隠居したいのでいい加減、婚約破棄してくれませんか?

小梅りこ

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「……分かりましたわ。愛だの情熱だのといった、数値化できない不確かなものに抗うのは、合理的ではありませんわね。認めますわ、アルフォンスさん。あなたの『執着心』だけは、私の計算を超えていましたわ」


シビラは、目の前で「秘書」として甲斐甲斐しくペン先を磨いている元王子を冷めた目で見下ろした。


愛を告白されたところで、現実が変わるわけではない。相変わらず書類は山積みであり、リュミエールは「シビラ様成分が足りません!」と部屋に突撃してくる。


ならば、有能な交渉人として、次なる一手を打つまでだ。


「ただし! 私があなたの隣に立つのなら、最低限の『労働環境の改善』を要求しますわ! これを飲めないのなら、私は今すぐ自爆魔法で王宮ごと隠居しますわよ!」


シビラは、徹夜で書き上げた十数枚に及ぶ『王妃兼、国家最高顧問・雇用契約書』を机に叩きつけた。


アルフォンスは、磨き終えたペンを置き、楽しそうに書類を手に取った。


「雇用契約書……。結婚生活を雇用と呼ぶのは、いかにも君らしいね。さて、内容は?」


「まず第一項目! 完全週休二日制の導入ですわ! 土日は一切の政務を禁止し、私はベッドから一歩も出ません! もちろん、あなたも入室禁止ですわよ!」


シビラは鼻息荒く言い放った。


(ふふ、これで週の三割は自由が手に入るわ! 一日中パジャマで過ごし、誰にも邪魔されずにお菓子を食べる……。これぞ隠居への第一歩!)


「なるほど、週休二日。……いいだろう。ただし、僕と二人きりで過ごす『完全プライベート休暇』という名目に書き換えてもいいかな? 君がベッドから出ないなら、僕も隣で一日中君を抱きしめていられるからね」


「……入室禁止と言いましたわよね!? なぜ『添い寝』に変換されるんですの!?」


シビラは戦慄したが、止まらずに次の項目を突きつけた。


「第二項目! 残業の撤廃! 夜八時以降の執務は一切禁じますわ! 深夜の『愛の共同作業』なんて二度とお断りですわよ!」


「これも承諾しよう。夜八時以降は、仕事ではなく『夫婦の時間』に充てると。……ああ、素晴らしい。深夜まで君を独占できるなんて、僕の健康にも良さそうだ」


(ダメだわ。この男、すべてのホワイトな条件を、ピンク色の不純な動機に塗り替えてしまう!)


シビラは、震える指で第三の項目を指差した。


「第三項目! 年に二回の長期バカンス! 行き先は私が決め、王宮との連絡は一切遮断しますわ!」


「これこそ僕が求めていたものだ! 二人きりの新婚旅行を年に二回も! シビラ、君は本当に僕のことを愛しているんだね」


「隠居計画の予行演習と言いなさいよ!!」


シビラは絶叫した。


ホワイトな職場環境を求めたはずが、条件を出すたびにアルフォンスとの「密着時間」が増えていくという、恐怖の等価交換が成立していた。


そこへ、いつものように壁を突き破らんばかりの勢いでリュミエールが飛び込んできた。


「シビラ様! その契約書、私にも一枚ください! 『シビラ様の健康を守るための、強制休憩法案』として、今すぐ国会に提出して参ります!」


「リュミエール様! あなた、臨時摂政としてそんな私情に満ちた法案を通すつもりですか!?」


「私情ではありません、国益です! シビラ様が倒れたら国が滅ぶのですから、シビラ様が休むことは国家防衛と同義ですわ! さあ、週休三日にしませんか!? その三日間、私が命を懸けて書類の波を食い止めます!」


リュミエールは涙を流しながら、シビラの足を掴んだ。


「シビラ様……! 私は、あなたが優雅にティータイムを楽しんでいる姿を、遠くから双眼鏡で眺めるだけで幸せなんです……。だから、もっと休んでください!」


(この子、本当にもう……救いようのないシビラ信者だわ……)


シビラは、自分の提案した「妥協案」が、王子とヒロインの双方から熱烈に歓迎されるという異常事態に、頭を抱えた。


「……分かりましたわ。もう、好きになさい。ただし、仕事だけは減らしなさいよ。いいわね?」


「ああ、約束するよ、シビラ。君を『世界一甘やかされた王妃』にするのが、これからの僕の唯一の公務だからね」


アルフォンスは、契約書に流麗なサインを書き入れた。


シビラは、手に入れたはずの「週休二日」という自由が、王子の執拗な寵愛によって、より過酷な「甘い監獄」へと変わることを予感せずにはいられなかった。


(……まあ、いいわ。まずはこの週二日から、徐々に隠居日数を増やしていけば……)


有能すぎる悪役令嬢の戦いは、ついに「労働条件交渉」という、極めて現実的な泥沼へと突入したのであった。
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