10 / 26
10
しおりを挟む
「……ふふ、ふふふ。時刻は午前二時。これぞ、非業の悪役令嬢にふさわしい、不摂生な時間帯ですわ!」
深夜の公爵令嬢執務室。シビラはボサボサになった髪を振り乱し、山積みの書類に囲まれて不敵な笑みを漏らした。
今回の作戦は「家事能力および女性的魅力の完全放棄」である。
(いいわ、順調ですわよ! 今の私は、目の下にクマを作り、ドレスもシワだらけ。淑女の嗜みなんて、インクの染みと一緒にゴミ箱へ捨ててやりましたわ!)
王妃になる者は、常に美しく、そして家庭的な安らぎを夫に与えなければならない。
しかし、今のシビラはどうだ。深夜まで目を血走らせて予算案を睨みつける、ただの「労働の鬼」である。
「これを見れば、流石の殿下も『君、少しは家庭に入って、僕のために刺繍でもしたらどうだい?』と呆れるはず! そこで私は言うのですわ。『刺繍? そんな生産性のないことに割く時間はございません!』と!」
冷め切った紅茶。散乱したペン先。
これぞ、癒やしとは程遠い、ブラック企業の残業風景そのもの。
その時、執務室の重厚な扉が、音もなくゆっくりと開いた。
「――まだ起きていたのか、シビラ」
アルフォンス殿下だ。彼は寝間着の上にガウンを羽織っただけの、非常に無防備で色気のある姿で立っていた。
(きたっ……! さあ、私のこの無様な姿を見て、幻滅なさいまし!)
シビラはわざとらしく、大きくあくびをして、ペンを放り出した。
「あら、殿下。見ての通り、私は仕事が恋人なんですの。あなたの入る隙間なんて、この一ミリも空いていない書類の隙間くらいしかございませんわよ。王妃としての安らぎ? そんなもの、期待しないでくださいましね!」
シビラは勝ち誇った顔で王子を見上げた。
しかし、アルフォンスは眉をひそめるどころか、痛ましげな表情でシビラに歩み寄った。
「……ひどい顔だ、シビラ」
「そうですわ、ひどいでしょう!? これこそ、仕事に憑りつかれた女の末路……」
「そこまでして、僕を……この国を支えようとしてくれているんだね」
「…………はい?」
アルフォンスはシビラの背後に回ると、その細い肩を大きな手で包み込んだ。
「君が無理をしているのは分かっていた。僕を助けるために、自分の身を削ってまで書類を片付けてくれている。その献身……言葉では言い表せないほど、愛おしいよ」
「違いますわ! 私はただ、早く終わらせて……いや、自堕落になろうと……!」
「いいんだ。君はいつもそうやって、自分の善行を隠そうとする。でも、僕の目は誤魔化せないよ。ほら、君のために特注の夜食を持ってきた」
アルフォンスが手を叩くと、ワゴンを引いたカイルが入ってきた。
そこには、シビラの好物である温かいスープと、とろけるようなフォアグラのムース、そして焼きたてのパンが並んでいた。
「……な、なんですか、これ。私は不摂生をするために起きていたのですわよ!?」
「栄養バランスは完璧だよ。さあ、僕が食べさせてあげよう。シビラ、あーん」
「殿下!? 正気に戻ってください! あなたは王子で、私はその……薄汚れた残業令嬢ですわよ!」
「僕にとっては、国のために戦う最高の戦士に見えるよ。ほら、あーん」
シビラの口元に、銀のスプーンが差し出される。
抗おうとしたシビラだったが、あまりにも美味しそうな香りに、胃袋が裏切りの声を上げた。
「……っ。……はむ」
「いい子だ。美味しいかい?」
「……美味しいですわ。悔しいけれど、涙が出るほど美味しいですわ」
シビラは悔し涙を流しながら、王子の手による「あーん」を受け入れた。
「シビラ。君は家事なんてできなくていい。刺繍も、料理も、すべて専門の者にやらせればいいんだ。君のその有能な頭脳と、僕を想う情熱さえあれば、それだけで十分だ」
「だから、想ってなど……!」
「ああ、分かっているよ。照れ隠しだね。……少し、眠ってしまったらどうだい?」
アルフォンスはシビラの頭を、自分の肩にそっと寄せた。
王子の温もりと、美味しいスープで満たされた胃袋が、シビラの警戒心を急速に溶かしていく。
(ダメだわ……。これではただの、『深夜の密室で愛を深めるバカップル』ではありませんか……!)
