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「……はぁ、はぁ。もう無理ですわ! わたくし、こんな泥だらけの道を歩くために生まれてきたわけではありませんのよ!」
「見てくださいませ、わたくしのシルクの靴が……! ああっ、この傷一つで銀貨五枚分は価値が下がりましたわ!」
標高差二百メートルの急斜面。温泉の源泉へと続く山道で、王都の令嬢たちが次々と悲鳴を上げて座り込んでいた。
彼女たちの前には、ストップウォッチを片手に、一ミリの慈悲も感じさせない冷徹な笑みを浮かべたエーミが立っている。
「あら、たったの十五分でリタイアかしら? 皆様の『殿下への愛』という名の投資、随分と底が浅いのね。これでは配当(結婚)なんて夢のまた夢ですわよ」
「エーミ・フォン・グラナード! あなた、わざとやってるんでしょう! こんなの嫌がらせよ!」
一人の令嬢が声を荒らげるが、エーミは指示棒で彼女のふくらはぎをピシャリと指した。
「いいえ、これは『デトックス』よ。山道を歩くことで血流を促進し、毛穴を開かせ、その状態で源泉の蒸気を浴びる。これこそが、王都の高級サロンでも不可能な、一時間あたり金貨十枚相当の『天然美容トリートメント』なの。……それとも、今の汚れた肌のまま、殿下にお会いするつもり?」
「……うっ」
「美しさは、適切な苦痛(コスト)を支払った後に得られる配当なの。楽をして手に入る資産なんて、すぐに目減りして消えてしまうわ。……さあ、立って。後ろを見てごらんなさい」
令嬢たちが一斉に振り返る。
そこには、最後尾から彼女たちを監視……もとい、見守っていたラインハルトがいた。
彼は重厚な鎧を纏ったまま、汗一つかかずに、不機嫌そうな顔で令嬢たちを見下ろしていた。
「……辺境伯様……っ」
令嬢たちの瞳に、再び下心……もとい、情熱が灯る。
中の一人が、泥がついた頬をあざとく拭いながら、ラインハルトに縋り付こうとした。
「辺境伯様ぁ……もう足が痛くて動けませんの。どうか、わたくしを抱き上げて運んでくださいません……?」
ラインハルトの眉間に、深い溝が刻まれた。
彼は縋り付こうとした令嬢の腕を、無機質な鉄の手甲で優しく、しかし断固として振り払った。
「……触るな。鎧のメンテナンス代がかかる」
「……えっ?」
「お前たちが何を求めてここに来たのかは知らん。だが、その程度の覚悟でこの地を踏んだのなら、今すぐ引き返せ。……お前たちの今の顔は、王都の着飾った人形よりも醜い」
その一言。
「氷の騎士」から放たれた、零下百度の冷徹な言葉が、令嬢たちの心に突き刺さった。
沈黙が流れる。
普通の令嬢なら泣き出すところだが、ここに集まったのは「王太子妃」という最高権益を狙う、野心に満ちた精鋭たちだ。
「……醜い? わたくしが、醜いですって……?」
「面白いじゃない……。殿下を落とす前に、まずこの氷の騎士を『わたくしのための暖炉』に変えて差し上げようじゃないの!」
「見てなさい! 頂上で最高に美しくなったわたくしを見せて、その言葉を撤回させてやりますわ!」
エーミの予測を超えた方向で、令嬢たちの闘争本能が爆発した。
彼女たちは狂ったような勢いで立ち上がると、猛然と山道を駆け上り始めたのである。
「……お嬢様。辺境伯様の一言で、想定の二倍の速度に達しました」
「素晴らしいわ、ラインハルト! あなたの『毒舌による精神加速効果』、これだけで追加のコンサル料が取れるわね」
エーミが感心して頷くと、ラインハルトは顔を背けて吐き捨てた。
「……俺は本心を言っただけだ。だいたい、あんなに化粧の濃い顔で山を登るなど、正気の沙汰ではない」
「あら、あの必死な姿こそ、市場を勝ち抜こうとする投資家の美しい姿だわ。……でも、ラインハルト。あなたの今の発言、ちょっと『嫉妬』も混じっていたりするのかしら?」
「し、嫉妬だと……!? 誰が、誰にだ!」
「殿下よ。彼のために自分を磨こうとする彼女たちに、少しだけ苛立ちを感じた……なんてことはない?」
