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「……殿下。いえ、アルフォンスさん。いい加減にその、慣れない手つきで紅茶を淹れるのはおやめなさいまし。茶葉の量が三倍、抽出時間が五倍ですわ。これではただの『泥水』ですのよ」
夕暮れ時の執務室。シビラは差し出された漆黒の液体を睨みつけ、盛大な溜息をついた。
王位を捨て、自称「シビラの専属秘書」となったアルフォンスは、エプロン姿という極めてシュールな格好で爽やかに微笑んでいる。
「おかしいな。君がいつも飲んでいるのは最高級の茶葉だろう? 濃ければ濃いほど、君の疲れも吹き飛ぶかと思ったんだが」
「吹き飛ぶのは私の意識の方ですわ。……はあ。殿下、本当に後悔していませんの? 王位という、世界中の人間が欲しがる椅子を、私という一人の女と引き換えに放り出してしまったことを」
シビラはカップを置き、窓の外を眺めた。
夕日に染まる王都は、相変わらず美しい。……だが、それを守るべき王族が、今、目の前で茶葉をぶちまけている。
「後悔? そんな無駄な感情に割く時間は、僕の人生には一秒も残っていないよ。……シビラ。君はまだ、僕が君を『便利な道具』として繋ぎ止めていると思っているのかい?」
アルフォンスは、シビラの背後に歩み寄ると、その椅子をゆっくりと自分の方へ向けた。
影が長く伸びる静かな部屋。彼の瞳が、かつてないほど真っ直ぐにシビラを射抜く。
「……当たり前ですわ。私の有能さが惜しいから、あなたはあの日、婚約破棄を白紙に戻したのでしょう? 私がいないと、この国の予算案も外交もボロボロになりますもの」
シビラは震える声を隠すように、傲慢な笑みを浮かべた。
そう、そうでなければならない。愛などという不確かなものではなく、利害の一致こそが、このブラックな関係を支えている唯一の理由であるべきだ。
しかし、アルフォンスはシビラの膝元に跪き、その両手を優しく包み込んだ。
「いいや、違うよ、シビラ。……君が有能なのは、あくまで君の一部に過ぎない。僕が本当に愛しているのは、その完璧な仮面の裏側にある、不器用で、誰よりも臆病な君自身だ」
「……臆病? この私が?」
「ああ。君は『隠居したい』と口では言いながら、結局、困っている領民や、未熟なリュミエール嬢を放っておけない。冷酷な悪女を演じながら、その手はいつも誰かを救うために動いている。……そんな、自分に嘘をつき続ける君を、僕は守りたくなったんだ」
アルフォンスの指先が、シビラの頬にそっと触れる。
「君が有能だから必要なんじゃない。君が君だから、僕は僕でいられるんだ。……シビラ。僕に君を、ただの女の子として甘やかさせてくれないか?」
「…………っ!」
シビラの心臓が、耳元で鐘を鳴らしたように激しく跳ねた。
(……反則。こんなの、絶対に反則ですわ……!)
これまで数々の難解な法案を読み解き、数千の数字を操ってきたシビラの脳が、たった一つの「愛の告白」によって完全フリーズした。
「……殿下。あなたは、本当に……大馬鹿者ですわ。王冠よりも私を選ぶなんて、そんなの、合理的な判断ではありませんわよ」
「ああ、そうだね。恋というやつは、いつだって非合理的で、最高に愉快なバグだ」
アルフォンスは、シビラの手に誓いの口づけを落とした。
その瞳には、かつての「有能な王子」の冷徹さはなく、ただ一人の女性を愛する男の熱だけが宿っていた。
(……どうしよう。私の『鉄の理性』が、溶けていきますわ。これではもう、悪役令嬢としての逃げ道なんて……)
「――尊いッ!! あまりにも尊いですわああああ!!」
感極まった叫び声とともに、カーテンの裏からリュミエールが飛び出してきた。
「リュ、リュミエール様!? いつからそこに!」
「最初からですわ! 『合理的な判断ではない』というシビラ様の照れ隠し! そして殿下の『バグ』発言! ああっ、メモが止まりませんわ!」
リュミエールは涙を流しながら、猛烈な勢いで日記帳に今のやり取りを記録している。
「これで決まりですわね! シビラ様、逃げ場はありませんわよ! 明日から『愛妻弁当付き』の超過勤務、覚悟してくださいませ!」
「愛妻弁当!? 私、まだ結婚も婚約解消も……っていうか、仕事は減らないんですのね!?」
シビラの切実なツッコミは、アルフォンスの満足げな微笑みと、リュミエールの狂喜のダンスにかき消されていった。
