隠居したいのでいい加減、婚約破棄してくれませんか?

小梅りこ

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「……今ですわ。今こそ、私の長年の悲願を成就させる時が来ましたわ!」


深夜二時。王宮の静寂を縫って、シビラは黒いマントを羽織り、執務室の窓から外を伺った。


現在の王宮は、かつてないほど「平和」だった。


覚醒したリュミエールが、向こう一年分の重要案件を爆速で仕分けし、アルフォンス殿下が「シビラがゆっくり寝られるように」と全近衛兵に徹底した静粛を命じたからだ。


皮肉なことに、シビラが必死に作り上げた「有能な組織」が、彼女自身が逃げ出すための最高の隙を作り出していた。


(ふふ、ふふふ。リュミエール様は今頃、夢の中で数字と踊っているはず。殿下も看病疲れで爆睡中。……さあ、あばよブラック王宮! 私は自由な鳥になるのですわ!)


シビラは、ベッドの下に隠していた「隠居スターターセット(偽造パスポート、宝石、現金、着替え)」を詰め込んだ大きな鞄を肩に担いだ。


足音を殺し、隠し通路を抜け、見張りの目を潜り抜ける。


有能な彼女にとって、自分が設計に関わった王宮の警備網を突破するなど、赤子の手をひねるより容易いことだった。


「……見えましたわ。あの小さな勝手口を抜ければ、そこは自由の国……」


シビラは勝利を確信し、重厚な鉄の扉に手をかけた。


しかし、扉が開くよりも早く、背後からガチャン、と鎧の触れ合う音が響いた。


「――お待ちください。シビラ様」


シビラは、心臓が跳ね上がるのを感じながら、ゆっくりと振り返った。


そこに立っていたのは、アルフォンス殿下でも、リュミエールでもなかった。


「……カイル? どうして、あなたがここに?」


殿下の筆頭近衛騎士であり、常に苦労が絶えないはずのカイルが、なぜかシビラと同じような大きな荷物を背負い、旅装束で立っていた。


「……シビラ様も、ですか?」


「……カイルこそ、その荷物はなんですの?」


二人は、深夜の門前でしばし沈黙した。


カイルは深く、深く、魂を削り出すような溜息を吐いた。


「……限界でした。殿下の惚気を聞かされる毎日。リュミエール様の狂気じみた仕事ぶりに付き合わされる徹夜。そして何より、お二人の間で板挟みになる私の胃壁……。もう、穴だらけです」


「カイル……」


「私は決めました。今日、この国を捨てて、遠い異国の地で羊飼いにでもなろうと。……シビラ様も、同じ理由とお見受けします」


シビラは、思わずカイルの手に自分の手を重ねた。


「分かり合える友が、こんなところにいたなんて……。ええ、そうですわ。私はもう、あの有能すぎる怪物たちに囲まれて働くのは嫌なんですの! 一緒に逃げましょう、カイル!」


「光栄です、シビラ様。あなたの知略があれば、追っ手を撒くのも容易いでしょう。さあ、今こそ……」


二人が手を取り合い、扉を開けようとしたその時。


上空から、眩いばかりの魔導光が二人を照らし出した。


「――おやおや。夜のお散歩にしては、随分と大荷物だね。二人とも」


「シビラ様ぁぁぁ!! 私を置いて、どこへ行こうというのですかぁぁ!!」


見上げれば、バルコニーに立つアルフォンス殿下と、その隣で「魔導拡声器」を構えたリュミエールの姿があった。


「で、殿下!? 寝ていたはずでは……!」


「君が隠し通路を通るたびに、僕の寝室のベルが鳴る仕組みに改造しておいたんだよ。……カイル、君まで僕を捨てるつもりだったのかい? ショックだな、親友だと思っていたのに」


アルフォンスは、悲しげな顔を作りながらも、その瞳は全く笑っていなかった。


「殿下……。親友なら、私の胃薬代を給与とは別に支給してください……」


「シビラ様! 逃がしません! シビラ様がいないと、私の仕事のモチベーションが400%低下します! それは国家の損失ですわ!」


リュミエールは、空中に巨大な「拘束魔導陣」を展開し始めた。


「待ちなさいリュミエール様! それは反逆罪に使われるレベルの術式ですわよ!? ヒロインが使っていい魔法ではありませんわ!」


「シビラ様を繋ぎ止めるためなら、私は喜んで魔王にでもなります!」


絶体絶命。シビラとカイルは、扉の目前で、史上最強の「引き止め工作」に直面していた。


「さあ、二人とも。素直に部屋に戻ろうか。カイル、君には特別に休暇をあげよう。……ただし、シビラとの結婚式が終わるまでは、二十四時間体制で彼女の護衛についてもらうがね」


「それ、休暇じゃなくて『一生拘束』って言うんですのよ、殿下!!」


シビラの自由への脱出劇は、同志だと思っていた騎士を巻き込んで、盛大に、そして無慈悲に失敗に終わった。


「シビラ様、温かいココアと、まだ終わっていない隣国の通商条約の資料を用意しておきましたわ! 朝まで語り合いましょう!」


「資料は捨てなさい!!」


シビラは、自分の有能さが招いた「愛という名の包囲網」の恐ろしさを、改めて身に染みて感じるのであった。
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