エーミがからかうように顔を覗き込むと、ラインハルトは珍しく言い淀んだ。
至近距離で、彼の青い瞳が揺れる。
「……俺は、ただ。……お前が作った場所で、他の男の名前が出るのが、不快なだけだ」
その言葉には、計算も打算もない。
あまりにも直球な感情の吐露に、エーミの脳内の算盤が一瞬だけガタガタと音を立てて狂った。
「……そ、それは……非常に非効率的な感情ね。お客様が誰を思って金を払おうと、収益には関係ありませんもの」
「……お前は本当に、それだけか」
「ええ、それだけよ。……さあ、お客様が頂上に着くわ。アンナ、源泉泥パックの用意! ラインハルト、あなたは……そうね、そこの木陰で『見返り美人を待つ騎士』のポーズでも取ってなさい!」
「……もう勝手にしろ」
ラインハルトは不機嫌そうにしながらも、エーミの指示通りに場所を移動した。
頂上に到着した令嬢たちは、エーミの指導のもと、顔や腕に温泉成分たっぷりの泥を塗りたくった。
「ああっ、肌が吸い付くようですわ!」「見て、赤みが一瞬で引きましたわよ!」と、あちこちで感嘆の声が上がる。
彼女たちは、自分たちの美しさが「回復」していく過程を、数字や鏡で確認するたびに、エーミに感謝……という名の宿泊延長を申し出るのだった。
「お嬢様、泥パックの在庫が底を突きそうです。……それと、セシル王女殿下から『私も混ぜなさい』という伝令が来ております」
「王女様はVIP枠よ。特別に『金粉入り泥パック』を用意して。……ああ、今日の売上、前日比三〇〇%を達成したわね」
エーミは夕日に照らされる帳簿を見つめ、至福の溜息をついた。
一方、その頃の王都。
ユリウス王子は、フローラに「殿下のせいで、わたくしのドレスが流行遅れになってしまいましたわ! 責任をとって、今すぐ最新のシルクを買ってきてくださいまし!」となじられていた。
「……フローラ。最新のシルクは、今の私の月給の三倍はするんだぞ……」
「愛があれば、お金なんて関係ないんじゃありませんの!? ああ、信じられませんわ!」
愛という不確実な資産に頼り、貯蓄を怠ったツケは、確実に王子の精神を蝕み始めていた。
彼は、自分が捨てたエーミが今、自分の「次の嫁候補」たちから莫大な富を搾り取っているとは、夢にも思っていなかったのである。
「見てくださいませ、わたくしのシルクの靴が……! ああっ、この傷一つで銀貨五枚分は価値が下がりましたわ!」
標高差二百メートルの急斜面。温泉の源泉へと続く山道で、王都の令嬢たちが次々と悲鳴を上げて座り込んでいた。
彼女たちの前には、ストップウォッチを片手に、一ミリの慈悲も感じさせない冷徹な笑みを浮かべたエーミが立っている。
「あら、たったの十五分でリタイアかしら? 皆様の『殿下への愛』という名の投資、随分と底が浅いのね。これでは配当(結婚)なんて夢のまた夢ですわよ」
「エーミ・フォン・グラナード! あなた、わざとやってるんでしょう! こんなの嫌がらせよ!」
一人の令嬢が声を荒らげるが、エーミは指示棒で彼女のふくらはぎをピシャリと指した。
「いいえ、これは『デトックス』よ。山道を歩くことで血流を促進し、毛穴を開かせ、その状態で源泉の蒸気を浴びる。これこそが、王都の高級サロンでも不可能な、一時間あたり金貨十枚相当の『天然美容トリートメント』なの。……それとも、今の汚れた肌のまま、殿下にお会いするつもり?」
「……うっ」
「美しさは、適切な苦痛(コスト)を支払った後に得られる配当なの。楽をして手に入る資産なんて、すぐに目減りして消えてしまうわ。……さあ、立って。後ろを見てごらんなさい」
令嬢たちが一斉に振り返る。
そこには、最後尾から彼女たちを監視……もとい、見守っていたラインハルトがいた。
彼は重厚な鎧を纏ったまま、汗一つかかずに、不機嫌そうな顔で令嬢たちを見下ろしていた。
「……辺境伯様……っ」
令嬢たちの瞳に、再び下心……もとい、情熱が灯る。
