婚約破棄?はい、喜んで!――つきましては、こちらの請求書をご確認ください。

小梅りこ

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「はい、そこ! 角度が甘いわ! テコの原理をもっと忠実に再現してちょうだい。筋肉は裏切るけれど、物理法則は裏切らないわよ!」

快晴の空の下、エーミの凛とした声が渓谷に響き渡った。
彼女は今、作業着の袖をまくり上げ、手にはどこから調達したのか「指示棒」を握りしめている。

彼女の前では、村の男たちが必死に巨大な岩に挑んでいた。
当初は「令嬢の道楽」と鼻で笑っていた男たちも、即金で支払われた「前払い金」の重みを知った今は、軍隊も顔負けの統率力を見せている。

「お嬢様、今のところ予定より十二分早いペースです。このままいけば、午後の休憩時間までに岩の撤去が完了しますわ」

隣でストップウォッチ(これも特注の魔道具)を構えたアンナが報告する。

「素晴らしいわ。時間は資源、効率は正義。このペースを維持できれば、私の算出した『第一期・土地再生計画』の進捗率は一気に一五%まで跳ね上がるわね」

エーミが満足げに頷いた、その時。
背後から、地響きのような蹄の音が近づいてきた。

「……何事だ。この騒ぎは」

現れたのは、漆黒の馬に跨ったラインハルト・フォン・アシュレイ辺境伯だった。
彼は無愛想な面にわずかな驚きを浮かべ、汗を流して働く男たちと、それを指揮する「元」公爵令嬢を交互に見た。

「あら、アシュレイ辺境伯。お隣さんへの挨拶回りにしても、少しタイミングが早すぎましてよ?」

エーミは優雅に、けれど作業着姿のまま一礼した。

「挨拶などではない。我が領地との境界近くで爆破音が聞こえたとの報告があったのでな。……お前、まさか本当に岩を動かしているのか」

「爆破ではなく、物理的な圧力による破砕ですわ。音波の無駄遣いはしておりません。それより辺境伯、お忙しいところ申し訳ありませんが、そこ、邪魔ですわ」

「……何?」

「そこは、今から岩が転がっていく『予定軌道』の上です。あなたの馬の時価総額を考えると、そこに立たれるのは損害賠償リスクが大きすぎて、こちらとしては迷惑極まりないの。速やかに三メートル左へ移動してちょうだい」

ラインハルトは呆気に取られたように数秒間固まったが、エーミの真剣すぎる眼差しに押されるように、無言で馬を動かした。

その直後だった。
「せーの!」という掛け声と共に、巨大な岩が重力に従ってゴロリと転がった。

十年間、水流を堰き止めていた「呪いの元凶」が排除された瞬間である。
堰を切ったように、勢いよく水が流れ出した。

「おおおおお!」

村人たちが歓声を上げる。
水路は乾いた土を飲み込み、みるみるうちに下流の村へと向かっていく。
だが、エーミの目は、水の色を逃さなかった。

「……待って。アンナ、あの水の色を見て」

「……少し、濁っていますね。泥の色にしては、黄色みが強いような?」

エーミは水路に駆け寄り、流れてくる水に指を浸した。
そして、その温度を確認した瞬間、彼女の瞳に「金貨」のマークが浮かび上がった。

「温かい……。これ、ただの水じゃないわ。辺境伯! ちょっとこちらへ!」

「……今度はなんだ。これ以上の移動は断るぞ」

馬から降りたラインハルトが、怪訝そうに歩み寄る。
エーミは彼の腕を強引に掴むと、その指を水に突っ込ませた。

「熱いだろう? そしてこの独特の硫黄の香り。……辺境伯、おめでとうございます。私にもおめでとう。これは『黄金の卵』だわ!」

「……温泉か? だが、こんな辺境に湯が出たところで、何の役に立つ。体を洗うには便利だろうが……」

「これだから軍人脳は困るわ! いい? これは『観光資源』であり『医療利権』よ! この温度、この成分……適切に管理すれば、王都の貴族たちが大金を払ってでも通いたくなる『保養地』になるわ。そう、リゾート地よ!」

エーミは興奮気味に、手帳に猛烈な勢いで図面を引き始めた。

「水路を二層構造にするわ。一層目は農業用水、二層目は保温パイプを通して屋敷と村の共同浴場へ。余った熱は温室栽培に利用して、冬場でも新鮮な野菜を育てる。……完璧だわ。ROI(投資利益率)が当初の予定の三倍に修正されたわね!」

「お前……。岩を一つ動かしただけで、そこまで話を飛躍させるのか」

ラインハルトは呆れつつも、エーミの熱量に圧倒されていた。
彼女は今、追放された悲劇のヒロインなどではなく、未知の大陸を発見した冒険家のような顔をしている。

「飛躍じゃないわ、予測よ! 辺境伯、あなたにも協力していただくわよ。この温泉を王都までブランド化するための物流、あなたの騎士団に護衛を頼みたいの」

「……勝手に決めるな。俺に何のメリットがある」

「物流の通行税を一五%免除……いえ、一〇%上乗せして支払いましょう。その代わり、道中の整備を請け負ってちょうだい。あなたの領地の失業対策にもなるわ。悪い話じゃないでしょう?」

ラインハルトは、自分の領地の懐事情まで正確に読み取っているこの女に、恐怖すら覚え始めていた。
だが、同時に。
自分を「王子から奪った飾り物」としてではなく、対等な(あるいは自分を顎で使う)「ビジネスパートナー」として扱う彼女に、かつてない高揚感を覚えていたのも事実だった。

「……ふん。好きにしろ。ただし、利益が出なかった時は、お前のその『計算書』を俺が買い取って、一生俺の隣で働かせてやるからな」

「あら、それは立派なヘッドハンティングね。でも残念ながら、私の年俸は高いわよ?」

エーミは不敵に笑い、再び水路へと向き直った。

一方、その頃の王都。
ユリウス王子は、フローラがねだる新作のドレス代が捻出できず、会計官から「これ以上の前借りは不可能です」と冷たく言い渡されていた。

「……なぜだ。エーミがいた頃は、こんなことにはならなかったのに……!」

彼が失ったものの大きさに気づくのは、まだ少し先のことである。
エーミの辺境リゾート計画が、王国全体の経済を揺るがす第一歩になるとは、この時の誰も想像していなかった。
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