけのものだ。
社会的な益はないし、何なら違法寸前の行為なんだよ」
これを断ったら、きっとセシル先生医師は別のオメガに声をかけるだろう。
なぜか、それが耐えがたいほど嫌なことに思えた。
自分ではない誰かが、彼に〝観察〟される。
そう思うと心が潰されそうだ。
「やります」
僕の言葉に、彼は一瞬だけ戸惑ったように見えた。
まるで予想外の返事だったように。
「……分かった、では契約の説明をするね。診察室に行こう」
「はい」
「契約には段階があってね。君がどれを選ぶのか、私にも興味があるよ」
夜の院内をセシル先生に付いて歩きながら、僕はこの特別感に高揚していく気持ちを抑えることができなかった。
※ ※ ※
「さあ、契約をしようか」
白衣を着たセシル先生はいつもの医者の顔なのに、悪魔のように美しかった。
「これはORMA(オメガ生殖医療機構)で定められている正式な契約書だ」
診察室の机の上に置かれた紙には〝契約書〟の文字が記載されていた。
「今まで君は等級Ⅰの〝提供者〟だった。
血液やフェロモンなどの物質、情報を提供するだけで、どんな拘束も受けることはない。
基本的に、等級Ⅰは契約書を交わさなくてもいいことになっている。
等級Ⅱからはこのように契約書の提示が必要だ」
契約書には古めかしいフォントで等級Ⅰから等級Ⅴまでの項目が印刷されていた。
等級Ⅰ 提供者 フェロモン、血液、情報などの提供
等級Ⅱ 被験者 薬の投与、経過観察
等級Ⅲ 試験協力者 精神・生理反応観察、フェロモン接触実験(第三種ケア)
等級Ⅳ 研究協力者 フェロモン曝露、発情・性交含む(第一種ケア)
等級Ⅴ 実験体 所有物とみなされ、人格保証・拒否権限なし。長期拘束も可能。
「どの等級を選んでも構わない。
契約は一か月ごとに更新されるから、嫌だったら解除することもできるよ。
私としては、等級Ⅲを選んでほしいかな。
アルファのフェロモンに触れてもらって、その反応を記録したいからね」
その言葉だけで、胸の奥がきゅっとなる。
アルファのフェロモン。
好きでもない雄に無理やり発情させられる……。
あの、抵抗できずに心が徐々に蝕まれていく感覚は、絶対に慣れることはできない。
それなのに、僕の視線は〝ケア〟という項目に集中していた。
「この最後の項目の、ケアというのは……?」
「負担が重い等級ほど、ケアの義務があるんだ。
等級Ⅲでフェロモン実験などを行った後は、中和剤の投与や休憩場所の確保などが義務付けられている」
「等級Ⅳの、第一種ケアって」
「これは実際に発情するまでの強い反応を許容する等級だから、
医療措置に加え、ケアタイムを設けて、接触安定を図ることになっている」
僕はその項目から目を離すことができなくなった。
――接触安定、それって……。
「セシル先生が触ってくれるということですか?」
「……まあそうなるかな。この実験は秘密裏に行われるからね。他のスタッフはいない」
腹の底から恐怖が湧き上がってくる。
それでも彼と秘密の契約をする、という特別感がそれを上回っていた。
僕は乾いた声で訊ねた。
「もし僕がⅣを選んだら……?」
一拍置いて、セシル先生は冷静な声で答えた。
「ⅢとⅣではフェロモンの量が段違いだよ。しかも実際に発情するまで行う」
そんなことを冷静に断言されるのは、怖い。
でも……。
「先生は、本当は僕がⅢじゃなくてⅣを選んで欲しいと思っているんじゃないんですか?」
「それは……」
セシル先生は珍しく息を呑んで黙り込んだ。
「……そうだね。正直に言うと……君のようなオメガに出会ったのは初めてなんだ。
最初に見た瞬間……よくある表現だが、本当に雷に打たれたようだった。
それは“天啓”だと、今では思っている。
それからずっと君のことが頭から離れなかった。
君が等級Ⅳで契約してくれたら……きっと夢みたいだ」
セシル先生の表情は明らかに動揺していた。
まるで、予算を遥かに超える玩具をクリスマスの時に買ってもらえる子供のように。
その理知的な瞳の奥はゆらりと燃えているようだった。
――セシル先生にプレゼントをあげられるのは、僕だけなんだ。
そして特別な〝契約〟をするのも。
恐怖と希望に声が震えた。
「僕は、Ⅳにします」
僕の囁くような声は、しんとした診察室に思いのほか響いた。
セシル先生の表情が、戸惑に歓喜と罪悪感が混ざったような、複雑なものに変わっていった。
喜んでくれるかと思っていたのに、なんだか破滅に怯える聖職者のように見える。
「……そうか、ありがとう」
セシル先生の声は掠れていた。ずっと話したことのない人が、やっと言葉を発したように。
「ここに君の署名を」
長い指で示された場所。公的に認められた契約書にサインする。そう思うと、胸の奥がざわめいた。
ペンを渡されて、指が触れ合う。セシル先生の指は――驚くほど熱かった。
古く茶色に変色した紙は独特の臭いを放っている。
粗雑な質の紙に鋭いペン先がひっかかって、カリカリと音を立てた。
そのたびに、セシル先生の体温が胸に刻まれて行くような気がした。
「実験の日が決まったら連絡するよ」
その声のあと、世界が一瞬だけ静止した。
頭のどこかで鐘が鳴っていた。
それが警鐘なのか、教会の鐘なのか――今の僕には判別することができなかった。
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境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
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