愛の告白という名の「終身雇用契約」。
シビラの隠居への野望は、王子の究極の甘い言葉によって、跡形もなく消滅の危機に瀕していたのである。
夕暮れ時の執務室。シビラは差し出された漆黒の液体を睨みつけ、盛大な溜息をついた。
王位を捨て、自称「シビラの専属秘書」となったアルフォンスは、エプロン姿という極めてシュールな格好で爽やかに微笑んでいる。
「おかしいな。君がいつも飲んでいるのは最高級の茶葉だろう? 濃ければ濃いほど、君の疲れも吹き飛ぶかと思ったんだが」
「吹き飛ぶのは私の意識の方ですわ。……はあ。殿下、本当に後悔していませんの? 王位という、世界中の人間が欲しがる椅子を、私という一人の女と引き換えに放り出してしまったことを」
シビラはカップを置き、窓の外を眺めた。
夕日に染まる王都は、相変わらず美しい。……だが、それを守るべき王族が、今、目の前で茶葉をぶちまけている。
「後悔? そんな無駄な感情に割く時間は、僕の人生には一秒も残っていないよ。……シビラ。君はまだ、僕が君を『便利な道具』として繋ぎ止めていると思っているのかい?」
アルフォンスは、シビラの背後に歩み寄ると、その椅子をゆっくりと自分の方へ向けた。
影が長く伸びる静かな部屋。彼の瞳が、かつてないほど真っ直ぐにシビラを射抜く。
「……当たり前ですわ。私の有能さが惜しいから、あなたはあの日、婚約破棄を白紙に戻したのでしょう? 私がいないと、この国の予算案も外交もボロボロになりますもの」
シビラは震える声を隠すように、傲慢な笑みを浮かべた。
そう、そうでなければならない。愛などという不確かなものではなく、利害の一致こそが、このブラックな関係を支えている唯一の理由であるべきだ。
しかし、アルフォンスはシビラの膝元に跪き、その両手を優しく包み込んだ。
「いいや、違うよ、シビラ。……君が有能なのは、あくまで君の一部に過ぎない。僕が本当に愛しているのは、その完璧な仮面の裏側にある、不器用で、誰よりも臆病な君自身だ」
「……臆病? この私が?」
「ああ。君は『隠居したい』と口では言いながら、結局、困っている領民や、未熟なリュミエール嬢を放っておけない。冷酷な悪女を演じながら、その手はいつも誰かを救うために動いている。……そんな、自分に嘘をつき続ける君を、僕は守りたくなったんだ」
アルフォンスの指先が、シビラの頬にそっと触れる。
「君が有能だから必要なんじゃない。君が君だから、僕は僕でいられるんだ。……シビラ。僕に君を、ただの女の子として甘やかさせてくれないか?」
「…………っ!」
シビラの心臓が、耳元で鐘を鳴らしたように激しく跳ねた。
(……反則。こんなの、絶対に反則ですわ……!)
これまで数々の難解な法案を読み解き、数千の数字を操ってきたシビラの脳が、たった一つの「愛の告白」によって完全フリーズした。
「……殿下。あなたは、本当に……大馬鹿者ですわ。王冠よりも私を選ぶなんて、そんなの、合理的な判断ではありませんわよ」
「ああ、そうだね。恋というやつは、いつだって非合理的で、最高に愉快なバグだ」
アルフォンスは、シビラの手に誓いの口づけを落とした。
その瞳には、かつての「有能な王子」の冷徹さはなく、ただ一人の女性を愛する男の熱だけが宿っていた。
(……どうしよう。私の『鉄の理性』が、溶けていきますわ。これではもう、悪役令嬢としての逃げ道なんて……)
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感極まった叫び声とともに、カーテンの裏からリュミエールが飛び出してきた。
「リュ、リュミエール様!? いつからそこに!」
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リュミエールは涙を流しながら、猛烈な勢いで日記帳に今のやり取りを記録している。
「これで決まりですわね! シビラ様、逃げ場はありませんわよ! 明日から『愛妻弁当付き』の超過勤務、覚悟してくださいませ!」
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シビラの切実なツッコミは、アルフォンスの満足げな微笑みと、リュミエールの狂喜のダンスにかき消されていった。
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