中の一人が、泥がついた頬をあざとく拭いながら、ラインハルトに縋り付こうとした。
「辺境伯様ぁ……もう足が痛くて動けませんの。どうか、わたくしを抱き上げて運んでくださいません……?」
ラインハルトの眉間に、深い溝が刻まれた。
彼は縋り付こうとした令嬢の腕を、無機質な鉄の手甲で優しく、しかし断固として振り払った。
「……触るな。鎧のメンテナンス代がかかる」
「……えっ?」
「お前たちが何を求めてここに来たのかは知らん。だが、その程度の覚悟でこの地を踏んだのなら、今すぐ引き返せ。……お前たちの今の顔は、王都の着飾った人形よりも醜い」
その一言。
「氷の騎士」から放たれた、零下百度の冷徹な言葉が、令嬢たちの心に突き刺さった。
沈黙が流れる。
普通の令嬢なら泣き出すところだが、ここに集まったのは「王太子妃」という最高権益を狙う、野心に満ちた精鋭たちだ。
「……醜い? わたくしが、醜いですって……?」
「面白いじゃない……。殿下を落とす前に、まずこの氷の騎士を『わたくしのための暖炉』に変えて差し上げようじゃないの!」
「見てなさい! 頂上で最高に美しくなったわたくしを見せて、その言葉を撤回させてやりますわ!」
エーミの予測を超えた方向で、令嬢たちの闘争本能が爆発した。
彼女たちは狂ったような勢いで立ち上がると、猛然と山道を駆け上り始めたのである。
「……お嬢様。辺境伯様の一言で、想定の二倍の速度に達しました」
「素晴らしいわ、ラインハルト! あなたの『毒舌による精神加速効果』、これだけで追加のコンサル料が取れるわね」
エーミが感心して頷くと、ラインハルトは顔を背けて吐き捨てた。
「……俺は本心を言っただけだ。だいたい、あんなに化粧の濃い顔で山を登るなど、正気の沙汰ではない」
「あら、あの必死な姿こそ、市場を勝ち抜こうとする投資家の美しい姿だわ。……でも、ラインハルト。あなたの今の発言、ちょっと『嫉妬』も混じっていたりするのかしら?」
「し、嫉妬だと……!? 誰が、誰にだ!」
「殿下よ。彼のために自分を磨こうとする彼女たちに、少しだけ苛立ちを感じた……なんてことはない?」
エーミがからかうように顔を覗き込むと、ラインハルトは珍しく言い淀んだ。
至近距離で、彼の青い瞳が揺れる。
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その言葉には、計算も打算もない。
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ラインハルトは不機嫌そうにしながらも、エーミの指示通りに場所を移動した。
頂上に到着した令嬢たちは、エーミの指導のもと、顔や腕に温泉成分たっぷりの泥を塗りたくった。
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彼女たちは、自分たちの美しさが「回復」していく過程を、数字や鏡で確認するたびに、エーミに感謝……という名の宿泊延長を申し出るのだった。
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「王女様はVIP枠よ。特別に『金粉入り泥パック』を用意して。……ああ、今日の売上、前日比三〇〇%を達成したわね」
エーミは夕日に照らされる帳簿を見つめ、至福の溜息をついた。
一方、その頃の王都。
ユリウス王子は、フローラに「殿下のせいで、わたくしのドレスが流行遅れになってしまいましたわ! 責任をとって、今すぐ最新のシルクを買ってきてくださいまし!」となじられていた。
「……フローラ。最新のシルクは、今の私の月給の三倍はするんだぞ……」
「愛があれば、お金なんて関係ないんじゃありませんの!? ああ、信じられませんわ!」
愛という不確実な資産に頼り、貯蓄を怠ったツケは、確実に王子の精神を蝕み始めていた。
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