隠居したいのでいい加減、婚約破棄してくれませんか?

小梅りこ

文字の大きさ
20 / 26

20

しおりを挟む
「……殿下。いえ、アルフォンスさん。いい加減にその、慣れない手つきで紅茶を淹れるのはおやめなさいまし。茶葉の量が三倍、抽出時間が五倍ですわ。これではただの『泥水』ですのよ」


夕暮れ時の執務室。シビラは差し出された漆黒の液体を睨みつけ、盛大な溜息をついた。


王位を捨て、自称「シビラの専属秘書」となったアルフォンスは、エプロン姿という極めてシュールな格好で爽やかに微笑んでいる。


「おかしいな。君がいつも飲んでいるのは最高級の茶葉だろう? 濃ければ濃いほど、君の疲れも吹き飛ぶかと思ったんだが」


「吹き飛ぶのは私の意識の方ですわ。……はあ。殿下、本当に後悔していませんの? 王位という、世界中の人間が欲しがる椅子を、私という一人の女と引き換えに放り出してしまったことを」


シビラはカップを置き、窓の外を眺めた。


夕日に染まる王都は、相変わらず美しい。……だが、それを守るべき王族が、今、目の前で茶葉をぶちまけている。


「後悔? そんな無駄な感情に割く時間は、僕の人生には一秒も残っていないよ。……シビラ。君はまだ、僕が君を『便利な道具』として繋ぎ止めていると思っているのかい?」


アルフォンスは、シビラの背後に歩み寄ると、その椅子をゆっくりと自分の方へ向けた。


影が長く伸びる静かな部屋。彼の瞳が、かつてないほど真っ直ぐにシビラを射抜く。


「……当たり前ですわ。私の有能さが惜しいから、あなたはあの日、婚約破棄を白紙に戻したのでしょう? 私がいないと、この国の予算案も外交もボロボロになりますもの」


シビラは震える声を隠すように、傲慢な笑みを浮かべた。


そう、そうでなければならない。愛などという不確かなものではなく、利害の一致こそが、このブラックな関係を支えている唯一の理由であるべきだ。


しかし、アルフォンスはシビラの膝元に跪き、その両手を優しく包み込んだ。


「いいや、違うよ、シビラ。……君が有能なのは、あくまで君の一部に過ぎない。僕が本当に愛しているのは、その完璧な仮面の裏側にある、不器用で、誰よりも臆病な君自身だ」


「……臆病? この私が?」


「ああ。君は『隠居したい』と口では言いながら、結局、困っている領民や、未熟なリュミエール嬢を放っておけない。冷酷な悪女を演じながら、その手はいつも誰かを救うために動いている。……そんな、自分に嘘をつき続ける君を、僕は守りたくなったんだ」


アルフォンスの指先が、シビラの頬にそっと触れる。


「君が有能だから必要なんじゃない。君が君だから、僕は僕でいられるんだ。……シビラ。僕に君を、ただの女の子として甘やかさせてくれないか?」


「…………っ!」


シビラの心臓が、耳元で鐘を鳴らしたように激しく跳ねた。


(……反則。こんなの、絶対に反則ですわ……!)


これまで数々の難解な法案を読み解き、数千の数字を操ってきたシビラの脳が、たった一つの「愛の告白」によって完全フリーズした。


「……殿下。あなたは、本当に……大馬鹿者ですわ。王冠よりも私を選ぶなんて、そんなの、合理的な判断ではありませんわよ」


「ああ、そうだね。恋というやつは、いつだって非合理的で、最高に愉快なバグだ」


アルフォンスは、シビラの手に誓いの口づけを落とした。


その瞳には、かつての「有能な王子」の冷徹さはなく、ただ一人の女性を愛する男の熱だけが宿っていた。


(……どうしよう。私の『鉄の理性』が、溶けていきますわ。これではもう、悪役令嬢としての逃げ道なんて……)


「――尊いッ!! あまりにも尊いですわああああ!!」


感極まった叫び声とともに、カーテンの裏からリュミエールが飛び出してきた。


「リュ、リュミエール様!? いつからそこに!」


「最初からですわ! 『合理的な判断ではない』というシビラ様の照れ隠し! そして殿下の『バグ』発言! ああっ、メモが止まりませんわ!」


リュミエールは涙を流しながら、猛烈な勢いで日記帳に今のやり取りを記録している。


「これで決まりですわね! シビラ様、逃げ場はありませんわよ! 明日から『愛妻弁当付き』の超過勤務、覚悟してくださいませ!」


「愛妻弁当!? 私、まだ結婚も婚約解消も……っていうか、仕事は減らないんですのね!?」


シビラの切実なツッコミは、アルフォンスの満足げな微笑みと、リュミエールの狂喜のダンスにかき消されていった。


愛の告白という名の「終身雇用契約」。


シビラの隠居への野望は、王子の究極の甘い言葉によって、跡形もなく消滅の危機に瀕していたのである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

お飾り王妃の死後~王の後悔~

ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。 王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。 ウィルベルト王国では周知の事実だった。 しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。 最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。 小説家になろう様にも投稿しています。

旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ
恋愛
 イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。 ※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

白い結婚三年目。つまり離縁できるまで、あと七日ですわ旦那様。

あさぎかな@コミカライズ決定
恋愛
異世界に転生したフランカは公爵夫人として暮らしてきたが、前世から叶えたい夢があった。パティシエールになる。その夢を叶えようと夫である王国財務総括大臣ドミニクに相談するも答えはノー。夫婦らしい交流も、信頼もない中、三年の月日が近づき──フランカは賭に出る。白い結婚三年目で離縁できる条件を満たしていると迫り、夢を叶えられないのなら離縁すると宣言。そこから公爵家一同でフランカに考え直すように動き、ドミニクと話し合いの機会を得るのだがこの夫、山のように隠し事はあった。  無言で睨む夫だが、心の中は──。 【詰んだああああああああああ! もうチェックメイトじゃないか!? 情状酌量の余地はないと!? ああ、どうにかして侍女の準備を阻まなければ! いやそれでは根本的な解決にならない! だいたいなぜ後妻? そんな者はいないのに……。ど、どどどどどうしよう。いなくなるって聞いただけで悲しい。死にたい……うう】 4万文字ぐらいの中編になります。 ※小説なろう、エブリスタに記載してます

貴方が側妃を望んだのです

cyaru
恋愛
「君はそれでいいのか」王太子ハロルドは言った。 「えぇ。勿論ですわ」婚約者の公爵令嬢フランセアは答えた。 誠の愛に気がついたと言われたフランセアは微笑んで答えた。 ※2022年6月12日。一部書き足しました。 ※架空のお話です。現実世界の話ではありません。  史実などに基づいたものではない事をご理解ください。 ※話の都合上、残酷な描写がありますがそれがざまぁなのかは受け取り方は人それぞれです。  表現的にどうかと思う回は冒頭に注意喚起を書き込むようにしますが有無は作者の判断です。 ※更新していくうえでタグは幾つか増えます。 ※作者都合のご都合主義です。 ※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。 ※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります) ※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。

私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?

水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。 日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。 そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。 一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。 ◇小説家になろう、ベリーズカフェにも掲載中です! ◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

婚約者が妹と結婚したいと言ってきたので、私は身を引こうと決めました

日下奈緒
恋愛
アーリンは皇太子・クリフと婚約をし幸せな生活をしていた。 だがある日、クリフが妹のセシリーと結婚したいと言ってきた。 もしかして、婚約破棄⁉

幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係

紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。 顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。 ※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)

処理中です...