隠居したいのでいい加減、婚約破棄してくれませんか?

小梅りこ

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「……ふふ、ふふふ。静かですわ。あまりにも静かですわ、この王宮は」


シビラは寝台の上で、羽根布団を首元まで引き上げて満足げに微笑んだ。


風邪を引いてから三日。王子の執拗な看病(と不気味な薬膳粥)を潜り抜け、シビラはようやく「平穏」を手に入れた……はずだった。


(私がいないのですもの。今頃、執務室は書類のナイアガラ。アルフォンス殿下は悲鳴を上げ、リュミエール様は泣きべそをかきながら私の名を呼んでいるに違いありませんわ!)


その「無能な王子と絶望するヒロイン」という構図こそ、シビラが夢見た隠居への第一歩。


「シビラがいなければ国が滅ぶ」という事実は、裏を返せば「シビラがいない方がヒロインが成長できる」という理屈にすり替えられるはずだ。


「……さあ、そろそろ、絶望した殿下が『もう僕には無理だ! 君がいないとダメなんだ!』と泣きついてくる頃かしら?」


しかし、扉の外から聞こえてきたのは、悲鳴ではなく――軍隊のような規則正しい足音と、鋭い指示の声だった。


「――次! 第三艦隊の予算承認案、三秒で要約しなさい! 帝国からの抗議文は『遺憾である』のテンプレで即レス! 休んでいる暇なんてありませんわよ!」


(……えっ? 今の声、リュミエール様?)


扉が勢いよく開き、一人の少女が飛び込んできた。


そこには、シビラの知っている「おどおどした没落令嬢」の姿はなかった。


髪を一本のひもで縛り上げ、袖をまくり、目には狂気じみた輝きを宿した――「超効率化の鬼」と化したリュミエールが立っていた。


「シビラ様! 朗報です! シビラ様が寝込んでいる三日間で、私は全省庁の未決済案件、計四千件をすべて完遂いたしました!」


「……よ、四千件? 三日で?」


「はい! シビラ様が以前おっしゃった『感情を殺せば速度は上がる』というお言葉……身に染みましたわ! 私、ついに覚醒しましたの!」


リュミエールは、山のような受領印が押された書類をシビラのベッドに叩きつけた。


「見てください! この無駄のない処理! シビラ様の思考をトレースし、さらに殿下のワガママを三割カットして反映させました! 今の私は、シビラ様の完璧な代行者……いいえ、『シビラ様専用自動事務処理マシン』ですわ!」


「……代行者? 事務処理マシン?」


シビラは戦慄した。自分が育てた天才少女が、休養という名の不在によって、取り返しのつかない方向へ進化を遂げていた。


「リュミエール嬢、あまりシビラを驚かせないであげてくれ。彼女はまだ病上がりなんだ」


そこへ、アルフォンス殿下が満足げな表情で現れた。


「殿下……。これは一体、どういう状況ですの?」


「素晴らしいよ、シビラ。君の不在というピンチが、リュミエール嬢の中に眠っていた『悪魔的な有能さ』を引き出したんだ。おかげで僕も、今日は午後の公務をすべてキャンセルして、君とゆっくり過ごせるようになった」


「…………はい?」


「彼女が言うには、『シビラ様に安眠を届けるためなら、私は国の半分を三日でリフォームしてみせます』だそうだ。心強いね」


アルフォンスは、リュミエールの肩を叩いて賞賛した。


(ダメですわ! 有能な後釜ができたのは嬉しいけれど、これじゃあ殿下が完全に『暇』になってしまうではありませんか!)


シビラの計画では、リュミエールと殿下が二人で必死に働いている間に、自分がフェードアウトするはずだった。


だが現実は、リュミエールが一人で二人分の仕事を片付け、浮いた時間で殿下がシビラを愛でに来るという、最悪のループが完成していた。


「シビラ様! 安心して養生してください! 明日には、隣国との国境問題も私が『論理』という名の物理で解決して参りますから!」


「待ちなさい! リュミエール様、あなたはもう少し、こう……おしとやかなヒロインらしく……!」


「ヒロイン? そんな生産性の低い役職、私には必要ありません! 私は、シビラ様の右腕(最強)になりたいのです!」


リュミエールは、ペンを剣のように掲げて、執務室へと戻っていった。


「……シビラ。さあ、邪魔者は消えた。今日は一日、僕が君に『愛の報告書』を読み聞かせてあげよう」


「そんな報告書、受理いたしませんわ!!」


シビラの隠居計画は、自分が生み出した「有能な怪物」の暴走によって、さらに逃げ道のない甘い監獄へと変貌していくのであった。
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