隠居したいのでいい加減、婚約破棄してくれませんか?

小梅りこ

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「……ふふ、ふふふ。時刻は午前二時。これぞ、非業の悪役令嬢にふさわしい、不摂生な時間帯ですわ!」


深夜の公爵令嬢執務室。シビラはボサボサになった髪を振り乱し、山積みの書類に囲まれて不敵な笑みを漏らした。


今回の作戦は「家事能力および女性的魅力の完全放棄」である。


(いいわ、順調ですわよ! 今の私は、目の下にクマを作り、ドレスもシワだらけ。淑女の嗜みなんて、インクの染みと一緒にゴミ箱へ捨ててやりましたわ!)


王妃になる者は、常に美しく、そして家庭的な安らぎを夫に与えなければならない。


しかし、今のシビラはどうだ。深夜まで目を血走らせて予算案を睨みつける、ただの「労働の鬼」である。


「これを見れば、流石の殿下も『君、少しは家庭に入って、僕のために刺繍でもしたらどうだい?』と呆れるはず! そこで私は言うのですわ。『刺繍? そんな生産性のないことに割く時間はございません!』と!」


冷め切った紅茶。散乱したペン先。


これぞ、癒やしとは程遠い、ブラック企業の残業風景そのもの。


その時、執務室の重厚な扉が、音もなくゆっくりと開いた。


「――まだ起きていたのか、シビラ」


アルフォンス殿下だ。彼は寝間着の上にガウンを羽織っただけの、非常に無防備で色気のある姿で立っていた。


(きたっ……! さあ、私のこの無様な姿を見て、幻滅なさいまし!)


シビラはわざとらしく、大きくあくびをして、ペンを放り出した。


「あら、殿下。見ての通り、私は仕事が恋人なんですの。あなたの入る隙間なんて、この一ミリも空いていない書類の隙間くらいしかございませんわよ。王妃としての安らぎ? そんなもの、期待しないでくださいましね!」


シビラは勝ち誇った顔で王子を見上げた。


しかし、アルフォンスは眉をひそめるどころか、痛ましげな表情でシビラに歩み寄った。


「……ひどい顔だ、シビラ」


「そうですわ、ひどいでしょう!? これこそ、仕事に憑りつかれた女の末路……」


「そこまでして、僕を……この国を支えようとしてくれているんだね」


「…………はい?」


アルフォンスはシビラの背後に回ると、その細い肩を大きな手で包み込んだ。


「君が無理をしているのは分かっていた。僕を助けるために、自分の身を削ってまで書類を片付けてくれている。その献身……言葉では言い表せないほど、愛おしいよ」


「違いますわ! 私はただ、早く終わらせて……いや、自堕落になろうと……!」


「いいんだ。君はいつもそうやって、自分の善行を隠そうとする。でも、僕の目は誤魔化せないよ。ほら、君のために特注の夜食を持ってきた」


アルフォンスが手を叩くと、ワゴンを引いたカイルが入ってきた。


そこには、シビラの好物である温かいスープと、とろけるようなフォアグラのムース、そして焼きたてのパンが並んでいた。


「……な、なんですか、これ。私は不摂生をするために起きていたのですわよ!?」


「栄養バランスは完璧だよ。さあ、僕が食べさせてあげよう。シビラ、あーん」


「殿下!? 正気に戻ってください! あなたは王子で、私はその……薄汚れた残業令嬢ですわよ!」


「僕にとっては、国のために戦う最高の戦士に見えるよ。ほら、あーん」


シビラの口元に、銀のスプーンが差し出される。


抗おうとしたシビラだったが、あまりにも美味しそうな香りに、胃袋が裏切りの声を上げた。


「……っ。……はむ」


「いい子だ。美味しいかい?」


「……美味しいですわ。悔しいけれど、涙が出るほど美味しいですわ」


シビラは悔し涙を流しながら、王子の手による「あーん」を受け入れた。


「シビラ。君は家事なんてできなくていい。刺繍も、料理も、すべて専門の者にやらせればいいんだ。君のその有能な頭脳と、僕を想う情熱さえあれば、それだけで十分だ」


「だから、想ってなど……!」


「ああ、分かっているよ。照れ隠しだね。……少し、眠ってしまったらどうだい?」


アルフォンスはシビラの頭を、自分の肩にそっと寄せた。


王子の温もりと、美味しいスープで満たされた胃袋が、シビラの警戒心を急速に溶かしていく。


(ダメだわ……。これではただの、『深夜の密室で愛を深めるバカップル』ではありませんか……!)


「シビラ、おやすみ。明日の朝の会議は僕が代わりに出ておくよ。君はゆっくり昼まで寝ているといい」


「殿下……それ、隠居の予行演習ですか……?」


「ふふ、まあそんなところだね」


シビラは意識が遠のく中、確信した。


自分がどんなに「可愛げのない女」を演じようとしても、この王子はそれを「愛」というフィルターで超速変換してしまう。


深夜の執務室での攻防は、シビラの完全敗北、そして「共寝(居眠り)」という最悪(最高)の結果に終わったのである。


翌朝、アルフォンスの肩で爆睡するシビラの姿を、リュミエールが「ああ、尊い……!」と言いながらスケッチしていたのは、また別の話である。
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