「シビラ、おやすみ。明日の朝の会議は僕が代わりに出ておくよ。君はゆっくり昼まで寝ているといい」
「殿下……それ、隠居の予行演習ですか……?」
「ふふ、まあそんなところだね」
シビラは意識が遠のく中、確信した。
自分がどんなに「可愛げのない女」を演じようとしても、この王子はそれを「愛」というフィルターで超速変換してしまう。
深夜の執務室での攻防は、シビラの完全敗北、そして「共寝(居眠り)」という最悪(最高)の結果に終わったのである。
翌朝、アルフォンスの肩で爆睡するシビラの姿を、リュミエールが「ああ、尊い……!」と言いながらスケッチしていたのは、また別の話である。
深夜の公爵令嬢執務室。シビラはボサボサになった髪を振り乱し、山積みの書類に囲まれて不敵な笑みを漏らした。
今回の作戦は「家事能力および女性的魅力の完全放棄」である。
(いいわ、順調ですわよ! 今の私は、目の下にクマを作り、ドレスもシワだらけ。淑女の嗜みなんて、インクの染みと一緒にゴミ箱へ捨ててやりましたわ!)
王妃になる者は、常に美しく、そして家庭的な安らぎを夫に与えなければならない。
しかし、今のシビラはどうだ。深夜まで目を血走らせて予算案を睨みつける、ただの「労働の鬼」である。
「これを見れば、流石の殿下も『君、少しは家庭に入って、僕のために刺繍でもしたらどうだい?』と呆れるはず! そこで私は言うのですわ。『刺繍? そんな生産性のないことに割く時間はございません!』と!」
冷め切った紅茶。散乱したペン先。
これぞ、癒やしとは程遠い、ブラック企業の残業風景そのもの。
その時、執務室の重厚な扉が、音もなくゆっくりと開いた。
「――まだ起きていたのか、シビラ」
アルフォンス殿下だ。彼は寝間着の上にガウンを羽織っただけの、非常に無防備で色気のある姿で立っていた。
(きたっ……! さあ、私のこの無様な姿を見て、幻滅なさいまし!)
シビラはわざとらしく、大きくあくびをして、ペンを放り出した。
「あら、殿下。見ての通り、私は仕事が恋人なんですの。あなたの入る隙間なんて、この一ミリも空いていない書類の隙間くらいしかございませんわよ。王妃としての安らぎ? そんなもの、期待しないでくださいましね!」
シビラは勝ち誇った顔で王子を見上げた。
しかし、アルフォンスは眉をひそめるどころか、痛ましげな表情でシビラに歩み寄った。
「……ひどい顔だ、シビラ」
「そうですわ、ひどいでしょう!? これこそ、仕事に憑りつかれた女の末路……」
「そこまでして、僕を……この国を支えようとしてくれているんだね」
「…………はい?」
アルフォンスはシビラの背後に回ると、その細い肩を大きな手で包み込んだ。
「君が無理をしているのは分かっていた。僕を助けるために、自分の身を削ってまで書類を片付けてくれている。その献身……言葉では言い表せないほど、愛おしいよ」
「違いますわ! 私はただ、早く終わらせて……いや、自堕落になろうと……!」
「いいんだ。君はいつもそうやって、自分の善行を隠そうとする。でも、僕の目は誤魔化せないよ。ほら、君のために特注の夜食を持ってきた」
アルフォンスが手を叩くと、ワゴンを引いたカイルが入ってきた。
そこには、シビラの好物である温かいスープと、とろけるようなフォアグラのムース、そして焼きたてのパンが並んでいた。
「……な、なんですか、これ。私は不摂生をするために起きていたのですわよ!?」
「栄養バランスは完璧だよ。さあ、僕が食べさせてあげよう。シビラ、あーん」
「殿下!? 正気に戻ってください! あなたは王子で、私はその……薄汚れた残業令嬢ですわよ!」
「僕にとっては、国のために戦う最高の戦士に見えるよ。ほら、あーん」
シビラの口元に、銀のスプーンが差し出される。
抗おうとしたシビラだったが、あまりにも美味しそうな香りに、胃袋が裏切りの声を上げた。
「……っ。……はむ」
「いい子だ。美味しいかい?」
「……美味しいですわ。悔しいけれど、涙が出るほど美味しいですわ」
シビラは悔し涙を流しながら、王子の手による「あーん」を受け入れた。
「シビラ。君は家事なんてできなくていい。刺繍も、料理も、すべて専門の者にやらせればいいんだ。君のその有能な頭脳と、僕を想う情熱さえあれば、それだけで十分だ」
「だから、想ってなど……!」
「ああ、分かっているよ。照れ隠しだね。……少し、眠ってしまったらどうだい?」
アルフォンスはシビラの頭を、自分の肩にそっと寄せた。
王子の温もりと、美味しいスープで満たされた胃袋が、シビラの警戒心を急速に溶かしていく。
(ダメだわ……。これではただの、『深夜の密室で愛を深めるバカップル』ではありませんか……!)
