隠居したいのでいい加減、婚約破棄してくれませんか?

小梅りこ

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「……決まりましたわ。こうなったら、不貞です。不貞を働くしかありませんわ!」


翌朝、シビラは自室の豪華な天蓋付きベッドの上で、拳を握りしめて宣言した。


昨夜の「婚約解消白紙撤回事件」から一睡もせず、彼女が導き出した結論は、あまりにも極端だった。


「性格が悪い、いじめっ子、仕事中毒……。これらすべてが『有能さ』に変換されてしまうのなら、もはや弁解の余地のない、決定的なスキャンダルを叩きつけるしかありませんわ!」


王子の婚約者が、見知らぬ男と密会。これ以上の「捨てられ要素」があるだろうか。


いや、ない。


「地の果てまで追い落とされるようなスキャンダルを捏造し、今度こそ私は、このブラック王宮とおさらばするのです!」


シビラはすぐに行動を開始した。


彼女は裏社会に通じているという噂の「情報屋」に接触するため、夜の街へと繰り出した。


場所は、下町の隅っこにある、見るからに怪しげな酒場。


「……お前が、例の『客』か?」


酒場の隅で、深くフードを被った男が、低い声で尋ねてきた。


男からは、隠しきれない殺気と「仕事ができる男」特有のオーラが漂っている。


(いいわ……! この不審者感、最高ですわ!)


シビラは内心で快哉を叫びながら、男の向かいに座った。


「ええ。あなた、腕の良い『闇の仕事師』だと伺いましたわ。私と一緒に、スキャンダラスな写真を撮られてくださらない?」


「……は? 写真?」


「ええ、抱き合っているところや、耳元で愛を囁いているような、誤解を招く構図が望ましいですわ。報酬は望むままにお支払いします」


男――コードネーム『影』は、絶句した。


彼はこの国の諜報機関に所属する、アルフォンス殿下直属の密偵である。


最近、シビラが不穏な動きをしているという報告を受け、正体を隠して接触したのだが。


(この公爵令嬢……何を言っているんだ? 俺と不倫写真を撮りたいだと……?)


「……目的は何だ。俺を陥れて、王室を揺さぶるつもりか?」


「いいえ! 私自身が陥れたいだけですわ! さあ、早く! もっと際どい距離まで近づいてくださる?」


シビラが身を乗り出した、その時。


「――そこまでだ。シビラ」


酒場の扉が勢いよく開き、眩い光とともに騎士たちを引き連れたアルフォンスが現れた。


(きたっ……! 完璧なタイミングですわ殿下!)


シビラはわざとらしく、影の男の手を握りしめた。


「あら、殿下! 見ての通りですわ! 私、この方と愛し合っておりますの! 王妃になる身でありながら、あろうことかこんな下町の男と……! さあ、今すぐ私を軽蔑して、婚約を解消して……」


「シビラ、驚いたよ。まさか君が、ここまで僕のために動いてくれていたなんて」


「…………はい?」


アルフォンスは怒るどころか、感動に打ち震えるような目でシビラを見つめていた。


「殿下、話を聞いていらっしゃいます? 私は不倫を……」


「いいんだ、説明しなくても分かっている。彼は『影』。僕が最も信頼する密偵の一人だ。君は、彼が二重スパイになっていないか、自ら囮となってテストしてくれたんだろう?」


「……はい?」


影が、気まずそうにフードを脱いで、アルフォンスに膝を突いた。


「殿下、申し訳ございません。シビラ様に正体を見破られていたようです。私に『際どい距離』まで近づき、揺さぶりをかけることで、私の忠誠心を試されました」


(違う、違うのよ影さん! あなたの忠誠心なんて1ミリも興味ないわよ!)


シビラは目を見開いたまま固まった。


「流石だよシビラ。僕の密偵の腕を確かめるために、あえて自分の名誉を傷つけるような芝居を打つなんて……。君の愛の深さに、僕はまた救われてしまった」


「……殿下、それ、本気でおっしゃっていますの?」


「ああ、本気だとも。おかげで『影』の訓練不足も露呈した。シビラ、明日から彼の再教育も君に任せたい」


「仕事が増えただけですわーーー!!!」


シビラの絶叫が、下町の酒場に虚しく響き渡った。


不貞を装うはずが、「優秀すぎる査察官」として評価されてしまう。


シビラの隠居への道のりは、またしても「有能」という名の壁に阻まれたのであった。
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