隠居したいのでいい加減、婚約破棄してくれませんか?

小梅りこ

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「……あ、あら? 視界が、二重……いえ、三重に見えますわ。世界が、回っておりますの?」


ある朝。シビラは執務室のデスクに突っ伏したまま、ぼんやりと呟いた。


連日の「愛の共同残業」に、他国王子の引き抜き工作への対応、さらには隠居資金を稼ぐための裏商会の運営。


流石の「鉄の女」シビラも、ついにその限界を超えてしまったらしい。


(これは……もしや、チャンス……!? か弱き令嬢として倒れ込み、そのまま数ヶ月、いや数年間の静養という名の隠居へ……!)


シビラは薄れゆく意識の中で、勝利の確信とともに、ゆっくりと目を閉じた。


ガタン、と椅子が倒れる大きな音が部屋に響く。


「シビラ!? どうした、シビラ!」


アルフォンスの声が遠くで聞こえた。シビラは、彼が自分を抱き上げる感触を心地よく感じながら、深い眠りへと落ちていった。


……数時間後。


「……ふふ、ふふふ。ここ、は……天国、かしら?」


シビラが目を覚ますと、そこは自身の寝室だった。


遮光カーテンが引かれ、心地よいアロマの香りが漂っている。


「目が覚めたかい、シビラ。……いや、今は喋らなくていい」


枕元に座っていたのは、アルフォンスだった。彼は濡れたタオルをシビラの額に乗せると、いつになく真剣な、そして今にも泣き出しそうな表情で彼女を見つめていた。


「殿下……。私は、もうダメですわ。体が鉛のように重く、書類の文字を見ると吐き気が……。これは、不治の病に違いありませんわ。今すぐ、北の果ての静かな離宮へ送ってくださらない……?」


シビラは弱々しく、消え入りそうな声で訴えた。


さあ、これで私の「有能な前線離脱」は確定。あとは数年寝て過ごすだけ。


しかし、アルフォンスは彼女の細い手を強く握り締めた。


「不治の病なものか! ただの過労だ。……すまない、シビラ。僕が君に甘えすぎたせいだ。君がいなければ、国が回らないなんて……僕は王子として失格だ!」


「ええ、そうですわ殿下。あなたが無能な分、私が……」


「だが、安心してくれ。君が倒れたことで、王宮は今、かつてないパニックに陥っているよ」


「……パニック?」


「ああ。君の承認印がないせいで、建国祭の予算は凍結。帝国の外交官への返信は保留。さらには、リュミエール嬢が『シビラ様がいない世界に価値はありません!』と叫んで、執務室に立てこもってしまった」


(ちょっと待ちなさい。私の不在、影響力が強すぎませんこと!?)


シビラは寝込んでいる場合ではないと、必死に身を起こそうとした。


「いけませんわ、リュミエール様を止めないと……!」


「ダメだ。君は寝ていなきゃいけない。……ほら、僕が君のために薬膳粥を作ってきたんだ。食べてくれるね?」


アルフォンスが差し出したのは、銀の器に入った、見るからに「滋養強壮に効きそう(だが色が不気味)」な粥だった。


「……殿下。あなたが、お料理を?」


「カイルに教わりながら、三回ほど火事になりかけたが……これが四回目の成功作だ。君の健康を取り戻すためなら、僕は王位を捨ててでも料理修行に出る覚悟だよ」


「捨てないでくださいまし! そんな重たい粥、喉を通りませんわ!」


アルフォンスはシビラの拒絶を「恥じらい」と変換したのか、スプーンで粥をフーフーと冷まし始めた。


「ほら、あーん。シビラ。これを食べれば、明日には元気になる。そして元気になったら、二人で溜まった書類を片付けよう。……おっと、新婚旅行の下見も兼ねてね」


(看病という名の拘束……! 結局、逃げ場がないではありませんか!)


そこへ、ドアを乱暴に叩く音が響いた。


「シビラ様ぁぁぁ!! 私、分かりました! シビラ様が倒れたのは、私が未熟だからです! 私がもっと有能になれば、シビラ様は安心して眠れるのですね!? 今すぐ、隣の部屋で徹夜して、全ての未決済案件を片付けて参ります!」


リュミエールの絶叫が響き渡る。


(……やめて。お願いだから、私のいない間に国を完璧に整えないで。私の居場所がなくなってもいいから、静かに隠居させて!)


シビラの「病弱な令嬢作戦」は、王子の度を超えた献身と、ヒロインの暴走気味な責任感によって、かえって「彼女がいなければならない理由」を再確認させる結果となってしまった。


「……殿下。粥、いただきますわ。だから、その……泣きそうな顔をするのは、おやめなさいまし」


「シビラ……! ああ、君は本当に、病床にあっても僕の心を救ってくれるんだね!」


「……ただの、同情ですわよ……っ!」


シビラは、王子の手による「熱すぎる」看病を受けながら、早く風邪を治して、再び戦場(職場)に戻らなければならないという絶望に打ち震えるのであった。
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