「シビラ、おやすみ。明日の朝の会議は僕が代わりに出ておくよ。君はゆっくり昼まで寝ているといい」
「殿下……それ、隠居の予行演習ですか……?」
「ふふ、まあそんなところだね」
シビラは意識が遠のく中、確信した。
自分がどんなに「可愛げのない女」を演じようとしても、この王子はそれを「愛」というフィルターで超速変換してしまう。
深夜の執務室での攻防は、シビラの完全敗北、そして「共寝(居眠り)」という最悪(最高)の結果に終わったのである。
翌朝、アルフォンスの肩で爆睡するシビラの姿を、リュミエールが「ああ、尊い……!」と言いながらスケッチしていたのは、また別の話である。
0
あなたにおすすめの小説
お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
旦那様には愛人がいますが気にしません。
りつ
恋愛
イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。
※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。
【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
白い結婚三年目。つまり離縁できるまで、あと七日ですわ旦那様。
あさぎかな@コミカライズ決定
恋愛
異世界に転生したフランカは公爵夫人として暮らしてきたが、前世から叶えたい夢があった。パティシエールになる。その夢を叶えようと夫である王国財務総括大臣ドミニクに相談するも答えはノー。夫婦らしい交流も、信頼もない中、三年の月日が近づき──フランカは賭に出る。白い結婚三年目で離縁できる条件を満たしていると迫り、夢を叶えられないのなら離縁すると宣言。そこから公爵家一同でフランカに考え直すように動き、ドミニクと話し合いの機会を得るのだがこの夫、山のように隠し事はあった。
無言で睨む夫だが、心の中は──。
【詰んだああああああああああ! もうチェックメイトじゃないか!? 情状酌量の余地はないと!? ああ、どうにかして侍女の準備を阻まなければ! いやそれでは根本的な解決にならない! だいたいなぜ後妻? そんな者はいないのに……。ど、どどどどどうしよう。いなくなるって聞いただけで悲しい。死にたい……うう】
4万文字ぐらいの中編になります。
※小説なろう、エブリスタに記載してます
貴方が側妃を望んだのです
cyaru
恋愛
「君はそれでいいのか」王太子ハロルドは言った。
「えぇ。勿論ですわ」婚約者の公爵令嬢フランセアは答えた。
誠の愛に気がついたと言われたフランセアは微笑んで答えた。
※2022年6月12日。一部書き足しました。
※架空のお話です。現実世界の話ではありません。
史実などに基づいたものではない事をご理解ください。
※話の都合上、残酷な描写がありますがそれがざまぁなのかは受け取り方は人それぞれです。
表現的にどうかと思う回は冒頭に注意喚起を書き込むようにしますが有無は作者の判断です。
※更新していくうえでタグは幾つか増えます。
※作者都合のご都合主義です。
※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。
※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります)
※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろう、ベリーズカフェにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
婚約者が妹と結婚したいと言ってきたので、私は身を引こうと決めました
日下奈緒
恋愛
アーリンは皇太子・クリフと婚約をし幸せな生活をしていた。
だがある日、クリフが妹のセシリーと結婚したいと言ってきた。
もしかして、婚約破棄⁉
幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係
紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。
顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。
※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる