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「……シビラ。そのペンを置きなさい。今日はもう、一文字も書くことは許さないよ」
翌朝。シビラが執務室で「冷酷な仕事人間」を演じるべく、鬼の形相で書類に向かっていた時のことだ。
背後から聞こえてきたのは、いつもの「仕事の相談」を装った声ではなかった。
低く、甘く、そして抗いがたい響きを持った――男としての、アルフォンス殿下の声。
「何を……何を言っていますの、殿下。私は今、非常に重要な関税の見直し案を……。これを終わらせないと、私は満足に隠居……いえ、満足に悪巧みもできませんわ!」
シビラは必死にペンを動かそうとした。しかし、その手首を大きな手が優しく、だが力強く掴み取った。
「ダメだ。今の君の瞳には、数字と法律の条文しか映っていない。僕を見て、シビラ」
(嫌ですわ! 今の殿下は、顔面の偏差値が暴力的なまでに上がっていますもの!)
シビラは頑なに視線を逸らした。
ここで彼の瞳を見てしまったら、最後。これまで築き上げてきた「冷徹な令嬢」という鉄の壁が、溶けてなくなってしまう予感がしたからだ。
「殿下……。離してくださいまし。私はあなたに尽くす便利な道具ではなく、あなたの地位を脅かすかもしれない毒婦……」
「毒? ああ、そうだね。君は僕を狂わせる猛毒だ。おかげで、仕事をしていても君のことばかり考えてしまう」
アルフォンスはそのままシビラを椅子ごと回転させ、自分の方を向かせた。
そして、デスクに両手をつき、シビラを閉じ込めるように身を乗り出した。
(こ、これは……巷で噂の『壁ドン』……ならぬ『机ドン』!?)
「シビラ。君は昨日、社交界で『ツンデレ聖女』などと呼ばれているそうじゃないか。だが、僕は不満なんだ。君が僕以外の人間に、その『ツン』も『デレ』も見せていることがね」
「……誰も見せておりませんわ! あれはただの誤解ですの!」
「なら、証明してほしい。今からこの部屋を出て、二人きりで庭園を散歩しよう。仕事の話は禁止だ。もし仕事の単語を口にしたら、そのたびに……口づけの刑に処す」
「…………はい?」
シビラは目を見開いた。
この男、本気だ。仕事仲間としての仮面を脱ぎ捨て、一人の女を口説き落とそうとする男の目をしている。
「殿下、あなたは第一王子ですわよ!? こんな真っ昼間から、婚約者とイチャついて時間を無駄にするなんて、国民が許しませんわ!」
「いいや、許される。なぜなら、リュミエール嬢が『シビラ様の愛を育む時間を守るためなら、私が寝ずに働きます!』と、気合十分に全書類を引き受けてくれたからね」
「リュミエール様ああああ!! 余計なことを!!」
シビラは心の中で叫んだ。
彼女が育てた天才少女は、今や王子の「恋の協力者」という最強のジョーカーになっていた。
「さあ、行こうか。シビラ。君のその固まった心を、僕が一日かけて溶かしてあげるよ」
アルフォンスはシビラを無理やり(だが丁寧に)立ち上がらせると、その腰を抱き寄せて歩き出した。
庭園に出ると、そこには豪華なピクニックのセットが用意されていた。
「……なんですの、このバラの海は」
「君に似合うと思って、今朝、全土から取り寄せさせたんだ。さあ、座って。今日は僕が君に給仕をするよ」
アルフォンスはシビラをエスコートし、甲斐甲斐しくフルーツを剥き、お茶を淹れた。
その動き一つ一つが洗練されており、シビラは毒気を抜かれていくのを自覚した。
「……殿下。こんなことをしても、私は王妃の座なんて……」
「まだそんなことを言っているのかい? 僕は君が王妃だろうが、隠居した令嬢だろうが構わないんだ。ただ、僕の隣に君がいない未来が、想像できないだけなんだよ」
アルフォンスは、剥いたばかりのイチゴをシビラの口元へ運んだ。
「ほら、あーん。……あ、今『関税』って言いそうになったね? 刑を執行してもいいかな?」
「……っ! 言ってませんわ! 今のは吐息ですわよ!」
シビラは慌ててイチゴを口に含んだ。
甘酸っぱい果実の味が広がるが、それ以上にアルフォンスの視線が甘すぎて、胃もたれしそうだった。
(……悔しい。悔しいですわ。有能な王子の『本気の甘やかし』が、これほどまでに破壊力抜群だなんて……!)
「シビラ。君がどれだけ『悪』を気取っても、僕が君を愛している事実は変わらない。……君も、そろそろ諦めて、僕に溺れてみないかい?」
アルフォンスの手が、シビラの髪を愛おしげに梳く。
シビラは真っ赤になって俯いた。
これまでは「仕事」という共通言語があったから対等に戦えていた。しかし、「恋愛」というフィールドに引きずり出された途端、彼女はただの経験不足な令嬢に成り下がってしまう。
「……ずるいですわ、殿下。そんな顔で見つめられたら、どんな書類も……いえ、どんな言葉も出てきませんわ……」
「ふふ、ようやく素直になったね」
シビラの隠居への情熱は、王子のあまりにも過剰で本気な「愛」によって、じわじわと、だが確実に、骨抜きにされていくのであった。
翌朝。シビラが執務室で「冷酷な仕事人間」を演じるべく、鬼の形相で書類に向かっていた時のことだ。
背後から聞こえてきたのは、いつもの「仕事の相談」を装った声ではなかった。
低く、甘く、そして抗いがたい響きを持った――男としての、アルフォンス殿下の声。
「何を……何を言っていますの、殿下。私は今、非常に重要な関税の見直し案を……。これを終わらせないと、私は満足に隠居……いえ、満足に悪巧みもできませんわ!」
シビラは必死にペンを動かそうとした。しかし、その手首を大きな手が優しく、だが力強く掴み取った。
「ダメだ。今の君の瞳には、数字と法律の条文しか映っていない。僕を見て、シビラ」
(嫌ですわ! 今の殿下は、顔面の偏差値が暴力的なまでに上がっていますもの!)
シビラは頑なに視線を逸らした。
ここで彼の瞳を見てしまったら、最後。これまで築き上げてきた「冷徹な令嬢」という鉄の壁が、溶けてなくなってしまう予感がしたからだ。
「殿下……。離してくださいまし。私はあなたに尽くす便利な道具ではなく、あなたの地位を脅かすかもしれない毒婦……」
「毒? ああ、そうだね。君は僕を狂わせる猛毒だ。おかげで、仕事をしていても君のことばかり考えてしまう」
アルフォンスはそのままシビラを椅子ごと回転させ、自分の方を向かせた。
そして、デスクに両手をつき、シビラを閉じ込めるように身を乗り出した。
(こ、これは……巷で噂の『壁ドン』……ならぬ『机ドン』!?)
「シビラ。君は昨日、社交界で『ツンデレ聖女』などと呼ばれているそうじゃないか。だが、僕は不満なんだ。君が僕以外の人間に、その『ツン』も『デレ』も見せていることがね」
「……誰も見せておりませんわ! あれはただの誤解ですの!」
「なら、証明してほしい。今からこの部屋を出て、二人きりで庭園を散歩しよう。仕事の話は禁止だ。もし仕事の単語を口にしたら、そのたびに……口づけの刑に処す」
「…………はい?」
シビラは目を見開いた。
この男、本気だ。仕事仲間としての仮面を脱ぎ捨て、一人の女を口説き落とそうとする男の目をしている。
「殿下、あなたは第一王子ですわよ!? こんな真っ昼間から、婚約者とイチャついて時間を無駄にするなんて、国民が許しませんわ!」
「いいや、許される。なぜなら、リュミエール嬢が『シビラ様の愛を育む時間を守るためなら、私が寝ずに働きます!』と、気合十分に全書類を引き受けてくれたからね」
「リュミエール様ああああ!! 余計なことを!!」
シビラは心の中で叫んだ。
彼女が育てた天才少女は、今や王子の「恋の協力者」という最強のジョーカーになっていた。
「さあ、行こうか。シビラ。君のその固まった心を、僕が一日かけて溶かしてあげるよ」
アルフォンスはシビラを無理やり(だが丁寧に)立ち上がらせると、その腰を抱き寄せて歩き出した。
庭園に出ると、そこには豪華なピクニックのセットが用意されていた。
「……なんですの、このバラの海は」
「君に似合うと思って、今朝、全土から取り寄せさせたんだ。さあ、座って。今日は僕が君に給仕をするよ」
アルフォンスはシビラをエスコートし、甲斐甲斐しくフルーツを剥き、お茶を淹れた。
その動き一つ一つが洗練されており、シビラは毒気を抜かれていくのを自覚した。
「……殿下。こんなことをしても、私は王妃の座なんて……」
「まだそんなことを言っているのかい? 僕は君が王妃だろうが、隠居した令嬢だろうが構わないんだ。ただ、僕の隣に君がいない未来が、想像できないだけなんだよ」
アルフォンスは、剥いたばかりのイチゴをシビラの口元へ運んだ。
「ほら、あーん。……あ、今『関税』って言いそうになったね? 刑を執行してもいいかな?」
「……っ! 言ってませんわ! 今のは吐息ですわよ!」
シビラは慌ててイチゴを口に含んだ。
甘酸っぱい果実の味が広がるが、それ以上にアルフォンスの視線が甘すぎて、胃もたれしそうだった。
(……悔しい。悔しいですわ。有能な王子の『本気の甘やかし』が、これほどまでに破壊力抜群だなんて……!)
「シビラ。君がどれだけ『悪』を気取っても、僕が君を愛している事実は変わらない。……君も、そろそろ諦めて、僕に溺れてみないかい?」
アルフォンスの手が、シビラの髪を愛おしげに梳く。
シビラは真っ赤になって俯いた。
これまでは「仕事」という共通言語があったから対等に戦えていた。しかし、「恋愛」というフィールドに引きずり出された途端、彼女はただの経験不足な令嬢に成り下がってしまう。
「……ずるいですわ、殿下。そんな顔で見つめられたら、どんな書類も……いえ、どんな言葉も出てきませんわ……」
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